老爺心お節介情報/第88号(2026年7月2日)

「老爺心お節介情報」第88号

〇早いもので、夏至も過ぎ、早7月です。今夏はどんな夏になるのでしょうか。暑さが思いやれます。
〇足の傷が酷く、今年は庭の畑の野菜の作付けができませんでした。足の傷が治った6月下旬、作付けの時期は失しているとは思いながら、せめて何か植えたいと販売店に行きました。最後のナスの苗が残っていたので買い、植えました。お店の人曰く、7月初めにはお盆頃に収穫できるキュウリの苗が入ってくるので、それを待って植えてくださいと言われてしまいました。7月に入り、販売店へ行くとキュウリの苗と枝豆の苗が入荷していたので購入し、植えました。
〇繁茂していた庭の木々も庭師が入ってくれて奇麗になりました。京都風の庭づくりに造詣のある庭師なので、ただ剪定すればいいという手入れではなく、その蘊蓄を聞いているとなるほどと納得することばかりで、“餅屋は餅屋だ”と改めて感心しました。
〇6月下旬から、岩手県、秋田県のCSW研修が始まりました。人口減少、超高齢化地域にあって、まさに「地域の消滅」、「地域の崩壊」が叫ばれている中での“持続可能な地域福祉”の推進ができるのかという悩み多き中でのCSW研修です。地域は、それに輪をかけて“熊騒動”で外にも出られないという危機的状況です。
〇「2040年問題」を見据えて地域福祉、在宅福祉、施設福祉などといった枠を超えて、「オールふくし」で“持続可能な地域づくり”をしていかなければなりません。本当に厳しい状況になりました。
(2026年7月2日記)

Ⅰ 日本地域福祉学会第40回大会が岩手県立大学で行われました

〇日本地域福祉学会が6月20日~21日と岩手県立大学で開催されました。日本地域福祉学会創設40周年という節目の大会です。
〇思い起こせば、1987年に日本地域福祉学会を当時、全国社会福祉協議会の職員だった和田敏明先生と相談しながら創設しました。日本社会福祉学界に置いて、日本社会福祉学会に次いで実質的に2番目の学会でした。
〇当時の日本社会福祉学会の重鎮だった人に、“あなたは私に弓引いて分派活動を行うのか”と叱責されながらの門出でした。大方の予想は200名程度の会員数だろうと思われていたのに、約700名の方が会員になってくれました。その背景には、大学で地域福祉を教える研究者だけでなく、全国社会福祉協議会が主宰していた「地域福祉活動指導員」の修了者である全国各地の社会福祉協議会が数多く会員になってくれました。その学会が、日本学術会議の“学会としての要件”を満たして40年も継続できていることに、学会創設者の一人として感無量でした。
〇学会の40周年事業として、理事会は『リーディングス地域福祉実践研究』を刊行しました。
〇「地域福祉実践研究」という用語は、日本地域福祉研究所が1996年に島根県瑞穂町(現邑南町)で行った第1回地域福祉実践研究セミナーで使用したのが最初です。
〇その後、香川県琴平町が「ふれあいのまちづくる事業」を受託した際に始めた住民向けの「こんぴら地域福祉セミナー」を発展させた「四国地域福祉実践研究セミナー」も「地域福祉実践研究セミナー」という用語を使用し、現在第28回目を迎えている。
〇「地域福祉実践研究」とは、単なる「実践の報告会」ではなく、かつ単なる「地域福祉の研究のセミナー」でもなく、「地域福祉実践の研究」を現場の社会福祉協議会職員や住民と研究者が膝を交えて、「地域福祉の社会生活を分析」し、その地域の社会生活課題を解決するための「問題解決プログラムを作成」し、どういう「実践方法」を駆使し、どういう「地域福祉の理念を実現できるシステム」を構築するのかを学び、研究する場として私は考えた。
〇今回発刊された『リーディングス地域福祉実践研究』では、その「地域福祉実践研究」とは何かが多面的に論じられていて、学会の行く末に期待をしたいと思った。
〇岩手県立大学での学会では、昨年度の武庫川女子大学の大会に引き続いてスペシャルトークセッションに登場することになった。

(註)
武庫川大会では、同志社大学の上野谷加代子先生との対談であったが、主に地域福祉研究のあり方について話をした。
その対談は、『2025年日本地域福祉学会第39回大会(兵庫大会)スペシャル・トークライブ報告集』として刊行されている。

