K.S./敬意と苦言のあいだ ―阪野貢著『「まちづくりと市民福祉教育」の研究』を読んで―

本稿は、50年来の旧友である阪野貢さんの『「まちづくりと市民福祉教育」の研究―その思想的系譜と変革の実践原理―』(市民福祉教育研究所、2026年6月)の書評的感想を綴ったものである。( ⇨ 本編

第1章:明治後期の地方改良運動にみる「自治民育」の実践

本章では、福祉教育の原点を「地方自治」や「地域振興」の視点でみたとき、遡及的原点は明治40年代以後の「地方改良運動」にあるとしている。具体的には、井上友一の「自治民育」活動、その学校現場への波及としての村田宇一郎の所論が主に紹介されている。本書の中では比較的読みやすい章である。

著者は、結論としてこの時期における敬老会活動や地区衛生組織化活動の推進過程における体験活動や交流・共生、そしてその全体としての広報・教育活動の実際に、福祉教育の一つの原型(方向性で重なること)を見いだせるとしている。13頁には当時の郷土教育や敬老・清掃といった諸活動は今日の福祉教育に通ずる具体的な活動の雛形ともしている。しかし、本書の12頁では「福祉教育は福祉文化の創造や福祉のまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な住民(市民)の育成を図るための教育活動である」としている。また同頁では、「その活動は自立・共生・自治の意識に基づかなければならない」としている。著者自身が言うように地方自治や地域振興という方向性あるいは活動の現象的類似性があるとしても、それらをもって福祉教育の原型の一とするには、評者にはあまりにも思想的、理念的、歴史的にも無理があると感じさせられた。

農山魚村経済更生運動へ、そして戦時体制へと進む過程は、福祉教育というより、あえて研究史的に言えば社会教育の流れに位置付ける方が無難かなという感想を持った。

 第2章:昭和初期の郷土教育運動における「社会奉仕」の位相

本章は、本書の中では最も短く、検討テーマや結論も分かりやすく得心できることが多かった。本章では満州事変以後に起きてくる「郷土教育(運動)」を中心の具体例として検討されている。著者はその運動の中に科学的な地域社会の実態解明や地域改善に寄与する実践的志向があったとし、今日的な住民主体形成のあり方、福祉教育につながる萌芽が見られるとして評価している。

具体的には昭和恐慌下にあり、戦時体制の強化が進行する中での「社会事業や奉仕活動、公徳心の現状」を理解、把握するための調査活動が重視されたことなどが地域実態の、生活課題などの把握を目的とした現代の福祉教育につながるとし、その動きを現代の福祉教育の「まちづくり」や「地域に根差す教育実践」の基礎の形成につながる一つとして評価している。しかし、もちろんそれは市民福祉教育にとっては、(批判的に)学ぶべき歴史的教訓があるという認識を付け加えることは忘れていない。当然その認識の帰結として、今日の郷土愛やボランティア精神の強調は無批判な体制補完に陥る危うさがあるとして、そうではなく体制に対して批判的・主体的な「市民」の形成をめざす「まちづくり市民福祉教育」が目指す方向であると結んでいる。当然のことであろう。評者には郷土教育運動の活動の一部をもって福祉教育の先駆の一形態としてとらえることは、前章同様に拡大解釈でかなり無理があるかなと感じたところである。

第3章:戦間期における生活綴方教育運動にみる「社会事業的」教育実践

本章は、評者には最も興味深く読めた章である。福祉教育の原点を、対象デモクラシィー期の新教育運動か地方改運動の流れかという対立点の紹介の後、国分一太郎の生活綴方運動を社会事業的活動の視点から検討を加えているのが本章の主な内容である。

