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寺谷篤志/過疎化 SDGs・社会システム(仕組み)の力: 〔本編〕―地域経営組織をつくる 杉しかない町から誇りある智頭町へ―


目  次

はじめに―集落で、社会システム(仕組み)が奇跡を起こした―

第1章 一歩を起こし助走から「かや(規範)の理論」へ
1. 出会いは夢を叶えるきっかけ、智頭町づくりのステップ
2. 社会システム(仕組み)が、ウェルビーイング(幸せ・誇り)を手繰り寄せた
3. 起点は学びから、とっとりingsマン=積極人間
4. 社会科学の学びから「杉下村塾(さんかそんじゅく)」開講
5. スイス山岳地のコミュニティで住民自治の種を発見
6. 「かや(規範)の理論」から気づき、ささやきかける
7. まず、郵便局と役場の連携プロジェクトがスタート
8. 気づき、小集団が合流して群衆流へ
 
第2章 ゼロイチ運動と社会システム(仕組み)創造の企図
1. 英知を結集しゼロイチ運動に賭ける
2. ゼロイチ運動と地域計画、村の開闢(びゃく)以来の大作業
3. ゼロイチ運動は集落運営にインパクトを与えた
4. CCPTから役場へ、役場から住民へ、住民から議員へ、町長へ
5. ゼロイチ運動と「地域力」のメルクマール(指標)
6. ゼロイチ運動は集落にどんな影響を与えたのか
7. ゼロイチ運動と仕組み「偉大な創造」「創造的昔帰り」
8. 集落振興協議会・地区振興協議会・百人委員会の仕組み
9. 地区振興協議会は過疎化の起爆装置
10. 住民等の発案による百人委員会の主な事業
11. 持続可能な社会システム(仕組み)、ポツンと一軒家

第3章 創意工夫でコミュニティの価値を生む
1. 京都市に移住、マンション自治に取り組む
2. 創発規範の連鎖の拡大を検証
3. 智頭町「おせっかいのすすめ」施策
4. 「ギブ&ギブ」、横浜市立大学吉永ゼミ等と交流
5. ニ兎追って三兎を追い、夢を実現
6. 域規範の「定点観察」、記録はメモから
7.8. 地域づくりとマンション自治のヒアリング
9. 天啓・社会システム(仕組み)創造の意味
10. 持続可能社会とコミュニティライフ
11. 社会システムとは、身体を維持する交感神経と副交感神経
《引用文献》
 
第4章 身近に人生の師あり、独立自尊
1. 山間の地に生まれ、一冊の本もなく
2. 井の中の蛙(カワズ)、大海を知る
3. 志を立て、国境(県境)を出奔する
4. 会いは神の計画、職場は人間形成の場
5. どんな姿勢を持つか、地域づくりは自分との闘い
6. 祖母の通夜と「新しい総事」の概念
7. 希望の希求から新たな光が見えた
8. わくわくドキドキ感は、幸福革命(ウェルビーイング)
9. 地域づくりに定年なし、コミュニティライフ
10. 無意識の力に突き動かされた
11. 雲外蒼天(うんがいそうてん)、天知る、地知る、人知る
 
参考資料
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じめに― 集落で、社会システム(仕組み)が奇跡を起こした―

 秋田読書クラブの例会が、2022年4月24日㈰午後8時からZOOMで行われた。題本は『多様性の科学』(2021.6.25.第1刷)(著者:マシュ―・サンド)で、第6章の「平均値の落とし穴」を、関西大学社会学部教授の草郷孝好先生が解かれた。明快な解説に得心した。草郷先生とは初めての出会いであった。解説をお伺いして社会システム(仕組み)の重要性を認識した。次回は7月24日、拙著『ギブ&ギブ、おせっかいのすすめ(以下『ギブ&ギブ』)』(今井出版発行)第3章を、私が紹介することになっていた。是非とも、草郷先生から拙著についての解説をお聞きしたいと思った。そこで『ギブ&ギブ』を出版後、即、智頭町づくり三部作をお贈りした。

7月24日㈰の読書会、最後の1分にコメントをいただいた。《実は三冊の本を送っていただいていたのです。(省略)ちょっと考え方を変えてあげる、物の見方をちょっと変えてみることで空気が変わる。空気を変えることを見事にされている。それを仕組みに変えて社会システムとしたところが最高に凄いところで、それは見事です。》(第3章9)と解析された。そして、間髪を入れず27日に、草郷先生のご著書『ウェルビーイングな社会をつくる』(明石書店2022.7.15)が届いた。感謝、感激である。ご著書と解析に触れ、地域づくりの行動目的がはっきりした。つまり、『日本・ゼロ分のイチ村おこし運動(以下ゼロイチ運動)』(第2章)で、誇りの創造をテーマに地域づくりに取り組んだ。それはウェルビーイングを手繰り寄せるためであった。具体的手段が社会システム(仕組み)の創造である。草郷先生の解析によって1984年からの智頭町づくりと、2011年からの京都市マンション自治会の立ち上げの核心をつかんだ。