〇昨年の大会に引き続いてのスペシャルトークセッションに登場することになったのは、筆者が1965年から岩手県の「関係人口」の一人として、バッテリー型地域福祉実践研究をしてきた経緯と思いの話をすると同時に、社会福祉協議会への期待を述べるということであった。
〇岩手県は四国と同じ面積を持つ大きな県で、人口112万人、市町村数33で、葛巻町人口4890人、高齢化率52・3%、西和賀町人口4267人、高齢化率56・1%等ご多分にもれず人口減少、超高齢化の中で地域の存続が危ぶまれる“消滅の危機”に直面している市町村がある。そこでの持続可能な地域福祉の推進をどうするのかいう問題意識で、スペシャルトークセッションに臨んだが、時間が足りず、「2040年問題」に向かう中での社会福祉協議会のあり方について、資料は学会要旨集に掲載していただいたにも関わらず話が出来なかったことが心残りであった。
〇第40回大会において、畏友の野口定久先生が理事会で名誉会員に推挙され、学会総会で承認されて名誉会員になられた。長年、地域福祉の推進、学会の運営、大学院での地域福祉研究と教育に携われてきた先生が名誉会員になられて嬉しい限りであった。野口先生の後進を育てる能力は稀有で、多くの研究者を育てられていることに心より敬意を表したい。
〇学会の会場になった岩手県立大学では、大学創設時の初代社会福祉学部長の高澤武司に頼まれて大学設立構想に協力したことや2000年の第14回大会を開催したことが思い出され、かつ久しぶりに学会の仲間たちと懇親ができた楽しい2日間であった。

Ⅱ 「そのときの出逢いが」⑩―2010年代前半

『「そのときの出逢いが」――私の生き方、考え方に影響を与えた人との出逢い』⑩

Ⅰ 2010年代前半――東北福祉大学大学院と(公財)テクノエイド協会

(はじめに)
〇この時期は、何といっても東北福祉大学大学院の生活と(公財)テクノエイド協会理事長としての業務に集約される。
〇前者は、私の教育・研究の集大成で、大学院でのゼミ指導の楽しさを満喫できた。
〇後者は、1960年代から提唱してきた憲法第13条に基づく生活支援の考え方が、(公財)テクノエイド協会の補聴器も含めた福祉機器の利活用により、より可能になることが実感できた時期である。と同時に、その業務を如何に社会福祉界全体に理解してもらうかに情熱を傾けた時期でした。

