阪野 貢 のすべての投稿

リンゴ1個

ここに リンゴが 1個ある
いま お腹をすかせている 二人の子に あげたい
このリンゴを 二人の子に どう分けてあげる?

こう問われて ほとんどは
「半分」
「半分って 真っ二つのこと? どうして?」
「不公平にならないように しなきゃいけない」
納得顔で うなずく みんな
反対する者は 誰もいない 穏便(おんびん)な判断
それって ほんと?
「二人の置かれている状況を 判断の基準に考えてみた?」

そもそも ふたりのお腹のすき具合なんて なんにも説明していない
どっちが お腹をすかせているのか?
ひとりに 事情を話して 
「まだ我慢が出来るようなら いまお腹のすいている子に 少し多めに 食べさせてあげていい」

ボランティアって 公平平等では わりきれない 現実的な厳しい対処であること
ボランティアって 弱い立場の人への 奉仕というおもいを 捨てること
ボランティアって 相手のニーズを見きわめて 判断すること
ボランティアって 与えること以上に そもそもの問題に気づくこと
ボランティアって カッコつけずに 自分も助けてって 声に出せること 

リンゴ1個のことで ボランティアって面倒くさい?
でも リンゴを1個 ポケットに入れておくだけで 
ボランティアって 案外楽しいかもしれないよ
なぜって?
「わかちあう」ってことを 考えるからね

〔2019年8月2日書き下ろし。食糧問題に遭遇する未来への警告〕

かくれんぼ

子ども時代のかくれんぼを やめられない 高校生たち
彼らには その自覚は 全くない
それだけに 問題の根っこは 深かった

それは 二十数年前 全道規模のボランティア集会で 起こった
函館に集まった 高校生たちの分科会
参加した高校生を 後ろから見守るように 教師や一般の大人たち
正面に 進行役の高校生 その傍らに助言者の教師が控える
さも 彼ら自身の手で 運営されているかのような 舞台設定
教師の作った シナリオ通りの 進行
それは 司会役の子が 頭も上げず 原稿を読んでいたから すぐばれた

司会者が 意見を求めた
何人もの高校生は 振り返って 後ろに座る指導者を探す
教師は 発言を促すかのように 目と顎(あご)と手で 合図する
前に向き直し 自信なげに挙手して 発表する子ら
まるで 操り人形を見ているような 奇妙な風景

「私たちの学校では…」「私たちの活動は…」を 枕詞に始まる発表
学校という枠の中で 私たち“みんな”でした 活動報告
単なる 学校自慢のオンパレード
発表の練習成果が出て 子どもも教師も 嬉しそう

活動から 何を感じ 何を考え 何を学んだのか
個人レベルの意見が皆無な 分科会の流れに 誰も気づこうともしない
活動すれば ボランティアしていると 錯覚している教師や子どもたち
肝心要のところが欠落し 活動の目的化が進んでいた

ボランティア学習という世界から 逸脱(いつだつ)し乖離(かいり)した 虚構世界
教師に操られ その指示を受け ボランティアと称して活動する 似非(えせ)世界
ボランティアとは無縁な 学校への 統制を強いられる 隔離(かくり)世界
奉仕意識が蔓延(まんえん)する 学校ボランティアの 歪曲(わいきょく)世界

ボランティアの 自由意思を取り戻すために 呼びかけた
「おとなの後ろに かくれんぼするの もうやめよう!」
高校生自らが 企画し運営するフォーラムを 提唱した
その想いに共感した 行動力のある 各地の心ある仲間たちとともに 
「ヤングボランティアフォーラム」を 推進してきた

しかし ヤンボラの灯は いつの日か 途絶えた 
高校生たちが 学校に 連れ戻されたのだ
高校生たちは 学校に囲い込まれ 社会や人との関わりを 断たれた
高校生たちは 学校という世界を 疑うことなく楽しんだ
でもそれは
大人の背中に かくれんぼを しているだけの世界 だった

自信なげに 
「もう~いいかい~」
不安げに 
「まあ~だだよ~」
怯(おび)えながら
「もう~いいかい~」
遠ざかりながら 闇間に消えてく
「まあ~だだよ~」

〔2019年8 月6日初稿。広島原爆投下の日、子らの希望に耳を傾ける日〕

小さな希望のともしびをかかげてください

地域に住む ひとり暮らしの老婦人を 訪れた
若いときには みんなお世話になった
「何か変わったことはない?」
なにか言いかけて 飲み込まれることば
「なんかあった?」
「ううん」
息を吐くように もれた短いおと
「何か心配事?」
「何にもないよ、大丈夫!」
静かに微笑みながら きっぱり答えた
とりとめもないおしゃべりをしながら 
いつもの様子に安堵して おいとまをする
見送る気配を感じて 振り向いた
玄関口で 深くうなずきながら 手を振ってくれた

日々の暮らし向きは 決してゆるくはないはず
そのことを ひとつもこぼすさず 
微塵(みじん)にもみせず いつも毅然としていた
静かな佇(たたず)まいの中に 
ふと その人の存在の重さを感じた 

