阪野 貢 のすべての投稿

正しく生きよう

確かなことは 
今世紀最大危機が 世界を襲ったことだ
誰かの不幸が 慰められるのではなく 
責められることに なぜ苦しめられるのか
仕方なく子どもを預け 
現場に立つ 医療者たち 福祉人たち 
危険を承知で いまも働く
あまたの人が 苦渋に満ちた決断を強いられる 
そこに 冷ややかな目線と差別の言葉が 
無慈悲にも 胸を突き刺す

いつも 
こうして排斥してきた
民の哀しくむごい歴史が 繰り返される
危機に遭遇して 
その人間の卑しき本性が 見事に現れるコロナ禍
歯を食いしばり 怒りを抑えて 寛容を示そう
そうしなければ あまりに切ない世の中だから
生まれてきたわけに いまはただ心を砕こう 
人として生きる座標軸を 失わぬようにするために
日本国憲法の下で 正しく生きよう

〔2020年5月3日書き下ろし。心ない中傷が後を絶たない。それでも現場で頑張る人たちが、人としての生き方あり方を示し続ける。憲法は人権を護れるのか〕

携帯が手放せない

新米ママは 育児で悩む
公園デビューも 果たさぬうちに
コロナ禍で 外出自粛が広がった
頼りにしている実家の母は スマホじゃない
テレビ電話で話せたならと ないものねだり
東京からは 呼び寄せできぬ 
育児の相談 顔見てできる相手もおらず 
携帯で検索かけて 情報収集
世の中の不安と 育児の不安のダブルパンチで 
今宵も眠れぬ夜を 迎える
連れは テレワークなど無縁の会社で働きずくめ
疲れ果て 育児パパなどどこかの世界の夢物語
薄明かりの中で 静かに吐息を吐く乳飲み子に
起こされるまで しばしの添い寝が 今日のお駄賃

スマホで ラインのやり取りするのが 一番の慰め
誰かとつながっていないと やりきれない
いつ明けるともわからない コロナ禍の重苦しい空気を
せめて 誰かとつながることで 不安を払いのけたい
家族の無事や 友の無事を確かめたくて 
世代を問わず つながることで 心の不安と負担を軽くする 

入力が 絵文字ばかりじゃつまらない
元気? 大丈夫? と尋ねて 絵文字で戻るOKマーク
だから 声聴くことが一番と
長電話無料契約を有効活用
携帯を 耳に長時間当てるのは 無謀なこと
だからスピーカにして あたかもそばにいるかのように
お茶しながら 四方山話に 花を咲かせる

携帯の 人をつなぐ大きな力
携帯で 人がつながる確かな喜び
携帯がなければ 
もしかして ひとり残され 不安に駆られているかも
携帯があれば 
もしかして 誰かと一緒に この惨禍を乗り越えられるかも

だから携帯で 思う存分おしゃべりを楽しもう!
きっとそれが いま求められる新しいきずなづくりかも
 
〔2020年5月1日書き下ろし。私はガラ系。妻はスマホを充分活用している。80歳の師が一昨日スマホに代えたとメールがきた。このブログも今日操作を覚え見られるようになったとメールがきた。現代を生きる師にすでに置いていかれる〕

道産の食と人を誇る

2月 ビニールハウスで育てられた 知内産のニラが出荷された
しゃぶしゃぶが 一番シンプル 甘みも抜群 ポン酢でいただく
道産豚の餃子の具にすると 香り立ち 食欲をそそる
十勝の大豆を使った 中札内村産の木綿豆腐を湯豆腐にして 
そこにニラを入れるのは 我が家の定番
当然出汁昆布は 北の離島の礼文昆布

米は メジャーになった〈ゆめぴりか〉
あきたこまちや新潟のコシヒカリにも 匹敵する
10年来長沼町の米農家から直接購入 
自宅の小さな精米機で 食べる分だけ精米する
炊きたては おかずいらず
塩むすびなら 米のおいしさを見事に引き出す

コロナ禍は 道内の食料生産と供給を 窮地に陥れる
すすきのの歓楽街や 市内の多くの飲食店の灯が消えると
消費されることなく残され 市場は機能不全を起こす
だから 酪農業は生産調整するか 出荷をセーブする
漁師は それが難しい
旬の魚を獲らねば 暮らしが立たない
冷凍可能な魚もあるが やはり旬で味わいたい
4月 群来のニュースが流れた時には こころ踊った
さっそく市民生協コープで物色し 数の子が入ったニシンをゲット
いつもなら 白子で膨らんだオスが並ぶ
数十年ぶりに 軽く塩を振った焼きたてを しみじみと味わった   

札幌円山公園のサクラ開花宣言の前日 みどりの日
近くのスーパーマーケットで 旬の魚を求めた
苫小牧沖の大きな子持ち黒ガシラ 破格の値段!
煮付けにしよう
増毛の浜で上がった甘エビ 
炊きたてのゆめぴりかの上に並べて 生甘エビ丼にする
生寿司のパックに 目がいった
毛ガニ いくら ボタンエビ ホタテ ホッキ貝 シャケ など
ついでに 大好きなイカの塩辛が安かった 
お茶漬けの具材に 重宝する
森町に単身赴任で暮らしたときには
「イガー、イガー」と 
朝っぱらから イカ売りのスピーカーで起こされる
鍋を抱えて走り イカ売りの車を探す
朝から イカそうめんにして食す
イカゴロや足や耳は 塩からの具材にするか 
塩を振って冷蔵庫に放っておき 夜バターで炒めて酒の肴に変わる
近年イカの不良で 塩辛も高くなった
いまは 新鮮なイカを買うのも躊躇する

コロナ禍で 意気消沈してられない
気力と体力を維持しアップさせるには 北の海の幸が一番
買い込んだ食材で 久しぶりの贅沢を決め込む
食卓に並んだ 海の幸を肴に
酒は釧路の地酒福司 
2月に会った釧路の友からの贈り物
妻の優しい味付けに 煮付けた黒ガシラは絶品 唸る
デザートは 隣町の江別の洋菓子店
〈ガトー・ド・ノポロ〉のゆりねのモンブラン 
上品な甘さと口当たりのいいやわらかさ
お店で二人で食べれば 1万円では足りないリッチな食事
外出自粛で 自宅での楽しみ方が一つ増えた
いい気分転換になった 

道産子でよかった
新鮮な食材が 身近に豊富にあることに尽きる
その食材を用いた 料理のバラエティーは半端ない
生産者の地道な研究と労働に支えられ 
多くの調理職人の味覚と創造力 そして確かな技によって
食する喜びを 与えていただく
彼らが決して 窮地に陥らぬよう 
北の食文化が 未来永劫豊かに紡がれるよう
祈らずにはいられない
 
いただいた食材の命に感謝
食材を精魂込めて 市場に送り出した方々に感謝
それを食品加工したり 搬送し販売する方々に感謝
さらに食に関わる 全ての人に感謝
そして コロナ禍で一日を無事終えたことを
妻と共に感謝したい

食する事への感謝とは 
いま生かされている喜びを 強く心に刻むことでしかない

〔2020年5月1日書き下ろし。道産の食と人を自慢したい。それが活力の源であることは間違えない。命と暮らしを支える皆さん、コロナ禍に負けず頑張ってください!〕

現代政治用語集

〈長期政権とコロナ禍〉
いつか 民からつけがまわるのではなく
先に 民につけをまわすこと

〈井戸塀の政治家〉
金と権力にたかる しがない者たちとは
縁もゆかりもない 夢の政治家

〈記者会見〉
借り物の言葉で 民への不誠実さを
つまびらかにするところ

〈予算委員会〉
よさんかいと言われるくらい
いい年こいた議員たちが 
スキャダルを 真剣に暴こうとするところ
相手も暴かれぬよう 必死にこらえ強弁する
楽しいバトルは 民心をゴシップ漬けにして
民意のレベルを下げることに 力を注ぐところ 

