阪野 貢 のすべての投稿

障がい者差別と生の思想:「自分の存在意義を問う」(「“ただ生きる”ことの保障」×「“よく生きる”ことの実現」×「“つながりのなかに生きる”ことの持続」)―野崎泰伸「生の無条件の肯定」思想についての福祉教育的視点からのメモ―

〇筆者(阪野)は、福祉教育実践や研究の重要な課題のひとつでもある「障がい者差別と生の思想」に関して、野崎泰伸(倫理学専攻)の本を読み返すことにした。『生を肯定する倫理へ―障害学の視点から―』(白澤社、2011年6月。以下[1])と『「共倒れ」社会を超えて―生の無条件の肯定へ!―』(筑摩書房、2015年3月。以下[2])がそれである。再読のきっかけのひとつは、盟友(S氏)からの次のような返信メールである。「阪野さんがいう福祉教育に哲学や思想、倫理がないという話は、『保育指針』にそれがないということと重なります。何をどう教えるかはあっても、なぜそれが必要なのかは“自分の問題”として掘り下げられて来なかった。だから、児童福祉施設でありながら保育所は、社会福祉の『人権や社会正義、多様性の尊重‥‥‥』というような基本理念と重ならないのです」(2018年10月)。いまひとつのきっかけは、国会議員(杉田水脈・すぎたみお)による笑止千万の妄言(「LGBTのカップルは子供を作らない、つまり『生産性』がない」『新潮45』2018年8月号)や、中央省庁や地方自治体などによる「障害者雇用水増し問題」の発覚(2018年8月)にある。さらには、「相模原障害者施設殺傷事件」(2016年7月)を引き起こした元施設職員の「この世から障害者がいなくなればいい」という言葉を思い出すことによる。
〇[1]は、「障害学」の視点から、障がい者にとって「正義」とは何かを問い、生を肯定する「倫理」を新たに構想しようとしたものである。野崎は言う。この社会で障がい者が「生きづらい」のは、軽減・克服すべき個人の身体(障害)に問題があるのではなく、健常者を「正常」とする価値観にとらわれている社会に責任がある。従って、その「生きづらさ」を解消するためには、障がい者を分断・排除している社会が負担を負わなければならない。また、「障害はないほうがよい」という言説がある。その多くは「障害者は存在しないほうがよい」という議論にすりかわってしまう。その「すりかえ」は、社会的負担の拒否を表明するものである。1970年代の「青い芝の会」などの障がい者運動は、「障害からの解放」ではなく(障害によってこうむる)「差別からの解放」を求めた。それらの運動は、「障害者の生存を無条件に肯定する」という「当たり前のことを当たり前に」要求したものであり、その主張に「学問」は学ぶべきである。改めて確認しておきたい野崎の言説のひとつである。
〇[2]は、「犠牲」という視点から、障がい者が抱える諸問題(「生きづらさ」)を検討することによって、「生の無条件の肯定」という思想の構築を図ろうとしたものである。野崎は言う。この社会では、経済成長至上主義や功利主義(「最大多数の最大幸福」)の考え方のもとで、貧富の格差や少数者の犠牲が前提・容認されている。そうしたなかで、障がい者が抱える「生きづらさ」の問題が私事化・矮小化され、障がい者やその家族、支援現場は犠牲を強いられ、追い詰められる。そして、閉鎖的な関係性が形づけられ、そこでのみ「生きづらさ」が共有されることになり、「共倒れ」が引き起こされていく。そしてまた、「何を言っても」「どうせ」この社会は変わらないという諦(あきら)めが、自分の暮らしを守ることに傾注させ、異質な存在(他者)を排除することを促す。こうした「犠牲の構造」のもとに障がい者を差別・抑圧し、捨て置くこの社会に抗するには、「生の無条件の肯定」という正義が問われ、倫理が求められなければならない。改めて押さえておきたい野崎の言説のひとつである。
〇野崎の言説について、筆者にとって意味不明や理解不能な点がいくつかある。例えば、野崎の言説の原点でもある「青い芝の会」の運動の「愛と正義を否定する(愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発する。人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉である)」や「問題解決の路を選ばない(安易な問題解決は危険な妥協ヘの出発である。問題提起を行なうことのみが、われらの行ない得る運動である)」という「行動綱領」([1]40ページ)。「障害はないほうがよい」という言説が「障害者は存在しないほうがよい」という議論に「すりかえ」られるという、その構造。「生の無条件の肯定」が起きるのは「奇跡であり、狂気の瞬間でもある」([1]197ページ)が、それは「感情や気持ちの問題」ではなく、広く「社会構造の問題」をも問うものであるという思考。WHOのICIDH(国際障害分類)からICF(国際生活機能分類)への移行について論究しないこと、等々がそれである。これらに関する分析や理論(論理)の展開については今後に期待することにして、以下では、福祉教育実践や研究に思いを致しながら、再確認あるいは再認識したいいくつかの論点や言説を紹介しておくことにする(引用、抜き書き。見出しは筆者)。

(1)『生を肯定する倫理へ―障害学の視点から―』
障がい者問題の本質と「障害をもつ者ともたざる者との断絶」
障害者問題は特殊な問題ではなく、みんなの問題である。そのことを説明するために、次のようなことが言われる。みんな老いていくし、不慮の事故で障害者になったりする。あるいは、昨今では精神的な病になってしまう者も多い。このことから、誰もが障害や老いによっていつしか自分の身に社会的なハンディを背負わされるようになる。([1]8ページ)
こうした理解は「いま障害をもっていない者への説明」としては適切だ。だが、現に障害を有する者にとっては、こうした言われ方が生ぬるいと感じられるのもまた事実である。実際に「明日障害をもつかもしれない人」にとって「いままで障害を有してきた身体/精神がこの瞬間感じるもの」を感じ取ることは不可能である。障害をもつ者ともたざる者との間のこの断絶は、あなたと私が違う人間である以上、けっして完全に埋めることなどできないはずである。まずは、この断絶の存在を深く認識しなければ、なにも始まらない。
それでは「どのように」障害者の問題は〈私たち〉の問題であるということができるのであろうか。それは次のように考えることができる。現在の私たちの社会が、障害者を生きにくくさせていること、障害があるだけで人間扱いされないような社会に、あなた自身も、私も住んでいることを、あなたや私はどう考えるのか、を問わなければならないのである。そして、これこそが、障害者問題が〈私たち〉の問題であるという理由のもっとも基本的な部分なのである。([1]9ページ)
障害者を排除する社会にあなたや私が住むということ、そしてそのことをあなたや私はどう考えるのか、というところに問題の本質があると述べた。この問題には、2つの側面があると思われる。1つは、社会の正しさの問題、つまり正義の問題であり、もう1つは、こうした問題を自身から引き離さず、棚上げすることなく考えるという要素である。([1]10ページ)

障害学と「障害はないほうがよい」という言説
障害学とは、多くの健常者が考えるような発想、すなわち障害はなおしたり、克服すべきものだという視点を基本的にはもたない。そうした視点は、障害を「異常なもの」と考える発想であり、この社会で生活したければ、健常者のように「正常」になるように努力しなさい、という結論を導きやすい。なぜならば、この社会が健常者中心で回っているからである。これに対して、障害学の視点とは、まず「この社会で障害者が〈人間らしく〉生きていくためには、(障害者のほうではなく)社会はどのようにあるべきか」を考えるのである。([1]19ページ)
障害学では、障害を障害者個人のインペアメント(機能障害:阪野)の治療という枠組みから、社会における障壁が障害者を無力化するという枠組みへの変更を促す。([1]20ページ)
(障害についての2つの考え方である:阪野)医学モデル(個人モデル)と社会モデルとの違いは、次のように言うことができる。障害の医学モデル――障害者が〈生きづらい〉のは障害者本人の責任である。だからこそ、障害は本人が軽減・克服すべきものなのである。障害の社会モデル――障害者が〈生きづらい〉のは社会の責任である。したがって、障害者本人の〈生きづらさ〉の解消のためには、社会が負担を負わなければならない。
障害を社会的文脈において理解するということは、障害者の〈生きづらさ〉を誰が負担すべきか、つまり「帰責性の問題」が中核的な議論となる、と言えよう。([1]26ページ)
「障害はないほうがよい」という言説は、その多くが「障害者は存在しないほうがよい」という議論にすりかわってしまうことに注目すべきである。社会モデル的に考えれば、「障害はないほうがよい」という問いに対する答えは定まらないはずである。([1]27ページ)
「障害はないほうがよい」が「障害者は存在しない方がよい」にすりかわってしまう背景には、社会的負担の問題がある。つまり、「障害はないほうがよい」を「障害者は存在しないほうがよい」にすりかえるのは社会的負担の拒否を表明しているのである。そのように考えたとき、「障害はないほうがよい」を問わせる場自体が、「すりかえ」も含めて、私たちが構築したものにすぎないとも言えるはずである。([1]27ページ)

障がい者運動と「障がい者の生存を無条件に肯定すること」
1970年前後に、重度障害者が個々の場面において声をあげ始めた。(中略)(そうしたなかで:阪野)特に注目されるのが、脳性マヒ者の団体である「青い芝の会」の活動であろう。([1]36ページ)
(「青い芝の会」の:阪野)障害者本人が訴え、求め続ける障害者解放とは、障害からの解放ではなく、(障害によってこうむる)差別からの解放なのである。これは障害学でいうところの「医学モデルから社会モデルへ」というパラダイムシフト(支配的な考え方の劇的な変化:阪野)に符号している。([1]37ページ)
日本における戦後障害者運動を(中略)思想的に見ていけば、とりわけここ40年間の障害者本人による運動に胚胎(はいたい。芽生え、きざすこと:阪野)するのは、障害者の生存を無条件に肯定することであると言える。私は、この運動が面白いのは、当たり前のことを当たり前に言っていることにあると思っている。彼らの主張はしばしば非論理的であると言われたりもするが、私は明快な筋が通っていると考えている。障害者によって主張されたから意味があるのではなく、障害者によって主張された数々の主張が、社会において普遍性を帯びるからこそ、この運動には意味があると私は考えている。まず学問がなすべきことは、障害者運動の主張を学ぶことであり、それによって学問自身をとらえ返すことにあると、私は考える。([1]45~46ページ)

「当事者研究」と当事者が語ること
近年、「当事者研究」というものがなされている。それは、当事者自身の手によって、当事者が直面する問題を、当事者内部にとどまらず、当事者と(当事者を捨て置く)社会との関係によって考察していこうとするものである。([1]166ページ)
当事者が語り出すとき、さまざまな点で考えるべきことがある。まずは、そこに行きつくまでにその当事者がいかなる困難を経験してきているかは、想像すべきであろう。([1]167ページ)
語り出した当事者を勇気があると賞賛することも問題である。まず、誰が、何がそこまで当事者を語れなくさせてきたのかが問われるべきである。(中略)語り出す当事者を英雄化してしまうのは、「語ることのできる主体」を期待するだけの非当事者であると言わずに、他になんと言えようか。それはまた、いまだ沈黙せざるを得ない当事者たちへ向けた無言の圧力でもあるのだ。([1]167ページ)
そもそも、語り出す当事者の主張が、当事者一般の意見を代表するわけでもない。また、いったん語り出した当事者の主張の内容が、当事者であるというだけで正しさを担保されるわけでもない。ではなぜ、当事者の主張が大切になってくるのか。ここまでの理路をたどってくれば、当事者の(生きづらさ)を捨て置く学問体系や私たちの社会が不正義であるからだ、ということができる。それを正すためには、これまでの学問体系や私たちの社会に、ただ単に当事者の主張をつけくわえたもので満足してはならない。それだけでは語る主体の物語で終わってしまう。([1]167~168ページ)

正義と倫理的命令としての「生の無条件の肯定」
正義というものが存在するのであれば、それはどのような生が生きることをも無条件に肯定しなければならない。生の無条件の肯定が、倫理的命令である。([1]193ページ)
(1)「生の無条件の肯定」は、感情や気持ちの問題ではない。「生の無条件の肯定」は、広く社会構造の問題をも問うものであり、条件をつけながら特定の存在だけを「生きる価値がある」とする社会構造に反対するものだと言える。(2)「生の無条件の肯定」は、生命の神聖性原理ではない。生命の価値を、他の価値と比べて絶対で最高の価値であるとする「生命の神聖性」という原理とも一線を画し、それがなければ他の、自由や平等などといった価値が実現しないという意味で、基本的かつ原初的な価値であると言える。(3)「生の無条件の肯定」は、スティグマを与えるものではない。当事者にスティグマを与えたり、スティグマを黙認する社会のようなものが、「生の無条件の肯定」を体現するはずもない。(4)「生の無条件の肯定」は、現前するものではない。「生の無条件の肯定」は、いまだ達成されたものでもないし、将来達成されるものでもないからこそ、正義なのである。([1]194~198ページ抜き書き)