「大丈夫」
毎日 自分に言い聞かせるように
今日も地域で ひとりで暮らすことを確かめる 自問自答
きっと 
困っていること してほしいこと 不安なこと ばかりだろう
耳をそばだてても 躊躇(ちゅうちょ)して話さない
人に頼ることに 姑息(こそく)な自分を 恥じ入るのか
いま甘えたら 耐えていたものが
堰(せき)を切ったように 一斉に吹き出して
取り返しがつかなくなる
恐れているのは 依存心と無気力感
そして世間体
だから 誰にも迷惑をかけぬよう 
微笑みに 不安を閉じ込めて そこに生きる

厳しい世の中の 冷たい風が吹くたびに 
こごえぬよう ひたすら耐える
弱き者たちが いつの世でも 忍従を 強いられる
それが 長寿社会を謳(うた)ってきた 日本の末路となった
でも 屈しない 屈してはならない
気負わず したたかに 生きていく
それが 市井(ちまた)の「民の才覚力」だ

「おばちゃん 遠慮せず もう少し迷惑をかけてください」  
私のこれから行く道に 
おばちゃんが 世の中の風に翻弄(ほんろう)されながらも
かかげる小さな灯火(ともしび)が ゆるがない希望の道しるべとなるのだ
だから 明日もまた会いに行こう
「大丈夫?」 
「うん なんともないさ」
「がまんしないでね」
「あんたが 会いに来るから 大丈夫!」

〔2017年2月。北海道空知管内月形町社協『あずましプラン』に寄稿〕

おまえ、もう学校に来るな!

ハンセン病と分かり、子どもに明日から学校に来るなと宣告する教師と石を投げる級友。
そして、なぜ? という疑問を抱えながら、途方に暮れる患者である私。
子どもは学校から追放され、その子の学び生きる権利を剥奪された。
東京多磨全生園で出逢った当事者から直接話を伺い、「ハンセン病問題を授業するテキスト」をつくるきっかけとなったエピソードである。
テキスト『おまえ、もう学校に来るな!』(2013年10月1日発行/ボランティア北海道はまなすの会刊/「ハンセン病問題を核にした人権教育啓発テキスト作成委員会」編集委員長手嶋和之)の編集に、委員として参画して、第2部「エピソードを教材化する」の執筆を担った、その一編「学校を追われる」を、広く問う。
・ この事実を知って、どのようなことを感じ考え疑問に、思いましたか?
・ 子どもを守るべき教師が、子どもを教室から、なぜ追放したのですか?
・ そこでは、子どものどんな権利が、侵害されたのでしょうか? 
・ 学校を追い出された、子どものこころの痛み、その後の人生について、想像しましょう。

ロールプレーイング : 「学校を追われる」

教師「お前は、明日から学校に来なくてもいい!」
子ども「(いぶかるように)えっつ、どうして?」
教師「(突き放して)ともかくもう家に帰れ! 親がその理由を教えてくれる」
子ども「(語気を強めて拒絶する)いやだ! 俺、何にも悪いことはしていないよ」
教師「(追い払うように)うるさい! さっさとカバンを持って教室から出て行け」
ナレーション(子どもの心の声): 級友も鳩が豆てっぽうを食らったように、きょとんとしている。私は教師に、強制的に教室の外に追い出された。
子ども「(悲しげに)先生、どうして…」
ナレーション: 放課後私は、校庭に立っていた。何人かの級友が遠巻きに見ていた。        
その一人が、突然私に向かって石を投げた。周りの子は、それに続いた。
級友①「学校に来るな、帰れ!」
級友②「帰れ! 帰れ!」(他の子も連呼する)
ナレーション: 校舎の職員室の窓から、数人の先生がその様子を見ていた。誰も石を投げる子に注意することもなく、いつの間にかその姿は消えていた。翌日、それでも学校に行った。自分の席に机と椅子はなかった。心が凍り付く。
級友①「(とがめるように)なんで、のこのこ学校にきたんだよ、帰れ!」
ナレーション: 級友の糾弾(きゅうだん)は情け容赦なく、こころを突き刺す。だが、絞り出すような声で、弱々しく尋ねる。
子ども「俺の机、どうしたんだ?」
級友②「(冷ややかに)先生が昨日、お前の机も椅子も燃やしていたよ」
子ども「なんで? なんでそんなこと…」
級友②「だってお前、学校に来るなって言われたんだろう。何で来るんだよ。また先生に叱られるぞ!」
級友①「帰れ! 帰れ!」
ナレーション: クラスにいる子が連呼の輪に加わり、「帰れ」コールが教室に充満する。嘲(あざけ)るように、早く出て行けとばかり級友の非難を全身に浴びる子ども。先生が騒然とした空気の教室に来る。私を見つけて、突然怒り出す。
教師「(怒鳴るように)どうして学校に来た! 早く学校から出て行け。二度と来るな!」
ナレーション: こうして私は、学校から追い出された。小学校6年生の2月のことだった。

