老爺心お節介情報/第87号(2026年6月9日)

「老爺心お節介情報」第87号

〇皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。
〇もう、今年も6月になってしまいました。各地のCSW研修が始まる月になりました。今年度も各地のCSW研修で東奔西走する様です。
〇庭のアジサイが色鮮やかに咲いて、雨に濡れている風情はいいですね。また、私が大好きなクチナシの花も咲き始めました。残念なのは、門脇に植えた沙羅の樹が虫に食われ、幹が枯れ、一部残ったものの、今年は花を咲かせません。庭師が夏椿を植えたのを、沙羅に替えて欲しいとお願いした樹なのに元気がなく残念です。沙羅は、「平家物語」の冒頭に出てくる樹で、世の儚さとともに、“栄枯盛衰”、奢るべからずの気持ちを確認するために植えてもらっただけに、樹が枯れないか“一喜一憂”しています。沙羅が花を咲かせている様は本当に清楚で、一日で花が散ります。
(2026年6月9日記)

Ⅰ 3回目の「とやま介護テクノロジー展示会2026」に参加

〇皆さんは、2001年に導入されたWHOのICF(国際生活機能分類)について学んでいるでしょうし、学生さんに教えていることと思います。
〇しかしながら、様々な生活のしづらさを抱えている人に対する支援において、アセスメントを行う際や支援方針を作成する際に、どれだけ実際的に福祉機器の利活用を考えていますか。
〇富山県福祉カレッジの「介護テクノロジー普及推進センター」は富山県の委託を受けて、福祉機器の展示、福祉機器の利活用支援、介護技術の向上に関する研修などを富山県社会福祉総合センター「サンシップ」を拠点に行っています。
〇普段は、その「サンシップ」で福祉機器を展示し、相談に応じているのですが、それだと社会福祉関係職員か、あるいは家族が要介護の状態になって相談に来られる方等利活用者が限定されてしまいます。
〇「2040年問題」に向けて、介護人材の不足が叫ばれている中、社会福祉関係者だけが“知るものぞ知る”では、自己満足的な仕事の仕方ではないかと考え、広く富山県民に福祉機器のことを知って頂く機会として、「サンシップ」から外に出ようということになり、北陸新幹線富山駅のコンコースを活用しての福祉機器展の開催になりました。
〇福祉機器の利活用は、➀福祉サービス利用者の求めるケアの向上につながること、②ケアワーカー等の従事者の腰痛予防と合理的業務の省力化につながること、③介護の技術、技法、あるいは福祉サービス利用者の状態像を可視化することによりケアの科学化が進むこと等の効果が期待できます。
〇それにより、「3K職場」と言われた介護のイメージを払しょくできますし、介護の職場を希望する中高校生に夢を与えることができると考えました。中高校生たちが介護の仕事に就きたいと思っても、両親や教師たちが反対するという事例は沢山あります。そのようなことを考えると、社会福祉関係者だけが“知るものぞ知る”では駄目だと考え、広く一般の方々に知って頂く機会として、またその場所として富山駅のコンコースを考えました。
〇出店する企業さんには、直接的な利益がないかもしれないので、どれだけの企業さんが出店してくれるのか危ぶまれましたが、多くの企業さんが気持ちよく協力してくれました。
〇三回目の「とやま介護テクノロジー展示会2026」は、2026年6月6日に行われました。今回は以前にもましていくつかの特色がありました。
〇第一は、富山県内の介護福祉士会等の社会福祉専門職団体、理学療法士、作業療法士などのリハ職の専門職団体、看護協会など7団体が会場で相談コーナーを設置してくれたことです。
〇第二には、介護を学ぶ龍谷富山高校の生徒さん7名が参加してくれ、出店してくれた企業の福祉機器などについて突撃インタビューをしてくれたことです。そのインタビューの様子は大型モニターで他の場所に居ても見れるようにしたことです。
〇第三には、富山短期大学の学生さんが自らが学んだスウエーデンの認知症ケアとして開発された「タクティールケア」の体験コーナーを開設してくれたことです。
〇第四には、ITを活用した業務の省力化、生産性向上の相談コーナーを設置したことです。
〇第五には、eスポーツコーナーや「ロボットカフェ」を開設すると同時に、出店した企業に立ち寄って相談や福祉機器を見学された方に、景品付きのスタンプラリーをしたことです。
〇第六には、この「とやま介護テクノロジー展示会2026」の開催に当たって、「介護テクノロジー普及推進センター」の職員だけが企画・運営に当たったのではなく、福祉カレッジの教務部門、福祉人材センターの職員等も企画、運営に参加してくれ、富山県社会福祉協議会事務局内部のタテ割りが少し改善されたことです。
〇今回の展示会には、県社協の他の部署の職員も家族連れで見学に来てくれました。中には3世代で来てくれました。また、富山県厚生部の職員も高齢福祉課長を始め多くの職員が参加してくれました。
〇補聴器販売店さんが2社出店してくれていたのですが、昨年よりも相談者が多かったと言ってくれたのを聞いて、継続は力なりと実感しました。
〇私自身は、(公財)テクノエイド協会理事長に長らく就任していましたので、目新しいものはさほどなかったのですが、2件話題提供したいと思います。
〇新型コロナで旅行客が減り、業績が厳しくなっていた日本旅行社さんがIT関係の業者と共同開発した「脳力トレーナーCogEvo」が興味深かったです。
〇私も実際に体験させて頂きましたが、自動車運転免許証更新の際に受ける高齢者向けの認知症検査よりも、認知機能を図るのにはいいのではないかと思いました。この機器は、体験者の「注意力」、「空間認識力」、「記憶力」、「計画力」、「見当識」について能力を図り、訓練するもので、とてもゲーム性もあり、面白いと感じました。
〇また、この機器は1台購入すると、子機は何代でも無料で使用できるというシステムなので、介護予防教室や老人クラブでの活用、あるいはデイサービスなどでも活用できるのではないかと思いました。
〇この他では、NTTDATAさんが開発している「ボイスタ!」と呼ばれる機器で、高齢者の日常生活で行う動作に関し、その時間が来ると福祉機器から音声で声掛けするなどして高齢者の日常生活での自立を支援するとともに、必要なら家族などへも状況を転送できるというもので、生活のリズム感が薄れ、失念しがちになる高齢者の生活リズムを支援するという点で今後が期待できる機器だと思いました。