(2)『「共倒れ」社会を超えて―生の無条件の肯定へ!―』
「生きづらさ」と共依存による「共倒れ」の社会
困っているとき、弱っているときに、誰かに何かをお願いしたり頼ったりすることを妨げてはなりませんし、誰かにSOSを発信すること自体はけっして悪いことではありません。(中略)〈生きづらさ〉をひとりで抱え込む必要などないからです。他方で、ある特定の相手と閉じた関係性が形づくられ、そこでのみ〈生きづらさ〉が共有されるような場合、「共倒れ」の危険性が出てきます。というのも、弱っている相手、支えが必要な相手を支えたくても支えきれなくなった場合、もはやそれは「共に生きる」状態ではなく、「共倒れ」と呼ぶにふさわしい状態だからです。([2]75ページ)
Xという条件を満たしていなければ生きる価値などないと思わせるような構造や価値観がこの社会に存在しているからこそ、共依存による「共倒れ」が起こってしまうのだと私は考えています。(中略)ですから私は、共依存による「共倒れ」を防ぐには、家族や近親者だけに責任を負わせてはならないと考えています。誰もが無条件に生きてよいというメッセージを社会が発し、それを可能にするような制度を整えることが、より根本的な解決法であろうと思うのです。([2]76~77ページ)

「犠牲のシステム」と「豊かに」生きられる社会
犠牲とは、交換や譲渡ができないもの、しないものを、その社会において、それができるようにする力のことである、と言ってよいのではないでしょうか。そして、真の「豊かさ」とは、交換不可能性、譲渡不可能性を源泉とする価値のことなのです。であるなら、交換不可能性、譲渡不可能性に基づく価値を、自発的にせよ強制的にせよ、社会に差し出してはならないのであり、それらの価値を守るために、交換可能な価値は存在すると考えることもできるのではないでしょうか。ここで私は、(中略)
交換不可能な価値を差し出さなくてもすむような社会を創出するためにこそ、交換可能な価値を使う必要があると述べているのです。
交換可能な価値の代表が貨幣であり、交換不可能な価値の代表が身体や生命、環境、尊厳です。交換可能な価値は、使用することによって価値が生まれ、交換不可能な価値は、そこに存(あ)るだけで
本源的な価値を有していると言えるかもしれません。([2]96ページ)
「豊かに生きる」とは、すべての生が、先述のような意味において犠牲にならないことであると私は考えています。人の生命や尊厳など交換不可能なものを、貨幣など交換可能なものに「交換」させ、それを「美談」に仕立て上げ、そうした「交換」を社会に埋め込んでいく装置が、「犠牲のシステム」なのです。([2]96~97ページ)
他者を犠牲にしない、そして私という存在も犠牲にされない社会(「犠牲のない社会」:阪野)こそが、他者と共に「豊かに」生きられる社会であると言えるのではないでしょうか。([2]97ページ)

障がい者の「生そのもの」を選別する「教育」と「観念」
日本の道徳教育においては、「生命の尊さを理解し、かけがえのない自他の生命を尊重する」(中学校学習指導要領:阪野)などと、生きることや生命を尊重することの大切さを児童・生徒に理解させることが重視されている。([2]190ページ)
(分離教育を前提とするこの国の:阪野)学校教育においては、障害のある「生そのもの」が、「学校教育に順応できる(順応させるに値する)」かどうかが、当人および家族の意向よりも優先的に問われることになるのです。つまり、障害のある「生そのもの」は、「この社会で生きるに値する/生きさせるに値する」かどうかが問われることになるわけです。こうして、障害をもつ子どもの「生そのもの」は、一般化・抽象化された「生命」観に基づく価値序列によって選別の対象となっていくのです。
こうした動きを、根本のところで推し進めているのは、政治や法律であるというよりはむしろ、「障害者の「生そのもの」は、生きるに値する/生きさせるに値するかどうかが問われても仕方がない」という、広く私たちを覆う観念なのではないでしょうか。そして、そのような観念は、世論によって強化され押し広げられ、私たちを、障害をもつ人を、「犠牲の構造」へと巻き込んでいくのです。([2]194~195ページ)

「生の無条件の肯定」と「権力に抗する倫理の姿」
一般化・抽象化された「生命」ではなく、個別・具体的な「生命」に目を凝らしてみると、ただそこに存在しているだけで、それは絶対的なのです。個別・具体的な「生命」は、ある空間と時間において間違いなく存在し(ています:阪野)。だからこそ、それは比類がないのであって、絶対的なのです。(中略)この「生きているということそのもの」(「生そのもの」)こそ、あらゆる生の原形であって、私たちはこうした「生そのもの」を無条件に肯定しなければならないのではないでしょうか。なぜなら、「生そのもの」の否定は、原理的な水準において、すべての生の否定を意味するからです。こうした理由によって「生命の価値」「生命の尊厳」といった一般的・抽象的な次元よりもいっそう深い水準において、「生そのもの」を無条件に肯定する必要があるのではないかと私は考えているのです。([2]191~192ページ)
権力は「生そのもの」を、一般化・抽象化された「生命」に基づく価値序列に当てはめ、「生きるに値する生/生きさせるに値する生」であるかどうか選別していきます。その過程で権力は、「生そのもの」に「尊厳」を付与することで、「生そのもの」を肯定する回路を絶ってしまいます。だからこそ私たちは、そうした力に抵抗しなければならないのです。「生そのもの」を、それ自体として受け取ること、したがって、一般化・抽象化された「生命」として受け取ってはならないということ、「生そのもの」を無条件に肯定すること。それこそが、「生の無条件の肯定」が指し示す倫理の地平なのです。([2]200ページ)

社会運動と「民主的アプローチ」
多くの社会運動は、「他者と共に豊かに生きられる社会」の実現を目指しています。裏を返せばそれは、この社会が、まだそうなっていないことを意味しています。(中略)現安倍政権は、異質な人間を排除し、同質な人間をのみ成員とする社会を作ろうとしているように思えてなりません。異質な人間を異質なまま、この社会のメンバーとして受け入れようとせず、同質化を強要し、それに従わない人は構成員とみなさず、放遂しようとしているのです。それによってこの社会は、他者と出会う機会を失っていき、同質な人間だけで完結した、閉じた社会になっていくのではないでしょうか。([2]180ペジ)
社会運動にかかわる上で肝要なのは、ある属性をもつ人びとを差別し、見殺しにするこの社会を、「犠牲の構造」の上に成り立つこの社会を絶対に許さないという思いと、いつの日か、そうした社会を変革することができるという信念ではないかと私は思うのです。([2]215~216ページ)
いくら「来るべき社会」について議論をしても、その基底に「正しさ」がなければ、何の意味もありません。人びとがもし、「政治的な力による調整」によって多数派を形成することこそ民主主義の実践だと考えているとすれば、端的に言ってそれは誤りです。結局のところそれは、政治的に力の強いものこそが「正しい」と言っているのと同じです。複数あるプランのうち、もっとも論拠が確かで妥当性が高いのは何かをめぐって、意見交換をしながら合意を形成し、それに基づいて社会を運営していくというのが、あるべき民主主義の姿ではないでしょうか。([2]222ページ)

〇野崎の言説の核心は、「『生の無条件の肯定』は正義であり、倫理的命令である」という点にある。それを[1]では「障害者」の視点に立って、[2]では「犠牲」という視角から論究するのであるが、その主張を際立たせようとするあまり、論理の飛躍や混乱、不整合が散見される。例えば、野崎は「負け惜しみではなく、障害がないほうがよい、とは思わない障害当事者も存在する」ことから「『障害はないほうがよい』という問いに対する答えは定まらない」([1]27ページ)と言う。その意見については、筆者にも「自分がCP(Cerebral Palsy:脳性マヒ)であることを誇りに思っている」(本ブログ「雑感(20)」2014年10月1日投稿)という知人がいるが、一般論としては首肯しかねる。「障害はないほうがよい」。
〇とはいえ、必ずしも新味性があるとは言えないが、野崎の言説から福祉教育実践や研究が学ぶべき論点や主張も多い。例えば、「身体や生命は、そこに在るだけで本源的・絶対的な価値を有している」。「一般化・抽象化された『生命』ではなく、個別・具体的な『生命』に目を凝らすことが重要である」。「学校教育においても、障害のある『生そのもの』は価値序列によって選別の対象となっている」。「生きる・生きさせるに値するかどうかを問うという考え方は、世論によって強化・拡大されていく」。「これまでの学問体系や私たちの社会に、ただ単に当事者(障がい者)の主張をつけくわえるもので満足してはならない。それだけでは語る主体の物語で終わってしまう」、などがそれである。
〇最後に、野崎の言説に通じるものでもあるが、本稿のタイトルとりわけ「自分の存在意義」(自分が存在している意味や価値。レーゾンデートル)に関して、平易に次のように言っておきたい。「人がそれぞれ、他者とともに豊かに生きるということ」=「人はそれぞれ、いま、ここに生きているというそのことに本源的な価値がある」(「ただ生きる」ことの保障)×「人にはそれぞれ、やりたいこと・やれること・やらなければならないことがある」(「よく生きる」ことの実現)×「人はそれぞれ、社会や歴史、自然・環境などとのつながりのなかに生きている」(「つながりのなかに生きる」ことの持続)。

補遺
野崎泰伸は、「倫理」と「倫理学」そして「哲学」について次のように述べている。
「倫理」とは、「人としてあるべき道についての掟」のようなものである。「倫理学」とは、「いかに生きるべきか」について考える学問である。「哲学」とは、人生のあらゆる出来事について、その根源にさかのぼって探究する学問である。倫理学は哲学のひとつの領域である([2]49ページ)。「障害とは何かを問うていく営為は哲学的であり、障害者とともに生きる社会はどうあるべきかを考える営為は倫理学的でもある」([1]21ページ)。