〔2019年8月4日。『おまえ、もう学校に来るな!』24~25ページ加除訂正〕

鳥居一頼のサロン(9):「書く」

「書く」

文字を 小学校で習った以来
手紙すら書くこともなく
出す相手も いなかった わたし
勉強だって 好きじゃなかったから
本を読むのも 苦手だった
乳飲み子の妹をおぶって 通った学校
勉強に飽きたら
妹を泣かせて 校庭に退避した

年頃になり 口減らしで 隣村の貧しい農家に嫁いだ
山間の小さな村の 村はずれの小さな藁葺き土壁の家
朝から晩まで 野良仕事 子育てに追われる 毎日だった
そんな暮らしに こころがポカっと あいたまま ただ流された
誘われて 村の若妻会に ある晩顔を出した
農家の女も 自分のおもいを溜め込まないで
思ったことを 何でもいいから「書いてみれ」
そこに招かれた「女先生」に言われた

書くこと
考えた事もなかった
書くこと
ひらがなしか 書けなかった
書くこと
そったら時間なんか あるわけなかった

衝動が走った
「書きたい」
理由なんか ない
「書きたい」
暮らしの足しに なるはずない
「書きたい」
見返りなんか 期待もしない
「書きたい」
自分のいまのおもいを ぶつけたい

夜半 子どものちびた鉛筆を 手にした
おそるおそる 思い浮かぶコトバを 書きだした
小学校以来 初めて書いた綴り方
なんだか 嬉しくなった

この紙一枚の世界に 自分の書いたひらがなが 踊っていた
ただそれだけで こころが 休まるように 感じた
この紙一枚の世界に 自分の本音を 吐き出した
ただそれだけで こころが 落ち着いた
この紙一枚の世界に 嫁の過酷な苦しみから 一時(いっとき)逃れられた
ただそれだけで こころが満たされた

この一枚の世界だけが “わたし”という存在を明かす 自己の証明(しるし)
この一枚の世界だけが “わたし”に許された 思考の時間(とき)
この一枚の世界だけが “わたし”のこころを解放した 自由な空間(ばしょ)

「書く」ということ
文字を知った人間の 本質的な行動
それを 阻(はば)むことは 決して許されない
「書く」ということ
誰にも与えられた わき上がってくるおもいの表現方法
それを 拒(こば)むことは 決して許されない
「書く」ということ
社会的身分や血筋家柄 学歴や貧富を越えた 自由意志の世界
それを 否定する人は 
人間辞めなさい