Ⅱ 本の紹介―『地方が溶けるーふるさと再生の光と影』(神山典士著、光文社新書、920円)

〇本書は、大きく2つの話題について書かれています。
〇一つは、広島県安芸高田市の市長をされていた石丸伸二氏がSNSを活用して安芸高田市の市長に当選した事案で、SNSの活用のあり方やそれに依拠した石丸伸二氏の言動について書かれた部分です。
〇もう一つは、著者が全国で実践している一般社団法人ふるさと大好き全国作文協議会の全国での取り組みとその波及効果についての部分です。北海道東川町の地域づくりにおける住民の街の魅力発見から、地域おこし協力隊制度を積極的に活用してのまちづくりへの展開等が著者の実際の取り組みを通して書かれています。
〇著者が言う「何もない田舎」の街で、住民自身が作文を書くという実践を通して、街の魅力を再発見し、「ふるさと愛を醸成する」ことや「ふるさとキャリア教育」等の実践は、静岡県掛川市の榛村純一元市長が提案した「選択的土着民の養成を目指す生涯学習活動」とよく似ている実践だと思いました。
〇と同時に、この著者の地域との関り方について、「関係人口」のあり方や地域福祉研究者の地域との関り方について学ぶべきことが多いと感じました。

Ⅲ 「その時の出逢いが⑨―2000年代後半」

『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑨

Ⅰ 2000年代後半

(はじめに)
〇2000年代後半は、筆者は既に60歳代に入っており、残りの人生をどう送ろうかいろいろ考えていた時期である。
〇そんな折、同志社大学の黒木保博先生から同志社大学へ来ないかとお誘いを頂いた。私は歴史のある、かつ社会福祉教育でも伝統のある同志社大学への転籍に大きく心が揺らいだが、結婚以降一度も引っ越しがなく(多摩ニュータウンの区画整理で3年ほど稲城市大丸の地域で貸家住いをしたことがある)、地域活動もしていた妻の強い反対もあり、転籍を断念し、日本社会事業大学で定年まで勤める覚悟をした矢先に、2005年日本社会事業大学の学長に選出された。
〇他方、2008年には厚生労働省社会・援護局長所管の検討会「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」の座長を仰せつかり、いままで取り組んできた地域福祉の考え方、システム、方法について提案し、受け入れられ、報告書として出すことができた。
〇前者は、日本社会事業大学で教育を受け、その継承を託された教育理念を学長としてどう発展させるかという、いわば日本社会事業大学での教育・研究の集大成の時期でもあった。
〇後者は、大橋謙策の地域福祉研究は、“社会福祉のプロパーでない”と揶揄されながら頑張ってきた地域福祉の実践と研究がいよいよ厚生労働省の政策の俎上に上ることになった契機であり、筆者の地域福祉の実践と研究が評価、認められたことで、これまでやってきて良かったと感慨深いものがあった。