鳥居一頼のサロン(1):ボランティアという世界を生きて―いま、災害ボランティアについて思う―

私は、来週から秋田県に入り、ボランティア研修会と福祉教育(福祉の授業と地域福祉の推進)の仕事で、3市2町を回ります。
帰路、新潟県の聖籠町(せいろうまち)に行って、「スマイル」というボランティアグループの懇親会に参加します。中学生・高校生だった頃の彼・彼女らに、久しぶりに逢うことになります。彼・彼女らは、20年前に出会った子どもたちですが、毎年夏にボランティア活動を続けているもう30代半ばの青年たちです(拙著『子どもと学ぶボランティア』大阪ボランティア協会、2008年、164~166ページで紹介しているグループです)。
その仲間のひとりが障がい児を産んだときに、仲間たちが「聖籠においで。俺たちが子育てを手伝ってあげるから」と誘いました。それに応えて、その夫婦は聖籠町に移り住みます。ボランティア仲間の絆の強さを感じます。私は、7年前に1歳のその幼子を抱いたのですが、今回の訪問で再会できるのを楽しみにしています。その子はもう小学3年生になっています。
「スマイル」の20周年をみんなで祝うことと、私が参加することで遠くから駆けつける青年たちがいることは、私にとっては大きな宝物をいただく気分です。ボランティアという世界を生きてきた私の人生を、彼らが証明してくれているのです。その橋渡しをしている方こそ、本物のボランティアコーディネーターで、ご自身も子どもたちのおかげで共に成長しているといつも話される聖籠町社協職員の本田恵さんです。彼女のおかげで、私はいつも誰かに生かされているという事実に突き動かされているのです。
胆振(いぶり)東部地震の余震もいまだ続いています。被災地の厳しい現状も、支援している仲間たちやニュースによって伝わってきます。私は被災6日目に現地に入りました。安平町(あびらちょう)のボランティアセンターでは、若い人たちが一生懸命頑張っている姿に、本当に頭の下がる思いで感謝して戻ってきました。私と共に活動してきた仲間とも再会しました。
安平町早来(はやきた)地区では、私は30代の頃地元の小学校に勤めていたこともあり、その保護者を訪ねて安否の確認をしてきました。その中で、理・美容院をしている保護者のお宅をお邪魔すると、昨日水道が復旧したので今日から店を開けているとのことでした。店内には2人の老婦人が髪のセットをしておりました。そうした小さな日常を取り戻していくことが大切であり、そのことで気持ちが前向きになることを改めて感じました。
次に会った私と同年配の二人は、まちの連合自治会のトップでもありました。そこでの話は、これからの支援をボランティアだけに頼み、口を開けて待っていれば何かを与えてくれるという考えや姿勢では、「生活再建」には向かっていかないということになりました。支援物資の配給にしても、ボランティアセンターに依存していては、きっと滞ってしまうのではないか。また、それだけの手があるとは思えない。いま必要なヒト・モノ・カネ・情報と、これから必要になるヒト・モノ・カネ・情報は当然違ってきます。それぞれの段階に生ずる個々の多様なニーズを把握するには自治会を機能させることが重要であり、まずは連合自治会の会長等を招集して、被害状況を含めて情報の交換をすることで動き始めようということで話を終え、別れました。
その後、厚真町(あつまちょう)の避難所に向かいました。しかし、道路事情が悪く不通になっている箇所が多く、一番大きな被害を受けた地区は入場制限が行われているため、一般人は入れませんでした。また、避難所は多くの車両が道にあふれ、報道機関も多く目立ち、ニュースで観る情景そのままです。問題は、そこに行くには一本の橋を渡るしかアクセスできないということです。ボランティアは事前登録制でしか対応しないのは、人数が集まっても車の渋滞によって現地に入れない可能性が大きいことを思い知らされました。必ずといっていいほど、私のような「見学者」もいるのです。
後日、ボランティアが活動先を指示されるまで2~3時間も待たされたというニュースがありました。さもあらんというのが私の見立てでした。被災地の地勢によって必要な支援が行き渡らない状態が起こったことは、東日本大震災でも同様でしたが、今後しっかりと検証すべき課題です。
2000年の有珠山噴火の災害時も、本部に陣取った道社協や市町村社協からの応援メンバーは、日報の事務処理に追われたといいます。行政が求める情報の処理に多くの人と時間が割かれ、本来の支援のあり方が問われたのです。同様なことは、今回でもある町役場で本部機能が全く働かず、統制も出来なかった職員が、さも仕事をしたとの書類作成に走り回っていたという事態が起こったといいます。その町役場ではいろいろな失態がありました。停電のために断水した地域に給水車を出し、地区会館の前で役場職員が給水活動を始めました。そこで、地区の方がここまで歩いて来られないし、水のボトルを持つことも出来ない人がいる。だから、その職員に運んでやってほしいとお願いしたところ、ここまで取りに来てくれないと給水できないと断ったそうです。水は生命に関わる問題です。住民の生命を守ることを最優先にしなければならない行政の一員がと、開いた口がふさがらなかったそうです。地域の住民がその方に水を届けたのは、当然です。さてこの職員の言動を許せますか? 
目的は被災者の救援活動であり、給水はその手段です。給水することを優先して、本来の目的が何であるのかを見失ってしまうような事態が、災害の時には往々にして起こります。東日本大震災でも、自転車がほしいというニーズが1,000件あり、全国に呼びかけて集めたところ、500台の自転車が駐車場で野ざらしになっていたのです。なぜかと行政の担当に尋ねると、必要な人が1,000人いるので、1,000台集めてから渡さないと不公平になるという答えが返ってきたのです。ここで公平性が問題になりますか? そのことを担当以外の職員も見ていながら問題なしと考えていたのではないかと想像すると、なんともやりきれない思いがします。
災害では様々な状況が起こってきます。目的と手段をはき違えることがないよう、事に当たらなければならないと、多くの失敗から学んでいるはずです。しかし、やはり「他人事」で済まされてきたことに一因があろうかと思います。また防災や災害発生時のマニュアルを作成していても、いざというときはその通りにはいかないことも多々あります。行政マンには、臨機応変に対処できる「現場力」を身につけてほしいものだと、つくづく思います。
有珠山噴火災害のとき、私たちのグループは、ヘルメットを内地の自動車工場から寄贈を受け、洞爺湖温泉地区や虻田(あぶた)地区に住む方々の帰宅解除の際に身につけてもらうよう避難所に配布しました。また、冬期間仮設住宅に住む高齢者を対象に、全国から寄せられたボランティア支援金を使って1,000個の「湯たんぽ」の配布を行いました。子どもたちのメッセージカードをつけて実施したのです。それは、私が阪神淡路大震災のおりに、神戸の埋め立て海浜地区にあった仮設住宅で「寒さ」を訴えられたことによります。その話を聞いて女性スタッフが「湯たんぽ」を提案したのでした。北海道はこれから寒くなります。今回の地震災害が冬の期間でなくてよかったというのが率直な思いです。
仮設住宅もいま建設中ですが、抽選で決まります。これも非情なことです。東日本大震災の被災地で仮設住宅にお邪魔した際に、行く当てのない方々の苦渋を知り、そこでサポートする方々の行政への憤りを痛く感じてきたこともありました。雪降る前に避難生活から解放されるよう行政には踏ん張ってほしいと切に願うばかりです。全国からも大きな注目を浴びていることからも、生半可なことはできないでしょう。がんばれ! 行政!
今回の全道一円の停電は、まさか遠方の根室管内で酪農を営む乳牛の生命を奪うなど想像もつきませんでした。冬期間の停電であれば、生命にかかわる重大な事態です。北電が非難の的になっていますが、3日間で95%の通電を達成した現場の電気工事に携わった方々の労苦はいかばかりかと、深謝するばかりです。暮らしを取り戻すことにプロとして懸命に取り組む人こそ、企業は優遇すべきであると声高く訴えたいのです。人々の日々の暮らしを前線で身体を張って踏ん張り護る人たちの存在を、災害のときほど強く意識させられますが、それはとても恥ずかしいことです。それだけ漫然と、この暮らしを享受してきたことへの猛省を求められた、今回の災害でもありました。
安部首相が早々に現地視察をしました。それは、総裁選の前のアピールであることは見え見えでしたが、そのとき和歌山県や奈良県の山奥では、台風21号による停電の復旧が遅れているという事態が発生してずいぶん時間が経過していたのです。停電は近畿2府4県で9月9日現在約3万2,660戸を数え、倒木、土砂崩れなどで作業は困難を極め、復旧の長期化も取りざたされていました。それにもかかわらず、お連れの者を引き連れての“ご視察”でした。先の内閣改造で「全員野球内閣」がスタートしたと言われますが、全く期待感が湧かないのはなぜでしょうか。それは、停電の時に、不眠不休の状態で一刻も早く通電するために懸命に働いた、北海道電力職員の、その道のプロとしての仕事ぶりを評価しているからです。いまの政治家の薄っぺらい言動には、いつも裏切られています。沖縄の知事選ではありませんが、政治家の薄っぺらさに抗する市民の「社会力」を日頃から身につけていくことが、いま最も私たちに強く求められているのではないでしょうか。まずは、全国の被災地の復旧・復興を優先してスピードアップを図ってほしいと願うばかりです。願い事が多くなりましたが、それがいまの私の立ち位置なのです。
今日は台風25号が低気圧に変わりましたが、札幌はまだ雨が降り続いています。JRは札幌から遠方の路線は全面運休です。風が少し強くなってきました。これからは日本全国で「ご無事ですか」が挨拶になるのでしょうか。皆さんのご無事を祈るばかりです。

〔鳥居一頼/2018年10月7日〕

「ボランティア拒否宣言」(1986年)再考:ボランティア活動は主体的・自律的で相互実現を図る活動である―資料紹介―

〇筆者(阪野)が住むS市では、2018年7月に豪雨による浸水被害が発生した。社協は早速に災害ボランティアセンターを立ち上げ、ボランティアの募集と被災者(被災地区)への支援活動を始めた。2週間で、「予想をはるかに超える」およそ6,500人のボランティアが活動に参加した。そんななか、活動現場での次のような“やりとり”や“思い”が耳朶(じだ)に触れる。「遠くからわざわざ来ているので、弁当くらい出したらどうだ」(すべて手弁当でお願いしています)。「あちこちの被災地での活動経験について、その話を聞いてくれ」(いまは床下の泥だし作業が最優先です)。「持参した道具が壊れたので弁償しろ」(自己責任・自己負担でお願いしたいのですが)。「今日のボランティアの数とその内訳について情報提供しろ」(スコップをもってきて作業に加わってもらいたいものだ)。災害ボランティア活動現場のひとつの実相である。
〇8月、行方不明の子どもを発見したことを契機に、「スーパーボランティア」(尾畑春夫)が世間の耳目を集めた。尾畑は「無償」のボランティア精神を貫いている。9月からは、2020年東京オリンピック・パラリンピックの大会運営を支える「大会ボランティア」(8万人)と「都市ボランティア」(3万人)の募集が始まった。「上から目線」で、「安易にボランティア=労働力を集めようとしている」という批判の声も聞こえる。筆者が購読する地元新聞の「社説」は、最近のボランティア事情について次のように説いている(9月27日)。「これまでのような奉仕活動にとどまらず、災害からの復興援助、イベントの運営補助などボランティアの活動範囲は広がりを見せており、活躍の機会が増えるとともに期待も増しつつある。ボランティアは、かつてのような裏方ではなく、主役を支える名脇役へ役割を変えつつある」。
〇日本社会では、民主主義が後退し、右傾化・全体主義化が進んでいる。また、「災害多発時代」や「無縁社会」「共生社会」「管理社会」などについて云々される。ボランティアに関しては、「動員」「派遣」「活用」「タダ働き」「有償」「感動体験」「やりがい詐欺」等々の言葉が躍っている。『戦争ボランティア』(高部正樹著、並木書店、1995年2月)や『ブラックボランティア』(本間龍著、株式会社KADOKAWA、2018年7月)というタイトルの本も出ている。そういうなかでいま、ボランティアや市民活動の新たな展開を図るために、「ボランティア」や「市民活動」についての本質的な議論が求められている。
〇その時宜にかなった本が刊行された。早瀬昇著『「参加の力」が創る共生社会―市民の共感・主体性をどう醸成するか―』(ミネルヴァ書房、2018年6月)がそれである。筆者は早瀬の「ボランティア」言説にすべて首肯するものではないが、この本では、市民による「自治と共生の社会」を構築するための基礎的知識や、市民参加(市民活動)の視点や考え方についてわかりやすく解説されている。そのなかで早瀬は、花田えくぼの詩「ボランティア拒否宣言」(おおさか・行動する障害者応援センターの機関誌『すたこらさん』1986年10月号)を紹介している。筆者がこの詩に最初に出会ったのは、岡本栄一「ボランティア活動の分水嶺」大阪ボランティア協会監修/小田兼三・松原一郎編『変革期の福祉とボランティア』(ミネルヴァ書房、1987年7月、251~252ページ)においてである。鋭く厳しい表現(「犬」)や言葉によるボランティア批判は、衝撃的であった。およそ30年前のことである。以下にその詩を記しておく(ルビは筆者)。

ボランティア拒否宣言/花田えくぼ
それを言ったらオシマイと言う前に
一体私に何が始まっていたと言うの
何時だってオシマイの向うにしかハジマリは無い
その向う側に私は車椅子を漕(こ)ぎ出すのだ

ボランティアこそ私の敵
私はボランティアの犬達を拒否する

ボランティアの犬達は 私を優しく自滅させる
ボランティアの犬達は 私を巧(たく)みに甘えさせる
ボランティアの犬達は アテにならぬものを頼らせる
ボランティアの犬達は 残された僅(わず)かな筋力を弱らせる
ボランティアの犬達は 私をアクセサリーにして街を歩く
ボランティアの犬達は 車椅子の蔭で出来上っている
ボランティアの犬達は 私をお優しい青年達の結婚式を飾る哀(あわ)れな道具にする
ボランティアの犬達は 私を夏休みの宿題にする
ボランティアの犬達は 彼等の子供達に観察日記を書かせる
ボランティアの犬達は 私の我がままと頑(かたく)なさを確かな権利であると主張させる
ボランティアの犬達は ごう慢と無知をかけがえのない個性であると信じ込ませる
ボランティアの犬達は 非常識と非協調をたくましい行動だと煽(あお)りたてる
ボランティアの犬達は 文化住宅に解放区を作り自立の旗を掲げてたむろする
ボランティアの犬達は 私と社会の間に溝を掘り幻想の中に孤立させる

私はその犬達に尻尾を振った
私は彼らの巧みな優しさに飼い慣らされ
汚い手で顎(あご)をさすられた
私は もう彼等をいい気持ちにさせて上げない
今度その手が伸びてきたら
私は きっとその手に噛(か)みついてやる

ごめんね
私の心のかわいそうな狼
少しの間 私はお前を忘れていた
誇り高い狼の顔で
オシマイの向こう側に
車椅子を漕ぎ出すのだ

〇この詩については、複数のヒトがその内容を読み解いている。ここでは、筆者の手もとにある論考のうちから、岡本栄一、筒井のり子、仁平典宏、鳥居一頼、そして早瀬昇の解釈(総括)を紹介しておくことにする。

岡本栄一
この詩はいろいろな解釈を私たちに迫る。「障害者の自立」の問題、「一人よがりの独善的なボランティア活動」、あるいは「活動の手段化」等々。
いずれにしても、ボランティア活動を先験的、アプリオリ(自明的:筆者)に「社会的善」であるとみなしている人達には大変ショッキングな詩であろう。車イスを押したなら、どんな押し方でも障害者は「ありがとう」というべきものだ、と考えている人達は、きっと「傲慢」な障害者の詩だと思うだろう。私はこんな詩を書かせたこれまでのボランティア活動の「あり方」を悲しいと思う。ここには健常者と障害者とを二つに分けたままで成立するボランティア活動の姿がある。そこではお互いが成長せず、また変わりもしない、といったことがある。ともあれ、私はボランティアの側だけで「自己回転」する活動が、どんなに罪が大きいか、この詩を読んでハッとさせられたことは事実である。(岡本栄一『前掲書』252~253ページ)

筒井のり子
「かわいそう」という言葉自体は、もちろん差別語ではないが、その使われ方、使う人の気持ちいかんで、きわめて差別的な響きをもってくる。優越感の裏返しの同情は、その受け手にとって屈辱である。
次の詩はある障害者団体の機関誌に投稿されたものだが、“優しさ”から出発した援助が、結果的に相手の自立を損なってしまうことを、鋭く告発している。
「何もできない人」「かわいそうな人」「常に誰かの助けが必要な人」という決めつけは、ボランティア活動の本質をゆがめる。
たしかに現在、彼らは援助を必要としている。しかし、「援助を受ける側」という固定的なとらえ方をすべきではない。(筒井のり子『ボランティア・コーディネーター―その理論と実際―』大阪ボランティア協会、1990年3月、52、54ページ)