➀東北福祉大学大学院教授

〇2014年4月、日本社会事業大学大学院特任教授の任を終えて、以前からお世話になりたいと願っていた東北福祉大学大学院教授に就任した。
〇大学行政は一切やらず、大学院の講義及び研究指導だけという条件を飲んで頂いて就任した。にも拘わらず、理学系の先生が使用していた2部屋からなる研究室(実験系の先生だったので、薬品などを入れる冷蔵庫付きの研究室であった)を提供して頂けた。
〇日本社会事業大学の研究室にあった蔵書と自宅の2つの書庫にあった蔵書は、東北福祉大学大学院教務課の青柳勉さんのご尽力で、大学院キャンパスの中に一部屋、「大橋文庫」ともいえる部屋が用意されたので、そこに全て寄贈した。
〇東北福祉大学大学院での授業ではその蔵書は大いに効果を発揮した。東北福祉大学の図書館は大変素晴らしいものであるが、その図書館は東北福祉大学の本部キャンパスにある。大学院生の研究室、ゼミ室は離れたキャンパスにあり、大学院のゼミや院生の研究には使い勝手が悪い。その意味では、通称「大橋文庫」と言われた蔵書の存在はありがたかった。
〇日本社会事業大学を退職するとき、どこで聞きつけてくるのか多くの古本屋が連絡を寄越し、蔵書を譲って欲しいと言ってきた。すべての蔵書を持って行ってくれるのなら、片付ける手間が省けるので、その旨を言うと、皆さん欲しい本だけを売ってくださいという。
〇日本社会事業大学の図書館は、既に満杯で受け入れる余地がなかっただけに、東北福祉大学大学院の「大橋文庫」は大変助かった。
〇しかしながら、東北福祉大学大学院の「大橋文庫」に寄贈する本の選別と移送には大変苦労した。東大大学院の修士論文を書くに当たって、東京神田の古本屋街で探し求めた戦前の資料は紙の材質が悪く、とても移送したのでは本が崩れて使い物にならないので、廃棄処分をすることにしたが、その分量が引っ越し用の段ボールで約50箱になった。その段ボールの山を見て、この本、資料の購入にどれだけお金をつき込んだのかと悲しくなった。
〇2014年4月1日、辞令を頂きに仙台に出かけた。渡辺信英副学長立ち合いの下、萩野浩基学長から辞令を頂いた。その際、大変身勝手であるが、第2回目の「四国歩き通しお遍路」に行きたいので、明日から2か月休暇を頂きたいとお願いした。気持ちよく受け入れて頂いて、第2回目の「四国歩き通しお遍路」に行くことができた。
〇その時、私がわざわざ辞令を頂きに仙台まで行ったことに驚かれ、そういえば自分も東北福祉大学の学長の辞令が今日付けだったのを思い出されたのか、大橋さんがわざわざ来たのなら、私も神奈川県鶴見の曹洞宗総持寺へ辞令を頂きにいかなければならないと言われたことが記憶に残っている。
〇東北福祉大学大学院での生活はとても楽しいの一言に尽きる。すべて渡辺信英副学長が気配りしてくださり、勤務条件、勤務形態はもとより、大学院生のゼミも研究指導も自由にさせて頂いた。
〇私の日本社会事業大学時代のゼミの運営は、ゼミが終わるとよく学生とコンパをした。学生の中には“貧乏学生”も多いので、かといっていつも私が資金を負担していたのでは私のフトコロがもたないので、外に飲みに行かず学内で飲むことが多かった。その為に、研究室に冷蔵庫を置き、お酒を冷やしておいて、つまみは乾きものや干物を買ってきて七輪で焼いて食べることが多かった。いつの間にか、私の研究室の七輪は2つになっていた。
〇東北福祉大学大学院でも同じようなゼミ活動をしたいと思い、研究室でお酒を飲んでいいかと聞くと結構ですと了解してくれた。また、その頃、大学院生で、かつ教務課の事務をしていた中国からの留学生(ソフトボールの選手で、東北福祉大学は全国的な強豪校だった)の張瑛さん(後に日本に帰化し、日本の方と結婚し、根本瑛さんとなる)が研究費の管理などを行ってくれていた。研究費でレンジやガスコンロも買えるというので、買ってもらった。
〇研究室は、大学院のゼミを行う建物とは別の建物で、その建物は理系の研究室があり、薬品なども扱うので出入りは指の指紋認証によるものであった。私も当然登録したが、年老いていて指紋が薄くなっているのか、毎回出入りには時間が掛かり、苦労した。
〇ゼミが終わると研究室に移動してコンパが始まる。研究室には大型の薬品冷蔵庫があり、一升瓶を冷やすのには最適だった。レンジやガスコンロを使ってのコンパは、安がリで、かつ他人の目を気にすることなく、楽しく毎回行われた。いつのころからか、一升瓶は「綿屋」の酒が定番になった。また、中国からの留学生たちが腕を振るってくれて、水餃子パーティーをすることもできた。
〇東北福祉大学大学院では、博士課程の学位授与者8名、修士課程学位授与者11名の院生を育てることができた。東北福祉大学の森明人先生、大石剛史先生、沖縄大学の玉木千賀子先生、中国大連交通大学の陳麗娜先生、桃山学院大学の平野裕司先生、文京学院大学の笹岡眞弓先生、中島修先生、あるいは山形県議会議員、衆議院議員になった原田和広さん等が育ってくれた。
〇中には、理学療法士として、宮城県職員から宮城県介護普及センターに転職して、障害者や高齢者の支援における福祉機器の利活用に関する修士論文を書いた廣島志保さんもいた。彼女の論文は博士論文に匹敵するほどの素晴らしい論文で、かつその実践を見せて頂いたが、障害者支援にいかに福祉機器の利活用が重要であるかを再認識させられた。
〇これらの博士学位授与者は、自らの博士論文を基に、森明人著『市町村社会福祉行政のアドミニストレーション』(中央法規)、玉木千賀子著『ヴァルネラビリティへの支援―ソーシャルワークを問い直す』(相川書房)、原田和広著『実存的貧困とは何か』(青土社)、大石剛史著『ケアリングコミュニティの理論』(学文社)を出版してくれたのも研究指導した者として嬉しい限りである。
〇東北福祉大学大学院の博士学位授与の審査では、公開でのヒヤリングと3人の審査委員による口頭試問、論文審査があるが、渡辺信英先生以外に、雪江先生、菅原秀元先生、
都築光一先生、萩野寛雄先生、三浦剛先生、石附敬先生、高橋誠一先生等多くの先生方が参加され、多角的に論議される状況は大学人、研究者として嬉しかった。
〇東北福祉大学は、スポーツの振興で大学ブランドを高めてきた。1980年代に箱根で行われた日本社会事業学校連盟のセミナーに参加した東北福祉大学の萩野浩基先生と帰りの小田急線のロマンスカーで一緒だった。その時、萩野先生が、これから東北福祉大学はスポーツ振興で大学のブランド化を図ると楽しそうに話をしていたが、まさに野球部、ゴルフ部、バレー―部、ソフト部と全国的な活動をその後展開している。
〇私が赴任した2014年は丁度、ゴルフ部が全国優勝して、その招待状が私にも届いた。私は様子がよく分からないまま、仙台国際ホテルで行われた祝勝会に参加した。日本社会事業大学とは全く違う世界に驚くばかりであった。
〇渡辺信英先生は、東北福祉大学だけのお付き合いではなく、仙台の経済界、大学関係者との会合にも招いて頂き、世間が広いこと、いろいろな見方、考え方があることを教えて頂いた。
〇渡辺信英先生は多彩な人で、芸術関係にも造詣が深く、東北大学の先生方と共同して「感性福祉研究所」、「感性福祉学会」を主宰されていた。その「感性福祉学会」で基調講演をさせられたが、改めて私が社会福祉はサービスを必要としている人の「快・不快」を基軸にケアのあり方を考えるべきだという考え方が実証されるような学会だった。
〇私は全国各地を歩かせて頂いているが、どこの都市がいいかと問われると私は仙台がいいと答えている。仙台は都市もコンパクトにまとまっており、商業施設も整っているし、交通の便もいい。とりわけ、海の幸が美味しいし、お酒も美味しい。近くには、秋保温泉や作並温泉もあり、風光明媚だし、冬の雪があまり降らない、住みやすい街である。