社会事業から厚生事業へと福祉行政が転換していくこの時期の過程は、わが国全体でみると、とりわけ児童の貧困化が進んだ時期でもある。その中にあって国分は自らの教師としての諸限界を感じながら、「社会政策的」な見地・実践を教師に求めていたことを著者は高く評価している。著者は、国分のそれは貧困問題等を教師の「教育の内面化」に矮小化することへの痛烈な批判でもあったとしている。つまりここでは著者は彼の実践を「子どもを『救済の対象』としてのみ見る従来の人道主義的教員像を否定し、社会構造を共に変革する『連帯の主体』として捉え直そうとする、福祉教育における『主体形成論』の先駆的形態」(28頁)として、子どもたちにも現実生活を客観的・社会的・科学的に把握させることが肝要であるとするその視点を高く評価しているのである。

教育を閉鎖的な教室空間から解き放ち、地域社会の構造的課題へと接続、展開させることを目的とした著者の福祉教育論では当然高く評価できる点であろう。

さらに国分の「社会事業的教師」像の具体化を、「伴走者としての教師像」(32頁)としてみることができるのは戦後の現代に通ずるというのが著者の新たな捉え方である。その意味でも国分の所論・実践は高く評価されてよいものであろう。

しかしここでの著者の結論の一つは、教育科学研究会や戦後の無著成恭らの山びこ実践との継承、比較など(あるいは当事者(当時の児童)の証言などもふくめ)多面的な検討課題が残されているとされている。評者にはそれらをさらに深められるならばさらに現代に通ずる福祉教育の源流の意味が良く分かるように感じられる。さらに言えば、評者個人では、本章ではいわゆる大正期からの「新興教育運動」(=新教育の児童中心主義の教育改良運動に位置付けられる場合があるが、プロレタリアート運動教育論)との比較検討がなされていないこと、冒頭に新教育の野村芳兵衛の名前があるので余計そう感じられる。また、冒頭での著者のいきなりの国分一太郎の所説の紹介は、著者自身が前述の流れに対し、どういう立場なのか少し分かりにくいものになっている。

第4章:徳島県・平岡国市における「子供民生委員」制度にみる「民生村造り」

本章は戦後の福祉教育の源流の一つとして、戦後初期を中心とした平岡国市の「子供民生委員制度」の内容や理念等々を、平岡の生涯の経歴や活動歴を含め、新たな発掘資料などから詳述されている。またそれと対比される形で木谷宣弘らの「みつばち」運動もとり上げられている。具体的で分かりやすい章である。

平岡はその活動精神を5つ(平和、助け合い、尊敬、健康・勤勉、奉仕)とし、(45頁)、これらの活動は、子どもと大人、地域と学校、福祉と教育を限りなく接近させ、そのつながりの中で、「民生村造り」、すなわち現代的には福祉コミュニティーづくりを進めたという評価が著者からは成されている。子供民生委員活動は「這いまわる経験主義」の一例として、その後は教育界からは批判的に退けられていくが、その後の子ども会活動や初期社会科教育活動とのつながる過程が重要であり、その流れも本章では興味深く分析されている。

本章の「おわりに」では、子供民生委員活動から8つの大きな課題(意義)を抽出している(62頁~68頁)。その中では実践例としての「佐古プランの特徴」を現代につながる大きな意義として、特に子どもを通して社会を改造していこうという流れや理科と社会の中心学習をコアとしたコアカリキュラムなどが触れられている。8つの課題ではとりわけ、①「生きる力」と何かという問いに対し、著者の「自分を生きる力」と「共に生きる力」の両面があるという考えは、今日の福祉関係者の共通概念(理解)にすべき重要な指摘と思われる。また、②として福祉教育ネットワーク、③福祉教育の指導主事やアドバイザー・サポーター、④情報提供と住民啓発・教育、⑤集団的実践主体の形成、福祉教育運動、⑥子ども会などの地域組織活動、⑦教育福祉の問題状況のそれへの取り組みの必要、⑧「市民」的資質の育、等を「今日の福祉教育実践や研究の課題」としている。これらの課題は大変であるが、ネットワークの形成の具体化にも触れられている本章は、この諸活動がその後の「市民福祉活動」につながる子ども期からの活動として、今日的評価としてもきわめて重要という指摘は当然に思われる。