〈国会議員〉
上級国民の最たるおひと
世渡りと集金力に長けた 選ばれたおひと
いまは血筋がものをいい 親の地盤を継ぎしおひと
仕事はしなくても 仕事が出来なくても
席を温めているだけで 仕事のふりができるおひと
身を切る歳費カットは 好まぬおひと

〈国会〉
立法は 質より量の数の論理が横行し
常に 数に勝る党が制するところ
議論は飾りで 民意は及ばぬ 立ち入り禁止ゾーン
国会中継は うまく演出された出来合いレース
だから 余計に民心は遠のき 
してやったりのしたり顔は 誰がするのか 
おわかりでしょう

〈政治資金〉
国会議員選挙の時に必須な金
公示前に 地元の有力者に現金をばらまいても
罪には問われない クリーンな資金も含まれる
1億5千万円の政治資金を元手に戦った 
注目度も高い 広島の元法相の一件 
検察の度胸試しに 乞うご期待!

〈選挙区〉
選挙の時だけクローズアップされる 地盤というところ
お金と地位を生み出す 美味しいところ
品格を問われるほどの悪さをしても 
支援者は見限らない 居心地のいいところ

〈長期政権〉    
次代を担うに相応しい人材が 誰もいないこと
代わり映えのしない面々が居並び 
ダラダラと歳を喰いながら 互いに称え合い 
不気味に常態化した 異様な集団

〈族議員〉
政策課題に特化した委員の集まり
大企業や特別な政治団体からの
潤沢な政治献金を当てにして
おこぼれにあずかる者たちも 属(族)する

〈与党と野党〉
議員の数の違いで 色分けされる
金回りがいいと 人も集まり与党となり
金回りが悪いと 野党のままでいるしかない
だから趣旨替えしてまでも 与党に鞍替えする
これを裏切りとは言わず 時流に乗るという

〈女性議員〉
女性の議員の割合は 世界でも最低レベル
ただ 市川房枝さん 土井たか子さんとは
究極にいて 勘違いする者も少なくない
女性タレントで票集め 
愚策を続けることしか能がない
これは 男社会の限界か

〈適材適所〉
めぼしい人材のいないことを 
かばうかに見せて 暗に認めること

〈未来志向〉
コロナ禍の いまはさておいて
当てにならぬものを 信じ込ませようと
未来に希望をと ただ見させるだけのこと
見せ金もどきの 不毛な願望志向

〈前例踏襲〉
コロナ禍の 緊急事態に対応できずに
持ち出しては 笑われる死語

〈10万円の一律給付〉
1万円は 天引き消費税
実質9万円
あくどい商人もどきの やり口 だまし討ち

〈責任は私にある〉
決して責任をとらない 反意語
ごまかし はぐらかし 言いつくろうスキル
身につけていなければ 
トップの座には 居座れない
神輿は タダでは担がせない 
忖度させる政治力
責任は私にあると発して従えさせる
不思議な呪縛の言葉

〈政治判断〉
知見なく 科学的根拠にも乏しく
熟考していたと さも見せかけた独断専行
判断を誤れば 取り巻きが尻拭いをさせられる

〈政治力〉
金力と支配力
情報力と隠蔽力
多数決の乱用力と異見無視力

〔2020年4月29日書き下ろし。現代政治事典風にご時世を論じて見ました。ただ虚しさが募ります。いつか呪縛が解かれますように〕

新人介護士たちよ

懸命に いま為さねば成らぬことに取り組む
いまさら弱音は吐けない 吐かない
命じられ指示されたことを こなすだけで精一杯
命と暮らしを 支えることの厳しさを
笑みを絶さず 折れそうな心を追い払い
んっと 両足突っ張って 今日も踏ん張る

昨日と変わらぬ 無事な一日
ホッと 心を和ますことで
奪われそうになる 平常心を必死に守る
おいそれとはくじけない 強い心が芽生え育つ
かなわぬ先輩の働く背中を見て ついてゆくだけ
関わる人へのケアは 手抜きできない介護の職責
元気で気丈に生きる盲老人から 笑顔のプレゼント
喜んでいただくことこそ 乗り切る活力の源
嬉しくて 頑張る自分を褒めてあげたい
そう新人よ 君たちの頑張りこそが 希望なのだ

まごころを尽くすことを 学び続ける
健気にも この非常時に身体を張る新人たち
泣きたいときも 苦しいときもあるだろう
嫌なことも 行きたくないときも きっとあるだろう
存分に腹の内を隠さず 上司に先輩にぶっつけよう
そう新人よ 負けないぞと こころひとつにするために

〔2020年4月29日書き下ろし。養護盲老人ホームでは、耳からの情報しか入らない。丁寧な情報提供とストレスの発散を、介護士に求められる。老人福祉施設のクラスターが広がっています。ガンバレ! 全国の新人介護士! お願いします先輩介護士!〕

腰痛と老化準備学習

朝いつものように顔を洗う
突然ビビッと神経的な痛みが走る
腰が砕け その場にうずくまる

その朝から 布団と友だちになった
処方された痛み止めで 小康状態
椅子に座る姿勢が 鬼門となった
ノートパソコンを タブレット入力に変え
寝床で パソコンを胸元に置いて
タッチペンで 一文字一文字叩く
入力スピードは 格段に落ちるが
退屈な寝床での作業も 
これはこれで  愉しめる

近い将来の 良き疑似体験
座るという日常動作が 不能となれば
食べることさえ 苦痛に変わる
立つか寝るしかない
頭と指が動くうちは
リクライニングベッドの上で 読んだり書いたりするしか
余生の楽しみはないだろう
音声入力も魅力ではあるが
滑舌が悪くなると予想して 誤字がきっと多くなる
最終手段に残しておいて
まずはボッコ打ちに慣れておこう

老いの道半ばでの準備は
機能低下の その時になっては遅すぎる 
習得までには 手間と体力と時間がかかる
いまから最悪の事態に備えて
身体に覚え込ませることが 老化準備学習

腰痛は ポジティブな老化準備学習プログラムを提供する
腰痛で 当たり前の暮らしの有り難さを痛感する
腰痛が 行動制限をかける厳しさを味わおう

腰痛は 時間をかけて 薬と治術とストレッチでいずれ快復する
ただ 人はいかに現金な生きものかを よくわきまえている
だから 痛みに見合う老化準備学習を続けることが 課題となった 

いま世界を席巻しているコロナ禍は 叡智そして仁心を失った
傲慢な人間世界への 自然の脅威そのもの
だから その痛みに見合う共生共存への学習と対策が 喫緊の課題となった

〔2020年4月28日書き下ろし。遅筆です。痛みから何を学び生かすのか。私利私欲を離れ、人それぞれが学びの本質に迫ることが重要ではないだろうか〕

学費を稼ぐ

シフトは 夕方17時からだった
パチンコ店の閉店は23時半
帰宅はいつも 夜中の2時を回った
朝起きられなかった
2講目の終了間際に顔を出した
後輩たちは いぶかるようにして見ていた
昼休み 補講した

バイトで学費も生活費も稼いでいた
決して遊び呆けていたわけではない
無理がたたった
卒業は 単位不足で半年延びた
余計な学費の出費がかさんだ
もしも単位が取れなかったら
さらに 半年留年になる
自分でまいた種とはいえ 厳しい日が続く
授業の最終日 卒業できそうだと
安堵の顔を浮かべた

