〇筆者(阪野)の手もとには、日本におけるコミュニタリアニズム研究の第一人者である菊池理夫の著作・論考が3点ある(それしかない)。すなわち、①「日本におけるコミュニタリアニズムの可能性」(広井良典・小林正弥編著『コミュニティ―公共性・コモンズ・コミュニタリアニズム―』勁草書房、2010年1月。以下[1])、②『現代のコミュニタリアニズムと「第三の道」』(風行社、2004年3月。以下[2])、③『日本を甦らせる政治思想―現代コミュニタリアニズム入門―』(講談社現代新書、2007年1月。以下[3])、がそれである。
〇コミュニタリアニズム(communitarianism:共同体主義・共同体論)とは、人間は本来、家族や地域・社会などのコミュニティ(共同体)のなかで生きる存在であり、コミュニティの伝統や価値観によってはじめて自己を形成しうる、とする思想的立場である。それは、個人の自由や権利を何よりも優先するリベラリズム(liberalism:自由主義)の説く「負荷なき自我」(社会や歴史から切り離された、完全に自由で孤立した個人)という人間観を批判し、歴史や文化、家族や地域・社会との関係性のなかで自己を形成する「状況づけられた自我」を再評価する点に大きな特徴がある。
〇菊池は、[1][2][3]において、1980年代にアメリカの政治哲学・公共哲学として登場したコミュニタリアニズムに関する議論を網羅的かつ批判的に検討する。そのうえで、日本では、コミュニタリアニズムが全体主義的あるいは懐古主義的な思想として理解されがちであることを指摘し、そうした誤解や偏見に満ちた批判に応えるために「現代のコミュニタリアニズム」論を展開する。そこで菊池は、「現代の政治理論、政治思想のなかで、普通の人々の『つながり』を重視し、エリートの政治ではない、身近で日常的な民主主義の政治を根拠づけるのがコミュニタリアニズムである」([3]8ページ)と再定義する。菊池において、こうしたコミュニタリアニズムが理想とする社会は、完全なかたちで実現しうるものではないが、それでもなおめざすに値する「実行可能なユートピア」([2]298ページ)である。
〇そこで、本稿では、[1][2][3]のなかから、ひとまず(1)「現代のコミュニタリアニズム」、(2)その核心をなす「共通善」、(3)「コミュニティ」、そして(4)「公共の福祉」の4点をめぐって、菊池の言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者。一部語尾変換)。
「共通善の政治学・政策学」としての「現代のコミュニタリアニズム」
現代のコミュニタリアニズムとは、共通の文化や伝統などを前提としながら、自由で、平等な成員(メンバー)が原則として全員がともに熟議し、共通の利益・共通の目的を実現するために参加する自治的で、民主的なコミュニティを重視し、そのようなコミュニティの実現・維持のための政策を掲げる政治思想・公共哲学といえる。それは一言でいえば、「共通善の政治学・政策学」である。([1]94~95ページ)/現代コミュニタリアニズムは、何よりも個人の自由や権利の追求が「私益」と変わらず、政治が利益集団政治になっている傾向を批判し、「共益」(共通善)を実現するための政治・政策を追求するものである。([1]95ページ)
現代のコミュニタリアニズムは、決して保守主義的なものではなく、経済的思考が強い現在のなかで、政治的なものを再興し、普通の人々が政治的に行動すること、すべきこととはどのようなことかを訴えた、その意味では民主主義を哲学的に基礎づける実践哲学としての政治哲学・公共哲学といえるであろう。([2]163ページ)
「共通善の政治学」としてのコミュニタリアニズムにおいては、「共」としての「コミュニティ」のなかで私的で特殊な利益を追求するのではなく([3]56ページ―引用者注)、民主主義的なコミュニティのメンバーがおたがいに助け合いながら、「共通善」を熟議して追求する「自治」が政治の実践である。([3]54ページ)
「連帯・相互扶助・参加」としての「共通善」
「共通善」は個人的な特定の利益ではなく、コミュニティのメンバーすべてに関し、ともに実現する共通の利益でもあり、「個人と個人のつながりや絆」をもたらす価値でもある。現代のコミュニタリアン(共同体主義者―引用者注)はコミュティの価値として、友愛や信頼などに基づく「連帯」、たがいに助け合う「相互扶助」、共通の目標を実現するために公共的活動に携わる「参加」などを重視している。この点で、「共通善」とは、コミュニティの成員(メンバー)全員が原則として「相互扶助」のために「連帯」し、「参加」して、全員の「共通の利益」(共益)としての「福祉」をめざすためのものである。([1]100ページ)
ソーシャル・キャピタル論と現代のコミュニタリアニズムは同根にある。政治的コミュニティでの政治参加や相互扶助を基礎づける「共通善」は、「ソーシャル・キャピタル」(相互利益のための調整と協力を容易にする、ネットワーク、規範、社会的信頼のような社会的特徴を表す概念)と呼ぶこともできる。([3]82、83ページ)