この諸活動の歴史の中に、市民福祉教育運動につながるその萌芽がほとんどあるという著者の評価は妥当に思われるが、ネットワークには共通の価値認識が必要であるが、その認識は諸活動から結果的に(自然に)形成されるのか、価値観が共通するからネットワークが作られるのかは評者にはいまだに良く理解できない点である。

福祉や医療、人権活動等々の世界では、一人の力が地域や他のおおぜいの人全体を動かすという例が多いが、平岡国市もそうした一人であろう。評者には確かに、彼の理論・実践等をその歴史的・地理的制約や限界と共に、その先駆性は正当に評価して良いように思われた。

第5章:神奈川県と鳥取県八頭郡における福祉教育実践の成立と展開

本章では、神奈川県の社会福祉研究普及校制度や鳥取県八頭郡社会福祉協議会の活動が主に紹介されている。前章につながる福祉教育の歴史的研究の一環である。本章に関しては、評者も一時期神奈川県の通信制高校および専修学校に勤務していた時代があり、本章にとり上げられている神奈川県下の中・高校名等と共に「社会福祉研究普及校制度」は懐かしく思い出す制度である。この制度について著者は、「生徒は福祉活動への参加を通じて、自発的に相互扶助や博愛の精神を発揮する主体として形成されるが、この自発性そのものが制度的に設計されているのである」(79頁)と痛烈に批判的総括がなされているが、当時現場に近い所にいたものとしては、中学生、高校生には「思いやり」教育もそれなりに意味があるように感じて眺めていた記憶がある。ただもちろん、著者の言葉を借りれば、(官製の上からの)行政主導型の教育活動(しかも短期間・短時間)のそれはほとんど身につかない、内面化されない結果を生むということはその通りと思えることである。

一方で、鳥取県のそれは著者によれば、地域改善(地域開放)と人間形成を不可分のものとしてとらえ、教室内の閉鎖的な空間での知識の伝達に自己完結させるのではなく、地域社会の文脈に即した実践的課題の解決が、地域改善と人間形成を不可分のものとして構造化していたことが高く評価されている(83頁、86頁)。ちなみに、86頁の図1は、福祉教育に限らないが、教育(学校)における一般的な教師の立ち位置を示すものとして、教師(学校)と社会との緊張関係を示し、社会変革か社会統治かのどちらに自己の比重をかけるかが対比されていて分かりやすい。しかしそれは裏返せば、著者も言うように、教師の役割、力量がきわめて重要なポイントとなることも示しており、その関りにあいまいさや構造的な弱さも生むものととらえることができるものである。

いずれにせよ、これらの活動はのちの全国社会福祉協議会等による福祉教育の全国化(全年齢化)のさきがけになったことは言うまでも無い。

第6章:「まちづくり」言説の系譜と自律的市民の位相

著者の「まちづくり」概念と「市民福祉教育」の関連が構造的にわかりやすく明らかにされ、学ぶことが多い章である。ここではその説明として、玉野井芳郎、田村明、山崎亮、山下祐介の4人の所説の詳しい解説により、評者のような専門外の人間にも理解でき興味深かった。本章はこれら4人の言説を土台に、著者自身の「まちづくりと市民福祉教育」の概念とその理論的基盤を明示しようとした意欲的な章である。

4人の言説を一言でまとめれば、玉野井は新たな市民の再生、田村は市民政府の構想、山崎はコミュニティーデザインによる地域での人間関係の再構築、そして山下は地域学を地方消滅に対抗して創案したとされている。しかしこれらの4人の言説は、共通(一貫)して住民=与えられる存在から、市民=自律的に参加して自治を担う主体への転換を要請しているとし、「この主体形成のプロセスこそが、筆者が探究する『まちづくりと市民福祉教育」の根幹である」(92頁)と著者はまとめている。これらの丁寧な解説を読み、104頁の図2(「まちづくり」と自律的市民形成の循環モデル)をみると、著者の考える市民福祉教育概念が図解的に評者にも理解できたことはうれしい読後感である。