仁平典宏
1970年代以降、「ボランティア」は障害者から、抑圧者として尖鋭な批判を突きつけられることになった。この中で〈犬〉の記号も反復される。次の詩は、障害者運動――親や周囲の「善意」によって障害者の可能性が縮減されていく事態に対する根底的な異議申し立て――の系譜に位置づくものである。「ボランティアの犬達は」と何度もくり返されるこの詩は、それが〈贈与〉の対価として何を奪うかを、雄弁に告発している。
無償の、愛情に満ちた〈贈与〉行為こそが、「障害者」を障害者役割にとどめ、その可能性を根こそぎ奪っていく――言うまでもなくこれは、障害者運動が提起した最も重要な論点の一つであった。同時にボランティア言説の歴史も、決してナイーブなものではなく、絶えずこのような否定的なまなざしとの緊張のもとにあった。その中で、ボランティア言説は展開し鍛えられ、それなりに首肯性をもつ答えも生み出されてきた。(仁平典宏『「ボランティア」の誕生と終焉―〈贈与のパラドックス〉の知識社会学―』名古屋大学出版会、2011年2月、32、34ページ)

鳥居一頼
この詩は、たしかに衝撃が強いメッセージである。デフォルメ(歪曲:筆者)された表現であるが、そこに潜むボランティアの問題の核心を鋭く突いていることは、間違いない。このくらい痛烈に批判しない限り、お互いに覚醒はできないかもしれない。彼女のボランティア批判は、そこに安住した自身への憤りと悔悟(かいご:筆者)でもあり、その批判の矢は“自らに”放ったものでもあるといえよう。
その批判を裏読みすると、そこにボランティアの本質が見えてくる。逆説的に見るとボランティアとの信頼関係をどのように構築するのか、その関わり方を見事に表現しているのである。
もう一つ、ケアのあり方について問題を提起している。(中略)
この「ボランティア拒否宣言」は、まさに地域包括ケアが本格化する「ケア時代」に生きる多くの高齢者や闘病者の意思表明や自己選択・決定にかかる問題をも包含していることに気づかされる。花田の「頑固に意志を通す」生き方を考え真摯に受け止めなければ、障がい者や高齢者、そして闘病者にも、自己喪失の道を彷徨する悲劇となるであろう。(鳥居一頼「詩『ボランティア拒否宣言』に学ぶ“自立”と歪んだボランティア観~覚醒と受容そして意識変革を促す教材としての価値を探る~」『人間生活学研究』第22号、藤女子大学人間生活学部人間生活学科、2015年3月、103ページ)
 
早瀬昇
詩で使われている表現は激しいものではあるものの、ここで書かれているのは不信感から来るボランティアの拒否ではなく、逆にボランティアへの期待を込めた一種のラブレターだとも考えられます。というのも、この詩が掲載されたのは、障害者とボランティアが「障害の有無に関わらず、共に」より良い社会づくりを目指している団体の機関紙だからです。
とはいえ、この詩で私たちに届けようとしたボランティアへの問題提起には、真摯に応えなければなりません。ボランティアとボランティアが応援する相手との協働関係については、(中略)両者が共に生きる「共生」の関係づくりが重要になります。(早瀬昇『前掲書』93ページ)

〇いずれにしろ、この詩が発表された1980年代半ば以降は、1981年の「国際障害者年」、1983年から1992年までの「国連・障害者の10年」の取り組みや「障害者生活圏拡大運動」とともに、「障害者自立生活運動」が展開された時期である。「優生思想」「自立と自己決定」「障害文化」などについて激しく議論された。「青い芝の会」(横塚晃一、横田弘)や「札幌いちご会」(小山内美智子、沢口京子)などによる社会的差別・偏見に対する糾弾闘争が思い出される。それにしても、横塚晃一の『母よ! 殺すな』(すずさわ書店、1975年2月)はあまりにもインパクトの強い本であった。
〇そしていま、この詩の主語(「主役」)を「政府や行政」、「ボランティアの犬達」を「ボランティアの私達」に置き換えると、例えば、「国や行政は、ボランティアの私達をアテにならないものに頼らせ、巧みに甘えさせ、優しく自滅させる」などとなろうか。そこにあるのは政府・行政主導の「地域共生社会」「地方創生」「一億総活躍社会」の実現や、ボランティアによる国民保護活動の展開(「国民保護法」)にむけた「篭絡」(ろうらく。巧みにいいくるめて人を自由に操ること)である。気がつくと、恣意的に解釈されている「積極的平和」のために「戦争ボランティア」が動員・派遣される、ということが一番怖い。
〇筆者は、ボランティア活動については大まかには、「人権意識や正義感覚に基づく主体的・自律的な住民による・住民のための市民活動」である。「主体的」とは「他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま」であり、「自律的」とは「外部からの支配や制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること」をいう(『広辞苑』第7版)。すなわち、市民活動は、「言われなくてもするけれど、言われてもしない」(早瀬『前掲書』231ページ)活動である。ボランティア活動は、原則的に「無償」であり、「有償ボランティア」という言葉は矛盾した使用法である。「市民活動」は、(無償の)ボランティア活動と非営利・有償活動の両者を包含するものである。そして、ボランティア活動は、「ボランティアのいない地域・社会」づくりをめさず活動であり、そこにあるのは主体的権利と社会的責務としての市民活動である、と考えている。
〇なお、ボランティアの基本的な「原則」や「性格」、「最も重要な要件」や「一番の核にある要素」は「自発性」であるといわれる。『広辞苑』によると、「自発性」は「他からの教示や影響によるのでなく、内部の原因・力によって思考・行為がなされること」、「自発的」は「自分から進んでするさま」である。類似用語の「自主性」は「他者に依存せず、自分で行動することができる性質」、「自主的」は「他からの干渉などを受けないで、自分で決定して事を行うさま」をいう。
〇ここで、高島巌の「ボランティアは活動ではない。生活なのだ」「ボランティアは人間にだけあたえられた楽しき権利なのである」、木谷宜弘の「ボランティアは自由である。だから楽しい」「共生から共働、そして共創の社会づくりへ」という言葉が思い起こされる。

補遺
① 鳥居一頼の「『ボランティア拒否宣言』(花田えくぼ)を読み解く」について、鳥居の「解釈」の部分(「学生の意見をまとめた」部分もある)を紹介しておくことにする(「前掲論文」95~103ページ)。

② 早瀬昇の「『ボランティア拒否宣言』から学ぶ」について、上記の本文で引用した部分と一部重複するが、紹介しておくことにする(『前掲書』91~93ページ)。

大橋謙策「地域共生社会づくりとコミュニティソーシャルワーク」

謝辞
本稿は、2018年9月20日、関市・関市社会福祉協議会主催の「大橋謙策先生 講演会」の際に配布されたレジュメ・資料です(一部編集)。本ブログへのアップをご快諾いただいた大橋謙策先生と関市・関市社会福祉協議会に衷心より厚くお礼申し上げます。

大田堯×中村桂子:大田教育学の「生命の視点」に学ぶ―『百歳の遺言―いのちから「教育」を考える』読後メモ―

〇筆者(阪野)にとっては珍しい事態であると思っているが、いま、机の上に20冊ほどの本が未読のまま積んである。いわゆる積読(つんどく)である。その原因のひとつは、本ブログの「ディスカッションルーム」(70)~(79)に、「あの頃の福祉教育、その記憶と記録(1)~(10)」(2018年5月16日~9月1日投稿)という題目のもとで資料紹介を行ったことによる。資料の検索と整理、通読や拾い読みは、「あの頃」を思い出す楽しいもの(作業)であった。ただし、ブログにアップした資料によって、筆者の福祉教育の実践や研究についての視点や考え方が問われることは承知している。
〇20冊ほどの本のなかに、B6変型判、135頁の手ごろな本がある。大田堯(おおた・たかし、教育研究者)と中村桂子(なかむら・けいこ、生命誌研究者)の対談本『百歳の遺言―いのちから「教育」を考える』(藤原書店、2018年4月。以下[1])がそれである。その「帯」の文章(「帯文」)は、次の通りである。「『生きる』ことは『学ぶ』こと/生命(いのち)の視点から教育を考えてきた大田堯さんと、40億年の生きものの歴史から、生命・人間・自然の大切さを学びとってきた中村桂子さん。教育が『上から下へ教えさとす』ことから『自発的な学びを助ける』ことへ、『ひとづくり』ではなく『ひとなる』を目指すことに希望を託す」。
〇[1]の内容は深くて広い。生命(いのち)とは何か、人間とは何か、教育とは何かについての対談は、本質的かつ学際的であり、鮮(あざ)やかで心地よいものでもある。ここでは、[1]から次の2つの文章だけを紹介しておくことにする(見出しと<注>は筆者)。

教育は生命の「根源的自発性」を補助する「アート」である
学習権の学習とは、食事や呼吸とおなじく、情報を自ら獲得したり、発信したりする営みである。いわば脳・神経系の行う新陳代謝の一つであり、人間が生きつづけていくうえでの生存権の一部、基本的人権のことをいう。子どもは生まれると同時に情報の新陳代謝を始める。情報は姿、形のないものだが、それなしには生きること、成長、発達すらもありえない。
教育はその天賦の学習力、生命の根源的自発性を補助する技(アート)である。したがって、上から与えられ、受けるものではなく、むしろその子その子(大人)に与えられたユニークな学習力に寄り添って、ひびき合い、「ひとなる」、一人前になるのを助ける重要な役柄を果たすものである。めいめいが自分の学習力の流儀で、教育を選び取る権利が保障されなければならない。それが「学習権を保障する教育への権利」だということになる。マララさんがテロへの唯一の武器として使った、エデュケーションの訳語としての教育は、この生存権としての学習権の保障を求める「教育」なのである。(大田、122~123ページ)

<注>マララ・ユスフザイ(Malala Yousafzai):2014年のノーベル平和賞を受賞したパキスタンの人権運動家。次の一節は、2013年7月に国連本部で行った演説のなかの名言である。
One child, one teacher, one book and one pen can change the world. Education is the only solution. Education first.(1人の子ども、1人の先生、1冊の本、1本のペンで世界を変えられる。教育こそがただ一つの解決策である。エデュケーション・ファースト。)

教育は「ひとなり」であり、「人づくり」ではない
「ひとなる」に対する言葉は「ひとづくり」でしょう。政府の看板政策として「人づくり革命」という言葉が使われています。それには「生産性革命」が並んでいますから、効率よい労働に従事する人材(この言葉も気になるものです)獲得を目的とする「人づくり」であることがわかります。
生きものは多様であるところに意味があり、もちろん人間にも多様性が重要です。(中略)私たち人間も生きものの一つとしてこの歴史の中で生まれてきたのですから違いをもつ一人ひとりが存在することに意味があるのです。その一人ひとりが思いきり生きることを応援するのが社会の役割でしょう。現代社会は、効率を求め、人間を機械のように見てしまう恐さがあります。大田先生の「ひとなる」という言葉には、均一のものを早くつくるという見方に対して、生きものとしての時間を大切にし一人ひとりが個性を生かして育っていく過程を見つめる眼を感じます。
生きものにとって大事なのは続いていくことであり、今一番望むことは次世代、その次の世代と続く未来の人々に誰もが生き生きと生きられる社会を渡すことです。(中略)今やるべきことは、もっともっと人間について考えることなのではないでしょうか。(中村、128、129~130、134~135ページから抜き書き)

〇[1]を読んだあと筆者は、芋(いも)づる式に、大田が[1]のなかで紹介している(14ページ)『地域の中で教育を問う』(新評論、1989年11月。以下[2])と、[2]のなかで紹介している(2ページ)『教育とは何かを問いつづけて』(岩波書店、1983年1月。以下[3])を再読することにした。その理由は、大田の「戦後の教育と教育研究」の足跡を再認識することにあり、それを通して[1]の理解を深めたいという思いからでもある。大田によると、「『地域の中で教育を問う』ということは、ふつうの人、人民(ピープル)に教育をゆだねるという心をこめたもの」([1]19ページ)であり、「『教育とは何かを問いつづけて』は、戦後の私の教育探求の跡を一思い(ひとおもい)に学生諸君に語ったのが基となって」([2]2ページ)いる。
〇ここで、[2]と[3]からそれぞれ、一つの文章を紹介しておくことにする(見出しは筆者)。

教育は「地域」からの教育改革の「土俵づくり」が重要である
子どもたちが、単に親のものでなく、まして国家に従属するものではない。人類という動物種の一員であることを考えると、子育てという事業は、種の持続という最も広い意味での公的事業だというべきである。
一大事業としての教育は、当然地域を基盤として進められる。地域は幼年期から学童期、青年期、壮老年期を通じての人間発達の社会的胎盤である。(中略)かりに、中央権力のもとでどんな理想的な教育改革の構想がねられたとしても、この地域からの改革の土俵づくりなしにはその実現は不可能である。この土俵づくりに決定的な役割を果たすのが地域の親と教師とである。
「子は天からの授かりもの」、みんなで育てるほかはない(中略)。そういう中で、はじめて親は過大な身勝手な注文を抑制し、教師もみんなの知恵を借りて子を育てるということで、親の参加に寛容になる。こういう親や教師の、子育てをめぐる協力の中での自己変革なしには、教育改革の土俵はできあがるはずはない。([2]341、343~344ページから抜き書き/付記(補巻)369、370~371ページから抜き書き)