〔鳥居一頼/2019年8月4日〕

※2019年8月16日改訂版。

「哀史」をつくる―姉歯暁著『農家女性の戦後史』読後メモ―

〇嫁に来たとき、何故か名前が変わっていた。隣近所の人たちから「みさを(仮名)さん」と呼ばれて驚いた。舅(しゅうと)は温厚で、それなりに気遣ってくれた。姑(しょうとめ)は一人息子の夫を溺愛し、私には厳しく、生活のすべてにわたって辛(つら)いことばかりだった。畑仕事は夜遅くまで、骨身を削られるほどにきつかった。盆も正月も、父が亡くなったときも在所(ざいしょ)には帰らせてもらえなかった。でも義父(おとうさん)と義母(おかあさん)をしっかりと看取り、送った。母(大正生まれ。享年95)の述懐である。
〇父と母は、地下足袋をはいたまま土間の椅子に座り、板の間に置かれた二つ三つの粗末な器(うつわ)で食事をした。ただ、父には箱善があり、器がひとつ多かった。いつも、である。近所から餅つきの音が聞こえてくるころには、短い時間ではあったが、餅つきが楽しみだった。それほど多くない餅と必ず、黒っぽい団子餅が搗(つ)き上げられた。決して美味しいとは言えない団子餅を食べるのは、母だけだった。舅と姑はもういないのに、である。
〇筆者(阪野)が小学生のころだったろうか。父との間で何があったかは知る由(よし)もないが、「しか~られて~」「しか~られ~て~」「……」。母の涙声を感じとった。真冬の夜、母は薄氷が張る大きな桶のなかで、市場(いちば)に出す野菜を洗っていた。母の手はひびとあかぎれで覆(おお)われ、大きく膨(ふく)れあがっていた。その野菜を父(明治生まれ。享年87)は、自転車やリヤカーに乗せて、片道1時間以上もかけて市場に運ぶのである。
〇筆者はよく病気や怪我をした。夜中、父が引くリヤカーに乗せられて、町医者に急いだこともあった。畑仕事がどんどん遅れていくことを気にしながら母は、筆者を背負って、バスに乗って町なかの大学病院へも通った。ある日、受付の不手際で診察が最後になったことがあった。午前の診察時間はとっくにすぎていた。そのときの母の顔は尋常ではなかった。ある日、母はつぶやいた。「あんたを背負って川に飛び込もうと思ったのは、一度や二度ではなかった」と。
〇こんなことを思い出したのは、『日本農業新聞』の広告欄に掲載された、姉歯暁著『農家女性の戦後史―日本農業新聞「女の階段」の五十年―』(こぶし書房。2018年8月。以下「本書」)が目にとまったときである。
〇筆者は10年ほど前から、地元JAの准組合員であり、「日本農業新聞」と雑誌『家の光』(家の光協会)を定期購読している。その新聞の「くらし」面に、「女の階段」という投稿欄がある。それは1967年に始まり、今日まで続いている。投稿者は「農家の嫁」「農家女性」「農村女性」である。
〇姉歯暁(あねは あき。経済学)は、本書の目的について次のように述べている。「『女の階段』の投稿と(1976年に初めて開催された「女の階段」全国集会のたびに刊行される:阪野)大会手記集には、高度経済成長期に大きく変化していく農村の風景と家族のありさまが見事に記録されている。その時々の女性たちの思いが綴られた投稿や手記は、まさに農村の内側からみたリアルな女性史であり、政治史、経済史、農政史であり、そして生活史そのものである。/結果的に複合的な視覚から歴史の動きを記録し続けることになったこの貴重な資料を軸に、ここに描き出されている農家女性たちの思いとその思いを生み出した時代を読み解くこと、さらに、直接的な言葉では語っていないにせよ、女性たちが『なぜ?』と問うてきた数々の『不条理さ』をもたらしてきたものを探ることが、本書の目的である」(13~14ページ)。
〇姉歯は、農家の嫁が書いた投稿文や体験手記を深く・広く読み込み、農家女性の生活や人生を細かく・丁寧に聞き取る。それに基づいて、戦後民主主義と農家女性の「戦後」、公害と農薬事故・被害、出稼ぎと農業の兼業化、農産物の輸入自由化、「日本型福祉社会」による在宅介護、などの政治的・社会的問題を浮き彫りにする。そしてそれらを、多面的・多角的に、鋭利に分析・洞察することによって農家女性や農村女性、労働(タダ働きと過重労働)と家事・育児・介護を担う「女性農業者」の“戦後史”に仕立てる。
〇しかしそれは、農家女性や農村女性の単なる“哀史”ではない。そこには、農家の嫁に寄り添い、その視点に立った「怒り」や「闘い」、「自立」や「解放」への共感や意志がある。そして姉歯は、現代の農業・農村問題につなげることも忘れない。ただ、姉歯が取り上げた投稿や手記の多くは上層農の女性たちによるものであり、1970年代後半から1980年代以降、「投稿欄から徐々に政策批判が消えていく」(16ページ)。留意しておきたい。
〇日本の農業・農村や農民は、アメリカ(「外」)と、政府や財界(「上」)による農政によって翻弄されてきた。それゆえに、農家女性たちは「女の階段」を通じて社会参加や交流・連携(「横」)を図り、(「下」から)一歩一歩「階段」を登り、展望を切り開いてきた。しかしいままた、TPP(環太平洋連携協定)やFTA(自由貿易協定)などの外圧あるいは内圧がかかっている。「地方創生」(2014年9月)をはじめ「女性が輝く社会」(2014年10月)、「一億総活躍社会」(2016年6月)、「地域共生社会(我が事・丸ごと)」(2017年9月)などの単なるスローガン政治が続いている。障がい者の雇用機会の確保を図るという「特例子会社」制度や、障がい者等の社会参加や地域貢献を進めるという「農福連携」事業、そして国際貢献の役割を果たすという「外国人技能実習制度」等々によって、「新たな哀史」がつくられている。
〇以下に、留意しておきたい姉歯の論点や言説と、農家の嫁の手記のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

自営業の農家の特徴――農家女性は経営者であり無償労働の提供者でもある
農家は自営業である。自営業はサラリーマンとは異なる特徴をもつ。それは、次の四つにまとめられる。第一の性格は自己雇用である。自営業の経営者家族内では、企業のように誰かを雇うのでも、労働者のように誰かに雇われるのでもなく、自分が自分を雇用する、すなわち自己労働を行う。第二に、独立自営であること、つまり経営権を持ち、経営主体として自立している存在である。第三に、家業であること、すなわち経営基盤が家族に置かれていることである。したがって、第四に、生業であること、すなわち、基本的に働く目的が利潤追求というよりまず暮らしを立てることにおかれている。「家」(いえ)とは「家の財産としての家産をもっており、この家産に基づいて家業を経営している一個の経営体」なのである。
したがって、女性たちは、自分の嫁いだ「家」=経営体を守るために、自らの利得を考えずに自己犠牲を払うことが求められる。それも自らの意思で、である。なぜならば、彼女はこの経営体の一員だからである。(27~28ページ)

「家」制度と純血主義――嫁は血筋から外れる存在であり「家族」ではない
嫁は、後継者を産み、生業を支える大事な働き手であると同時に、「血筋」からは外れる存在である。その意味で、嫁は「家族」ではない。(中略)家制度の強固なつながりからすれば、実際の「家族」は血族のみであり、本人たちも意識しないほどに深層に潜んでいるものは「純血主義」である。
経営権に関するすべての制度については「男系中心」におかれ、出産・育児については「母系中心」におかれる。したがって、嫁から生まれた子どもは、息子の血を受け継ぐものであり、子どもの所属は「家」にあるが、子どもの「血筋」を意識するとき、不思議なことにそれは「母系」を中心に据えられるのである。すなわち、嫁の子どもは、嫁という他人を通じて嫁の「血筋」を引き継ぐ存在であり、自分たちの「血筋」を引き継ぐものは「嫁に行った娘」の子どもなのである。
今でも多くの嫁たちが、子どものものを実家で揃えて持ってこいと言われ、しかも、その豪華さや品数を競わされることに苦悩している。(37~38ページ)