➁公益財団法人テクノエイド協会理事長(2011年7月29日~2025年6月)

〇私は、2011(平成23)年7月29日に(公財)テクノエイド協会理事長に選任され、就任した。
〇畏友の白澤政和先生が、“大橋先生、車の送迎付き、秘書付き高給取りのポスト”ですかと尋ねてきた。残念ながら、私が就任した理事長待遇は、週1回の出勤、手当は日当2万円、退職金なし、秘書もなしの待遇であった(これではあまりにも酷いということで、2年後くらいから1日の日当が3万円になり、退任する2年前から年収300万円以内となった。年収になったのは、後任理事長をお願いするのに、日当ではあまりにも酷く、後任者を選べないので、年収にする必要があったと常務理事が改定してくれた)。
〇(公財)テクノエイド協会は、1987年3月に設立された。それは障害者の生活支援の福祉機器の開発、普及推進を目的に厚生省更生課の所管の範囲内でという考え方で、更生課青木行雄課長の肝いりで、河野康徳身体障碍者福祉専門官が設立準備の事務局を担い、設立された。初代理事長は、戦後の身体障碍者福祉法制定の立役者である實本博次さんが就き、第2代目理事長を小嶋弘仲元社会局長が担った。
〇その(公財)テクノエイド協会の第3代目の理事長を私が仰せつかることになるが、私が理事長候補に挙がったのは、当時の民主党政権下にあって、厚労省所管の財団などに厚労省出身者がいわゆる天下りすることが禁止される中で浮上した人事だったと推察している。
〇この人事案件については、(公財)テクノエイド協会の当時の常務理事の厚労省出身の一瀬正志さんが起案したと聞かされている。一瀬さんは、厚労省社会局で、日本社会事業大学の移転、その後の委託に関わる業務を担当されていた方で、私も面識があったし、大変お世話になった方であった。
〇一瀬正志さんが、私を候補者として考えた時、日本社会事業大学の卒業生で、国際障害者年関係の業務を厚生省更生課長として取り仕切り、その後日本社会事業大学の専務理事、全国社会福祉協議会の常務理事などを歴任した板山賢治さんに相談したところ、“大橋に頼むのはいいが、仕事が増えるぞ”と言われたと後日教えてくれた。
〇その予言は当たるわけで、私はICF(国際生活機能分類)の日本語版への翻訳の手伝いをしたので厚生労働省統計情報部のICFの啓発普及の手伝いをしてきたが、ICFの普及には(公財)テクノエイド協会が行っている業務をより積極的に展開し、ICFの視点での福祉機器の利活用を関係者、とりわけ狭い意味での福祉機器関係者ではなく、広く介護支援専門員、介護福祉士、社会福祉士などの社会福祉関係分野にも普及発展させることが必要だと考えるようになった。
〇そのために、(公財)テクノエイド協会が社会福祉関係者との橋渡しをするとともに、福祉機器関係者に社会福祉分野のことを理解してもらい、福祉機器の利活用を推進する必要があると考えた。(公財)テクノエイド協会がキー団体として、リハビリテーション関係、社会福祉・介護福祉関係、福祉機器のメーカー、販売店、福祉用具レンタル業界などのプラットホームの機能を担えればと考えた。これを実現するために(公財)テクノエイド協会の業務にいろいろ参画させてもらった。
〇第1には、毎年1月に「福祉機器関係者の新年賀詞交歓会」を開催した。厚生労働省、経済産業省、総務省(障害者の通信機器関係の業務は総務省所管)をお呼びして国の政策動向、予算内訳を説明してもらうと同時に、福祉機器を活用しての実践や関係団体の活動報告をしてもらうことにした。その後、夜は交流懇親を行うという試みをしてきた。毎年120名程度の関係者が集まり、今では全国社会福祉協議会や全国老人福祉施設協議会なども参加し、プラットホーム機能が発揮できるようになっている。
〇第2は、(公財)テクノエイド協会の発足は障害者分野での福祉機器の利活用が中心であったし、発足時には「義肢装具士法」が制定された時でもあった。日本義肢協会から多大の出捐金を頂いていたので、当初の理事会構成はそれらの関係者で占められていた。
〇しかしながら、介護保険制度の実施、障害者総合支援法の実施など時代は変わり、福祉機器の開発分野も広がり、利活用の分野も広がらざるを得なくなってきているので、理事会構成を時代に合うように変更してきた。今では、介護支援専門員協会、言語聴覚士協会、理学療法士協会、作業療法士協会等の団体の方に理事、評議員に就任頂いて、福祉機器の利活用の推進にご協力いただいている。
〇このような取り組みの過程で、私は日本生活支援工学会で基調報告をしたり、介護支援専門員協会の研修などに積極的に参加してきた。