親に負担をかけまいと バイトに比重をかけて
本分を危うくする 苦学生
卒業までの苦労が 人生の糧になると
そう信じて働く 苦学生
卒業後の 人生設計に夢を馳せ
自らを鼓舞する 苦学生

コロナ禍で 
バイト先を失い 路頭に迷う
学費も生活費も 稼ぐ算段が閉ざされた
コロナ禍で
大学にも行けず 授業も受けられず
授業料だけが 徴収される
コロナ禍は
人生設計の変更を 余儀なくさせて
休学・退学のカードを ちらつかせる
大学教育の根幹が 揺らいできている

緊急事態に対処できず オロオロと
後手後手の 目に余る対策ばかりの無能な政府 
口当たりのいい事に いいように惑わされて
学生の向学心と向上心を ないがしろにする
学生のいまと未来を 封じ込める 
学生の政治への関心と不信を 呼び起こす
  
学生諸君
政治に目覚めよう
現実に起こっている苦難から 目を背けてはならない
貧富の格差で 大学を追われる仲間が出るような事態に
無関心であってはならない
政治家の怠惰を直視せよ
政権与党の傲慢さを追求せよ
野党の無力さに言及せよ

学生諸君
想像力をたくましくして
いま命を守る最前線で 命がけで奮闘する
多くの人たちへの 感謝の念を強めよう
あたたかく感謝のことばを添えよう
学ぶことも遊ぶこともできぬ子どもたちへ 
あたたかいまなざしを向けよう

学生諸君
いま学びは 社会の中に満ちている
〈生きること 死ぬこと〉の意味を問う学びが ここにある
感受性を研ぎすまし いまこそ学びの本質に触れよ

大学人よ
学生を いまこそ学びの本質へと導かれよ

〔2020年4月27日書き下ろし。国のその場しのぎの対策が学生を圧迫する。大学人も傍観してはならない事態では?〕

付記
「学費が稼げない 飲食店や塾、バイト先相次ぎ休業 国に支援求める動きも」
新型コロナウイルスの感染拡大で休業要請が広がる中、大学生の主なアルバイト先だった飲食店や学習塾の経営悪化や休業が相次ぎ、自力で学費などを賄う道内の大学生が追い詰められている。(中略)
道東出身で、実家はパソコンなどの機器修理を行う自営業。個人客との対面業務がほとんどなくなったことで業績は悪化しており、「仕送りで親に負担はかけられない」。大学をやめなければいけないのか…。最悪の想定も頭をよぎり、男性は「バイト頼りの学生にとって死活問題」と話す。
今年4月に長男が道外の大学に進学した空知管内の男性(50)は、経営する飲食店の3、4月の売り上げが、新型ウイルスの影響で半減。長男の学費や生活費は、進学用の貯金で賄っているが、「従業員の生活を考えると、このまま先が見通せなければ貯金に手をつけることになるかもしれない」。男性は「自分の最終学歴は高卒で苦しい思いもしてきた。息子は大学を出させてあげたい」と涙ぐむ。
大学生が自ら国に支援を求める動きも出てきている。石狩市出身で早稲田大政経学部3年の高橋ゆいさん(20)は13日から、《1》経済的に困窮している大学生の支援《2》帰省できずに自宅で孤独になっている学生の精神的ケア―を求めるインターネット上の署名活動(http://chng.it/g88TR4KpVK)を開始。10日間ほどで4500筆を超える署名が集まり、24日には文部科学省などに提出した。高橋さんは「全国の大学生は政治に関心を持って自ら声をあげてほしい」と呼び掛ける。
大学生のアルバイト事情に詳しい北海学園大の川村雅則教授(労働経済学)は「生活のためバイトに依存せざるを得ない学生は多く、休業補償もないまま勤務日数を減らされると、学ぶ機会が奪われかねない。生活支援金の給付や学費の延納・分納を進めるなど、大学や国が支援する仕組みが必要だ」と話す。(北海道新聞 2020年4月27日)

自然死

寿命だったとあきらめたい
盲腸もとうの昔なら 命尽きていた
いまの時代の寿命とは
医療の手を尽くしても
延命治療も万策尽きて 快復不能
その尽くし方が 問われてる

高度な医療機器と専門の医療者との
マッチングがなければ
手遅れと言われて あきらめる
助けられたはずだと あきらめきれずに 地団駄を踏む
それでもそれが 命の定めと受け入れて
寿命が尽きたと あきらめる

何の予兆もない突然死 
残された者には 
強烈な茫然自失の感情の後に 深い悔恨が襲う
どうすることもできない 無常と無情の感情に導かれ
定められた寿命だと あきらめさせる

コロナ禍は
死に逝く者にも
死を送る者にも
大きな禍根を残して
現世に生きること 死ぬことの意味を
悲歎のうちに問いかける

過去病原菌により
幾多の大量死をもって
その制裁を受けてきた人の世も
長い闘いの果てに
医療科学•技術の発達と 医療者への信頼により
病原菌の根絶や その共生を実現し 
長寿社会を獲得してきた

新型コロナは 移動する人を媒介に
世界中に撒き散らかした
医療だけではなく
経済も 産業も 教育も 福祉も 
みな機能低下と機能不全を起こし
もとの暮らしには戻れないほどの
痛烈なダメージを 与え続ける
収束の見通しすら 全く立たない
厳しい試練の連続と負の連動

人の死は 個人の死ではなく 
社会を構成する人の死となった
新型コロナによる 人智の及ばぬ自然の猛威に平伏し
自然死として 受け入れなければならないのか
それでも 幾多の犠牲を乗り越える道筋に
自然から授けられた 変化に強靱に対応する
人類の生命力が 蘇ってくるのだろうか
この危機を読み切れない ジレンマからの脱出は
人間のたゆまぬ叡智しかない それしかない
それを どのように結集するのか

自国の利欲に凝り固まった
米中ロシアの権化が統治する 世界であってはならない
消毒液まで飲まそうとする 狂った指導者に追従する
日本の腰巾着もどきの指導者も 覚醒し覚悟せよ
うそいつわることなく 公正明大な言動を示すしか道はない
その覚悟なくして 右往左往するだらしなさが
いっそう不安と恐怖を増幅させ 亡国の僕となる
世の政治家よ その政治生命をいまこそかけよ

コロナ禍の病死が 自然死としてカウントされぬよう
最善の対策を取るには 前代未聞の事態への
最悪を想定した想像力こそ求められる
その信託に応えるのが 政治家本分たれと知るべし
その姿カタチは いま全く見えないのは
安全地帯へ 待避しているからか
なにもせぬなら バッジを外せ
いやがおうにも いま頼れるのは
情けないほど 劣化した者たちしかいない
これが戦争に比する 残酷な事実である

