〇筆者(阪野)の手もとに、教育哲学者である苫野一徳(とまのいっとく)の『教育の力』(講談社現代新書、2014年3月。以下[1])がある。[1]は、「平等か競争か」「ゆとりか教え込みか」「教育は子どものためか社会のためか」といった二項対立的な、不毛な教育論争を乗り越え、より「よい」教育の本質とその実現方法――各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の実質化を達成するための「教育」のあり方を提示する。苫野にあっては、「すべての子どもたちに<自由の相互承認>の感度を育むことを土台に、<自由>になれるための<教養=力能>を育むこと」(239ページ)。そして、より「よい」社会を形成していくための力を育てること、これが教育の「本質」である。
〇本稿では、[1]のなかから、苫野の言説を構成するいくつかの鍵概念をメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。
<自由>と<自由の相互承認>
わたしたち人間は、「生きたいように生きたい」という欲望、つまり<自由>への欲望を持っている。わたしたちは、自分が<自由>になるためには、他者もまた<自由>を求めているのだということを、お互いに承認し合う必要がある。これを<自由の相互承認>の原理という。(17、20ページ)/すなわち、<自由>とは、自らが<自由>に生きるためにこそ、他者の<自由>もまた承認する必要があるのだということを、徹底的に自覚するところにある。<自由の相互承認>を十分に自覚した上で、自らができるだけ生きたいように生きられること、これが<自由>の本質、<自由>に生きるということの本質である。(22ページ)
公教育と<教養=力能>
公教育は、すべての人びとが<自由>に生きるために必要な“力”、つまり<教養=力能>を育むことで、各人の<自由>を実質的に保障するものである。(23ページ)/すなわち、公教育とは、「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の、<教養=力能>を通した実質化」。つまり公教育は、すべての子ども(人びと)に、<自由>に生きるための“力”を育むことを保障するものであると同時に、社会における<自由の相互承認>の土台となるべきものである。(24~25ページ)
教育政策と<一般福祉>
教育政策は、ある一部の人(子ども)たちだけの<自由>を促進し、そのことで他の人(子ども)たちの<自由>を侵害するものであってはならず、すべての人の<自由>を促進している時にのみ「正当」といえる。これが<一般福祉>の原理である。(31ページ)/(つまり、どんな教育政策も、一部の子ども(人)の自由だけを伸ばし、他の子どもの自由を犠牲にするものであれば正当化できない。すべての子どもの自由を促進する政策のみを「よい」とする判断基準・視座を<一般福祉>という。――引用者注)
知識基盤社会と「学力=学ぶ力」
現代は、モノの大量生産・大量交換が主流の産業社会から移行した、知識・情報・サービスが中心の、「知識基盤社会」である。(49~50ページ)/現代社会において求められる「学力」は、決められた細かな知識を忍耐強く“覚え込む力”よりは、必要に応じて必要な知識・情報を十全に自らのものとしていける「学び続ける力」である。(53~54ページ)/すなわち、現代の公教育が育成すべき「学力」の本質は、「学ぶ力」であり、「自ら学び続ける力」である。(58、61ページ)
「学びの個別化」と「学びの協同化」と「学びのプロジェクト化」
より「よい」学びのためには、学びの「個別化」と「協同化」と「プロジェクト化」の融合を図ることが必要である。(72ページ)/「学びの個別化」とは、一律的な学びではなく、自分の必要や興味・関心に基づいて自らのテーマを設定し、それぞれのペースで進める「自学自習」の学びをいう。「学びの協同化」とは、多様な子ども(他者)との対話や協働、教師陣の連携・協同による、相互の「学び合い」の学びをいう。「プロジェクト化」とは、自らの学習欲求や自らが設定した課題について、自ら思考し課題を探究・解決していく学びをいう。(85、93、113~116、122、125ページ)/学びのあり方・方法について、今、求められるのは、画一的・一斉型の学びから、「個別化」「協同化」「プロジェクト化」を基軸とした、これらの融合型としての学びへの転換である。(129ページ)
〇以上を要するに、苫野の『教育の力』は、<自由>と<自由の相互承認>を教育の根本理念に据え、その実質化のために<教養=力能>、とりわけ「学び続ける力」をすべての子どもに保障し、その具体的な学びのあり方として「個別化・協同化・プロジェクト化」の融合を構想したもの、である。
〇この(1)<自由>と<自由の相互承認>、(2)<一般福祉>、(3)<教養=力能>としての「学び続ける力」、(4)学びの「個別化・協同化・プロジェクト化」の融合、という一連の枠組みは、学校教育の理論であると同時に、住民が互いの<自由>を承認し合いながら共働的に「まちづくり」を進めるための、「市民福祉教育」の哲学としても読み替えることができる。苫野の教育論を学校の外へと拡張することは、「まち」そのものを、住民が学び合いながら自由に、生きたいように生きるための共存・共生の「場」として創り上げていくという、「まちづくりと市民福祉教育」の根本理念を哲学的に基礎づける試みとなり得る、といってよい。子ども・青年と高齢者、旧住民と新住民、事業者と生活者――それぞれの自由がぶつかり合う場だからこそ、<自由の相互承認>という感度が、「まちづくり<」の根本的な前提条件として求められる、のである。
〇こうした視座に立つとき、公教育の<教養=力能>論は、学校の枠を超えて「市民福祉教育」として読み替えることができる。すなわち「市民福祉教育」とは、すべての住民に<自由の相互承認>の感度を育むことを土台に、地域で他者と共に<自由>に生きるための力――福祉的リテラシーや合意形成の力、地域課題を学び続ける力などを育む営みとして定義し直せる。それは単に福祉の知識を伝達する教育ではなく、住民が互いの「生」のあり方を承認し合いながら、「まちづくり」を進めるための力を育む教育である。
〇学びのあり方についての言説も、「まちづくり」の実践に対応する。学びの個別化は、動員される参加ではなく、住民一人ひとりが自らの生活実態や関心から出発して地域に関わることに対応する。学びの協同化は、異なる世代・立場の住民同士、あるいは行政・社協・NPO・専門職との対話と協働(共働)による「学び合い」に対応し、地域包括ケアにおける多職種連携や多世代交流拠点はその実践の場そのものである。学びのプロジェクト化は、高齢化や孤立、空き家、防災といった地域課題を、住民自身が当事者として設定し、自ら探究し解決していく過程に対応する。すなわち、苫野が学校教育のために構想した学びの融合モデルは、その基本的な考え方を、住民主体の「まちづくり」の設計原理として読み替えることができる。
〇さらに、知識基盤社会論が示す「学び続ける力」という視座も重要である。地域が直面する課題は、住民それぞれに多様に現象化し、時代とともに変化し続ける問いである。従って、「まち」に求められているのも、住民自身が多角的に学び続け、地域を絶えず更新していく自己更新力に他ならない。
〇ただし、これらの「読み替え」には、筆者自身への問いとして留保しておくべき点がある。第1に、学校と地域社会とでは「強制性」の性質が異なり、この差を無視して転用してよいか。第2に、学校には教師という明確な権威・専門性を備えた主体が存在し、「協同化」はその教師陣の連携を含むものとして構想されているが、「まちづくり」において教師に相当する主体は誰なのか。第3に、学校教育には「学力」という(相対的に)共有された評価基準があるが、「まちづくり」における「成果」は何をもって測るのか。第4に、地域社会は学校のクラスのような同質的な年齢集団ではなく、世代・立場・利害の大きく異なる住民の集合であり、<自由の相互承認>は現実の利害対立にどこまで実効性を持つのか。これらに留意したい。