➀日本社会事業大学の学長(2005年~2010年)

〇2005年4月、日本社会事業大学学長に就任した。61歳であった。
〇日本社会事業大学は、オーソドックスな教授会自治を伝統的に守ってきていたので、学長に選出されたからといって、学長主導でなんでもできるわけではないし、かつ厚生労働省の委託で大学運営がなされているので、補助金の“目的外使用”はできないという経営上の制約がある。
〇そのような中で、学長として心掛けたことは、日本社会事業大学が厚生労働省が委託の根拠にしている「指導的社会福祉従事者の養成」という命題にどう応えているかということである。
〇その内訳、内容はいろいろと解釈できるであろうが、私としては➀社会福祉士の国家試験の合格率をせめて70%台にしたい。ただし、合格率を高める受験勉強を教員にも、学生にも強制化することはしたくないという虫のいい考え方で進めたいと思っていた。②厚生労働省の委託金が厳しくなっていた状況の中、科学研究費で社会福祉学の細目が認められたのだから、教員全員が科学研究費に申請、採択できるようにするということでした。③大学は教員だけで成り立っているのではなく、事務職員も重要な役割を担っている。したがって、事務職員で一定の権限と責任を有している人には学長選挙に参加できるようなシステムをつくること、④指導的社会福祉従事者の養成という委託に応えるために、日本はもとより国際的に日本を代表してソーシャルワーク教育、ケアワーク教育の拠点になるということを考えた。
〇仲村優一先生からは、日本社会事業大学の教員・学長は日本社会福祉学会の会長、日本社会事業教育学校連盟の会長に選ばれなければ駄目だと言われていたので、取り敢えずはその3要件(日本社会福祉学会会長(1999年~2004年)、日本社会事業学校連盟会長(2007年~2011年)、学長(2005年~2010年))はクリアーしたことで、日本社会事業大学の恩師の先生方から求められていた日本社会事業大学卒業生に“求められた教員・研究者像”は実現できたと思った。
〇学長として提起した➀社会福祉士国家試験の合格率は残念ながら60%強程度に留まり、目標の70%には届かなかった。②教員の科学研究費の採択率は最高で37%に上り、文部科学省の高等教育局長からもお褒めのお言葉を頂いた。理工系ではないので、採択された科学研究費の総額は多くはないが、教員の科研費の採択率では日本のトップレベルとなり、それなりの成果を出せた。中でも科学研究費の大型助成金である科学研究費(S)とか(A)が採択されたのは大きかった。
〇その大型科学研究費を活用して、「アジア型ソーシャルワーク教育の標準化と国家資格の互換性に関する研究」(2009年度~2011年度)を中国、韓国の東北アジア3か国で行った。
〇この取り組みは、ヨーロッパ諸国が1999年に「ボローニャ宣言」を出したことに触発されて取り組んでみたものである。
〇「ボローニャ宣言」とは、世界最古の大学「ボローニャ大学」(1088年創設)があるイタリア・ボローニャで、ヨーロッパ29か国の教育大臣が署名した「ヨーロッパの高等教育制度を共通の枠組みで構築し、学位認定の質と水準を国が違っても同じレベルのものとして扱う世界に通用する高等教育制度」である。
〇イギリスで出会ったソーシャルワーカーはスペインで資格を取り、イギリスで認定されたソーシャルワーカーとして働いている。そのようなグローバルな規模でのソーシャルワーク教育を東北アジア諸国でも考えられないかという思いだった。
〇採択された大型科研費を活用して日本、中国、韓国3か国のソーシャルワーク教育のカリキュラムの比較や国家試験の内容などについて翻訳したりして、比較研究を行った。
〇他方、イギリスのサザンプトン大学や北京大学との姉妹校協定も結び、国際的に通用する日本社会事業大学にしようとした。その考え方の一環として、「アジア福祉創造センター」を日本社会事業大学社会事業研究所に設置し、「アジア太平洋地域会議」でお世話になった秋元樹先生を日本社会事業大学社会事業研究所の教授にお招きして、研究や国際交流を推進した。
〇その一環として行ったシンポジュウムでは、中国からは北京大学のワン・シビン先生、韓国からは梨花女子大学のキム・ソンイ先生、タイからはタマサート大学のデチャ・サングクワン先生に参加して頂いた。