教育は人間という「種の持続」を図ることをめざすものである
私自身の戦後の歩みも、(中略)人間にとって「教育とは何か」ということを尋ね続ける旅であったともいえそうです。
そのあげく、いま辿りついているのは、教育を人間という種の持続の問題の一環として捉えるということです。子育て・教育という次の世代への働きかけも、その時代、その社会のさまざまな要求を無視することはむろんできません。それらは教育にとって必要不可欠なものです。けれども、そういうあらゆる当面の諸要求に優先して、教育は人を人らしくすること、種の持続をはかることをめざすものだということです。
平和を願い、戦後にこだわりながら、教育とは何かを求めての私の旅は、これからも続けられます。それにしても、うかつにも教育という大それた研究課題を選んだ私としては、子育て・教育が統治者の便宜のためのものでないこと、教育学者や教師のためにあるのでもないこと、突き上げられるような実感なしに、軽々しく人権としての教育を口にしないことなどを心にとめつつ、さまざまの試練に耐えて、子どもの人としての自立を励ます親や教師たちの努力に学びながら、種の持続のいとなみとしての教育を問いつづけたいと考えています。([3]216、227ページから抜き書き)

〇大田にあっては、「子は天からの授かりもの」である。子どもが育つこと、一人前になること、「人格の完成をめざす」ことを、「ひとなる」という。人間は、全ての動植物がもっている「変わる力」「自己創出力」(「根源的自発性」)によって、置かれた環境のなかで「折り合い」をつけながら生きている。それは学習を重ねることでもある。生きものの根本には学習がある。その内発性による学習(学習権)を支援・保障し、一人ひとりの「持ち味を引き出し合う」ものが、教育である。それを通して人間は、人間という「種の持続」を図るのである。そういう意味において、教育は公的な事業であり、人類の一大事業である(大田堯『大田堯 自撰集成 4 ひとなる―教育を通しての人間研究』藤原書店、2014年7月。大田堯・山本昌知『ひとなる―ちがう・かかわる・かわる』藤原書店、2016年10月、等参照)。
ここに「大田教育学(教育人間学)」の原点のひとつ(「生命」の視点)がある。
〇ところで、大田の対談相手である中村は、[1]のなかで、小学校6年生の国語の教科書に「生き物はつながりの中に」という文章を書いていることを紹介している。中村は言う。その文章を読んだ子どもたちから手紙が来る。そのなかに、「いじめられてつらいから、僕は死のうと思っていました。でも、この「生きもののつながりの中に」を読んだら、僕がもしここで死んだら、このつながりを切っちゃうことになると思えてきて、死んではいけないと思いました」というのがあった。「嬉しかったです。(中略)これだけ受け止めてもらえると感激します」([1]92ページ)。
〇その文章を紹介しておきたい(中村桂子「生き物はつながりの中に」『国語 六 創造』光村図書、2014年3月検定済、226~229ページ)。

〇大田と中村の対談([1])は、福祉教育の実践と研究における根源的な問いでもある「生命の哲学」(いのちを生きること)について思い至らせる

付記
大田は言う。教育に対する国の介入が一段と悪化している。私たち自身の内面にある「教育」の既成観念(上から同化・同調を求めて教えたがる。教えることが過剰、学ぶことが過少)を克服する必要がある。「自然の生命が求める教育とは何か」を考え合おう、というのが『自撰集成』(全4巻・補巻)発刊の背景・理由である。
(1)『生きることは学ぶこと―教育はアート』(大田堯 自撰集成 1)藤原書店、2013年11月。
(2)『ちがう・かかわる・かわる―基本的人権と教育』(大田堯 自撰集成 2)藤原書店、2014年1月。
(3)『生きて―思索と行動の軌跡』(大田堯 自撰集成 3)藤原書店、2014年4月。
(4)『ひとなる―教育を通しての人間研究』(大田堯 自撰集成 4)藤原書店、2014年7月。
(5)『地域の中で教育を問う<新版>』(大田堯 自撰集成 補巻)藤原書店、2017年11月。

あの頃の福祉教育、その記憶と記録(10):東京都における「福祉教育研究」等―資料紹介―

〇1970・80年代の東京都における「福祉教育研究」(報告書)で注目されるものに、東京都社協の「福祉教育研究委員会」(委員長・一番ヶ瀬康子、1970年度~1973年度)がまとめた『社会福祉の理解を高めるために』と、「福祉教育推進研究委員会」(委員長・大橋謙策、1985年3月~1987年12月)がまとめた『学校における福祉教育を考える―都内中学校・高校の実践をとおして―』がある。ともに総合的かつ実践的な検討が行われ、福祉教育の必要性と重要性が提起されるとともに、福祉教育実践の理論的先鞭がつけられた。
〇前者は、1970年11月に東京で開催された「昭和45年全国社会福祉会議」の第3専門委員会において「社会福祉の理解を高めるために―教育と社会福祉―」というテーマのもとに、福祉教育について研究協議されたことを契機にするものである。報告書は3部からなり、1971年3月、1972年7月、1974年3月にそれぞれ刊行された。そこでは、住民の社会福祉への認識を高めるためには、住民自身による主権者・生活者としての問題発見、生活経験学習が必要であり、福祉教育を住民の自主的学習権として捉えている。
〇初年度の報告書『社会福祉の理解を高めるために―福祉と教育―』(1971年3月)では、社会福祉の理解を高めるための「社会福祉教育」を、民主的「市民教育」として捉え、「生活権保障を実質化するための教育」として性格づけている。そして、福祉教育を展開するうえでの要点や課題について言及している。以下は、しばしば引用される一節である(3~5ページ。一部抜き書き)。それは、福祉教育実践の視点や「構成要件」を示している。

〇後者は、「福祉教育研究委員会」の研究の流れに続くものであるが、1977年度から始まる「児童・生徒のボランティア活動普及事業」(国の名称は「学童・生徒のボランティア活動普及事業」)の取り組みを踏まえたものである。内容的には大きく4部からなっている。第1は、福祉教育実践研究の視点で福祉教育の必要性を学校教育と社会福祉の立場から説き、福祉教育の基本的な考え方について述べている。第2は、学校教育現場における福祉教育実践を活動形態別にまとめ、福祉教育の進め方について述べている。第3は、学校における福祉教育を進めるうえで、社会福祉施設・家庭・社協に求められる条件整備や役割について述べている。そして第4は、それらの点を踏まえて、今後の福祉教育推進上の留意点や課題などについて述べ、提言を行っている(8ページ)。
〇ここでは、委員会での議論をふまえてまとめられた「福祉教育の概念」と、福祉教育実践の「構成要件」についての記述を紹介しておくことにする(31~32ページ)。

〇なお、東京都社協は、上記の報告書の刊行後、広報誌『福祉広報』(第189号、1984年8月。第352年、1988年3月)に福祉教育研究委員会(一番ヶ瀬)での研究の経緯や内容の概要について、また福祉教育推進研究委員会(大橋)に参加した現場教員らによる座談会の様子を報じている。参考に供しておく。
〇東京都教育庁指導部は、『福祉教育指導資料』を1983年3月と1986年3月に作成・配布した。前者は、「福祉教育の基本的な考え方を示すとともに、各学校種別ごとに学習指導要領に基づいて指導内容とその扱い方の例等」(1ページ)を中心に編集されている。後者(「第2集」)では、「福祉教育の内容を更に具体的にするため、各校種別の各教科・領域における実践事例を示すとともに、東京都社会福祉協議会の『児童・生徒のボランティア活動普及事業』協力校の実践事例及び関連資料」(「はじめに」)をまとめている。
〇本稿では、東京都社協の『研究報告書』と東京都教育庁指導部の『指導資料』の一部を紹介することにする。なお、私事にわたるが、筆者(阪野)は1985年7月から1995年7月の期間、東京都社協「社会福祉協議会職員研修」(「福祉教育」)の講師を務めさせていただいた。東京ボランティアセンター(現・東京ボランティア・市民活動センター)の初代所長・吉澤英子先生や2代目所長・山崎美貴子先生先生、福祉教育担当であった森本佳樹さんなどには格別のご指導とご厚情を賜った。感謝である。吉澤先生には、全国児童館連合会(現・児童健全育成推進財団)でもお世話になった。

(1)東京都社協・福祉教育研究委員会『社会福祉の理解を高めるために―福祉と教育―』(福祉教育研究委員会報告)1971年3月、「まえがき」「委員名簿」「目次」、1、3~7ページ(抜粋)

(2)東京都社協・福祉教育研究委員会『社会福祉の理解を高めるために―住民の社会福祉問題の認識に関する調査報告―』(福祉教育研究委員会報告)1972年7月、「まえがき」「委員名簿」「もくじ」「はじめに」(抜粋)

(3)東京都社協・福祉教育研究委員会『社会福祉の理解を高めるために―社会福祉の学習と実践について―』(福祉教育研究委員会報告)1974年3月、「まえがき」「目次」、1ページ(抜粋)

(4)東京都社協『福祉広報』第189号、1974年8月、1~4ページ(抜粋)

(5)東京都教育庁指導部『福祉教育指導資料』1983年3月、「はじめに」「目次」、3~5ページ(抜粋)

(6)東京都教育庁指導部『福祉教育指導資料』(第2集)1987年3月、「はじめに」「目次」、3~5、28、50、70、72ページ(抜粋)

(7)東京都社協『学校における福祉教育を考える―都内中学校・高校の実践をとおして―』(福祉教育推進研究委員会報告書)1988年3月、「あいさつ」「もくじ」「はじめに」「委員名簿」、17~36、113~119、165~168ページ(抜粋)

(8)東京都社協『福祉広報』第352号、1988年3月、2~7ページ(抜粋)

〇「あの頃の福祉教育、その記憶と記録」は、ブログ読者のご意見やご要望もあって、10回を重ねた。1970年代から1980年代(一部1990年代)にかけての福祉教育は、組織化や制度化の道程にあり、理論化や体系化も緒についたばかりであった。しかし、そこには、福祉や教育が抱える多様で複雑な課題を解決するために、強い熱意と信念をもった実践家や研究者が互いの実践や研究から学び合い、新しい福祉教育を創り出す“喜び”と“楽しさ”、そして何よりも“輝き”があった。
〇日本社会はいま、政治や行政、福祉や教育などの多くの局面において、「劣化」や「瓦解」が進んでいる。「地域共生社会」について云々(うんぬん)するどころではない。2018年8月、中央省庁や地方自治体、さらには裁判所などによる障がい者雇用の水増しの実態が白日のもとにさらされた。それは、「障がい者の存在を否定すること」につながり、「一億総活躍社会」「働き方改革」「女性の社会進出」そして「我が事・丸ごとの地域共生社会づくり」などもすべて画餅に帰す事態である。なお、障がい者雇用制度では、特定子会社の雇用を親会社の雇用とみなし、障がい者を特殊な職場環境に追いやることができる。それは、ノーマライゼーションの理念に反するものでしかない。
〇2年前の2016年7月、日本中を震撼させた相模原市の障がい者施設殺傷事件が起こった。障がい者の雇用問題にしろ施設殺傷事件にしろ、これらはヒトが「よりよく生きる」(ための福祉と教育)以前の、「ただ生きる」(ための福祉と教育)の意味を問うている。日本社会では、高尚な理念の空転(「言葉のお守り的使用」:鶴見俊輔)が続き、偏見・差別・抑圧は何ら解消されていない。むしろ、新たな偏見や差別が顕在化してきている。一言でいえば、「日本社会が危ない」(破局的事態)。
〇そうしたなかで、今回の連載は、あの頃の高揚感を思い出し、豊かで快適な地域・社会づくりの担い手を育成する「福祉教育」(「市民福祉教育」)の原点に立ち返り、その基礎・基本について再確認や再認識することの必要性や重要性を痛感していることによる。それは「歴史に学ぶ」ことを意味する。そしてその底流には、稚拙ながらも、筆者の「市民福祉教育は福祉と教育の根幹をつくる」という思いや考えがある。

付記
国レベルの動きに関する資料を紹介しておきたい。
資料1は、全社協「要望書(案) 『福祉教育』を学習指導要領に位置づけて下さい」(1984年5月15日)である。文部省への提出が予定されていたが、結果的には提出されなかった。資料2は、厚生省社会局「福祉教育のあり方について(要望)」(1984年5月31日)である。自民党内の「教育問題連絡協議会」に提出された。資料3は、全社協(会長・灘尾弘吉)から臨時教育審議会(会長・岡本道雄)に提出された「教育改革に関する提案について」である。それを報じた福祉新聞の「社説」が資料4である。
なお、時期が前後するが、周知の通り1977年2月17日、厚生省社会局長・児童家庭局長名で文部省初等中等局長に宛てて「福祉教育のあり方について(要望)」が提出された。
その全文は、本ブログの「ディスカッションルーム」(78)「あの頃の福祉教育、その記憶と記録(9):栃木県社会福祉教育センターによる「社会福祉教育」―資料紹介―/2018年8月20日」で紹介している。参照願いたい。