女性リーダーの再編――進歩的女性指導者が政府の国民的運動に加担した
山高しげり(1899年~1977年)、奥むめお(1895年~1997年)は、戦前は市川房枝(1893年~1981年)や羽仁もと子(1873年~1957年)らとともに婦人参政権運動の中心的役割を担っており、戦後、参政権が認められると、消費者運動のリーダーとして名を連ねるようになっていった。ただし、彼女らは、戦時中、国民精神総動員中央連盟に主要なメンバーとして参加し、女性たちをもっと徴用すべきとまで発言していた。いわば軍国主義の推進者であった。それが、戦後の日本で、消費者の権利拡大を要求し、くらしの向上を訴える側に立つことは一見すると対立しているようにも見える。
これらの女性リーダーたちの「戦争への積極的加担」の根底にあるものに対する若桑みどり(1935年~2007年。ジェンダー論)の分析は、この一見矛盾する行動の真の姿を明らかにするという意味で秀逸である。若桑は、進歩的な女性指導者たちが戦い続けてきた男性社会――それまで女性の社会的存在意義を無視し、締め出してきた――が、戦時中、生産現場における女性労働力の必要性を認めざるを得なくなったことを好機と捉え、自分たちが置かれている状況を改善できるチャンスと信じたのだと分析している。それは、戦後の生産性向上運動に再び彼女らが積極的に「加担」したことにも脈々と受け継がれている姿勢であるといえよう。
戦時にあっては、政府は国民を総動員するために、女性解放の闘士たちを逆に一般の女性たちに対するプロパガンダの担い手として再編していったが、戦後は、GHQ、政府、財界が生産性運動(①雇用の維持拡大、②労使の協力と協議、③成果の公正な分配:阪野)という国民的運動のプロパガンダの担い手として再び女性リーダーたちを再編していったのである。(41~42ページ)

GHQと政府の思惑――生活改善運動は生産現場と個人の生活の場までを包摂した
農村における生活改善運動の主たるものは、女性たちを農作業と家庭内労働の重労働から少しでも解放することに置かれていた。生活空間と作業空間の分離やかまどの改善、台所に窓を設け、日当たりや風通しを確保する台所改善事業、保存食や粉食(ふんしょく)の導入、農作業着の改善に加え、高度成長期に入ると、共同炊事、農繁期の保育所の設置など多岐にわたる活動が展開された。(50ページ)
生活改善運動は、一方ではアメリカと政府、財界の思惑を背負って、資本が生産現場だけでなく、個人の生活の場までを包摂しようとする衝動を原動力としながら進められたものである。家族計画を広めようとしたGHQの側にも、政府の側にも、現在では常識となっている女性の産む権利や母性の健康を人権(ヒューマン・ライツ)として捉える意識はなかった。その意味では、確実にこの運動は「上からの」押しつけでもあった。しかし、それは、戦争で失われた生活を再びとり戻そうとする生活者たる女性たちが受け入れたからこそ広がったことも事実である。
特に、受胎調節は、個人の性生活にまで国家が干渉するというものであったにもかかわらず、農村の女性たちに歓迎された。
当時、農村部では、避妊に対する夫の協力が得られないまま、幾度も妊娠し、その度に堕胎を繰り返し,死に至ったり、ひどい後遺症を負ったりする悲劇が頻発していた。(52ページ)

農業の近代化――「農業基本法」によって零細農家の整理と離農促進が図られた
「国民所得倍増計画」にもとづき公布された「農業基本法」は食料増産を主軸に置いた戦後直後の農政を転換し、輸入自由化路線を土台に据え農業の生産性を上昇させることを第一目標に掲げる、いわゆる「生産性至上主義」を示したものであった。と同時に、そこでは農業の生産性向上を図るために、農業の近代化、合理化を図る必要があり、そうすることで農業と他産業の所得格差の是正もはかることができるとする、第二の目標、すなわち所得の格差解消が掲げられていた。
基本農政のもとで進められた「農業の近代化」の「近代化」とは、実のところ、零細農家を整理してその分の農地を集約し、力のある農業者にこれを担わせることであった。(138ページ)
このような生産性向上が目に見えて計られていること、しかも、農家では後継の世代が大量に他産業へと流れていたことは、政府が考える「農業の近代化」を進めるために必要不可欠なものであった。零細解消のための技術的な要件はすでに揃っていた。ここに大規模な公共投資を行い、製造業労働者と肩を並べる賃金を得られる農家を育成するというのが、この所得倍増計画と、この理念に基づいて1961年に制定された「農業基本法」(1999年7月、「食料・農業・農村基本法」施行により廃止:阪野)であった。(138ページ)