〔2020年4月26日書き下ろし。腰痛を再発。半年ぶりに寝ながら執筆。書くことでポジティブになれるのは幸いだ。辛口は痛みにより辛辣になる〕

あほらしくってやってらんねーよ! とはいえ:「定常型社会」と地域コミュニティ―広井良典の「定常型社会論」を読む―

〇真に国民の命と生活を守る結果を生まず、「差別と憎悪と分断」の社会・ニッポンを生んだ、耳障(みみざわ)りのいいスローガン政治を推し進める安倍政権。民主主義を揺るがす犯罪的行為を組織的・連鎖的に続ける安倍政権。思い起せば、「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」という主要閣僚の発言(2013年7月)。そしていま、江戸時代の飛脚が運んでいるのではあるまいが、10万円の給付金も2枚のマスクも届かない。枚挙にいとまがない。筆者(阪野)は、「あほらしくってきいてらんねーよ」と思い続けてきたが、厚顔無恥(こうがんむち)な安倍政権もコロナ禍でいよいよレームダック(死に体)化している。そんななかで、地方自治体に注目すべき動きもあり、極めて楽観的ではあるが、日本社会が「変わる」方向に一歩踏み出すかもしれない。とはいえ、コロナ経済危機や社会・生活の破綻が怖い。「がんばろうニッポン」の全体主義(「私権制限」など)も怖い。
〇地方で暮らす筆者にとって、年度替わりが近づくと、心臓が規則正しく鼓動し肺でゆっくりと呼吸をする「静かな時間」が、多少とも揺らぐ。過日、地区の高齢者の寄り合いに参加した際、求めに応じて自分の意見を開陳することになった。話の途中で、寄り合った人たちの心模様が頭をよぎった。「空気」が支配する地域コミュニティのなかで、①歴史や文化の継承・発展や経済や生活の拡大・成長に貢献してきたという思いから、昔ながらの「つながり」(関係性)にこだわり、その制度やシステムを守ろうとする人がいる。②なるようにしかならないという思いから、ひとまず様子見して大勢に従い、いまの「つながり」をやむなしとして、それらしく振舞う人がいる。③精神的な豊かさや生活の質的充実を志向・実現したいという思いから、その時の流れやその場の力関係に異を唱え、新しく「つながり」を組み換えようとする人がいる。
〇今回の寄り合いも、何代にもわたって住み続けている①の圧勝、外部から移住してきた移住一代の③の惨敗で終わった。旧住民であれ新住民であれ、自らを「一般住民」や社会的地位(階層)の中位層に位置づけている②はいつも、賢い処世術で利口に日和る(ひよる)。これが、筆者が暮らす地方都市(人口約8万8,000人、過疎区域含む)の中心市街地の周辺地域(地区)の現実である。
〇蛇足ながら、その寄り合いでは、筆者の話に対して「大学の先生だったかもしれないが‥‥‥」という、聞こえよがしのつぶやき(嘲笑と愚弄)があった(本ブログの<雑感>(46)2017年4月24日投稿、を参照されたい)。「梯子(はしご)を外される」(梯子はかかっていなかった)、「出る杭(くい)は打たれる」(出る杭は抜かれる)ことも二度三度。さすがに「あほらしくってやってらんねーよ」。いまだに「世間」の「空気」が読めない自分がいる。そうであっても、「我がまち・我がこと」(さすがに「丸ごと」とはいかないが)である移住一代(筆者)が住むこの地域・社会は、持続可能か?
〇いま、ここで、これまでの自分とこれからの自分を精一杯生きるしかない。そんなことを思いながら、「定常型社会」を提唱する広井良典(ひろい・よしのり。京都大学こころの未来研究センター)を読み返すことにした。筆者の手もとには、広井が書いた本が7冊ある(しかない)。

(1)『定常型社会―新しい「豊かさ」の構想―』(岩波新書)岩波書店、2001年6月(以下[1])
経済不況に加え、将来不安から閉塞感をぬぐえない日本社会。理念と政策全般にわたる全体的構想の手掛かりは何か。進行する少子高齢化のなかで、社会保障改革はどうあるべきか。広井は本書で、資源・環境制約を見据えて、持続可能な福祉社会のあり方を論じながら、「成長」にかわる価値の追求から展望される可能性を提示する。(カバー「そで」より)
(2)『グローバル定常型社会―地球社会の理論のために―』岩波書店、2009年1月(以下[2])
環境問題が深刻化し、またグローバル化の進展にともなって格差が拡大するなかで、地球規模での福祉社会の実現をいかにしてめざすのか。広井は本書で、有限な地球社会において持続可能な福祉社会の実現をはかるには、経済成長を絶対的な目標としない、環境・福祉・経済を統合した新たな社会モデルを構築することこそが必要であるとする。そして、「グローバル定常型社会」という新しい世界像を提示し、かつローカルなレベルからの実現の方途を示す。(カバー「そで」より)
(3)『コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来―』(ちくま新書)筑摩書房、2009年8月(以下[3])
戦後の日本社会で人々は、会社や家族という「共同体」を築き、生活の基盤としてきた。だが、そうした「関係性」のあり方を可能にした経済成長の時代が終わるとともに、個人の社会的孤立は深刻化している。「個人」がしっかりと独立しつつ、いかにして新たなコミュニティを創造するか――この問いの探究こそが、わが国の未来そして地球社会の今後を展望するうえでの中心的課題となる。広井は本書で、都市、グローバル化。社会保障、地域再生、ケア、科学、公共政策などの多様な観点から、新たな「つながり」の形を掘り下げる。(カバー「そで」より)
(4)『創造的福祉社会―「成長」後の社会構想と人間・地域・価値―』(ちくま新書)筑摩書房、2011年7月(以下[4])
「限りない経済成長」を追求する時代は終焉を迎え、人類史上三度目の「定常期」に直面している。飽和した市場経済のもとで社会は、「平等と持続可能性と効率性」の関係をいかに再定義するべきか。「拡大・成長」のベクトルにとらわれたグローバル化の果てに、都市や地域社会のありようはどう変化するのか。そして、こうした「危機の時代」に追求される新たな価値原理とは、人間と社会をめぐる根底的思想とは、いかなるものか。広井は本書で、再生の時代に実現されるべき社会像を、政策と理念とを有機的に結びつけ構想する。(カバー「そで」より)
(5)『人口減少社会という希望―コミュニティ経済の生成と地球倫理―』(朝日選書)朝日新聞出版、2013年4月(以下[5])
高度成長期の発想や価値観の枠組みの中で、あるいはその延長線上で物事を考える限り、人口減少社会は敗北あるいは”衰退”に向けた進行としか考えられない。しかし、新たな視座で状況を見るとき、それはむしろ全く逆に、日本社会が真の豊かさを実現していくことに向けての大いなる道標として立ち現れる。広井は本書で、「ポスト成長」の時代において浮上する様々な課題や方向性を、コミュニティ、ローカル化、まちづくり、都市・地域、政治、社会保障、資本主義等々といった多様な話題にそくして論じる。そして、これからの時代において問われてくる理念や価値、あるいは世界観のありようを、「地球倫理」というコンセプトを軸に展開する。(15、16ページ)
(6)『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来―』(岩波新書)岩波書店、2015年6月(以下[6])
冨の偏在、環境・資源の限界など、なおいっそう深刻化する課題に、「成長」は解答たりうるか。広井は本書で、近代科学とも通底する人間観・生命観にまて遡(さかのぼ)りつつ、人類史的なスケールで資本主義の歩みと現在を吟味する。そして、定常化時代に求められる新たな価値とともに、資本主義・社会主義・(人間と自然・環境との相互関係を考える)エコロジーが交差する先に現れる社会像を、鮮明に描く。(カバー「そで」より)
(7)『人口減少社会のデザイン』東洋経済新報社、2019年10月(以下[7])
現在の日本社会は「持続可能性」という点において”危機的”と言わざるをえない状況にある。①財政あるいは世代間継承性における持続可能性(「経済成長がすべての問題を解決してくれる」という思考が根強い)、②格差拡大と人口における持続可能性(若者に対する社会保障等の支援がきわめて手薄であり、若い世代の雇用や生活が不安定になっている)、③コミュニティないし「つながり」に関する持続可能性(日本は人々の社会的孤立度が高く、それが家族あるいは自分が属する集団以外の”他人”への無関心や他者との支え合いへの忌避感を生んでいる)、などがそれである。広井は本書で、これらの問題の所在と今後の方向性を大きな視野に立って、かつ分野横断的な視点からクリアにする。そして、「持続可能性」や個人の創発性に軸足を置いた社会のあり方に転換するための具体的な方策や対応、理念、時代認識について提起する。(15~21、310ページ)