資料1 全社協/要望書(案) 「福祉教育」を学習指導要領に位置づけて下さい/1984年5月15日

資料2 厚生省社会局/福祉教育のあり方について(要望)/1984年5月31日

資料3 全社協/教育改革に関する提案について/1985年3月6日

資料4 「福祉新聞」第1320号/1985年4月15日

あの頃の福祉教育:その記憶と記録(9):栃木県社会福祉教育センターによる「社会福祉教育」―資料紹介―

〇1970年代後半以降、「社会福祉教育」に積極的・政策的に取り組んだ地方自治体のひとつは栃木県である。
〇その経緯を概観すると、栃木県は、1976年11月、民生部長の臨時の私的諮問機関として、栃木県における福祉教育のあり方について検討する「栃木県福祉教育懇談会」(座長・仲村優一)を設置した。懇談会は、1976年11月と翌年2月の2回開催され、民生部が既にまとめていた「福祉教育機関設置にかかる中間報告」(民生部の内部資料)について検討・協議した。その結果を、1977年2月に、「栃木県福祉教育機関設置構想にかかる栃木県福祉教育懇談会の意見の提出について」(意見書)と題して意見具申した。それを受けて、1977年4月、栃木県知事が栃木県社会福祉審議会に対して、「新長期総合計画」(1975年6月策定)に基づく「栃木県社会福祉教育機関設置にかかわる総合基本構想について」諮問した。栃木県社会福祉審議会は、「総会」(2回)、「分科会」(5回)、「実態調査」(1回)、「起草委員会」(2回)を開催して、審議を進めた。その結果を、1978年1月に、「栃木県社会福祉教育機関設置にかかわる総合基本構想について」と題して答申を行った。それに基づいて、1978年4月、「栃木県社会福祉教育センター」(民生部厚生課福祉教育班の名称変更)を発足させた。
〇栃木県における「社会福祉教育」の取り組みは、教育行政(県教育委員会)ではなく一般行政(県民生部)によるものであったこと、地域福祉を推進する重要な方策のひとつとして「社会福祉教育」を位置づけたこと、社会福祉教育の専門機関として「栃木県社会福祉教育センター」を設置したこと、同センターでは「福祉教育」「社会福祉専門教育」「研究調査」「福祉情報」(1979年4月から新たに「老人福祉大学校」の運営が加えられた)を包含した総合的な事業・活動の展開が図られたこと、などを特色とした。
〇本稿では、筆者(阪野)の手もとにある「栃木県社会福祉教育センター」と「社会福祉教育」に関する資料のうちから、その一部を紹介することにする。① 栃木県社会福祉審議会『栃木県社会福祉教育設置にかかわる総合基本構想について』(答申)1978年1月、② 栃木県社会福祉教育センター『昭和53年度 業務概要』1978年4月、③栃木県社会福祉教育センター『昭和54年度 業務概要』1979年4月、④牧恒男「行政職員・教職員の研修における福祉教育の取り組み―栃木県の取り組みから―」1983年9月、⑤栃木県教育委員会高校教育課『「福祉に関する教育」の手引』(教育課程研究資料第41集)1982年2月、⑥栃木県教育委員会高校教育課『昭和58年度 県立学校における指導の指針』1983年1月、⑦栃木県教育委員会・栃木県社会福祉教育センター『小・中学校 福祉教育の手引』(福祉教育シリーズ第10集)1984年3月、がそれである。なお、⑥については、1980年度の『県立学校における指導の指針』から、その1項目に「福祉に関する教育」が付け加えられている(大橋謙策・他『福祉教育の理論と展開』(シリーズ福祉教育1)光生館、1987年9月、92ページ)。
〇以上の資料のほか、筆者の手もとには広報紙の「ミニ福祉ニュース」(月刊)と「福祉のひろば」(季刊)、福祉教育副読本の『福祉を考える(福祉教育シリーズ)』(年刊)がある。それらは、栃木県社会福祉教育センターの初代所長の三村和男さんや福祉教育担当の牧恒男さんなどからご恵贈賜ったものである。懐かしく思い出される。

(1)栃木県社会福祉審議会『栃木県社会福祉教育機関設置にかかわる総合基本構想について』(答申)1978年1月、「答申書(かがみ)」「目次」、1~36ページ(抜粋)

(2)栃木県社会福祉教育センター『昭和53年度 業務概要』1978年4月、全文

(3)栃木県社会福祉教育センター『昭和54年度 業務概要』1979年4月、「はじめに」「目次」、1~17ページ(抜粋)

(4)牧恒男「Ⅲ 行政職員・教職員の研修における福祉教育の取り組み―第1章 栃木県の取り組みから―」『学校外における福祉教育のあり方と推進』(福祉教育研究委員会中間報告)全社協・全国ボランティア活動振興センター、1983年9月、「目次」、75~92ページ(全文)

(5)栃木県教育委員会高校教育課『「福祉に関する教育」の手引』(教育課程研究資料第41集)1982年2月、「まえがき」「本書の利用に当たって」「目次」、1~6ページ(抜粋)

(6)栃木県教育委員会高校教育課『昭和58年度 県立学校における指導の指針』1983年1月、「まえがき」「目次」、34ページ(抜粋)

(7)栃木県教育委員会・栃木県社会福祉教育センター『小・中学校 福祉教育の手引』(福祉教育シリーズ第10集)1984年3月、「序にかえて」「豊かな人間的交流の体験を」「本書の利用にあたって」「目次」、6~12ページ(抜粋)


〇「栃木県社会福祉教育センター」は、「民生部」内の「厚生課」と「障害福祉課」「老人福祉課」「児童家庭課」の組織と業務の一部を分野横断的に統合化し、「社会福祉教育」の一元化・強化を狙ったものであり、厚生課を主管課とする出先機関であった。しかし、それは、民生(福祉)行政と教育行政が連携・協働(共働)し、縦割り行政の弊害を打破するには不十分なものであったと言わざるをえない。すなわち、「社会福祉教育」は福祉行政から提唱されたものであり、「福祉教育」が学習指導要領に明記されていないことなどにより、教育行政にあっては主体的・積極的ではなかったのである。
〇そうしたなかで、厚生省は、1977年2月、社会局長・児童家庭局長名で文部省初等中等局長に宛てて「福祉教育のあり方について(要望)」を提出した。以下はその全文である。周知の通り、1977年4月から、厚生省と全社協による国庫補助事業としての「学童・生徒のボランティア活動普及事業」(通称「社会福祉協力校」事業)が始まる。

付記
〇当時、筆者は、地域の福祉教育実践現場における「ネットワーク組織としての福祉教育推進協議会」について拙い考えをめぐらしていた。蛇足ながら、その拙稿の一部を付記しておくことにする。汗顔の至りであるが、筆者の「あの頃の福祉教育」である(阪野貢『福祉のまちづくりと福祉教育』文化書房博文社、1995年5月、167~170ページ)。

〇「速く」「強く」「遠く」「広く」そして「手際よく」、ひたすら成長をめざしてきたグローバリゼーションの時代は終焉しつつある、と言われる。「成長から定常へ」「グローバリズムからローカリズムへ」である。その足もと(筆者が属するひとつの世界)では、社会福祉や教育をめぐる政治と行政の退廃や劣化、コミュニティサービス(地域貢献活動)をはじめサービスラーニングやアクティブ・ラーニング(教育手法)などの「カタカナ」言葉への無批判的な模倣や盲従、などが進んでいる。こうした動きのなかで、福祉教育の「有用性」や「固有性」「自律性」とは何かが改めて問われるほどに(問うべきほどに)、今日の「福祉教育」を取り巻く環境は極めて厳しくなっており、危機意識を感じている。筆者の「いまの福祉教育」についての認識である。福祉教育が輝いていたのは「今は昔(むかし)」のことであろうか。

あの頃の福祉教育、その記憶と記録(8):日本社会事業大学大橋研究室「社会教育行政における福祉教育の現状」等―資料紹介―

梅雨空に 「九条守れ」の 女性デモ (さいたま市「三橋公民館だより」/2015年6月提訴)
学習権は、人間の生存にとって不可欠な手段である。 (ユネスコ「学習権宣言」/1985年3月採択)

〇全社協(「福祉教育推進検討委員会」)によると、社協が積極的・意識的に取り組むべき「地域福祉を推進するための福祉教育とは、平和と人権を基盤にした市民社会の担い手として、社会福祉について協同で学びあい、地域における共生の文化を創造する総合的な活動である」。福祉教育の本質は、「住民参加と住民自治(市民自治)」、すなわち「平和と人権を基盤にした市民社会の担い手」(『社会福祉協議会における福祉教育推進検討委員会報告書』全社協・全国ボランティア活動振興センター、2005年11月、5ページ)を育成することにある。 
〇全社協(「福祉教育実践研究会」)はまた、「住民主体による地域福祉推進のための『大人の学び』」について論究する。すなわち、社協は、「今こそ福祉教育における『大人の学び』について、積極的かつ戦略的に取り組むことを通じ、『地域の福祉力』を高める使命を果たしていくこと」が求められている。「大人の学び」の意義は、「人生をより豊かにするために、自発的に今までの経験や、知識を活かして福祉を学びあい、共生の文化を創造するための実践をすること」にある。社協には、そのような機会を積極的に提供することが求められている(『住民主体による地域福祉推進のための「大人の学び」』全社協・全国ボランティア・市民活動振興センター、2010年11月、6、7ページ)、という。
〇日本社会はいま、政治と行政の劣化と退廃、右傾化・全体主義化と民主主義の破壊が進んでいる。そうしたなかで、今日、社会教育行政や社会教育施設において「公正中立」という観点や名目で「大人の学習権」を侵害したり、「学習の自由」や「表現の自由」あるいは「公的施設の利用」を規制する動きがある。
〇「梅雨空に 『九条守れ』の 女性デモ」。この俳句は、さいたま市立三橋(みはし)公民館の「公民館だより」(2014年7月号)への掲載が拒否された、74歳の女性が詠んだもの(「九条俳句」)である。彼女は、2015年6月、さいたま市に対し損害賠償と俳句の掲載を求めて訴訟を提起(提訴)した。「九条俳句不掲載損害賠償等請求事件」である。
〇この「九条俳句」訴訟について、原告「補佐人」を務めた佐藤一子先生はいう。本件訴訟の意義は、第1に「国民の学習権を公教育理念として明確化する初めての裁判」であること。第2に「『学習の自由・表現の自由』を保障する『公の施設』としての公民館の公平・中立性のあり方を問う裁判」であることにある。併せて、佐藤先生によると、公民館(社会教育施設)における「政治的課題の学習や政治的な意見表明の自由」は保障されなければならない。すなわち、「社会的問題、現代的な課題の学習」は「奨励」されなければならない。それによって、「積極的シティズンシップの促進(投票行動、民主的な社会の担い手、自覚的に社会に働きかける力、自治能力)」が図られることになる。「公民館だより」は、「地域住民の学習を奨励し学習成果を共有する(中略)欠くことのできない媒体」(第9回口頭弁論、補佐人・佐藤一子「意見陳述書」2017年1月)、すなわち「公民館活動の推進に資する媒体」である。こうした言説から要するに、“法律の素人”である筆者(阪野)にあっても、「公民館だより」への不掲載は「検閲」や「統制」以外の何物でもない。日本の教育(公民館活動等)は危機的状況にある、と思わざるを得ない。
〇周知の通り、「公民館は、市町村その他一定区域内の住民のために、実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もつて住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与することを目的とする」(社会教育法第20条)施設である。すなわち、公民館は、住民参加と住民自治による“まちづくり”の主体者意識や力量形成を図るための中核的な学習・文化施設であることが求められる。
〇そうだとすれば、大橋謙策先生が「(2010年代以降は)福祉はまちづくり」(山崎亮『縮充する日本―「参加」が創り出す人口減少社会の希望―』PHP研究所、2016年11月、335ページ)であると説くことからも、福祉教育はこれまで以上に公民館(社会教育)に無関心や無関係ではいられない。福祉教育は学校教育のみならず、社会教育(公民館)との連携・共働が厳しく問われることになる。しかしこれまで、福祉教育関係者は社協に過剰な期待(理想)や要求を押し付け、一部の実践や研究を除いて、社会教育との「共働」関係を等閑視してきたのではないか。福祉教育は、社協や地域福祉の専売特許ではないことを強く認識すべきである。言い過ぎであろうか。
〇これもまた周知のことであるが、1985年3月にフランスのパリで開催されたユネスコの第4回「国際成人教育会議」で、「学習権宣言」(The Right to Learn)が採択されている。その宣言では、学習権とは「読み書きの権利であり、問い続け、深く考える権利であり、想像し、創造する権利であり、自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利であり、あらゆる教育の手だてを得る権利であり、個人的・集団的力量を発達させる権利である」とした。そして、「学習権は、人間の生存にとって不可欠な手段である」と指摘している。
〇また、ユネスコの「21世紀教育国際委員会」は1996年4月、『学習:秘められた宝』(Learning:The Treasure within 、ドロール・レポート)を発表した。そこでは、生涯学習の視点から、人類発展のための教育のあり方として次の4つの柱を提示した。①「知ることを学ぶ」(Learning to know)、②「為すことを学ぶ」(Learning to do)、③「共に生きることを学ぶ」(Learning to live together)、④「人間として生きることを学ぶ」(Learning to be)、がそれである。
〇①「知ることを学ぶ」については、「十分に幅の広い一般教養をもちながら、特定の課題については深く学習する機会を得ながら『知ることを学ぶ』べきである」。②「為すことを学ぶ」については、「単に職業上の技能や資格を取得するだけではなく、もっと広く、多様な状況に対処し、他者と共に働く能力を涵養するために『為すことを学ぶ』のである」。③「共に生きることを学ぶ」については、「1つの目的のために共に働き、人間関係の反目をいかに解決するかを学びながら、多様性の価値と相互理解と平和の精神に基づいて、他者を理解し、相互依存を評価することである」。④「人間として生きることを学ぶ」については、「個人の人格を一層発展させ、自律心、判断力、責任感をもってことに当たることができるよう、『人間としていかに生きるかを学ぶ』のである」(社会教育推進全国協議会編『社会教育・生涯学習ハンドブック(第9版)』エイデル研究所、2017年10月、202ページ)、と説いている。こうした考え方については、地域と国と世界のレベルでグローバル化と文化の多様性をめぐる諸問題が複雑化・深刻化するなかで、「学習権」や「まちづくり」、あるいは「シティズンシップ(市民的資質・能力)と市民協働(共働)」などをめぐって自覚的でなければならない。
〇続いて、ユネスコは1997年7月、ドイツのハンブルグで開催した第5回「国際成人教育会議」で、「ハンブルグ宣言」(The Hamburg Declaration on Adult Education)を採択した。それは、「学習権宣言」を修正・発展させたものである。そこでは、「成人教育は1つの権利以上のものになる。つまり成人教育は21世紀への鍵となる。成人教育は行動的な市民性が生み出したものであり、また社会における完全な参加のための条件でもある」ことが強調された。そしてそれを実現するための「未来のアジェンダ(行動目標)」が作成された(『同上書』203~207ページ)。
〇筆者はいま、以上のような認識や理解のもとで、「大人の学習権」や「学習の自由」「表現の自由」などに関していくつかの問題意識と課題意識を持っている。そうしたなかで、筆者が「記憶」をたどって思い出すのは、(1)日本社会事業大学大橋研究室が発行した『社会教育行政における福祉教育の現状』(1977年8月)である。その後、(2)宮城県(1980年度)や秋田県(1981年度)、長野県(1983年度)などが取り組んだ、「福祉学習」を普及するための公民館指定事業である。(1)は、社会教育分野における福祉教育の実態を初めて明らかにしたものであり、「社会教育と福祉教育」のひとつの原典である。(2)については、福祉教育関係者は忘れがちであるが、全社協がいう「大人の学び」の推進を図るためにはいま、再検証と再評価を行うことが必要かつ重要となる。
〇そこで本稿では、まず(1)の報告書と、その理解を深め広げるために、同じ時期に『月刊福祉』(1977年10月号)に掲載された大橋先生の論考「地域福祉の主体形成と社会教育」を紹介する。(2)については、宮城県社協の「福祉学習普及公民館指定事業」に関する資料と、秋田県社協と長野県社協の「要綱」を紹介することにする。そのねらいは、改めて今後の「地域を基盤とした福祉教育」(学校福祉教育と地域福祉教育、すなわち「市民福祉教育」)のあり方について総合的に探究することにある。そして、その背景には、「平和と人権」「学習権と生涯学習」「シティズンシップと共働」等についてのグローカル(Think globally, act locally)な問題意識と課題意識がある。