「サンドイッチ世代」の自問自答――介護する側から介護される側になった
長年「女の階段」に継続的に投稿を寄せてきた女性たちの多くは戦後民主主義のもとにありながら、未だに家父長制的イデオロギーが蔓延する農村で悔(くや)しい思いを呑み込んで生きてきた、いわゆるサンドイッチ世代である。サンドイッチ世代とは「明治生まれの姑につかえ、戦後生まれの嫁との間に挟まれる世代」(中略)とされる。
この世代の女性たちは、自身の半生を介護に捧げ、いつか自分たちも嫁を迎えたら、それで自分は「嫁」としての役割から解放されるものと期待し、毎日を耐えてきた。その一方で、この世代の女性たちは、それまでの女性たちが背負ってきた不条理さを自分の代で終わらせたいと考える先進性をも身につけているのである。つまり、サンドイッチ世代とは、実は自分自身の中にある相克(そうこく)する感情に、葛藤を余儀なくされる世代のことでもあったのだ。
「女の階段」の女性たちは、自分自身が介護を受ける身になる時期が近づいていることを実感しつつ、この二つの相反する思いに自問自答を続けている。そして多くの場合、自分の介護に話が及ぶと、自分たちの世代がやはり次世代を解放できずに終わることを、ため息をつきながら認めることになる。(255ページ)

「日本型福祉社会論」のねらい――崩壊した共同体の再構築は夢想にすぎない
1979年、(中略)「日本型福祉社会」が新たな福祉政策のシンボルとして掲げられた。(264ページ)
日本型福祉社会論の目指すところとは、公的責任で運営されるべき福祉を自助努力と家族・地域の相互扶助に転換し、福祉予算を可能な限り削減することである。(266ページ)1970年代以降、すでに都市部やその周辺では、親と子だけの世帯、高齢者だけの世帯、もしくは高齢者を含む独居世帯が拡大していた。高齢化が進む農村部でも、若年層の流出がただでさえ顕著であり、地域全体で「人手不足」が常態化している現状からして、増える高齢者介護を地域で支える仕組みが作れるはずもない。加えて、ほとんどの農家が兼業となっている現状では、夫婦ともが農外労働に出ている家も多く、多世代同居であっても、常に家に介護者がいるわけではない。そんな中で福祉政策を在宅へと切り替えられれば、結局、介護する家族と、誰よりも介護される本人が福祉の枠組みから排除されるだけのことである。共同体を崩壊させながら歩んできた資本主義経済のもとで、崩壊した共同体を再構築することはただの夢想にすぎない。(267ページ)

学用品を買ってあげたい
子どもが小学校にあがるとき、学用品を買ってあげたいと思ったけれど、嫁に自由になるお金はなかった。買ってくださいなんて舅や姑にとても言えなくて、自転車に野菜を荷台からあふれるほどいっぱい積んで、暗くなるまで泣きそうになるのをこらえながら走り回って売った。そのお金で子どものものを買った。(姉歯による聞き取り、茨城県、2017年。本書〈以下、略〉35~36ページ)

子どものための万引き
学校の運動会、学芸会の時期になると、小さな万引きが農村地域で増加する、という労働省婦人少年局の調査がある。わが子のために、また、こどもにはずかしい思いをさせないためという親心が主婦の自由になる金がないため、つい手がでるという、いたましい母の姿ではないか。(『日本農業新聞』1965年5月7日付。36ページ)

「しまい湯に落つる涙」
「しまい湯に落つる涙を拭い得ずこの家に一人の味方も無しと」などという歌の抜き書きが目にしみて、ただ希望に満ちて生きてきたつもりの自分に、このような感情の起伏があったのかと、なつかしく思われ、若いお嫁さんへ同情がわきます。(中略)各人の努力と思いやりで公平な生活設計を家族みんなで打ちたてていきたいと願うものです。(『日本農業新聞』1970年8月20日付。81ページ)

豊かさの本質を考える
私たちの生活は本当に豊かな暮らしなのだろうか。生活は便利になっているが‥‥‥。豊富な物資、便利さの中の自分たちの生活を改めて振り返ってみるべきだと思う。(中略)昔に比べ、たしかに表面的にはゆたかになっているが、その代償は労働の増加と借金の増加ではなかろうか。豊かな生活は物の便利さとお金の豊かさだけだろうか。農村には農業から得た本当の豊かさを求めるべきではないだろうか。私たちはもう一度見直し、考え直す必要があると思う。(『日本農業新聞』1974年4月29日付。97、98ページ)

権力でおどされるのでなく
私達農民は生産物について質をよくし、農薬も適切な量と使用方法を守り、あくまでも安全良品への追求を忘れてはいけないと思います。米の減反政策でなく化学肥料や農薬の使わない有機農業をめざすべきです。(中略)「私達は今どこに向かって歩んでいるのであろう」と絶えず自問し、体は建物より、命は衣服より価値があるのです。権力でおどされるのでなく、あくまで人類全体の益をはかり進むべきではないでしょうか。(『「女の階段」手記集』第2集、1979年。114~115ページ)