(註)後日、東北アジアのソーシャルワークに関して、東北福祉大学がワンアジア財団の助成を頂き、「高齢社会をめぐる諸課題とアジア共同体」というテーマでの連続講義が2013年度、2014年度に開講された。筆者はその一コマを担当したが、その講義録が萩野浩基東北大学学長の手で編集され、『高齢社会の課題とアジア共同体』(芦書房、2014年)として刊行されている。筆者の講義録は、科研費での研究を基にしたもので、「コミュニティソーシャルワークの視点からみた高齢社会とアジア共同体―社会発展の触媒としてのソーシャルワークー」として収録されているので参照して欲しい。

〇日本社会事業大学学長退任の2010年3月13日に「大橋謙策学長最終講義」を開催して頂いた。
〇日本社会事業大学としての矜恃を創り、品格を高めたいという思いもあって最終講義を行うことにした。テーマは「『社会事業』の復権とコミュニティソーシャルワーク」である。多くの卒業生や社会福祉関係者が集まって下さり、教員・研究者としての冥利に尽きる時間と空間であった。
〇日本地域福祉研究所でも日本社会事業大学学長の退任を契機に、安部晴美事務局長が尽力してくれて、目白の椿山荘で『大橋謙策先生地域福祉論継承・発展の集い』を開催してくれた。
〇畏友である和田敏明先生、上野谷加代子先生、小林良二先生(東京都立大学、東洋大学教授)がシンポジストとして登壇してくれた。和田先生が「大橋謙策地域福祉理論は1979年の「ボランティア活動の構造図」にあると指摘された。上野谷先生は大橋理論の真髄は『求めと必要と合意』という考え方にあると言って頂いた。まさに、自分でもそれらの考え方を大切にしてきたので大変嬉しかったのを覚えている。
〇私が出している毎年の年賀状には前年の出来事を簡潔に記載しているので分かったのでしょう、学長就任後のお正月に、東京大学教育学部の大先輩である元明治大学教授の北田耕也先生から、日本酒の入った角樽が届いた。先生曰く、宮原誠一教室出身者から初めて大学の学長が誕生したので大いに祝いたい旨のメッセージが添付されていた。嬉しい限りであったが、角樽には面はゆい感がした。
〇東大大学院の院生仲間(筆者の1年先輩と1年後輩)の9名で、「苦楽会」という研究会を立ち上げ、東京と関西(9名のうち3名が関西の大学に就職)の中間地点の蒲郡にある国家公務員共済の宿舎で合宿し、川島書店から本の出版を企画したのだが、残念ながらそれは実現しなかった。その「苦楽会」のメンバーの中から、後に大東文化大学学長の太田政男さん、佐賀女子短期大学学長の南里悦史さんを輩出したが、宮原研究室からは私が最初ということであった。
〇ちなみに、「苦楽会」のメンバーには、母校の東大教育学部の教授になった佐藤一子さんがおり、佐藤一子さんは東京大学出版会から『イタリア学習社会の歴史像―社会連帯にねざす生涯学習の協働』(東京大学出版会)という素晴らしい本を書いている。

➁「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」座長

〇2007年10月3日に、厚生労働省社会・援護局長所管の「これからの地域福祉のあり方に関する研究会」が立ち上がった。社会援護・局長は、老健局長を歴任した中村秀一局長であった。
〇この研究会が開催されるまでに、ルーテル学院大学の和田敏明先生が中心になって勉強会が持たれていた。筆者も、その勉強会に呼ばれ、今まで自分が行ってきた地域福祉研究・実践の考え方などを既に述べていた。
〇この研究会には、筆者の教え子で神奈川県城山町社会福祉協議会の職員、神奈川県立保健福祉大学の助手を歴任していた中村美安子さん(後に同大学教授)が、厚生労働省所の地域福祉担当専門官として事務局を担っていた。
〇中村秀一局長は、精力的に全国の素晴らしい実践をしているところを視察し、研究会を支えてくれた。
〇研究会報告書のタイトル「地域における『新たな支え合い』を求めて―住民と行政の協働による新たな地域づくり」は、何と研究会の最終日の3月31日に、会議で一任を取り付けたあとで、中村局長と筆者が協議をして決定した。
〇この報告書の考え方は、ある意味、従来の厚生労働省の考え方、枠組みを超えて「住民と行政との協働」がなければ、これからの社会福祉問題、地域福祉は展開できないことを謳ったもので、画期的なものだと思っている。
〇従来は、国民が抱える生活問題は、厚生労働省が制度を創って問題解決を図るということで、住民参加とか、住民の協力とかいう視点は殆どなかった。
〇それは憲法第89条の規定とも関わって、国民の生活問題は行政が国家責任において解決するという「福祉国家論」が背景にあった。国民の中にも行政がボランティア活動の推進とか住民の協力とかと言えば、それは行政の責任回避であると断じてきた風潮があったし、そのような考え方は社会福祉研究者の中にも、社会福祉従事者の中にも根強くあった。
〇しかしながら、国民が求める、地域で自立生活を送り、最期まで自分らしく暮らしたいという願いを実現させることを理念としている地域福祉の展開においては、地域住民の参加、協力がなくては実現しない。そのことが検討会の中でも論議され、かつ承認されて、本報告は公表された。
〇この報告書は、戦後の社会福祉政策を変える大きな転換点になったと自負している。また、この報告書の内容は、後に厚生労働省が打ち出す「地域共生社会政策」の前史とも位置付けられる内容の報告書でもあると自負している。
〇この報告書に基づき、その考え方を具現化させる国の補助事業が2009年度から「安心生活創造事業」として展開されるが、それを担った地域福祉専門官は、日本社会事業大学の学部、大学院の教え子である中島修さん(現文京学院大学教授)であった。
〇その補助事業は新しいサービスと財源を自分たちで創り出すというねらいと他分野との協働が指向された。従来の社会福祉にはない、新たしいサービスと財源を作り出すというソーシャルワーク機能がある意味初めて厚生労働省の政策で求められた画期的な取組であった。
〇筆者が「関係人口」として関わっている香川県琴平町の「ガーリック娘」という市場に出せないニンニクとオリーブオイルの商品、千葉県鴨川市の夏ミカンを活用してのマーマレードやポン酢等の商品が社会福祉協議会の手によって開発された。