〇(公財)テクノエイド協会設立時の国立障害者リハビリテーションセンターの総長は初山泰弘先生であった。その当時、初山先生とは国立障害者リハビテーションセンターと国立看護大学校と日本社会事業大学とが合併して、看護、リハビリテーション、社会福祉を有機的に結び付け、インタープロフェッショナル教育ができるといいねと話をしていたので、私としては(公財)テクノエイド協会理事長として少しでもその夢に近づけたいと考えた。
〇(公財)テクノエイド協会の業務は、福祉機器の開発、普及推進の他に重要な業務がいくつかある。その業務を通しての「出逢い」は沢山あり、私の研究者履歴に大きな影響を与えている。
〇生活のしづらさを抱えている人の自立生活支援を目的としている社会福祉は、従来の社会福祉行政で規定されたサービスの活用だけでなく、ICFの視点に基づくアセスメントを行い、自立生活を支援するという視点と視野を重視するべきである。その意味もあって、(公財)テクノエイド協会の業務の他の業務も紹介しておきたい。
〇第1は、義肢装具士の国家試験の実施である。厚生労働省の義肢装具士国家試験の指定試験機関の認定を受けて実施している。
〇義肢装具士の国家試験の受験者数は200名前後と決して多くはないが、国家試験の取り扱いには人一倍の神経を使う。国家試験が無事終わり、合格発表が行われるといつもホッとする。自分自身、社会福祉士の国家試験の委員として8年ほど関わってきたので、出題される先生方や事務局の負担は大変で、感謝しかなかった。
〇ただ、(公財)テクノエイド協会としては、採算が取れる業務ではなく、かつ受験生の負担を考えると受験料を値上げすることもできず、頭の痛い業務であった。最近は、義肢装具士の養成校が減ると同時に、養成校が地域偏在していて、かつ入学生も減少していることを危惧している。厚労省の医政局長にもこの旨の深刻さの話をして対策を講じて欲しい旨依頼等してきた。
〇第2は、補聴器関係の業務である。
〇理事長職を引き継いだ時、前理事長の小嶋弘仲さんに私に引き継ぐうえで何かありますかと聞いたら、補聴器関係を充実強化して欲しい旨の引継ぎがあった。それは、(公財)テクノエイド協会の補聴器関係の諸規定を小嶋弘仲さんが一人で整備されたと聞いていたのでさもありなんと考えていたが、補聴器関係のことが分れば分かるほど超高齢社会に入っている日本ではもっと補聴器関係の認識を国民に理解してもらい、補聴器装用の必要性を広め、推進する重要性が理解できた。
〇(公財)テクノエイド協会は、補聴器関係では「認定補聴器技能者」の養成を4年かけて行っており、その試験合格者に(公財)テクノエイド協会理事長名で認定書を交付している。
〇「認定補聴器技能者」の養成には、日本耳鼻咽喉科頭頚部外科学会、日本聴覚医学会はじめ、日本補聴器工業会(補聴器を開発、輸入、供給している業界団体)、日本補聴器販売店協会、日本補聴器技能者協会等の絶大なるご協力とご支援がなければ到底養成はできない。しかも、その養成課程と最終試験は他のリハビリテーション職の国家試験と同程度の内容と水準を保つために努力が行われており、義肢装具士の国家試験と同じように緊張を伴う重みのあるものであった。
〇また、日本補聴器工業会が行う3年に一度行う補聴器に関する「Japan Trak(ジャパントラック)」と呼ばれる国際比較研究調査は素晴らしいもので、日本の補聴器の普及率の低さや装用・購買に関する行政支援の低さも明らかになった。
〇従来、日本の厚生行政では、補聴器は障害者の補装具として位置づけられていたが、その支給基準が90デシベルで、ほとんど「聞こえ」ないという状態での支給基準であった。
〇しかしながら、高齢化の進展とともに高齢難聴者が増大し、その方々がうつ病、認知症になるリスクが高いという研究が明らかになるにつれて、今や社会福祉行政も大きく変わろうとしている。
〇新潟県では、県内全ての市町村が補聴器購入の補助をしているし、東京都港区では、耳鼻咽喉科による「聞こえ」の検査、診断と認定補聴器専門店による販売、認定補聴器技能者によるフィッティング(調整)をセットとして組み合わせて補聴器購入を補助している本格的な助成制度も出てきた。補聴器は、集音機器は異なるということを理解してもらい、通信販売ではなく、フィッティングという機能が重要だということを国民に理解してもらうことが大切になっている。
〇補聴器分野の業務では、元帝京大学医学部教授の小寺一興先生、元筑波大学病院長、筑波大学副学長の原晃先生などを始め日本耳鼻咽喉科頭頚部外科学会、日本聴覚医学会関係者、日本補聴器販売店協会の佐藤誠元理事長、青戸義彦現理事長、日本補聴器技能者協会の阿部秀美理事長、日本補聴器工業会の赤生秀一元理事長などには格別のご支援とご協力を頂いた。
〇第3は、適切に利活用できる福所用具に関する情報提供を(公財)テクノエイド協会は