智頭町づくり三部作を夢中で編集したから導かれた。腎臓癌で命を救ってもらい、長年かかってやっと辿り着いた。応援してもらった方々の顔が浮かんだ。この納得感を、私一人の知識としてあの世に持って行くわけにはいかない、ムラムラと使命感が湧いた。今やらねば何時できる、わしがやらねば誰が書くとの心境であった。ところが、2022年の酷暑は凄まじかった。7月末から毎日パソコンにフラフラしながら向かった。構成は踏み込んで、また踏み込んで次が見えた、腐心しながら社会システム(仕組み)の視点で本書を編集した。やっと9月に入って推敲案を仕上げた。総括すると、社会システムが集落で奇跡を起こしていた。(第2章)

早速、PPと合わせ草郷先生にお送りした。「草郷です。修正資料を拝読させていただきました。セットで学生への貴重な資料になります。それから、差し支えなければ、関心のある知り合いに共有させていただきます。」といただいた。また、北京外語大学教授宋金文先生からは、「ゼロ分のイチ運動を社会システムの視点で整理して、いろいろ考えさせられることがあって、腑に落ちるものがあります。私も社会システム論の応用による境界突破という視点と、「制度創生と越境—過疎地域づくりの事例を通して」のテーマで社会システムの立場から、この事例の意味を総括しているところです。」といただいた。

本書は、二つのコミュニティにおける社会システム(仕組み)創造の実践記録である。編集から見えたことは、まさに結縁の連珠である。偶然の出会いが必然となり、出会いに意味が生まれ、まるで神の計画だったかのように人々との出会いが物語となった。生命があったからまとめられた。まず、出会った方々に心から感謝です!  2023(令和5)年2月—

第1章 一歩を起こし助走から「かや(規範)の理論」へ                       

 1. 出会いは夢を叶えるきっかけ、智頭町づくりのステップ

智頭町への帰郷の話が突然舞い込んだ。1983 年 2 月、中国郵政局(広島市)でコンピューターの導入会議をしているところへ、那岐郵便局長の故長石公男氏が訪ねて来られ、喫茶店でお会いした。「寺谷君、地域に貢献する郵便局長になってほしい。」と諭された。10年前に智頭町内の郵便局の職員だったころ、青年団活動や総理府の第6回青年の船の団員として、オセアニアを訪問したことを知っておられて、是非とも決断してほしいと言われた。しかし、町の封建的で閉鎖的な体質に躊躇し即答できなかった。でも、いずれは故郷に役立ちたいと思っていた。妻から「あつしさんが必要とされている、智頭に帰ろう。」との一言と、一時、身体を壊していたので体調を考えて帰郷を決断し、二人の子どもを育てようと思った。

そうして50世帯ばかりの集落に住んでみると、過疎化・高齢化・少子化が迫ってきた。地域の持続性を考える機関は役場以外にない。しかし、役場職員は長年の封建体質で無気力となっていた。住民は時代の波に抗うこともできない、断腸の思いだった。その翌年、何とか一歩をと「杉板はがき」を発案した。鳥取国体の前年ということもあって全国から注文が殺到した。これを幸いに木工集団を組織して対応することにした。そうしたところ1986年に鳥取県知事からイメージアップ懇話会の委員の委嘱を受け、鳥取県のイメージアップ戦略に向けて議論を一年間行い、1987年春、「とっとりingsマン=積極人間」を答申した。早速、一人の積極人間として智頭町から発信した。夏休み、智頭杉にこだわって子どもたちに杉板を加工し応募してもらう、「木づくり遊便コンテスト」を開催した。全国から300点を超える作品の応募があった。地域を何とかしたいと一歩を起こし挑戦した。新しい出会いが夢を叶えるきっかけとなった。