(1)『社会教育行政における福祉教育の現状』日本社会事業大学大橋研究室、1977年8月、「はじめに」「もくじ」、1~30ページ(抜粋)

(2)大橋謙策「地域福祉の主体形成と社会教育」『月刊福祉』第60巻第10号(60巻記念号)、全社協、1977年10月、106~112ページ(全文)

(3)『昭和56・57・58年度指定 福祉学習と実践 豊かな人間性をめざして』宮城県社協、1984年3月、「はじめに」「目次」5~14、57~61ページ(抜粋)

(4)秋田県社協「秋田県福祉教育推進事業実施要綱」(1981年度~)、長野県社協「福祉学習モデル公民館設置要綱」(1983年度~)
① 秋田県社協「秋田県福祉教育推進事業実施要綱(県社協補助)」等

② 長野県社協「福祉学習モデル公民館設置要綱」等

付記(1)
「九条俳句」訴訟について、さいたま地裁(2017年10月13日判決)と東京高裁(2018年5月18日判決)は、「憲法に保障された住民の思想の自由・表現の自由は最大限に尊重されるべき」として、「公民館だより」への不掲載は「違法」であると断じ、慰謝料の支払いを命じた。しかし、掲載請求は、原告に「掲載請求権」はないとして棄却した。原告とさいたま市は、2018年5月31日、最高裁に上告した。以下に、原告の意見陳述書とさいたま地裁の判決文の一節を紹介しておくことにする。ともに刮目(かつもく)に値(あたい)するそれである(見出しは筆者)。(「九条俳句」市民応援団ホームページ参照)

原告の意見陳述書(2015年9月25日)―豊かな生涯学習―
俳句をはじめてから、興味、関心が広がり、物事をしっかり見るようになってきました。月一回の句会は、多くの事を学べる楽しい場となっています。/昨年6月初旬、銀座で集団的自衛権行使容認に反対する女性だけのデモに出会いました。雨の中、若い人から老人まで、子どもをおんぶしたり、ベビーカーを押している若い母親たちもいて、みんな「平和を守れ」「九条守れ」と声をあげながら行進している姿に自分の思いが重なりとても感動しました。/その時詠んだものが先の俳句です。

さいたま地裁の判決文(2017年10月13日)―教員の呪縛―
Aが、教育現場において、国旗(日の丸)や国歌(君が代)に関する議論など、憲法に関連する意見の対立を目の当たりにしてきたように、B及びCも、上記のような意見の対立を目の当たりにして、これに辟易(へきえき)しており、一種の「憲法アレルギー」のような状態に陥っていたのではないかと推認される。/Cら桜木公民館の職員らも、「九条守れ」という憲法に関連する文言が含まれた本件俳句に抵抗感を示し、(中略)十分な検討を行わないまま、本件俳句を本件たよりに掲載しないこととしたものと推認するのが相当である。

付記(2)
「生涯学習社会」や「知識基盤社会」「21世紀型市民」という言葉だけが躍(おど)っている。内閣府の「生涯学習に関する世論調査」によると、「この1年間に生涯学習をしたことがない」と答えた人は、1992年2月・51.8%、1999年12月・54.7%、2005年5月・51.5%、2008年5月・51.4%、2012年7月・42.5%、2015年12月・52.3%を数えている。これが日本の生涯学習の実態のひとつである。

あの頃の福祉教育、その記憶と記録(7):北海道社協による「福祉教育と学校経営」―資料紹介―

〇北海道社協・北海道ボランティアセンター(現・北海道ボランティア・市民活動センター)福祉教育専門委員会が1992年6月に発行した「ガイドブック」に、『福祉教育と学校経営』(子どもたちのボランティア活動推進のためのガイドブック/子どもと共に歩む シリーズ5)がある。それは、「学校経営の中に福祉教育を生かす」(1ページ)生かし方を纏めたものである。管見によると、この種の冊子(言及)はこれが嚆矢(こうし)であると思われる。その作業に関わり、中心的な役割を果たしたひとりに鳥居一頼(とりいかずより)先生がいる。
〇鳥居先生は、同じ時期(1992年6月)に、札幌で開催された「日本地域福祉学会第6回大会」において、「福祉教育推進のための中核組織機能についての一考察」というテーマで、北海道ボランティアセンター「福祉教育専門委員会」について自由研究発表されている。
〇このガイドブックと学会発表資料によって、(北海道における)1990年代初期の「福祉教育推進上の課題と展望」について考えることができる。本稿はそのための資料紹介である。なお、鳥居先生からはその後、資料のご恵贈を賜ったり、日本福祉教育・ボランティア学習学会の設立(1995年10月)に際して「呼びかけ人」としてお名前を連ねていただいた。感謝である。

(1)北海道社協・北海道ボランティアセンター福祉教育専門委員会『福祉教育と学校経営』1992年6月、「目次」、1~13、35~41ページ(抜粋)

(2)鳥居一頼「福祉教育推進のための中核組織機能についての一考察」1992年6月、1~5、9~11、20ページ(抜粋)

〇学校教育に関していま、従来からの「特色ある学校づくり」「地域に開かれた学校づくり」や、「魅力ある学校づくり」「地域とともにある学校づくり」、今回の学習指導要領の改訂(小・中学校は2017年3月告示、高等学校は2018年3月告示)によって「社会に開かれた教育課程」などの言葉(キーワード)をよく見聞きする。
〇新学習指導要領では、学校と保護者、地域社会との連携・協働を求めて、コミュニティ・スクール(学校運営協議会制度)の普及やアクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び)の導入、カリキュラム・マネジメント(教育課程の編成・実施・評価・改善によって組織的・計画的に教育活動の質的向上を図ること)の確立などが指摘された。また、「何を知っているか」にとどまらず、「何ができるようになるか」(「知識及び技能の習得」「思考力、判断力、表現力等の育成」「学びに向かう力、人間性等の涵養」)の明確化が図られた。新学習指導要領は、小学校は2020年度、中学校は2021年度からそれぞれ全面実施され、高等学校は2022年度から年次進行で実施される。
〇こうした政策動向は、結論的に言えば、学校現場の教育実態や学校と地域社会の協働の実相から遊離した、教育改革の名の下で進められる政治主導の、管理・統制教育の強化を内実とするものである。それは、一連の教育「改革」(現状打破)が財界(政府がいう「社会」)の意向を反映したものであることによる。
〇学校経営は、一般的・概説的には、学校教育目標を達成するために、学校経営方針(学校経営計画)を策定し、それに基づいて「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」の経営資源(経営要素)を有機的・効果的に活用して、Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)のマネジメントサイクル(PDCAサイクル)に従って行われる活動である。
〇日本の学校経営の基調は、「文部科学省による統制」「行政主導の学校経営」にある。また、学校や教師の専門性・優位性と保護者や地域住民の依存性・低位性がある。そうしたなかで、いま問うべきは、真に主体的・自律的で組織的・機動的な学校経営をどのように創造するか、そのための経営構造や経営過程、経営環境や経営戦略、そして経営「革新」(未来志向)をもたらすリーダーシップやメンバーシップはどうあるべきか、である。そこでは、すべての教職員と保護者、地域住民の学校経営への主体的・自律的な参加と、学校内外における経営資源の理性的・合理的な連携・協働(共働)が必要かつ重要となる。それが、学校経営(学校づくり)を地域経営(地域づくり)につなげ、その相互連関性を高めることになる。
〇約言・換言すれば、学校経営の基本的な課題は学校教育目標の設定であり、中核的なそれは教育課程の編成である。そして、それは、文字通りの地域社会の実態と児童・生徒の特性を踏まえたものでなければならない。しかも、そのための現場教師の専門的裁量を必要とする。強く留意すべきは、学校教育目標や教育課程を所与のものとして捉え、その具現化や実施の方法・手段の最適化を図るだけの学校経営は、思考停止や画一化を生み出す。そして、学校と地域社会との協働(共働)を形骸化させる、ということである。
〇上述の『福祉教育と学校経営』では、8項目にわたる「福祉教育の現代的課題」(1~2ページ)と「福祉教育を推進する7つの観点」(35~39ページ)が指摘されている。その多くは、今日の「学校経営における福祉教育」の未解決の課題であり、あるいは新たな課題として変容・変質している。また、「7つの観点」は、「学校経営における福祉教育」の基本的な観点である。しかしこれまで、福祉教育を「学校経営」の視点や枠組みで、総合的かつ体系的に論究することはほとんどなかったと言ってよい。
〇「福祉教育推進の中核組織」である市町村社協や設置されている「福祉教育専門委員会」は今日、一部を除いて、1990年代の“輝き”を失っている。地域福祉や社協活動は、「福祉教育ではじまり、福祉教育でおわる」と言われて久しいが、それは単なるスローガンでしかなかった(過去形)、といえば言い過ぎであろうか。
〇とは言え、そこでの言説にすべて首肯するものではないが、未来(あす)に望みをもっていま一度『福祉教育と学校経営』を読み返したい。その際、1990年代の福祉教育を懐かしみ、当時(当初)の理解や思考に固執してはならない。学校や教育は、時代と社会(「財界」ではない)の要請によって変質する。そして、福祉教育は、体制的で実用的な教育戦術ではなく、長期的視野に立ったボトムアップの教育戦略でなければならない。留意したい点である。

追記―鳥居一頼先生からの吉報―
「あの頃の福祉教育、その記憶と記録(7):北海道社協による『福祉教育と学校経営』―資料紹介―」(2018年7月12日投稿)について、鳥居一頼先生から丁重なメールをいただきました。相変わらずアグレッシブに地元で新しい「仕事」を立ち上げられ、また忙しく全国を飛び回っておられます。敬服するばかりです。先生のお許しを得て、メールの一部を「鳥居一頼先生からの吉報」として「追記」させていただきました。鳥居先生の確固たる思想と信念、それに基づく実践、先生がいまも関わられておられる北海道や秋田県の福祉教育・ボランティア学習などについての理解が深まれば幸いです。鳥居先生には衷心より厚くお礼申し上げます。(2018年7月20日)