〇以上のうちから本稿では、[1][3][7]の3冊の本から筆者なりに再認識しておきたい言説や論点のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。[1]は広井「定常型社会論」の原論である。[3]は新たなコミュニティの創造を問う必読書であり、[2]とセットをなしている。[7]は[1]から[6]の延長線上にある。

(1)『定常型社会』岩波書店、2001年6月([1])
定常型社会とは、「高齢化社会」と「環境親和型社会」を結びつける概念である
閉塞感が現在の日本社会をあらゆる局面において覆っている。その背景の根底には、戦後の、あるいは明治期以来の日本が一貫して追求してきた「(経済)成長」ないし「物質的な富の拡大」という目標がもはや目標として機能しなくなった今という時代において、それに代わる新たな目標やを価値を日本社会がなお見出しえないでいる、というところに閉塞感の基本的な理由があるように思われる。(ⅰページ)
「定常型社会」とは、さしあたり単純に述べるならば、「(経済)成長」ということを絶対的な目標としなくとも十分な豊かさが実現されていく社会ということであり、「ゼロ成長」社会といってもよい。(ⅰページ)
「定常化社会」は、基本的には、経済成長の究極の源泉である需要そのものが成熟ないし飽和状態に達しつつある、ということであるが、関連する重要な要因として次の二点がある。
第一は、高齢化ないし少子化という動きと不可分のものとして、人口そのものが2007年をピークに減少に転じるということである。第二は、環境問題との関係である。資源や自然環境の有限性が自覚されるようになり、経済活動それ自体の持続性ということを考えても、経済の規模の「定常性」が”要請”されるようになった。このように、定常型社会とは実は「高齢化社会」と「環境親和型社会」というふたつを結びつけるコンセプト(概念)でもある。(ⅱページ)

定常型社会を三つのレベルで捉え、これからの社会の姿を構想していく必要がある
定常型社会という社会像を考える場合、次のような三つの意味(ないし定義)がある。
第一は、「マテリアルな(物質・エネルギーの)消費が一定となる社会」という意味での定常型社会である(「脱物質化」としての定常型社会)。消費や経済の「情報化」、つまり「情報の消費」(モノそのものよりデザインや付加価値に主たる関心が向けられるような消費)の定常化や「IT」(情報技術)化によって、経済そのものとしては「成長」を続けるという社会である。(142~143ページ)
第二は、「(経済の)量的拡大を基本的な価値ないし目標としない社会」という意味での定常型社会である。「量的拡大」よりも「質的変化」に主たる価値が置かれるような社会と言い換えてもよいし、GDP(国内総生産)などが増加しない「ゼロ成長社会」という姿ともつながっていく。(144ページ)
第三は、「〈変化しないもの〉にも価値を置くことができる社会」という意味での定常型社会である。ここで〈変化しないもの〉とは、たとえば自然であるとか、コミュニティであるとか、古くから伝わってきた伝統行事や芸能、民芸品等々といった意味である。(145ページ)

定常型社会は自ずと、社会の分権化(分権型社会)ないし分散化(分散型社会)を導くことになる
日本(特に戦後の日本)がきわめて中央集権的な社会となっていったのは、他でもなく「(経済)成長」という日本社会全体の目標と不可分のものであったと思われる。つまり「成長」という(国家あるいは国民挙げての)目標を達成するために、各種制度や経済システムその他すべてが強力かつ一元的に編成されたのであり、中央集権化はその自然な帰結であった。「成長」という目標に向けて社会全体がきわめて「求心的」なものになったのが戦後の日本社会だったのである。
逆にいえば、「成長に向けての社会全体の編成・統合」という強い推進力ないし求心的な目標が(これまでのように)機能しなくなれば、社会が「中央集権的」でなければならない理由はどこにもなくなるのである。その意味で、定常型社会は自ずと社会の分権化ないし分散化を導くことになる。(164~165ページ)
逆にいえば、このことを抜きにして(つまり「成長」が日本社会全体の目標であるという価値観を維持したままで)いくら「地方分権」を論じてもそれは表層的なものになるだろう。裏返していえば、分権型ないし分散型社会というものは、「定常型社会」という社会全体のイメージとセットで考えてはじめて、より豊かでのびのびとしたものとして再定義されるのではないだろうか。(165~166ページ)

定常型社会へのソフトランディングが、新しい「豊かさ」のかたちをつくるのである
いまの日本社会に何より求められているのは、第一に「成長」後の社会の構想としての「定常型社会=持続可能な福祉国家」のビジョンであり、第二に現実的なプロセスとしての、各政党による「理念と政策」の提示と、それによって可能となる「価値の選択」をめぐる議論である。日本の場合、成長のカーブが急傾斜だったぶん、「定常化」への移行の”落差”は他の先進諸国に増して大きく、経済社会システムから人々の価値観に至るまで、それは困難をきわめる課題であろう。が、閉塞状況を抜け出す途が、「成長」のあくなき追求ではなく、「定常型社会へのソフトランディング」にあることだけは間違いない。
そしてその先に、あるいはそのプロセスのひとつひとつの歩みの中に、私たちの新しい「豊かさ」のかたちは確実に存在しているのである。(179ページ)

〇要するに広井にあっては、日本の経済・社会は「拡大・成長」志向から「成熟化・定常化」へと転回している。「定常型社会」は、「退屈で停滞的な社会」(153ページ)ではなく、真の意味での「豊かさ」を実感できる「持続可能な福祉国家/福祉社会」として構想される。それは、「個人の生活保障がしっかりとなされつつ、それが資源・環境制約とも両立しながら(資源や自然環境の有限性を自覚しながら)長期にわたって存続しうる社会」(ⅵページ)の姿のことである。そこでは、学習・文化・スポーツ・レクリエーションや「ケア」(介護、保育、健康・医療、福祉、教育、等々)、さらには「自己実現」に向けた学習・教育・趣味などに時間が消費される(「時間の消費」)。この点が[1]における本質的な論点のひとつである。
〇なお、広井は、[2]から[7]のそれぞれにおいて、人類史のなかの「定常型社会」について「概念図」を示して説述している。そこでは、要するに、「人口や経済の量的な拡大・成長の”後”の時代に、真に豊かな文化的な革新が生じる」([7]161ページ)。定常期は、「真の意味での各人の『創造性』が発揮され開花していく社会」であり、「文化的創造の時代」([4]46ページ)である。しかもそれは、人類の歴史の「長いタイムスパンをとればむしろ”常態”ともいうべきあり方であり」([2]130~131ページ)、現代という時代は人間の歴史のなかで「第3(3度目)の成熟・定常期への移行期」([7]161ページ)である。
〇ここで、[3]と[7]における概念図を参考のために供しておくことにする(上図:「人類史の中の『定常型社会』[3]266ページ、下図:「人類史における拡大・成長と定常化のサイクル」[7]160ページ)。