1988年3月、智頭杉日本の家設計コンテストの開催に向けてコンサルタントに相談するため、故前橋登志行氏(後日、CCPT代表)と東京に向かった。早々に要件を済ませ、笹川平和財団に主任研究員の長尾眞文氏を訪ねたところ、長尾氏から地域の国際化に取り組む団体を支援し、社会人1名分の海外研修経費を助成すると伝えられた。帰途、新幹線の中で活性化策を相談した。その一つに、この際に社会人2名を派遣したい。二つ目は地域づくりの学習・実践集団を設立したい、と話し合った。善は急げと翌月、住民有志30人に呼び掛け、「智頭町活性化プロジェクト集団」(Chizu Creative Project Team:略 CCPT)を設立した。合わせて、鳥取大学の留学生を智頭町に招待しようと、長尾氏にお願いして鳥取大学工学部教授の岡田憲夫先生(現:京都大学名誉教授)を紹介してもらった。合わせて、「智頭杉日本の家設計コンテスト」は実行委員会を組織し、鳥取県職員の澤田廉路氏(現(一社)鳥取県建築士会専務理事)の協力を得て、賞金150万円2本(都市型と農村型)を役場に助成してもらい公募したところ、148件の応募があった。その年の12月1日、杉の御霊を祀った杉神社で厳かに表彰式を行った。

次に1989年には、八河谷集落で杉の木村(1986年に都市との交流に開村)を会場に、カナダのログビルダーを招聘して、智頭杉でログハウス5棟を建築する「智頭杉ログハウス建築イベント」を2ヶ月間にわたって開催した。そして、完成施設を集落に無償譲渡し、8月末、念願の社会科学を学ぶ場の「杉下村塾」(さんかそんじゅく)を開講した。そして、講師の一人である長尾氏からスイス山岳地調査に誘われ、9月末、スイスのシャンドラン(1,936メートル)の麓で、住民が検討委員会を組織して地域計画を実行しているコミュニティを視察した。そこで住民自治の種を見つけた。

その直後、町会議員の選挙違反が発覚した。議長候補者が金を配り議員の半数が逮捕された。智頭町の活性化は役場職員の覚醒化と、住民の封建体質の変革にある。さて、どうすれば地域活性化ができるのかと悶々としていた。そうしていたころへ、岡田先生から「CCPTに、社会心理学が必要だ。」と話され、第4回杉下村塾(1992年)に京都大学総合人間学部の杉万俊夫先生(現:九州産業大学教授、京都大学名誉教授)を紹介いただき、翌年の4月4日、第9回耕読会に『かや(規範)の理論』の講義-1を受けた。(第4章3)要旨。

《働きかけられた人が、それに気づく、すると即座にこれにもう一人、ないし二人が気づくのです。この「力」です。まさにインスタント、即時的な小集団ができるのです。そして、これが「核」になるのです。この核が動き出す。こういうメカニズムで店員が何人かいると、その店員の数だけ小集団をつくることができます。このいくつかの小集団が合流する形で、一つの大きな群衆流ができるのです。》(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』-講義1)

かやの理論は一匹のメダカの理論(第4章3)の補填となった。一年かけて地域戦略を練った。そして、意を決し翌年4月29日にCCPTの総会を開き、役場との連携(融合)を提案した。まず、第1弾として8月4日、郵便局と役場の連携プロジェクトがスタートした。早速、買い物代行システムが発案された。まさに連想ゲームのようであった。そして、10月28日~30日に第6回杉下村塾を開催したところ、グランドデザインの策定と智頭急行シンポジウムの企画提案があった。こうなればトップマネジメントである。役場助役の故前橋伍一氏に一か八か相談した。快諾があった。そこで中国郵政局の協賛を得て、1995年1月14日、役場職員と研究者等で、「グランドデザイン(智軸づくり)策定」プロジェクトチームが発足した。7月、報告書の「杉(サン)トピア(杉源境)ちづ構想」がまとまり、その翌年の1996年4月、住民が地域計画を立て実行する仕組みづくりのため、「村おこしコーディネーター会議」が発足し、住民5名が委員の委嘱を受けて企画して、町長に計画案を答申した。そして、議会で決議され、1997年4月、起死回生策の『日本・ゼロ分のイチ村おこし運動』がスタートした。

2.  社会システム(仕組み)が、ウェルビーイング(幸せ・誇り)を手繰り寄せた

2006年に智頭町に移住し、2009年に「もりのようちえん」を開園した西村早栄子さんに、2016年に『地方創生へのしるべ—鳥取県智頭町発 創発的営み(以下創発的営み)』を編集するためヒアリングを行った。そうしたところ、役場職員の積極的な姿勢と、「この町は人口が減少して過疎化しても、もっともっと本当の意味で豊かになる」と発言があった。地域づくりが、臨界値を超えて相転移を起こしていた。