➂同志社大学大学院、東京大学大学院、淑徳大学大学院の講義と研究者の養成

〇筆者は、1989年以降、日本社会事業大学で大学院修士課程を教えることになるが、1990年代は日本社会事業大学以外に、淑徳大学大学院等でも教えることになる。
〇日本社会事業大学の院生以外に教えることは多様な意味で楽しみであったし、多様な研究課題に関心を持つ院生を教えることで、自分自身が成長する機会でもあった。
〇日本社会事業大学以外の大学院教育で思い出に残るのは、東京大学大学院と同志社大学大学院、淑徳大学大学院での指導が思い出深い。
〇少し遡るが、1990年代初めに、東京大学教育学部助教授の鈴木眞理先生の依頼を受けて、大学院教育学研究科社会教育専攻の「社会教育と地域福祉」の特別講義を3年間担当したことがある。神戸大学の松岡広路先生や津田英二先生、宇都宮大学の佐々木英和先生、横浜国立大学の矢野泉先生などが育った。佐々木英和先生や矢野泉先生には、東京都稲城市の生涯学習計画策定をお手伝いしてもらい、フィールドに関わる重要性を教えた。
〇丁度、その頃淑徳大学も大学院を設置するということで、仲村優一先生や阿部志郎先生等と一緒に非常勤講師に名前を連ねることになった。淑徳大学大学院では、それ以降筆者が70歳になるまで勤めさせて頂いた。
〇同時に、私が出講する講義科目は、事実上オープンキャンパス扱いをして頂き、千葉県社会福祉協議会職員を始め、千葉県内の社会福祉協議職員などに呼び掛けて参加してもらい、後に「千葉県地域福祉研究会」を組織していくことになる。
〇淑徳大学では台湾の徐嘉隆先生や東洋大学の早坂聡久先生、千葉県立看護大学の安部能成先生などを教えた。
〇同志社大学大学院では、転籍のお話を頂いた時からだと記憶しているが、専任で駄目なら非常勤でということで、これは喜んで引き受けさせて頂いた。かれこれ10年余の非常勤であったが、思い出深いものがある。
〇毎月1回の1日半の集中講義での出講であるが、ゼミが終われば馴染みのお店屋さんに行き、京都のお酒・玉の光の純米酒1升を皆で飲むのが楽しみであった。同志社大学への転籍を拒否した妻も、院生のお誘いで葵祭見学には喜んで参加してくれたのも楽しい思い出である。
〇同志社大学の黒木保博先生、上野谷加代子先生、埋橋孝文先生、野村由美子先生等の先生方との懇親の機会も楽しい思い出である。
〇同志社大学大学院生との論議は、日本社会事業大学のような一種の専門分野に特化した思考傾向を持っている院生とは異なり、まさに伝統のある、ユニバーサルの大学での院生の考え方にとても面白みを感じていた。
〇同志社大学大学院では、大分大学の教員になり、その後母校へ戻った同志社大学の廣野俊輔先生、武庫川女子大学の堀善昭先生、長野大学の羅珉京先生、日本福祉大学の梅本聡子先生、桃山学院大学の南友二郎先生等と一緒に学べたのは楽しい思い出であると同時に、皆さんよく学んで、教員・研究者として巣立ってくれたのも嬉しい限りである。
〇1990年代に筆者が、日本社会福祉教育学校連盟の活動を精力的にしていたせいか、東北福祉大学院でも非常勤講師を勤めることになった。これが伏線で、日本社会事業大学の特任教授を70歳で終えた2014年4月から東北福祉大学大学院教授を勤めることになる。東北福祉大学の件については、項目を別に立てて記述したい。