TAIS(福祉用具情報システム)として行っており、現在では約1万8千点が登録・掲載されている。福祉機器開発業者から提出される福祉用具を多角的に検討し、適切に使用できるかどうかを判定してTAISに登録している。この福祉用具情報システムについては、元国立障害者リハビリテーションセンターの研究所所長をされた山内繁先生、諏訪基先生に絶大なるご協力、ご支援を長年に亘って頂いている。
〇第4には、実質的に2013年度から始まる介護ロボットの開発、普及に関する業務であり、今やこの業務が最大になっている。介護ロボットを中軸とした国民が求める福祉機器のニーズと開発をする側の資源、シーズとのマッチングする機会である厚労省の「ニーズ・シーズマッチング事業」により、漸く国民のニーズに対応した福祉機器の開発、利活用の考え方が展開されるようになった。
〇私は、このニーズ・シーズマッチング事業は、福祉機器の開発上重要な事業であるが、
国民が開発された福祉機器をICFの視点で使いこなせるようにするためには、ニーズとシーズの間に福祉機器の利活用に関わるコーデネート機能をシステムとして作らなければ、福祉機器の利活用が前進しないことを言い続けてきた。もっとも、分かりやすいのは、全国に約5500か所ある地域包括支援センターに福祉機器のコーディネーターを配属することであると主張してきた。介護支援専門員の研修課程に「福祉用具の利用」が導入されたが、決して十分でなく、実際問題として介護支援専門員の福祉機器の理解度は低く、いわば福祉用具専門相談員に“丸投げ”の状態になっているのが現状である。
〇第5には、介護保険制度が実施されるとき、介護支援専門員制度やケアマネジメントという手法が導入されたが、それと同時に福祉用具のレンタルを担う福祉用具専門相談員制度ができた。
〇しかしながら、(公財)テクノエイド協会はそれも大切な制度ではあるが、福祉サービスを必要としている人の自立を支援するためには福祉用具専門相談員の法定研修時間数では足りないのではないかと考え、介護保険制度が始まる前の1998年度より協会独自に「福祉用具プランナー」の養成とその指導者を養成する「福祉用具プランナー管理指導者」の養成も行っている。現在1万6千人の養成者が修了している。
〇私が(公財)テクノエイド協会の理事長に就任した年の2011年9月に、(公財)テクノエイド協会主催の国際福祉機器調査研修ツアーに参加させてもらった。ドイツのデュッセルドルフの見本市(世界3大福祉機器展の一つ)の見学、フランスでの福祉機器利活用の評価機能などについて調査研修をした。
〇この研修ツアーでは、横浜市総合リハビリテーションセンターの渡邊慎一先生(現在福センター長)にはいろいろお世話になった。
〇この研修の最中に、福祉用具の検討マトリックスを作成したが、日本の場合、福祉用具の開発、普及は社会福祉行政や介護保険制度による法定化された価格での購入、レンタルで何かと制約が多く、福祉機器の自由購入による経済的活動の発展が望めないことが影響しているのか、「福祉機器に関する実証的評価機能」のシステムが確立していない。フランス等では、それが進んでいる。
〇日本の場合は、JISによる認証評価の域を出ていない。(公財)テクノエイド協会で、その点について福祉機器の使い勝手がいい商品を評価する仕組みをつくったが、十分な広がりと社会的承認を得られていない。今後は、日本の家屋などでも使いやすい福祉機器の開発が必要で、必ずしもJISの基準だけでなくていいのではないかと私は考えている(6車輪の小回りがきく車いすなどは日本家屋に適していて、もっと普及できてもいいのではないかと常々考えてきた)。
〇(公財)テクノエイド協会は、2012年7月に新公益法人へ移行することが認められた。
〇この間、民主党政権のいわゆる「事業仕分け」で、福祉機器開発の助成をする80億円余の基金が取り上げられた。
〇現在、(公財)テクノエイド協会は約7億3000万円の基金(国債運用)と年間5億4千万円の事業規模で運営されている(2024年度現在)。
〇新公益法人移行以前は、厚生労働省の補助金で多くが運営されてきたが、新公益法人移行後は、厚生労働省の事業は競争入札となり、それを落札できなければ、(公財)テクノエイド協会の運営、経営はできない。
〇しかも、それらの事業は6つの公益会計区分で縛られているために、項目間の流用はできない。(公財)テクノエイド協会自身が自由に使える財源は法人会計のみで、それは基金の利子と協会の賛助会員が納めてくれる会費だけという状況である。
〇(公財)テクノエイド協会の業務は、厚生労働省の医政局、老健局、社会・援護局などにまたがっており、かつ補聴器に関してはどこが所管になるのか定まっていない状況である。そのような中、(公財)テクノエイド協会が担っている業務をなくすわけにはいかないわけで、厚労省がどう政策的位置づけるのか大きな課題だと私は思っている。