開放的・多元的な政治組織体としての「コミュニティ」
政治制度としては、コミュニタリアニズムは、基本的には国家や市場の役割を否定しないものの、何よりも「コミュニティ」を重視する。([3]52ページ)/「コミュニティ」とは、その成員の「共通善」を前提として形成されるとともに、その成員がともに「共通善」の実現を目的としていく人間の政治組織体である。/この点で、コミュニタリアンが主張する「共通善」、コミュニティの政治的価値とは、まず連帯(友愛)、相互扶助、政治参加、自治などである。このような政治的価値を強調することは、政治参加を強制し、個人の自由を侵害するものであるという、とりわけ価値中立的リベラルからの批判がある。([3]54ページ)/(この批判に対し―引用者注)現代のコミュニタリアニズムは、政治的価値に対して価値中立性を主張することが、実際には官僚主義や司法主義、国家のエリート支配になると批判する。([3]56ページ)
現代のコミュニタリアニズムは、個人の権利や自由を尊重し、コミュニティも閉鎖的でも、排他的でもなく、むしろ多様なコミュニティの存在を認め、その成員や各コミュニティの平等性や成員の政治参加、熟議を重視する民主主義的なものであり、その点で多くは保守主義的なものではなく、むしろリベラル・コミュニタリアンであり、「左派」ないしは「中道左派」的な性格を持ち、実際の政策にも影響を与えうるプラグマチックなものである。(中略)現在の「コミュニティ」とは決して生まれながら自然に帰属するものだけでなく、自己選択によって自発的に加入する集団も、つまり「アソシエーション」も含んで主張されている。([2]223~224ページ)
【注】「中道左派」としてのコミュニタリアン

現代のコミュニタリアニズムは(コミュニティへの帰属について―引用者注)個人が自己決定できることを否定しない。そのようなコミュニティのなかで、まず「自我」が作られていくのであり、そこから自らが帰属するコミュニティの伝統、歴史を自覚し、尊重することによって、それに対する参加か責務、またその成員の相互扶助が生まれてくると主張する。(中略)しかし、このことは伝統をすべて肯定することでもなく、参加や責務を強制することでもない。そして、このような「自我」によってコミュニティは形成され、その成員全体の「共通善」の実現に向かっていく。この点でも、現在のコミュニティはアソシエーションでもある。([2]224ページ)
現代のコミュニタリアンの地方分権化の主張、「補完性の原理」(身近な組織で解決し、不可能な場合のみ上位が補完するという基本原理―引用者注)は、中央主導の官僚主義をただし、また何よりも個人により身近な組織に権限を移譲して、より自治としての民主主義的社会を実現していくためのものである。([3]162ページ)
憲法第12条にみる共通善としての「公共の福祉」
現代のコミュニタリアンは基本的に個人の自由と権利をリベラル同様に重視する。個人の自由と権利は「共通善」である。([3]198ページ)/日本国憲法は現代のコミュニタリアンがいう意味での「共通善」を重視している。第12条の「国民は、これ「自由と権利」を濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」は、いわゆる「マッカーサー憲法草案」のほぼそのままの訳であり、「公共の福祉」の原語は「共通善」(common good)である。(中略)保守派も、リベラルも「公共の福祉」と「権利」を対立させる点で間違っており、この12条は「国民は個人の自由や権利をいつも公共の福祉のために用いなければならない」と、個人の自由や権利がつねに「公共の福祉」のために存在していることを述べているのである。このことが正しく理解されれば、現在の日本に見られる傾向、つまり個人の自由や権利が自分の利益と同じものとなって、自己利益追求が絶対的に正しいものとされることや、国民全員の利益、福祉が軽視されることはなくなるであろう。([1]105ページ、[3]199ページ)
【注】憲法第12条、第13条
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
Article 12. The freedoms and rights guaranteed to the people by this Constitution shall be maintained by the constant endeavor of the people, who shall refrain from any abuse of these freedoms and rights and shall always be responsible for utilizing them for the public welfare.