➃富山県福祉カレッジ学長

〇富山県社会福祉協議会とのつながりは既に1980年代前半からあったが、富山県行政との関わりは確か1990年頃が最初ではなかったかと記憶している。三浦文夫先生が当時の中沖知事の依頼を受けて、富山県の総合計画策定に関わるようになり、手伝えと言われていろいろ作業、意見を述べたのが始まりである。
〇その後、富山県福祉カレッジが設立され、三浦文夫先生が学長をされる際、お前も客員教授として手伝えと言われ客員教授になったが、取り立てて業務があったわけではない。講師として呼ばれ研修を担当する程度であった。三浦文夫先生は、学長として「三浦ゼミ」を開設し、年間6回程度富山へ通っていた。
〇2009年10月に、筆者は富山県福祉カレッジの学長に就任した。県社協の専務理事をはじめ関係者からは、「三浦ゼミ」を継承して欲しいと言われたが、“ゼミ生”が20人程度の方のみを対象にして“学長職”としての務めを果たすのは嫌だと拒否した。その代わり、広く社会福祉従事者の研修を担当するし、県内の市町村へ出張講座を企画して出歩くことを提案し、了解して頂いた。
〇多くの都道府県社会福祉協議会が、行政から委託されて社会福祉研修センターを運営していたが、1990年の「社会福祉関係8法」改正以降、社会福祉行政の地方分権化が進み、各都道府県の社会福祉研修センターの位置と役割が弱体化していった。

〇2000年の介護保険、2005年の障害者総合サービスの提供以降、その傾向はより強まり、全国の都道府県の社会福祉従事者の研修体制はぜい弱化していった。この変化を行政も社会福祉研究者も、全国社会福祉協議会も必ずしも警鐘を鳴らしてこなかった。
〇筆者は、1980年代後半から、青森県、秋田県、山口県等の社会福祉研修センターに深く関わってきていたが、社会福祉行政が地方分権化されて以降の社会福祉研修システムの脆弱化は大きい。
〇現在、富山県福祉カレッジは年間53講座を行い、約5500人が受講している。また、富山県は1990年初頭に設置された介護実習普及センターを改組して、「介護テクノロジー普及推進センター」を開設している。これからは、介護人材の確保が容易ではないし、介護の科学化が必要だし、何より福祉サービス利用者へのケアの質的向上が求められており、その普及推進を図っている。
〇富山県福祉カレッジ、介護テクノロジー普及推進センターでは、北陸新幹線の富山駅のコンコースを会場にして福祉機器展を行い、広く県民のケア観の見直し、福祉機器の利活用推進に貢献しようとしている。
〇2026年度には、その福祉機器展に社会福祉系専門職団体がブースを開設して、県民の福祉・介護相談にも応じるように取り組んでいる。
〇富山県福祉カレッジの学長として、富山県社会福祉協議会に働きかけて、毎年4月末に富山県社会福祉関係者の集いを開催している。新田県知事、県副知事、県の福祉行政部局の管理職をはじめ、県内社会福祉関係専門職団体、社会福祉施設経営の社会福祉法人の理事長、施設長、民生・児童委員など100名を超える参加者が一堂に会し、交流、懇親を深めている様はとても大事である。この社会福祉関係者の集いは、香川県社会福祉協議会でも取り組んでくれたが、当時の平井知事などが参加してくれた。