農民と農協による農業潰し
農業潰(つぶ)しがここまで進んだことには農協の責任は大きいけれども、農業人(農民)の力不足ではないかと思います。農民も農協とともに歩んでくる中で、羽交い絞め(はがいじめ)にされ、丸め込まれて、それに男性がどっぷり浸(つ)かっている様子をみてきました。だから、JAの人も農民も外圧に負けない理論を学び身に付けるべきだと思います。(姉歯によるインタビュー。250ページ)

「私の人生は何なのだろう」
夫の母を15年間在宅介護で看とりました時、夫は「良く面倒を見てくれた。今度はおれの番だなあ」と何気なく言っていましたが、よもやこんなに介護の日が続くとは、思ってもみませんでした。(中略)(夫の)痴呆が始まってから4年半、何と私の介護生活は20年も続くのです。そして、これからも何年続くのか「私の人生は何なのだろう」と考えてしまいます。(『「女の階段」手記集』第8集、1996年。277ページ)

〇姉歯は、本書の「あとがき」で次のように述べている。「ここに描かれているものは、程度の差こそあれ、今もなお、女性たちを苦しめ続ける日本社会の宿痾(しゅくあ。久しくなおらない病気)そのものである」(283ページ)。留意したい。

付記
(1)最近の「女の階段」投稿文を紹介しておくことにする。

(2)姉歯の言説の理解を深めるにあたっては、例えば、田端光美著『日本の農村福祉』(勁草書房、1982年7月)が参考になる。また、田端のことについては、田端光美著『坂と海と』(ドメス出版、2001年6月)がある。

ほめる

園児が二人 砂場で遊んでいた

保母が 通りかかった
目ざとく見つけた 一人の園児
「先生 これ見て」
手のひらのものを 差し出す
「あら 上手に出来たわね」
その子は その後 同じものを たくさん作った

別の保母が 通りかかった
もう一人の園児が 遠慮深そうに 手のひらのものを 差し出した
保母は 匂いをかぐように 鼻を寄せ
「おいしそうな匂い なんの果物かな?」
その子は その後 これはリンゴ これはモモ これはメロンと
様々な 果物を 作っていった
カタチは よく似た果物だった

ほめるということ
子どもの 感応力を刺激し そばに寄り添い 一緒に楽しむこと
ほめるということ
子どもの 想像力と創作意欲 根気強く取り組む力を 引き出すこと
ほめるということ
子どもが 取り組む姿と その意欲や態度を 認め励ましてあげること
ほめるということ
子どもの 上手い下手とか 誰かと比べるとか そんな不安をとっぱらって 自由に表現する 手助けをしてあげること
ほめるということ
子どもが 自分を誇らしく思うよう“育つ”ために おとなは真剣に自分と向き合うこと

できない できていない
それは
おとなが “ほめる”ということを ほんとは知らないだけなんだ 
おとなが 子どもの感応力を もう感じられなくなっただけなんだ

そんな御託を並べることより 結果をほめれば 子どもは育つんだよ
その思い違いが 子どもの感応力を 見事に台無しにしていく  

〔2019年8月1日書き下ろし。ほめ方を知らない大人たちへのメッセージ〕
 
付記
「THE SENSE OF WONDER(驚くセンス)」
…感性(sensibility )感応力は、もろもろの人や生きもの、それに事物に対して敏感に対応する、ものに驚く、あるいは不思議がる、神秘的なものに驚異を感じる、そういう複雑な感性を、The Sense of Wonder (驚くセンス)と名付ける。
子どもたちは、生まれ出ると、実に敏感に外的世界に対する豊かで新鮮でデリケートな感性=感応力を働きはじめる。これが、実は後に発達する「わきまえる力」の泉です。
…「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない。
…自然の子どもにとってかけがいのない良さは、沈黙の中で感性を刺激し、子どもの内面に豊かな感情を育んでくれます。
「それは何かを教えるためではなく、一緒に楽しむためなのです。」
人間の感性を耕すには相棒が必要です。すべて人間性は人間関係の中で定着するということです。だから、誰かと一緒に自然にふれるということがとても大事なのです。
「知性」とは、ただ孤独に自分の頭のなかに知識を蓄積しておけばよい、ないし”持って(having)” いればよいのではなく、違いを前提として他人と分かり合う知識が、生きてここにある” 身についたものとしてある(being)”ということが大事であり、感応力に支えられた知識を知性というのでしょう。
(『沈黙の春』で1962年の段階から地球汚染の警告を世界に投げかけた「レイチェル・カーソン」の遺稿『驚くセンス』から)

あいつとおれ

あいつが いるから 大丈夫!
あいつが いうから 大丈夫!
あいつが やるから 大丈夫!