➂一般社団法人ユニットケア推進センター理事、副会長――外山義著『自宅でない在宅―高齢者の生活空間』が与えた影響

〇(公財)テクノエイド協会が主宰する福祉用具プランナーの養成課程を社会福祉法人の理事長・施設長自らが受講し、資格を取るだけでなく、その考え方に賛同し、従来の特養で行われていた「抱きかかえの移乗介護」を禁止し、リフトによる介護を徹底化させている社会福祉法人伯耆の国が経営している特別養護老人ホーム「ゆうらく」の存在を知ったのが、一般社団法人ユニットケア推進センターを知る事実上の契機である。
〇「ゆうらく」は鳥取県南部町にある施設で、天皇・皇后両陛下の行啓幸も仰いでいる施設で、私は早速、(公財)テクノエイド協会理事長として視察に行かせて頂いた。
〇利用定員97名の特養で、利用者の認知症率は98%くらいになるという施設であったが、施設にはカギがかかっていない。ロビーで新聞を読んでいた(?)高齢者の方がいらしたが、手に持っている新聞はさかさまであった。
〇この「ゆうらく」の職員の離職率は、結婚により町外へ出る人を除けば、事実上0%だという。
〇これだけの素晴らしいケア実践をしている社会福祉法人の理事長、施設長が山野良夫さんで、一般社団法人ユニットケア推進センターの会長もされていた。
〇その山野良夫会長の依頼で、一般社団法人ユニットケア推進センターの業務をお手伝いするようになったのがきっかけである。
〇一般社団法人ユニットケア推進センターは、特別養護老人ホーム施設最低基準が2003年に改訂され、ユニットケアという考え方とそれを支える居室の個室化が進む。そのユニットケアの考え方を推進するために志を同じくする人たちで設立したのが一般社団法人ユニットケア推進センターで、当初は恩賜財団社会福祉法人浴風会に事務局があったが、後に独立して現在はお茶の水駅近くのYAWACAのビルに入っている。
〇「ユニットケア」という考え方は、京都大学建築学・生活空間論専攻の外山義教授の影響が大きい。
〇外山義先生は、東北大学で建築学を学び、1982年~89年までスウエーデンに渡り、高齢者ケアと住環境について学び帰国した。帰国後、厚生省国立医療・病院管理研究所地域医療施設計画室長を経て、後に京都大学教授になる。
〇外山義先生の著書『自宅でない在宅―高齢者の生活空間』(2003年、医学書院、1800円)で述べられている考え方が、引き金になって、特別養護老人ホーム施設最低基準が改訂された。それを契機に日本ユニットケア推進センターが設立されていく。
〇筆者は、1990年代に外山義先生が設計した富山県宇奈月の「おらはうす宇奈月」や秋田県鷹巣の「ケアタウンたかのす」を見学し、感動したことがある。外山先生の哲学、設計に驚くとともに、これこそがこれからの日本の社会福祉施設のあり方だと感動した。
〇筆者自身も、1978年論文「施設の社会化と福祉実践」で、社会福祉施設ケアは画一的で、集団的でいいのかと疑問を投げかけ、社会福祉施設で提供しているサービス、ケアを分節化させて、生活環境を整備してあげれば後は自分で自立できる人、困ったときにすぐに相談援助してあげれば済む人、常に生活全般において直接的支援が必要な人に分節化できるし、それに応じた生活空間を整備するべきだという論文を書いていたので、外山先生の考え方には大賛成であった。
〇しかしながら、当時は地域福祉についての理論化、体系化に忙殺されており、社会福祉施設のあり方まで研究領域を広げることができずにいた。それでも、1970年頃、コミュニティづくりに必要な施設として、建築学でいう「中間空間」としての上がり框、縁側等の機能を持たせることが必要でないかと考えた。
〇また、入所型社会福祉施設が提供しているサービスの分節化と構造化を図れば、入所型施設の弊害を除去、軽減できるのではないか、サービス利用者の求めと専門職が必要と考える支援とを出し合い、インフォームドコンセントをすれば入所型施設サービスのあり方は変わるのではないかと考えた。それらについての筆者の論文は以下の通りである。

➀「社会教育施設管理と住民参加」(『住民の学習権と社会教育の自由』小川利夫編、勁草書房、1976年所収)
➁「施設の社会化と福祉実践」(日本社会福祉学界紀要19号所収、1978年)
➂「社会福祉思想・法理念にみるレクリエーションの位置」(『日本社会事業大学研究紀要34号』、1988年所収)

〇一般社団法人ユニットケア推進センターが推進している「ユニットケア」を実際に実習体験できる社会福祉施設が全国に80か所くらいあるが、それの施設でのケアは“百聞は一見に如かず”で、是非見学して欲しいものである。
〇その実習施設での考え方と実践の一部をまとめたものが『ユニットケア 哲学と実践』(大橋謙策・秋葉都子、医療企画出版、2019年刊)である。