〇広井の主張は概略こうである。人類の歴史を長い目で見ると、定常化のサイクルが3回あった。(1)約20万年前頃にアフリカでホモ・サピエンスが誕生し、狩猟採集社会の前半に一気に人口が増加した。そこには、自然信仰や「互恵的利他主義」(互酬性)が存在していた。後半になると社会は安定し、定常化していく。その過渡期の時代・狩猟採集社会の後半期、いまからおよそ5万年前の時期に、「心のビックバン」(文化の爆発)と呼ばれる現象が起こった。すなわち、フランスのラスコー洞窟の壁画や日本の縄文時代の装飾品などに代表される文化的・芸術的作品が一気に生まれた。(2)時代が下(くだ)って、約1万年前にメソポタミアで農耕が始まった。そこでまた人口が増えて「都市」が形成され、各地に波及していった。この農耕社会においても、後半は定常化していく。紀元前500年前後に、ドイツの哲学者カール・ヤスパースが「枢軸時代」(すうじく:物事の中心)と呼んだ「精神革命」(伊東俊太郎)が同時多発的に起こった。ギリシャ哲学をはじめ、インドの仏教、中国の儒教や老荘思想、中東の旧約思想(キリスト教やイスラム教の源流)などの「普遍的な価値原理」を志向する思想や宗教がそれである。(3)さらに時代が下った約300~400年前には、産業化・工業化社会が始まり、また一気に人口が増大した。そしていま、第4の拡大・成長へ向かうのか、あるいは第3の定常型社会を迎えるのか、その岐路に立っている。第3の定常型社会では、①自然や地球資源の制約や有限性、②地球全体の風土的・環境的な多様性、③「ローカル」(地域的・個別的)と「ユニバーサル」(普遍的、宇宙的)の総合化・循環的融合(「グローバル」(多様生成的))、などを内容とする価値や倫理(「地球倫理」)が要請されるのであろうか([4]236~259ページ。[7]152~161、299~303ページ)。

(2)『コミュニティを問いなおす』筑摩書房、2009年8月([3])
閉鎖性の強いコミュニティのなかで、個人の社会的孤立が深刻化している
戦後の日本社会とは、一言でいえば「農村から都市への人口大移動」の歴史であった。都市に移った日本人は、(独立した個人と個人のつながりという意味での)都市的な関係性を築いていくかわりに、「カイシャ」そして「(核)家族」という、いわば”都市の中のムラ社会”ともいうべき、閉鎖性の強いコミュニティを作っていった。
そうしたあり方は、経済全体のパイが拡大する経済成長の時代には、カイシャや家族の利益を追求することが、(パイの拡大を通じて)社会全体の利益にもつながり、また個人のパイの取り分の増大にもつながるという意味で一定の好循環を作っていた。しかし経済が成熟化し、そうした好循環の前提が崩れるとともに、カイシャや家族のあり方が大きく流動化・多様化する現在のような時代においては、それはかえって個人の孤立を招き、「生きづらい」社会や関係性を生み出す基底的な背景になっている。(9~10ページ)

コミュニティは、①生産と生活、②農村と都市、③空間と時間という3つの視点が重要である
「コミュニティ」というとき、①「生産のコミュニティ」と「生活のコミュニティ」、②「農村型コミュニティ」と「都市型コミュニティ」、③「空間コミュニティ(地域コミュニティ)」と「時間コミュニティ(テーマコミュニティ)」という三つの点を区別して考えることが重要である。(11ページ)
①については、都市化・産業化が進む以前の農村社会においては、「生産のコミュニティ」と「生活のコミュニティ」はほとんど一致していた。すなわち、農村の地域コミュニティが、そのまま「生産のコミュニティ」でありかつ「生活のコミュニティ」でもあった。高度成長期を中心とする急激な都市化・産業化の時代において、両者は急速に”分離”していくとともに、「生産のコミュニティ」としてのカイシャが圧倒的に優位を占めるようになっていった。経済が成熟化すると同時に、カイシャや家族という存在が多様化・流動化している現在、”地域という「生活のコミュニティ」は回復しうるか”という問いが浮上している。(12ページ)
②については、「農村型コミュニティ」とは、”共同体に一体化する(ないし吸収される)個人”ともいうべき関係のあり方を指し、それぞれの個人が、ある種の情緒的(ないし非言語的な)つながりの感覚をベースに、一定の「同質性」ということを前提として、凝集度の強い形で結びつくような関係をいう。これに対し「都市型コミュニティ」とは”独立した個人と個人のつながり”ともいうべき関係のあり方を指し、個人の独立性が強く、またそのつながりのあり方は共通の規範やルールに基づくもので、言語による部分の比重が大きく、個人間の一定の異質性を前提とするものである。(15ページ)
現在の日本の状況は、集団の内部では過剰なほど周りに気を遣ったり同調的な行動が求められる一方、一歩その集団を離れると誰も助けてくれる人がいないといった、「ウチとソト」との落差が大きな社会になっている。このことが、人々のストレスと不安を高め、生きづらさや閉塞感の根本的な背景になっている。(17ページ)
日本社会における根本的な課題は、「個人と個人がつながる」ような、「都市型のコミュニティ」ないし関係性というものをいかに作っていけるか、という点に集約される。(18ページ)
③については、人間の「ライフサイクル」というものを全体として眺めた場合、「子どもの時期」と「高齢期」という二つの時期は、いずれも地域への”土着性”が強いという特徴をもっている。戦後から高度成長期をへて最近までの時代とは、一貫して”「地域」との関わりが薄い人々”が増え続けた時代であり、それが現在(超高齢社会)は、逆に”「地域」との関わりが強い人々”が一貫して増加する時期にある。(19、20ページ)
こうした意味において、「地域」というコミュニティがこれからの時代に重要なものとして浮かび上がってくるのは、ある種の必然的な構造変化である。加えて、現役世代についても、ポスト産業化時代には(職住近接、SOHO〈ソーホー/Small Office/Home Office/小さな事務所や自宅で働く事業者。テレワーク、在宅勤務〉などのトレンドの中で)地域との関わりが相対的に増加していくことになる。(20~21ページ)

〇広井は「コミュニティ」という言葉・概念について、ひとまず次のように理解する。「コミュニティ=人間が、それに対して何らかの帰属意識をもち、かつその構成メンバーの間に一定の連帯ないし相互扶助(支え合い)の意識が働いているような集団」(11ページ)、がそれである。
〇そのうえで広井は、日本の経済・社会はいま、成熟化・定常化の時代にあって、「地域」という空間を舞台にしたコミュニティの重要性が高まり、それに適応する人々の関係性(つながり)や行動様式を組み換えることが求められている、という。すなわち、人間にとって本質的で補完的な「農村型コミュニティ」と「都市型コミュニティ」、「地縁型コミュニティ」と「テーマ型コミュニティ」をいかに融合させるか。感情的・情緒的レベルのつながりではなく、集団を超えて、人と人が独立しながら、「普遍的な原理やルール」によってつながるという関係性をいかに形成するか、がいま問われている。その原理やルールは、形式的な挨拶やお礼の言葉なども含むが、「人間が(所属する集団の違いを超えて)”人として”遵守すべき規範原理であったり、言語化された共通の理念であったりする」(249ページ)。それは、前述の「地球倫理の可能性」と重なることにもなる(そして、私事ながら本稿の冒頭の話につながる。本ブログの<雑感>(105)2020年3月31日投稿、を参照されたい)。

(3)『人口減少社会のデザイン』東洋経済新報社、2019年10月([7])
現在の日本社会は「破局シナリオ」に至る蓋然性(実現性)が高い
日本社会が持続可能性において危機的である。特に次のような点が重要ないし象徴的な事柄と言える。(15ページ)
①財政あるいは世代間継承性における持続可能性
日本政府の債務残高ないし借金は1,000兆円あるいはGDPの約2倍という、国際的に見ても際立って大きな規模に及んでおり、膨大な借金を将来世代にツケ回している。その背景には、「経済成長がすべての問題を解決してくれる」という高度経済成長時代に染みついた発想を今も根強く引きずっているという点がある。「人口減少社会のデザイン」において重要なのは、こうした「拡大・成長」型の思考の枠組みから抜け出していくことにある。(16、18ページ)
②格差拡大と人口における持続可能性
高度成長期を通じて貧困世帯は一貫して減っていったが、1995年を谷として生活保護を受ける人の割合は増加に転じ、その後も着実に増えている。日本においては若者に対する社会保障その他の支援が国際的に見てきわめて手薄であり、特に若い世代の雇用や生活が不安定になっている。そのことが未婚化・晩婚化の背景ともなり、それが出生率の低下につながり、人口減少をさらに加速させるという、悪循環が生まれている。(18、19ページ)
③コミュニティないし「つながり」に関する持続可能性
「社会的孤立」は、家族などの集団を超えたつながりや交流がどのくらいあるかに関する度合いを指している。日本は社会的孤立度が先進諸国の中でもっとも高い国ないし社会になっている。現在の日本社会は”古い共同体(農村社会など)が崩れて、それに代わる新しいコミュニティができていない”という状況にあり、そのことが「社会的孤立」という点に現れている。(19、20ページ)
日本は「持続可能シナリオ」よりも「破局シナリオ」に至る蓋然性(がいぜんせい)が高い。「破局シナリオ」という表現の主旨は、財政破綻、人口減少加速(←出生率低下←若者困窮)、格差・貧困拡大、失業率上昇(AI・人工知能による代替を含む)、地方都市空洞化&シャッター通り化、買物難民拡大、農業空洞化等々といった一連の事象が複合的に生じるということである。(21ページ)