Article 13. All of the people shall be respected as individuals.Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.
【注】「公共の福祉」とコミュニタリアニズム
「公共の福祉」は、現在の有力説では、人権相互間に生じる矛盾・衝突を公平に調整するための原理(人権相互調整の原理)として理解されている。これに対し、菊池の解釈は、現代における過度な権利主張を批判し、コミュニティ全体の利益や秩序を重視するコミュニタリアン的な発想を取り入れた独自の見解であり、一般的な憲法学説とは異なる。また、「公共の福祉」が英語の“common good” に由来するという理解も一般的ではない。憲法の現行英訳においては、一貫して“the public welfare” が用いられている。
〇以上の「コミュニタリアニズム」の思想は、「まちづくり」という実践の場において具体的な意味を持つ。従来の行政主導型の都市計画や地域振興策は、住民を単なるサービスの受け手として扱いがちであった。しかし、コミュニタリアニズムの視点に立てば、まちづくりとは住民自身が「参加」の主体となって、それぞれが抱える地域生活課題について共通の言語で「対話」し、「コミュニティ全体のための政治的参加や政治的熟議」([2]66ページ)を通じて地域の共通善を模索し実現していく営みである。すなわち、住民が互いの価値観の違いを認めながら、共に暮らす地域社会の現状と課題について語り合い、将来を展望するプロセスそのものが、「連帯」と「相互扶助」を育むのである。ここで重要なのは、これらの実践が特定の伝統や価値観への強制ではなく、菊池のいう「開かれた共同体」=アソシエーションとしての性格を持つ点である。
〇さらに、コミュニタリアニズムは「市民福祉教育」の理念とも深く結びつく。それは、福祉を単に行政による給付やサービスの提供に限定するのではなく、市民一人ひとりがコミュニティの一員として互いに支え合う「責任と能力」を育む教育として再定位する必要がある。菊池の思想に基づけば、福祉とは一方的に「与えられるもの」ではなく、共通善の実現に向けて市民が主体的・自律的に関わり合いながら共働で作り上げていく営みである。学校教育や生涯学習の場において、他者への配慮、公共への参加、熟議の態度を育成することは、持続可能な地域社会を支える市民を育てる基盤となる。
〇以上、菊池の3点の著作・論考から「現代のコミュニタリアニズム」「共通善」「コミュニティ」「公共の福祉」という4つの鍵概念を抜き出し、それぞれの相互関係を確認した。菊池のコミュニタリアニズム論は、リベラリズム批判にとどまらず、憲法解釈や「まちづくりと市民福祉教育」といった実践的な場面にまで接続しうる射程の広さを持つ。今後は、こうした鍵概念が具体的な「まちづくりと市民福祉教育」のプログラムのなかでどのように具現化されうるかを、事例に即して検討していく必要があろう。
付記
「20世紀にできた政治イデオロギー(主義主張)区分」を2軸の現代版に一部加筆修正すると、下図(未定稿)のようになろうか。