➃日本福祉大学大学院特別講義

〇日本福祉大学の客員教授には、2011年4月に就任し、現在も続けている。
〇畏友の野口定久先生が日本福祉大学大学院研究科長の時に、客員教授の特別講義、セミナーが開催されるようになった。
〇そのセミナーの際に行われる日本福祉大学の二木立元学長、児玉前学長、丸山悟理事長などとの会食・懇談はとても楽しい時間で、大学院特別講義は毎年楽しみの一つであった。
〇野口定久先生の定年退職後は、その特別講義の際に野口典子先生も交えての飲み会もまたこれ楽しい時間であった。
〇全国の社会福祉系大学に大学院が設置されているが、設立時にはそれなりに教員の審査がある。しかしながら、完成年度を終えると“事実上”、教員審査は各大学に任されるために、大学院の研究指導の質は恐ろしく落ちていると、筆者は危惧している。目先の大学の生き残りが優先されて、長い目で見たら日本学問体系の中での社会福祉学の地盤沈下が起こり、他分野から評価されないようになるのではないかと危惧している。
〇野口定久・典子(中京大学)夫妻や同志社大学の上野谷加代子先生と自分の所属する大学院の壁を越えて共同研究する「猪苗代塾」を猪苗代や裏蔵王で行い、研究指導とともに温泉、スキーを楽しんだ。
〇このような大学の壁を越えて、協働して研究指導できる環境を作らないと大学院の研究指導の質は落ちていく。
〇筆者の恩師である小川利夫先生からは、“カニは自分の甲羅に似せて穴を掘る”のと同じで、意識して自分の(指導者)の枠を広げるようにしないと教え子は恩師より小粒になり、それでは学問は発展しないと常に怒られてきた。
〇そのような意味でも、日本福祉大学大学院のセミナーは、外部の先生方の謦咳に触れられる訳で、院生にとってもいい刺激になる機会であり、かつ担当する客員教授も緊張する時間であった。

➄2012年 厚生労働統計協会理事(~2021年)

〇(公財)テクノエイド協会理事長をしている時、高原享治厚生労働統計協会理事長(厚労省で障害保健福祉部長、健康局長を歴任。医師、後に上智大学教授、高知県立大学学長)から会いたいという連絡を受けた。
〇高原亨治理事長の行きつけの神楽坂のすし屋で一献を傾けながら、厚生労働統計協会の理事になって欲しい旨の要請を受けた。
〇厚生労働統計協会は、社会福祉士国家試験を受験する受験生には“必携の書”と言われている『国民の福祉と介護の動向』などを出版している、厚生労働統計全般を扱っている協会である。今までの理事会構成で、社会福祉分野の研究者が一人もいないので就任して欲しいとのことであった。
〇高原理事長には厚生労働省時代から面識があり、お世話になっていたのでお断りはできないが、筆者は統計学のことは良く分かりませんが、それでもいいのですかと聞くとそれでいいというので理事に就任した。
〇厚生労働統計協会の理事には、人口問題の研究者や慶応大学の経済学の研究者、あるいは日本看護協会の専務理事など、社会福祉界ではあまり会う機会がない方々とご一緒でき、ここでも自分の視野を広げることができた。

➅一般社団法人日本介護福祉経営人材教育協会理事

〇どういう経緯で理事の就任要請を受けたが定かでないが、多分私が(公財)テクノエイド協会理事長をしていることがあったのであろう、一般社団法人日本介護福祉経営人材教育協会の理事に就任して欲しい旨の要請があった。しかも、一般社団法人日本介護福祉経営人材教育協会がこれから実施する事業「介護福祉経営士」の養成、試験に関わる委員会の委員長をして欲しいとのことであった。その試験委員の中に、元厚生労働省の専門官をされていた島津先生(東海大学教授)がいたから、その人の推薦かもしれなかった。
〇一般社団法人日本介護福祉経営人材教育協会は、産経新聞記者だった林諄さんが起こした株式会社日本医療企画の肝いりで設立された協会である。私の推測するに、今までは医療サイドの出版などを手掛けてきたが、その領域を介護分野にまで拡大しようとの思いがあったのではないかと考えている。
〇協会の会長は、多田宏厚生省元事務次官で、理事には北島正樹国際医療福祉大学学長(元慶応大学医学部長)や社会福祉法人小田原潤生園の時田純理事長なども名を連ねていた。
〇介護福祉経営士という資格やその為の養成、資格取得後の研修、介護福祉経営士の全国組織化等経済界の視点からのアプローチ―には目を見晴らされた。行政の枠の中だけで社会福祉界はまわっていたので、医療の世界、経営の世界の発想には戸惑いと同時に学ぶことが多かった。
〇介護福祉経営士の養成課程に福祉機器の利活用を入れて頂き、(公財)テクノエイド協会の職員に執筆してもらって『新しい福祉機器と介護サービス革命』(介護福祉経営士テキスト、医療企画、2014年)を刊行することができた。これからの介護福祉経営を考えるならば、福祉機器の利活用は不可欠と思ったからである。