ちなみに著者によれば、玉野井は市民を国家に絡み取られた存在ではなく、地域での生活に責任を持つ生活者として措定され、地域はそれぞれの歴史と伝統を誇る自立した主体の集合体であるとまとめている。

田村は、「都市計画」から「まちづくり」というひらがなの概念を社会に定着させる役割を果たした人として紹介されている。そこではまちづくりは人間の共同生活の自治化を目指すものとして理解される。具体的は、モノ,シゴト、クラシ、シクミ、ルール、ヒトづくり、コト起こしの7つが展開されるというイメージであるとし、「市民政府は、市民参加の到着点でもある」(96頁)とされる。著者による理解は、こうしたまちづくりは究極のところ人づくりに行きつくと解される。

山崎のコミュニティーデザイン論の与えたその後のまちづくり、過疎の克服策、計画等々の策定過程や方法などの影響は今日でも大きいが、著者はこれを地域の課題を地域の人たちが解決するための場をつくることとし、箱もの行政ではなく、地域の人間関係の再編に構造転換させた人物として高く評価している。地域活動に楽しさをもとめた山崎の所論は、その後の今日までつづくいわゆるコンサル行政のあり方にも大きな影響をあたえるものであった(皮肉にもコンサルがさかえ、地域は消滅であるが)。

山下の地域学は、消滅可能性自治体論に対抗したものとしてよく知られている。著者によれば、地域の実像は生命、社会、歴史と文化からなるものとして認識され、地域は、相互扶助の構造と機能を持つ場であると認識される。国家ナショナリズムから地域ナショナリズムへの転換を説くとされている。当然そこには地域固有の(伝統的な)福祉文化がある。

著者は、4人(地域主義、まちづくり、コミュニティーデザイン、地域学)についてその限界と効用を丁寧にまとめている(103~104頁)。その通りと思われるが、では、というところで、104頁において、まちづくりと自立的市民形成の循環モデルが提示され、105頁においてその解説が示されている。評者には、著者の市民福祉教育論の考え方が本書中で一番よくわかる図であると感じた。円環状に結ばれるプロセスそのものが著者の言う「市民福祉教育の実態」であり、その中心冠の核において形成されるものこそが、自律的市民に他ならない、とする結論は評者のような門外漢にも理解できる。著者の考えが具体的(直観的)に理解できるレベルで説明された本章は、本書の肝であると感じられる。歴史研究的な部分を除き、抽象化されて分かりにくい著者の福祉教育論の見える形での具体化の一つである、と評者は高く評価したい。

第7章:福祉教育論の再考と現代的展望

本章は福祉教育論の概念や定義等について、大橋謙策、原田正樹、阪野貢の3人の論を中心に検討されている。いずれも地域福祉の主体形成を重視する立場は共通するが、著者は大橋の論を、「地域福祉計画策定主体、実践主体、利用主体、社会保障制度契約主体」の4つに課題を整理して考察し、大橋の福祉教育論への批判も含め詳しく紹介されている。原田については「協同実践」がその本質であるという理解であり、地域福祉の下位概念・従属概念ではないとすることに同意を示している。原田に関しては共に生きる、支えあうというその関係性や地域性が重視されるということがポイントであるとされる。

一方、大橋福祉教育論を継承する(したい)という著者の福祉教育論は、あくまで「市民福祉教育」論がその理念・方向性の根幹である。著者は、市民福祉教育を「福祉文化の創造や福祉のまちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な市民の育成を図るための教育活動であり、その内容は、人権の尊厳と自由・平等・友愛の原理に立って、平和・民主主義・人権と、自立・共生・自治の思想のもとに構成され、その実践では、歴史的・社会的存在としての地域の社会福祉問題を素材にし、課題解決のための体験学習と共働活動を方法上の特質とする」(117~118頁)。としている。

大橋と共通する点や、句点(。)の少ない意味の取りにくい定義であり、大橋の福祉教育概念と重なる部分もあるが、独自のものである。著者のなかでは、協働は行政主導や専門化主導の枠組みの中での活動であるが、共働は市民が主体的・自立的に、対等な立場で互いに働きかけ、共に新たな価値を創造していく能動的な関係を意味するとされている(118頁)。