➄世田谷区地域福祉保健福祉審議会会長の職務と区社会福祉協議会へのテコ入れ

〇私は、2008年10月に東京都世田谷区地域保健福祉審議会の会長に就任した。
〇2006年に前任の会長であった三浦文夫先生が退任された時、後任会長として打診を受けたが、その時は審議会委員の中に元日本社会事業大学教授であり、白梅大学の学長をされている石井哲夫先生が在任されていたので、石井哲夫先生に会長を一期引き受けて頂きたいと固辞した。そのような経緯の中で、私は2008年に会長に就任した(~2016年9月)。
〇世田谷区は人口91万人(現在は95万人)で、鳥取県や島根県よりも多く、一種の厚生省の新しい社会福祉政策の“アンテナショップ”的な性格を有していた。多様な、新しい政策を世田谷区で実証し、その成果を基に厚生省がそれを全国化させる面があった。
〇世田谷区地域保健福祉審議会の委員は20名程度であるが、審議会の際に、事務局として陪席する人は30人くらいいる。筆者は、埼玉県社会福祉審議会の会長もしたが、世田谷区ほどには事務局職員は陪席していなかった。東京都社会福祉審議会や東京都児童福祉審議会でも見かけたことがない数の事務局職員の陪席であった。
〇私は、世田谷区地域保健福祉審議会の会長に就任するに当たって、事務局にこの案件を実施してくれるなら会長を引き受けましょうと提案した。それは、私が行政アドバイザーとして提案し、作られた長野県茅野市の保健福祉サービスセンターのシステムと同じようなものをつくるということであった。
〇長野県茅野市の保健福祉サービスセンターのシステムは、茅野市を4つの圏域に分け、圏域ごとに保健福祉サービスセンターを設置し、診療所を併設して医療・保健・福祉の連携を強化しつつ、保健福祉サービスセンターに保健師、福祉事務所にいたソーシャルワーク機能を持つことが期待されている職員、社会福祉協議会の職員を配置して、チームで生活のしづらさを抱えている人を発見し、支えるシステムで、個別支援とそれを支える地域づくりとを統合的、一体的に展開するシステムであった。
〇しかも、その保健福祉サービスセンターは、高齢者のみならず、障害者、子育て支援分野も含めて全世代対応型の福祉総合相談窓口であり、地域に出張って生活のしづらさを抱えている人を発見・把握するアウトリーチ機能も持つシステムであった。
〇この茅野市の保健福祉サービスセンターを視察に来た厚生労働省老健局の課長が、茅野市保健福祉サービスセンターに学んで、2006年に介護保険制度に導入したのが「地域包括支援センター」である。
〇私は、世田谷区に27ある地域包括支援センターを茅野市と同じように、高齢者のみならず、障害者、子育て支援分野も含めた、住民の立場から考えて、福祉アクセシビリティの良いシステムを構築する意思があるのなら会長に就任していいと言って会長になった。
〇その時の保健福祉部長が秋山由美子さん(後の世田谷区副区長、その後日本地域福祉研究所の理事をして下さり、現在は児童養護施設を運営する社会福祉法人福音寮の理事長)で、その時の課長が瓜生さん(定年時には高齢福祉部長)で、私が会長の任期終了(世田谷区は委員の任期を最長10年としている)で退任する際に、27ある地域包括支援センターを高齢者のみならず全世代対応型の総合相談窓口へ変えてくれ、大橋先生とのお約束は守れましたと言ってくれたことが嬉しかった。
〇世田谷区地域保健福祉審議会の会長を退任したら、ある時保坂典人区長から、今度は世田谷区社会福祉協議会を何とか立て直して欲しいという要請がきた。世田谷区議会で、数年にわたり、決算審議の区議会で世田谷区社会福祉協議会の補助金をなくすべきではないかという類の質問が出、対応に苦慮しているという。その対策をしてくれという願いであった。
〇早速、世田谷区社会福祉協議会職員のCSW研修をすることにして、生活のしづらさを抱えている人への支援で困っている事例を出して欲しいと言ったところ事例は皆無であった。
〇社会福祉協議会職員は直接地域の住民が抱える困難事例に対応し、その人たちを支える地域づくりをしていないことが分った。この点を区議会では指摘されていて、住民のニーズに対応した活動、地域づくりをしていないのだから区からの補助金をなくすべきという論旨で批判されていることが判明した。
〇全国各地で行っているCSWの研修プログラムに基づき研修を行った。その後、困難事例にどう対応したかの実践発表会を公開で行い、区長や区の部長たち、区議会議員、民生委員などに聞いてもらい、評価を頂きながら社会福祉協議会の体質改善に3年間取り組んだ。この過程で、世田谷区の保健福祉部長をされた金澤弘道さんが区社会福祉協議会の常務理事・事務局に就任され、力を発揮してくれたたことは大きかった。
〇この取り組みの過程で、住民に社会福祉協議会は見えていないのだから、可視的にもみえるようにしようと提案し、社会福祉協議会の名前とマークが入った黄色のベストを着て、区内を歩こうと提案したら、当時の労働組合委員長から“それを着るかどうかは労使の交渉事項です”と言われ驚いた。
〇私は、そのユニホームを着る気概がないのなら社会福祉協議会が生き残れなくても知らないよと言って着てもらった。
〇社会福祉協議会は行政以上に“役所的で、官僚的だ”と言われることがよくわかったし、都合の悪い時は“自分の組織は民間だ”と言い逃れをする体質を持っている。
〇現在の世田谷区社会福祉協議会はかなり改善され頑張ってくれている。金安博明さんが事務局次長になり、山本学さんが総務課長、松田京子さんが地域福祉課長、遠藤慧さんが自立生活支援課長になり、清水明子さんや尾崎一美さんたちが地域福祉担当の責任者になり、少なくともコミュニティソーシャルワーク機能の重要性を理解している職員が中枢を占めるようになってきているので、これからが楽しみである。
〇ただ、指定管理制度等の問題もあるのかもしれないが、区社会福祉協議会はいまだ地域包括支援センターを一つも受託できていないし、コミュニティソーシャルワーク機能を統合的に展開する社会福祉協議会組織の「地域担当制」の組織改革は未だ十分とは言えない。