「持続可能性」や個人の創発性に軸足を置いた社会モデルを志向する必要がある
「持続可能な福祉社会」を志向・実現するために不可避の論点を記すと、次のようになる。(「帯」より。311~313ページ)
①将来世代への借金のツケ回しを早急に解消
②「人生前半の社会保障」、若い世代への支援強化
③「多極集中」社会の実現と、「歩いて楽しめる」まちづくり
④「都市と農村の持続可能な相互依存」を実現する様々な再分配システムの導入
⑤企業行動ないし経営理念の軸足は「拡大・成長」から「持続可能性」へ
⑥「生命」を軸とした「ポスト情報化」分散型社会システムの構想
⑦21世紀「グローバル定常型社会」のフロントランナー(先導者)日本としての発信
⑧環境・福祉・経済が調和した「持続可能な福祉社会」モデルの実現
⑨「福祉思想」の再構築、”鎮守の森”に近代的「個人」を融合した「倫理」の確立
⑩人類史「3度目の定常化」時代、新たな「地球倫理」の創発と深化

〇①から⑤は、比較的具体性が高く、⑥から⑩はより中長期的な時代認識や理念に関わる内容となっている。以上のうち、③の「多極集中」について広井は次のように説く。それは、「一極集中」でも、その対概念としての「多極分散」のいずれとも異なる都市・地域のあり方である。国土あるいは地域の「極」となる都市やまち・むらが多く存在し、その極となる場所はできる限り生活に必要な諸機能が集約され、歩行者中心の「コミュニティ空間」(歩いて楽しめる街)が重視される都市・地域のあり方をいう(122ページ)。
〇④については、次のことが指摘される。農村の過疎化等の問題は、「人口減少社会」それ自体に原因があるのではない。それは、農村(地域)がもつ固有の価値や風土的・文化的特性を活かしながら、地域の活性化に資するヒト・モノ・カネ等の流れと、それを支える公共政策や社会システムをどうつくるかという、「政策選択や社会構想」の問題である(31、51ページ)。その問題解決を図る主体はまず政府である。いま、「東京(都市)は進んでいる、地方(農村)は遅れている」という発想の転換が求められる。「若い世代のローカル志向」「高度成長期の”地域からの離陸”の時代から、”地域への着陸”の時代への変化」(52ページ)が見られる。
〇⑥の「ポスト情報化」は広井にあっては、資本主義と科学の基本コンセプトは17世紀以降、「物質→エネルギ→情報→生命」という流れで変遷・進化してきた。「情報化」には「グローバル化」を促すベクトルと、「ローカル化」ないし分散化を促すベクトルの両方が含まれているが、「情報」はすでにその成熟期に入っている。これからの「ポスト情報化」時代の科学や経済社会・生活・消費の基本的なコンセプトは、「生命/生活(life)」である(139、143、146ページ)。
〇⑦の「グローバル定常型社会」という言葉や概念の基底にあるのは、次のような認識(展望ないし視座)である。「21世紀後半に向けて世界は、高齢化が高度に進み、人口や資源消費も均衡化するような、ある定常点に向かいつつあるし、またそうならなければ持続可能ではない」(76ページ)。日本は世界一の超高齢社会である。
〇⑧の「持続可能な福祉社会」とは、(「持続可能性」は「環境」と関わり、「福祉」は富の分配の公正や個人の生活保障に関わるものなので)、「個人の生活保障や分配の公正が実現されつつ、それが環境・資源制約とも調和しながら長期にわたって存続できるような社会」を意味する。別言すれば、「持続可能な福祉社会」という言葉・概念の主眼は、「環境」と「福祉」の問題をトータルにとらえる点にある(282~283ページ)。
〇⑨の「福祉思想」に関する言説の大枠はこうである。江戸時代までの日本人は、神道と仏教と儒教をそれなりにうまく組み合わせて一定のバランスを保ってきた。明治維新前後から第2次世界大戦までの時期は、富国強兵と国家神道などによって「福祉思想の形骸化(政治化)」が進んだ。戦後から高度成長期をへて最近に至る時期は、「経済成長」が日本人の“宗教”ないし精神的な拠り所になり、「福祉思想の空洞化」が進んだ。そして現在の日本の状況においては、“神仏儒”の伝統的な世界観や倫理を再評価するとともに、独立した個人が個別の集団やコミュニティを超えてつながるという「公共性」(「集団を超える価値原理」)への志向が重要になっている(296~298ページ)。いずれにしろ、福祉思想や価値原理についての探究や構築が持続可能な福祉社会の実現において、強く求められる。
〇地域コミュニティの中心として特に重要視される場所は、学校や福祉・医療関連施設であろう。広井は⑨の「鎮守の森」(神社の境内やその周辺にある森林)について、それは日本人の自然観や自然信仰との関連で、「地域コミュニティの拠点として存在しており、現在の日本におけるコミュニティの再生という課題とも深い次元でつながっている」(126~127ページ)という。
〇⑩の「地球倫理」については、一部既述のように、①自然や地球資源の制約や有限性、②地球全体の風土的・環境的な多様性、③「ローカル」(地域的・個別的)と「ユニバーサル」(普遍的、宇宙的)の総合化・循環的融合(「グローバル」(多様生成的))、などを内容とする価値や倫理をいう。別言すれば、”神仏儒”の「神」(自然信仰)と「仏儒」(普遍宗教や普遍思想)、近代的な原理としての「個人」ないし「個人の自由」という価値、それに「第3の定常化時代」における「プラスα」、すなわち「伝統的な価値としての、”神仏儒”」+「近代的な原理としての個人」+「α」からなる理念や価値、世界観(すなわち思想・哲学・原理)が「地球倫理」を可能にする。(299ページ)。なお、通常「グローバル」「グローバリゼーション」という言葉が使われる場合は、世界が均質化・一様化していくといった意味で使われることが多い(302ページ)。広井がいう「グローバル」との違いに留意したい。

付記
内閣総理大臣の諮問機関であった国民生活審議会(2009年廃止)の総合企画部会が、2005年7月に『コミュニティ再興と市民活動の展開』と題する報告書を提出した。[3]が出版された4年前、いまから15年前のことである。いささか旧聞に属するが、そこでいう「多元参加型コミュニティ」は、「地縁型(エリア型)コミュニティ」と「テーマ型コミュニティ」の融合を説く広井の言説に通底する。ここで、長い引用になるが、「多元参加型コミュニティ」に関する一節を紹介しておくことにする(抜き書き。見出しは一部調整)。