さらに、市民福祉教育は、理念・目的・目標、学習者、指導者・支援者、素材・教材、教育内容・方法、教育評価などによって構造化されるとしている。120頁の市民福祉教育の理念と構造を示す図1によれば、それは、定型教育、不定型教育、非定型教育、市民・文化活動(運動)に関連し、その統合・結節点的なものとしてイメージ化されている。121頁には、大橋、原田、阪野のそれぞれの「福祉教論の特質」が、定義の基軸、キーワード、学習の主眼、地域・社会観、実践のアプローチの5つの項目で整理されており、それぞれの特質が分かりやすく説明されている。

しかし一方で、著者は福祉教育の研究者としての3人に共通する志向性として、「地域福祉と福祉教育の不可分性と有機的連携」、「主体形成の重視と市民参加の促進」、「まちづくり・社会変革の推進と地域共生社会の実現」、「実践と理論の往還的関係の重視と実践研究の推進」がそれであるとしている(122頁)。門外漢の評者にはこうした理解が本当に正しいのかどうかの判断ができないが、この3人(著者も含む)は、学述的な系譜を形成しているとの自負はむしろ貴重であろう。

本章は、著者によれば、市民福祉教育を市民自治による社会変革モデルとして再定義したい(125頁)としたものであり、そのことの意欲には敬意を払いたい。

第8章:「まちづくりと市民福祉教育」の計画化と実践的展開

本章にとり上げられている狛江市での「あいとぴあカレッジ」が行われてい1990年代当時のことは、評者も、筆者やその後の報告などを通して聞き及んでいたことであり、記憶が鮮明である。今回、本章で改めて著者の当時の想いや体系的、献身的努力を知り、強く敬意を払う次第である。

あいとぴあカレッジは「地域福祉活動計画」の一部であるが、単発的な学習や実践ではなく、体系的な福祉教育実践という位置づけで、目的意識的に取り組まれたことが第一の大きな意義である。著者によれば福祉教育研究は、①実践事例の検討、②教育内容・方法、③地域福祉との関連の理論的研究、の3つに大別できるとされている。しかし、従来の研究ではいかにしてそれが「地域福祉計画」の中で構造化されるのか、さらに「計画過程」そのものの分析は十分ではなかったという問題意識を持っている。著者の問題意識には、計画化⇒そのプロセスの構造化⇒まちづくりへの具現化という一連の流れとして把握されるべきだということがある。

著者は、福祉教育は事業計画、施設整備計画、マンパワー計画、財政計画の4本の柱で構成されるとし、住民の生活実態、課題、住民の学習要求、学習機会の地域での提供状況などにふまえた上での「目標の明確化」が最も大事であるとする。あいとぴあカレッジでは事務局に企画小委員会や作業部会が設けられ、作業が進行していく様子が詳述されている。140頁には15回にわたったカレッジの学習テーマおよび学習内容が表として掲載されているが、総論、各論、方法論がまちづくり、その担い手づくりという方向に向けて、当時の時代背景の中で周到に準備されていたことがわかる。

評者はこの計画の実践過程を読み、今日ではなかなか実現が難しい状況があると感じた。例えば、公的機関が行う学習会では今日では実費徴収が通常だと思われるが、学習者から参加意識の醸成も含め4000円を徴収したという点や、15日間という長い期間であったにもかかわらず、年齢や属性がそれなりにばらけた30名という受講者数が確保できたこと、評価の観点は満足度等ではなく実際に普段の暮らしの中で変化を起こしたかなどであるとされていることなどがその例で、その独自性を高く評価したい。