だって あいつはおれの と・も・だ・ち
いつだって おれのいうとおりに してくれる
どこにだって いっしょについてくる
いつも 笑いながら おれのそばにいる
そうさ あいつとおれは なかのいい と・も・だ・ち

きょうも あいつと ふたりっきり
だれも おれたちを あいてになんかしてくれない
ときどき むしょうに はらが立つ
だから あいつといっしょに わるさする
ドキドキハラハラが たまんない
おれが こうしたいと思うところを あいつはよく知ってる
みつかって しかられても どうってことはない
やらなきゃよかったなんて おもったこともない
まわりのやつらに なんて言われても へこたれない
だって おれには あいつがいる
あいつを 信じている 
そうさ だれよりも 信じているんだ

ただ おれだって たまには あいつとけんかする
そんなときには だれかと遊びたい
でも あいつを ひとりにできない
だって あいつは みんなのきらわれもの
だれも 遊んではくれない
だから と・も・だ・ち になってやった

人間ひとりぼっちじゃ つまんない
もし おれがあいつなら きっとよろこんでいる
だれだって と・も・だ・ち って大事だよ
おれが と・も・だ・ち でいるかぎり
あいつは さびしくなんかない
まわりのみんなに ひどくきらわれていても
だれにも あいてにされなくても
だれか ひとりくらい そばにいてあげなきゃ
だから と・も・だ・ち の おれがいる 
おれも あいつがいないと…
ひとりぼっちだ

〔2013年12月23日。学級崩壊したあるクラスの子どもたちへのメッセージ加除訂正〕

子どもの遊び心とこっちょ

突然 男の子が 校長室の窓ガラスをノックする
「こっちょ 入っていい?」
「どうぞ!」
窓を開けると 這い上ってきて 窓枠に外靴を脱ぎ
そこから床に ドーンと飛び降りる
それが ことの始まりだった

北国の校舎は 雪が積もるので
地面から窓まで 結構高い
その高さに挑んで 子どもたちは よじ登ってくる
小さな子が這い上がってくるときは 下で高学年の子が持ち上げる

入りたくても 介添えなしでは よじ登れない子が
悔しそうに 下から窓を見上げる
校長室の窓の下に 白い五段の階段を つくってもらった
だれもが 自由に出入りできるようになった
放課後 こっちょの部屋は いつも子どもたちで溢れた

大雨の朝 六年生のモモが 傘をさして 窓の外に立っていた
開けると ビシャビシャに濡れた体で 勢いよく飛び降りてきた
傘からのしずくと体からのしずくが 辺り一面に散った
「おはよう」という言葉を残し モモは長靴を持って教室に向かった
後始末の雑巾は ビショビショに 重くなった

中休み モモがやってきた
「どうして 土砂降りの中 入ってきたんだ?」
「だって 突然そうしたかったから」
子どもは 理由(わけ)もなく したいと思った瞬間 行動する
おとなは 理由(わけ)を知りたがる
頭脳明晰(ずのうめいせき) 自由奔放(じゆうほんぽう)なモモを前にして
知的好奇心を放棄した
そのままを受けとめる 受け入れることを 学んだ
『子どもは 行動した瞬間 個性化する』

こっちょの部屋は 千客万来(せんきゃくばんらい)
突然子どもが窓から現れ 驚くゲスト
気心知れた新聞記者には 絶対記事にしないよう口止めする
おとなのつまらない干渉で 子どもの楽しみを奪われてはかなわない
おとなは 理由(わけ)を知りたがる
「窓は その下に階段を設けたことで “ベランダ”に なっただけ」

こっちゃは去り ただの校長に 替わった
階段は 取り払われ
旧(もと)の木阿弥(もくあみ)となった

〔2019年8月1日。『子どもと学ぶボランティア』鳥居一頼著/2008年5月5日発行/大阪ボランティア協会刊/p13~17参照〕

出発点

昭和48年春、新米教師は、仲洞爺小学校(昭和52年3月統廃合のため閉校)に赴任。
大横綱北の湖の出身地、北海道胆振管内壮瞥町、その洞爺湖畔にあった。
そこで十人にも満たない子どもたちと一緒に、湖畔の清掃活動をした。
夏、洞爺湖温泉街の方から南風に乗って、空き缶やゴミが、対岸の仲洞爺の湖畔に流れ着く。
そこは、学校のプールでもあった。

毎週月曜日の放課後、5つの段ボールに集める。
それが、子どもたちの小さなボランティア活動となった。
その子どもたちを、「地球の掃除行動隊」と名付けた。
だれもこの地球からは、決して逃れられない。
君がどこに住もうとも、そこは地球の一部。
そこを、住みやすく生きやすくすることができるかどうかは、一人ひとりの心の問題。
だから、たくさんのいのちを育む地球を守るために、君が今できることを身のまわりから始めよう、と。

『Thinking Globally Acting Locally(思考は地球レベルで、活動は地域レベルで)』
ちっぽけなグループでも、物事を考える想像力やスケールだけは、大きく育ってほしいと願った。
そのおもいは、ボランティア学習に関わる原点となり指針ともなった。
そして、その後の人生を決めた。

当時、小学校で子どもたちが、社会福祉やボランティアを学ぶことは、稀だった。
その学びの価値を見出す実践研究へと導かれ、いつしかライフワークとなった。
「地球の掃除行動隊」。
この小さな実践が深くこころに刻まれ、いまも生気をもらい、福祉と教育の世界で生きながらえている“わたし”がいる。

〔2019年7月31日。『ちょうどよい目の高さでの福祉教育』鳥居一頼著/1992年5月1日発行/大坂ボランティア協会刊/p10~11要約・加筆する〕