私は、札幌の自宅に戻り、地域福祉の推進に関わるアドバイザリーな活動をしております。以前、先生の掲げる「市民福祉教育」について、HPで興味深く拝見させていただいておりましたが、私もいまだその必要性を地域に住み暮らす方々と共に考え、実践を積み上げてきているところです。
月形町という小さな町で施設を巻き込んだ初めてのフォーラムを展開しながら、いままさに動いているところでもあります。ここの計画は「あずましプラン」と命名され3年目です。
登別市社協の「地域福祉実践計画」(愛称「きずな計画」)もいまは13年目、3期計画の真っ只中で、市民主体の実践が継承されています。先生の提唱されている「市民福祉教育」創造の場となっています。道内では、まれな事例ですが、機会があれば社協のHPで「きずな計画」をごらんいただければ幸いです。
妹背牛町(もせうしちょう)という3,000人の農村地区では、80歳を超えたリーダが「わかち愛もせうし」の2期計画を行政と一体化して推進しています。閉鎖した街の中央部にあった店舗を、町民が集う拠点「わかち愛もせうし広場」に変えて、NPO法人を立ち上げて運営しています。道内でも話題の住民主体の地域拠点として注目されています。
北海道は夕張が有名になり注目されていますが、私なりに小さなまちの、そこで生きる人たちの福祉へのおもいを形にする仕事に携わりながら、もう少し頑張ってみようかと思っているところです。
ところで、先生のHPで紹介されていた秋田県社協の「学校と地域をネットワークする福祉教育推進プログラム」は、現在全共募に勤める笈川氏との共同企画です。編集委員会を一応作って、こちらで用意した原稿をチェックする形ですが、特に教育委員会や行政、施設や学校関係者の名前を入れることで、県社協が福祉教育を推進するための戦略としての「お墨付き」をもってこの冊子を全県に配布するというもくろみでした。それだけに、生半可のものは作れないことと、「わかりやすいもの」「かつようしやすいもの」を念頭に、二人で知恵を絞ったことを思い出します。授業例の一部は現場の先生にも担当して書いてもらいましたが、彼とも一緒に授業を作ってきた仲間でもあり、今はまだ発達障がいのクラスを担当しているかと思います。多くの授業は私が当時出前授業で全国で行っていたものです。いまもまだその教材をもって、子どもとの福祉の授業に未練がましく年間15~20本程度しながら出歩いています。
また、秋田県社協の「活動別全体構造プログラム」は、当時の福祉教育の目標を構造化する上で、東京都ボラセンの活動別の視点を用いながら、私が分析したもので、あのような形で示したものは全国でも初めてだったかと思います。残念ながら、私の実践の弱さがいくつか露見していますが、学校が展開していくときには、その実践が消化しただけで終わることがないよう配慮したものです。一つの実践が多くの可能性に満ちた福祉教育・ボランティア学習の広く深い実践の一つであることを、強く願ったものであったことを思い出しています。
北海道の「子どもたちのボランティア活動推進のためのガイドブック」も、専門委員で現場を持っていたのは私だけだったために、地域懇談会に委員の先生方が行かれる際に、高齢者福祉施設の施設長をされている、私にはかけがえのない方から「俺はさっぱり学校のことがわからないから、話せない。だから、分からない俺にも説明できるように書いてほしい」と懇願され、書き出したものです。
紹介された『福祉教育と学校経営』は、当時全道中学校長会長を歴任された委員長の林先生との共著です。そのときに「鳥居さん、これを書いた以上はあなたも校長になって福祉教育を学校教育の中核に据えた経営をしなければならない」と教示され、その後小学校長を2校経験して、自分には向かないと分かって、途中下車して関西の大学に招かれた次第です。その時の「学校経営」について書いた本が『子どもと学ぶボランティア~「こっちょ」のボランティア授業論~』(大阪ボランティア協会、2008年5月)で、そこでは「子どもを粗末にしない共育」を教育方針に掲げています。いまの教育者に最も必要な子どもと向き合う姿勢や態度、そして理念でもあると考えております。これは、元朝日新聞の論説副主幹西村秀俊氏から伝えられた言葉でもあります。
今また札幌に戻ると、待ち構えたように初代の専門委員長だった平中先生に命じられ、「ハンセン病問題」について、北海道は療養所がなかったために、人権侵害に対する意識が非常に低い。その解決のためには教師の研修が必要だ。だから、その研修プログラムを考えてほしい。道内の先生方を新聞で募集して、初めて東京多磨全生園で札幌弁護士会の若手も参加し、研修会を実施しました。
その後、学校で教えるためのテキストを作らなければならないと考え、参加した先生方や弁護士会の方と共に編集委員会を立ち上げ、「おまえ、もう学校に来るな!」というハンセン病問題を授業化するためのテキストを作成、改訂版も含めて1万部を超える冊子を、道内の全ての小・中・高・大学、そして全国の関係機関・団体にも配布して、評価をいただきました。かかる経費はすべて道が補助金を申請して、その経費を活用したものでした。
フリーになると、いろいろな課題が提供されますね。自分の課題よりも相手にいつも忖度しています。
福祉教育を進める上で、関係性が弱かったのは「医療」ですね。福祉と教育と医療・保健の連動性をなんとかしたいという思いがあったのですが、医療者と接点がなかなかないために、難しいという思いが先立っていましたが、この課題もいま「北海道家庭医療学センター」とのつながりができて、日本で初めて「子どもの診られる力を育てるプロジェクト」を立ち上げて、この夏も札幌の隣の石狩市で特別支援学校の先生方との学習会を実施する予定です。もし興味がありましたら、「北海道家庭医療学センター」のHPから「診られる力を育てる」にアクセスしてください。授業の計画やアンケート分析など、いろいろと面白い資料が眠っています。
ところで、過去の資料が、先生の手によって蘇ってくるというのは、いま学校や地域の置かれている現状は、過去の課題が精算されず、積み上がってきた結果であるのかもしれません。うがった物言いで失礼かと思いますが、いまの政治の、あるいは政治家の無能さと経済の動向、そして学校の管理教育の徹底による人間教師力の低下を見るにつけ、そのツケを払わされる現役世代の、そして子どもたちの今日と明日のために、もう少しやるべきコトが、私にも残っているようです。
毎年10月には秋田県内で10日間ほどいくつかの町を回って、地域福祉や福祉教育に関わる事業に携わります。秋田に関わって、もう27年目です。子どもたちと会うのが一番の楽しみで、「福祉の授業」の深さを味わってきたいと思っています。

あの頃の福祉教育、その記憶と記録(6):秋田県社協による福祉教育「活動テーマ別全体構造プログラム」の作成―資料紹介―

〇筆者(阪野)は昔、秋田県社協の大友義勝さんと親しくさせていただいた時期がある。そのきっかけは、全社協の「学校における福祉教育ハンドブック編集委員会」(委員長:高橋靖直先生・玉川大学)であったと記憶している。記録によると委員の任期は1992年9月から1994年10月であり、編集委員会は1994年3月に『学校における福祉教育ハンドブック』(全社協・全国ボランティア活動振興センター)を上梓した。
〇その後、大友さんには格別のご指導とご厚情を賜った。①福祉教育に関する資料のご恵贈をはじめ、②『明日の福祉教育を考える―ともに生きる心をはぐくむために―』(秋田県社協、1994年3月)の刊行、③日本福祉教育・ボランティア学習学会第6回大会(中部学院大学、2000年11月)のシンポジュウムへのご登壇、などがそれである。
〇①については後述するとして、②については、大友さんに大変なご迷惑をおかけすることになった。その冊子に掲載された拙稿「明日の福祉教育を考える」(草稿)についてある筋から訂正を求められたが、筆者がそれを断ったことによる。そのことをめぐって、大友さんには上京された折(1993年5月)に、わざわざ時間を割いていただいたことを思い出す。東京・新橋で、1時間半ほどご教示を賜った。筆者は当時もそしていまなお恐縮に思い、また汗顔の至りである。
〇ちなみに、訂正を求められた箇所は、例えば次の一節である(全部で12箇所)。大友さんらがその筋と協議し、最終的には若干の文言の訂正で終わっている。

〇③については、第6回大会の「基調報告」と大友さんの「レジュメ」の一部を紹介しておくことにする。大友さんは当日の朝、秋田を発たれ、家庭の事情で「シンポジウム」終了後すぐに戻られたと記憶している。恐縮の極みであった。

〇①については、いくつかの資料のうちから、『学校と地域をネットワークする福祉教育推進プログラム―子どもの自主性を育む福祉教育の実践を求めて―』(秋田県社協・秋田県ボランティアセンター、1998年2月)を採り上げることにする。そのなかでも、「6 福祉教育推進プログラムの編集方針」(8~9ページ)と「7 プログラムの展開方法 (1)ボランティア活動プログラムについて」(9~10ページ)に注目し、福祉教育の実践活動の「トータルプログラム」(全体計画)を紹介する。福祉教育の現状を鑑(かんが)みたとき、時代背景や地域の状況に留意しながら、いま改めて確認し認識すべき事項である。
〇そこでは、福祉教育実践活動(プログラム)の理念と目的・目標、視点と枠組み、内容と方法、技術(手段)と技能(能力)などの総合性や系統性、関連性や発展性などが明らかにされている。それに基づいて、個別具体的な「授業プログラム」の作成や見直しが期待される。

(1)『学校と地域をネットワークする福祉教育推進プログラム―子どもの自主性を育む福祉教育の実践を求めて―』秋田県社協・秋田県ボランティアセンター、1998年2月、14~31、80~84ページ(抜粋)                                  

〇以上に関して一言すれば、プログラムの内容(範囲とレベル)が総花的で平準的過ぎると、目的の実現や目標の達成に向けての焦点化が進まず、学校や地域の歴史や特色、資源を活かした実践活動の展開を困難にする。それは、専門的な知識と技術(技能)や多様な経験と応用力をもった福祉教育の担い手の確保・育成を難しくすることにもなる。留意したい。また、福祉教育推進プログラムにおいては、教育成果の確認・検証の視点や方法、教育内容や教育方法の改善・創造とその手順(「ふりかえり」「リフレクション」)などについての検討が必要かつ重要となる。そのためには、長期的かつ幅広い視野に立ってプログラムの研究・開発を進める体制・環境の整備・構築がより一層求められる。付記しておきたい。
〇さらにまた、福祉教育やそのプログラムについて考えるにあたっては、①問題や課題を発見する能力、②課題を処理し解決する能力、③他者や地域・社会と連携・共働する能力、④情報を整理・分析し企画・立案する能力、⑤提案力とプレゼンテーション能力、そしてそれらに共通し、基盤となる⑥主体的・自律的に思考し取り組む能力、などの育成が問われることになる。改めて確認しておきたい。
〇最後に、私事にわたるが、先日筆者は、富山県南砺市の「演劇・文化の山里 越中五箇山 利賀村」に車を走らせた。そばの郷、瞑想(めいそう)の郷、合掌文化村などを訪ね、天竺(てんじく)温泉の郷で食べた蕎麦と豆腐、岩魚の塩焼きは絶品であった。およそ20余年ぶりのことである。
〇筆者がかつて勤めていた東京・中野の宝仙学園短期大学(現・こども教育宝仙大学)では、1974年度から現在まで「利賀村移動授業」を継続的に実施している。東京から100名ほどの女子学生が、しかも8泊9日の日程で豪雪と過疎の村で知られる利賀村に入ることは、ニュース性の高い話題だったのであろう。毎年のように地元の新聞やテレビは移動授業の様子を報じた。また、短大では、学生が主体になってまとめた『利賀村を知ろう(東五箇山移動授業リポート集)』と題する報告書を刊行・配布した(第1集~第4集、1974年10月~1977年10月)。それらの情報を得て、筆者に連絡をしてくれたひとりの社協職員がいた。富山県社協の野田智さんである。その後、30年近くも富山県の福祉教育にかかわりをもつことになる。
〇短大では、移動授業の10周年を機に、『利賀村移動授業10年の歩み―保育者養成のあり方を考える―』(保育科研究報告書1)を1983年11月に刊行した。その前年の11月、「移動授業」に関して筆者を訪ねてきたひとりの学校の先生がいた。島根県松江市の松徳女学院中学校高等学校(現・松徳学院中学校高等学校)の幸野孝治先生である。また、その1年以上も前に(1981年の6月であったと思われる)、「移動授業・体験活動・福祉教育」などについて山本寿子先生からご連絡をいただき、お目にかかっていた。以後、島根県社協の福祉教育にかかわることになる。山本先生には、いまも福祉教育のご指導を仰(あお)いでいる(本ブログ「ディスカッションルーム」(70)2018年5月15日投稿、参照)。
〇利賀村が筆者の「福祉教育の世界」を広げてくれた。その日、筆者は利賀村を後にして、上述の野田さんに会うために射水市社協に向かった。その夜は食事をしながら、利賀村のことや福祉教育のことどもについて話が盛り上がった。県社協の福祉教育事情について話している時にふと、秋田県社協の大友義勝さんのことを思い出したのである。併せて、大友信勝先生(聖隷クリストファー大学大学院)のことも思い出していた。本稿を草することにしたきっかけである。帰途の車のなかでイメージしたタイトルは、「人の出会いとつながり、まか不思議!―『利賀村移動授業』と福祉教育―」であった。
〇蛇足ながら、「利賀村移動授業」の趣旨のひとつは、「利賀村の生活や文化を体験的に学ぶ。全く異なる地域社会・生活環境での自発的・自律的・体験的活動をとおして創造性やコミュニケーション能力を養う」(『10年の歩み』27ページ)ことにあった。我田引水のそしりを免(まぬが)れないが、いまにして思えばそれは「まち学習」や福祉教育にも通底するものであったのではないか。