著者は本章では、現代社会の福祉問題の多重化=制度的対応ではできない、あるいは制度自体が存在しない、SNSに代表される情報環境、学習環境の大きな変化にあった「福祉教育」の意味を問うている。確かに現代社会の大きな問題は、近年の格差の拡大をきっかけに、自己責任論の横行や関係性の断絶、偏見・差別という現状を生み、その結果、価値観そのものが人により異なることや、地域課題の解決のためのゴールをどこにするかなどの合意形成が難しくなってきているということがある。評者も、極論すれば、著者が自明に使う「基本的人権」、「平和」、「社会正義の実現」という言葉に内包される意味や共通認識が分かりにくくなっていることを認めざるを得ない。社会のあらゆる分野でいわゆる「暗黙知」「共通イメージ」ということが失われつつあり、そのことが「福祉教育論」の現代的共通理解の妨げになっていると感ずる一人である。

第9章:「まちづくりと市民福祉教育」が拓く新たな地平

本章は、今日における思いやり的な「福祉教育」の実践内容や現場の問題点を整理・克服し、新たなあり方を模索した章である。40年近くに渡り「福祉教育」の研究者の一人としてその分野をリードしてきた著者の現代の福祉教育への「絶望の書」にも読める内容であるが、その逆の希望の書でもあろう。著者はそれらの多くある課題を、①理論的課題、②実践的課題、③哲学的課題の3つに整理して論述している。

それらの内容は、著者の言葉を借りるならば、理論的課題には「自立は依存先を増やすこと」(熊谷晋一郎)という新たな福祉観との抵触、実践的課題では相変わらずの教室内での実践(学習中心)の限界、哲学的課題では従来からの単なる共感的学習にとどまり、地域そのものを変革するという主体形成の視点がないことなどがあげられている。

福祉における「依存と自立」の理論的課題や実践的課題を深めるために、本書では小松理虔をあげている。彼は東日本大震災を経験した中で得た当事者か否かという分け方ではなく、「中途半端さ」を認めた関係上での「共事者」という概念を提起する。(いわゆる最近よく使われる「関係人口」ではなく)地域にあってもこうした緩い関係による「地域共生社会」を構想していることを著者は評価し、紹介している。哲学的課題については、奥田知志をあげている。奥田の問題意識は、現代では自己責任論のあげく「助けて」と気楽に言えない社会があるとし、「伴走型支援」として誰も一人にしないまちづくり、希望のまちづくり、「なんちゃって家族」のまちを目指していることなどを紹介している。著者はこれら二人(共事者の連帯,不可解性の受容)の交差点にこそ、まちづくりの新たな方向性がるとしている。著者によればそれは、自立から相互依存へ、さらにその依存の権利化をとなえ、慈恵的な思いやりでない闘争的な愛,共働的な愛の対置である。これができる社会が結果的に「インクルーシブ社会」になることは評者に首肯するところである。また、こうした相互のあり方を内実化させるために、著者は共感を大切にするが,その共感とは情緒的なものを超え、「他者に対して共に・関わり・関心を持ち続ける『共闘』意識の醸成である」と結論している(163頁)。

本章では他に、鯨岡峻の相互主体性も紹介されているが、関係性を上下でとらえるのではなく、それぞれが主体として機能する能動的な発展的な関係が説明されている。

 本章の「おわり」には、本書全体につながる結論として、「まちづくりと市民福祉教育」は「個人の内面を耕すという次元を超え、誰もが安心して依存し受援し合える地域共生社会を共創するための、自治的・共働的な社会変革の実践である」と結んでいる(171頁)。さらに173頁では、「教育の本質は、社会に厳然と存在する不条理や構造的課題を『生きた教材』として提示し、多様な価値観が交錯するなかで、『対話と共働』を継続させる場を保障することにある」ともしている。教師だけでなく、専門家、保護者、施設管理者等々に求められる視点でもあろう。

本書は、筆者が50年近く継続的にその実践・研究に携わってきた「まちづくりと市民福祉教育」の集大成である。市民福祉教育を支える歴史・哲学・原理の再考を狙いとした本書は、評者には正直なところかなり難解であった。しかし、まちづくりや福祉教育に関心のある者、福祉教育研究者、地域福祉の研究・実践に携わる研究者や行政マンには基本的知識としてぜひ読んで、部分的にも実践してもらいたい。