コミュニティを求める経済社会の変化
これまでの経済発展は、国民の生活水準の向上をもたらす一方で、企業や行政が主体となって暮らしのニーズを満たす環境を生み出した結果、身近な問題であっても地域の人々が「自立」して積極的に解決に動く意欲を希薄化させた面も否定できない。
しかしながら、近年、経済社会における変化が進む中で、このような人々の意識に大きな変革が求められている。
●暮らしにおける多様なニーズの出現
核家族化が進み、家族だけではこなしきれない高齢者の世話や育児への相互扶助に関するニーズ、地域の魅力を再認識して交流を増やしたいというニーズ、防犯・防災など暮らしの安全・安心を高めたいというニーズ、健康寿命の伸長に伴う退職後の生きがいを発揮する機会に関するニーズなど、多様なニーズが新たに出現している。
●人々の社会的孤立の深刻化
独り暮らしの高齢者やいわゆる「ニート」と呼ばれる若者など、人と人とのつながりに属さず社会的に孤立した人々が増え、高齢者の孤独死、引きこもりの増加などの問題が発生している。そうした人々をつながりの中に回帰し、共に支え合う社会へと変えていくことが急務となっている。
●企業や行政が果たす役割の限界と新たな動き
これまで経済発展の中で暮らしのニーズを満たしてきた企業や行政の対応には限界がある。そもそも、営利企業は本質的に採算を考慮せざるを得ず、社会的に重要であっても市場で評価されない財・サービスの提供について制約がある。このため、企業の社会的責任(CSR)に対する認識が高まる中で、地域活動を行う団体との協力・連携などに関心が寄せられている。一方、行政も公平性を原則とするため、均質的なサービスを提供するには効率的であっても、多種多様なニーズにきめ細かに対応することにはなじまない。加えて、昨今の厳しい財政制約の中で、これまで行政が担ってきた公共サービスの提供をより効率的な主体に任せていく動きが進んでいる。

こうした経済社会の変化の中で、企業や行政だけでなく、人々の暮らしを支える担い手としてコミュニティの役割が再び注目されている。(4~5ページ)

コミュニティ再興の必要性とその動き
●コミュニティとは、「自主性と責任を自覚した人々が、問題意識を共有するもの同士で自発的に結びつき、ニーズや課題に能動的に対応する人と人とのつながりの総体」のことをいう。
●経済社会の変化の中で、企業や行政だけでなく、人々の暮らしを支える主体として、自己解決能力を備えたコミュニティの役割が再び注目されている。
●同じ生活圏域に居住する住民の間でつくられるエリア型コミュニティが停滞する一方で、特定のテーマの下に有志が集まって形成されるテーマ型コミュニティが登場している。しかし、現状では、この2つのコミュニティの間において理解不足などの垣根が存在している事例が見られる。
●コミュニティを再興していくためには、①多様性と包容力、②自立性、③開放性という3つの条件を備える必要がある。
●そのためにも、エリア型コミュニティとテーマ型コミュニティとが補完的・複層的に融合し、多様な個人の参加や多くの団体の協働を促していく形が考えられ、いわば多元参加型とも呼べる新しい形のコミュニティを志向することが求められる。
●現在、各主体の連携を通じて様々な活動が進められているが、今後地域全体に広めていく上で、コミュニティ内外にネットワークを拡大・融合しうる市民活動団体の役割が期待される。(3ページ)

コミュニティ再興のために
(1)市民における公共心の育成
コミュニティ再興においては、エリア型コミュニティであれ、テーマ型コミュニティであれ、その基礎的な構成員である市民の参加が根源となる。その際に、市民の意識において、地域が抱えるニーズや課題に自ら取り組むという公共心が第一に求められる。
(2)3つの条件を満たす「多元参加型コミュニティ」の形成
経済社会の変化を背景にコミュニティの役割に対する期待が高まる一方で、旧来コミュニティの機能停滞や新旧コミュニティの対立がみられる中、コミュニティの再興のためには、形成されるコミュニティが次の3つの条件を満たすことが必要と考えられる。
●多様性と包容力
第一に、個人の自由な生活様式を前提として、幅広い世代や多様な価値観を持つ人々の参加を受け入れる大きな包容力が求められる。その際、社会的に孤立している人々もつながりの一員として受け入れることが重要である。
●自立性
第二に、地域の問題を市民自らの問題と受け止め、行政任せではなく、自立的に取り組む姿勢が必要である。課題によっては、行政に積極的に提案や働きテーマかけを行うこともありうる。資金や人材など活動に必要な資源についても自立できることが望まれる。
●開放性
第三に、コミュニティの参加者が開放的になって、コミュニティ外との積極的な対話や交流を図ることが重要である。これにより、外部からのいわば新しい風を迎え入れるとともに、コミュニティ内部の情報を発信する機会に恵まれ、更なる協力関係の発展につながることも考えられる。

上述のような条件を満たすコミュニティの姿として、地域的に区分されたコミュニティを基礎としながら、従来のエリア型コミュニティとテーマ型コミュニティが必要に応じて補完的・複層的に融合することで、多様な個人の参加や多くの団体の協働を促す、いわば「多元参加型コミュニティ」が想定される。こうしたコミュニティの中では、主体間に厚いネットワークの層が形成されることとなろう。(9~10ページ)

あんぽんたん

アホンダラが撥音化したことば
あんぽんたん
愚か者 あほう バカとののしることば
あんぽんたん
でも どこか憎めないことば

街をうろつき闊歩する者たち
湘南の海で戯れるサーファーたち
あんぽんたん
決して懲らしめているわけではない
やさしくいさめたい

あんぽんたん
コロナ禍で
ものの道理は知っている
どうしなければならないのかも知っている
それでもどうにもならない衝動が 
抑えられない感情が 
街へ海へと駆り立てて うごめき繰り出す

あんぽんたん
そう言われても どっちゅうことはない
切羽詰まった逃げ道を 
いきり立った怒りのはけ口を
これからどうなるのかわからない不安を
もし罹ったらどうしようという恐怖も
避けられず 逆らえない コロナ禍で
生きることへのやりきれなさを 
素直に吐き出しぶっつける

あんぽんたん
街に海に 逃げ場を求めて徘徊する
発散しないと 身体が腐ってくるような
発散しないと 心のダメージ広がるような
追い詰められて いてもたってもいられない
自虐な行動に 走る 走る 
制御不能な 暴走行為
恐怖からの 逃走と迷走

あんぽんたん
身の危険を 敏感にキャッチして
身の置き所が どこにもないことを知りながら
身勝手な行動だと 叱られ叩かれようが
せめて仲間とつるんで その恐怖から逃れたい
いつか罹って動けなるかも知れない 
そのときはそのときとあきらめようか
変に粋がり強がって 弱気を隠す臆病もん

あんぽんたん
ひとりぼっちでいるのは 哀しい
ひとりぼっちでこもるのは 苦しい
あんぽんたん
集まることは 恐怖心からの解放
群れ合うことは 絶望への思考停止

きょうもどこかで あてのない逃げ場を探して
囲い込まれた世界で 右往左往を繰り返す
その先に 立ち向かう希望が見えてくるまで
陰鬱な空気にあらがい 悲運と闘い続けるのだ

※はつおん(撥音):国語の音節の一。語中または語末にあって一音節をなす鼻音。[m] [n] [ŋ] [ñ] などの音。「ランプ」「遊んだ」「りんご」「パン」などのように仮名では「ん・ン」で表記する。はねるおん。
※あんぽんたん(安本丹):愚か者。あほう。ばか。多く,人をののしっていう語。

〔2020年4月23日書き下ろし。若者たちはこの尋常でない世界を敏感に察知して、その恐怖心からの逃避のために無謀な行動を起こすのだろうか。その衝動をどう抑えるのか。非難ばかりでは難しい〕