➅念願の第1回通し歩きお遍路―2010年9月~11月

〇高校時代の“人生如何にいきるべきか”で悩んでいた時からの夢であった「四国通し歩きお遍路」に2010年9月20日出立した。
〇日本社会事業大学の学長任期を終えた後、大学から大学院博士課程の指導教員が手薄になるので「特任教授」として残ってくれと言われ承諾した。ただし、大学行政は一切せず、大学院指導のみを条件にした。と同時に、2か月間の休暇を頂きたいといい、大学院の指導が落ち着く9月から休暇をもらい、「四国通し歩きお遍路」に出立した。
〇大橋が四国お遍路を歩くというので、前夜、徳島市で関係者が壮行会をしてくれた。明日からは精進料理で、お酒も飲めないのだからということで大いに飲んだ。日本社会事業大学の先輩で徳島県庁の保健福祉部長をやり、その後徳島県社会福祉協議会の常務理事をされた俳人の丸川悦司先生、元徳島県社会福祉協議会職員で、当時四国大学短期学部教授の日開野博先生、徳島県社会福祉協議会の佐伯局長、琴平町社会福祉協議会の越智和子さん、真言宗御室派の願成寺住職の大西智城さん(社会福祉法人阿波老人会の常務理事)等が参加してくれた。
〇元徳島県社会福祉協議会職員、元全国社会福祉協議会ボランティセンター長で、元福山平成大学教授の木谷宜弘先生は所用があり参加できなかったが、俳句の吟行の用具一式をプレゼントしてくれた。四国お遍路の道中で、毎日一句は詠めというお達しで付きであった。
〇翌朝、第一番札所の霊山寺で、お遍路の装束一式を購入し、聖なるお遍路を緊張して歩き始めた。杖を突き、鈴を鳴らして歩くので、お遍路さんが歩いているということが分るのであろう、途中、“お遍路さん”と呼び止められて、家から出てきた人からお接待を受けた。
〇こんな情景が約40日間続くのかと思いつつ、1日目の宿所の7番札所の十楽寺に着く。お風呂に浸かり、さっぱりして食堂に行くと生ビールは如何ですかと進められる。お遍路ですから、精進潔斎して、お酒を飲めないのではないですかと聞くと、これから長旅です。疲れをいやすのに生ビールを飲んではいけないということはありませんといわれ、いっぺんに緊張のタガが緩んでしまった。しかも、夕食のお膳にはとんかつが出ていて、再度精進潔斎でなくていいのですかと聞くと、長旅ですから体力を落としていけません。とんかつを食べてくださいといわれ食べた。
〇前夜、明日からお酒は飲めない、食事も精進料理だからと言って飲んだ意味が全くなくなってしまい、これ以降毎晩飲むことになる。
〇ちなみに、第2回目の歩きお遍路は2014年4月に行ったのだが、その時は39日間一切お酒は飲まずに歩き通した。
〇丸川悦司先生と木谷宜弘先生の厳命で、ただひたすら575の俳句ともいえないものを書き連ねていたが、後日私の『大橋謙策四国お遍路紀行』を北田耕也先生に送ったところ、俳人でもある北田耕也先生は、私が2010年10月13日に、高知県三原村で詠んだ「残された案山子侘しく秋の冷」が一番いいと言ってくれた。

(註)三原村は、急な山道を登ると、あたかも山の中の桃源郷かと思えるような視界が広がり、きれいな、平坦な田園風景が連なる村で、良質の木材を産出している豊かな村。

〇3回挙行した「四国通し歩きお遍路」については、各回とも紀行文を書いているのでそれを参照して欲しい。紀行文に就いては、阪野貢先生が主宰されている「市民福祉教育研究所」のブログに全て収録されているので、興味のある方は見て頂きたい。