《私は、鳥取県の職員として八頭総合事務所(当時)という、智頭町を管轄する機関に所属していた。智頭町では新しい事業がもたらされると、ほかの町村とは反応がまったく逆だった。智頭町以外のところはだいたいできない理由を必ず探すが、智頭町に持っていくと「やりましょう、やりましょう!すぐやりましょう。明日からでもやりましょう。」となる。新しいものに対して積極的で、他町村と比べると全然違う。(省略)それはやはり町長の影響も大きいが、長年に渡って住民がやってきた民意というか、住民自治での地域づくり、いわばゼロイチ運動とかの実績があるたらだと思う。十年前に始まった「百人委員会」では、住民が意見を出して住民自身が汗をかいて、それを行政が支援するという住民自治のスタイルがある。民間に対する信頼というか、住民が主役で行政を乗せていくというような雰囲気を感じる。行政に対しておんぶに抱っこを求めない住民をつくってきた、自立の地域の風土を感じる。》(『創発的営み』第 4 章 2)

《私たちがなぜ智頭町を選んだのかといったら、やっぱり「ゼロイチ運動」で住民が自立して、まちづくりに挑戦する精神が浸透していて、町に活気があることだ。ほかの町村と比べてもやっぱり智頭町ははっきり違っていた。この町は人口が減少して過疎化しても、もっともっと本当の意味で豊かになるのではないか。私たちも参加してお手伝いができるのではないかという雰囲気を感じた。この町のムードは、私たちが移住を決断する大きな誘因となった。》(『創発的営み』第 4 章 6)

西村さんは、住むなら智頭町へと決断された。もう一方、2015年に移住した「田舎のパン屋さんタルマーリー」の渡邉格氏ご夫婦は、役場職員の対応と地域体制を語っている。

《智頭町へ来る直接のきっかけは「森のようちえん」に息子を通わせるためだった。最初は岡山県美作市に住みながら智頭町に通わせよとしていた。それがなぜ智頭町に店も住まいも移ることになったのか。それは確実に役場の対応にあった。智頭町役場企画課のスピードと丁寧で確実な対応は驚くものがあった。》(『創発的営み』第5章4)

《例えば、旧小学校の駐車場にタルマーリーのお客様が車を停めることに対して苦情が出たことがある。最初に役場が使っていいと言ってくれたから大丈夫かと思っていたのだが、地域の方からそこには置かないようにと言われて戸惑った。そこで役場企画課に相談したら、企画課と地区振興協議会が相談してくださって、結果的には使ってよいとのことで落ち着いた。だから、いろいろな意見があっても、調整して治めてくれる体制があることは本当に助かる。》(第5章1)

お二人は外から見ていた智頭町と、住んで地域社会の評価を行い、確信を持って智頭町で輝き、内外に影響を与えている。つまり、社会システム(仕組み)が奇跡を起こしていた。

2006年に西村早栄子さんが移住するまでの間、智頭町で何が起こったのか。本書ではその取り組みを時系列で記述した。果たして社会システム(仕組み)は、コミュニティの持続可能にどのような影響を与えたのか、形成された創発規範はどのように連鎖したのか。それらを杉万先生が調査・検証されている。ところが、2010年3月にわが身に一大事が起こった。腎臓癌を発症し右腎臓を摘出した。さて、どう生きるか、2011年10月18日に京都市に移住した。たまたまマンション管理組合の理事に就任し、理事会に自治会設立を提案して臨時総会が開催され、2014年2月に自治会が設立された。本書事例は、二つのコミュニティで社会システム(仕組み)創造によって、ウェルビーイングを手繰り寄せた。その記録である。                                             

3. 起点は学びから、とっとりingsマン=積極人間

 帰郷した翌年の春、智頭町産のドウダンツツジを郵便小包で届けますと報道したところ、新聞・テレビで取り上げられ注文が舞い込んだ。そして、「智頭町どうだんつつじ祭り」が役場前で開催され、赤いバイクの後部座席にドウダンツツジが入ったケースを載せ、郵便配達をする様子がテレビ放映された。郵便小包のイメージからすれば意外性を演出した。この取り組みから地場産品を地域づくりのテーマにすれば、報道機関が取り上げられることを経験した。そして、7月に鳥取国体前年のミニ国体が開かれる。智頭町は空手会場である。その場に郵便局も臨時出張所を出店するが、記念切手を販売することになっていた。妻とお茶をしながら、郵便局なりの智頭町のオリジナル商品ができないかと話した。そこで「杉板はがき」のアイデアが浮かんだ。

早速、近くの製材所で建築用材の柱の端材を購入し、智頭農林高等高校の木材加工科で葉書版の厚さ1センチ程度の杉板を作ってもらった。枚数を揃えて地元紙に発表したところ大反響を呼んだ。智頭町に帰郷して僅かな期間だったが、アイデア郵便局長としてマスコミに取り上げられ、その宣伝効果もあってか、鳥取国体の翌年、1986年に鳥取県イメージアップ懇話会の委員の委嘱を受けた。一年後、鳥取県民の在り方を答申することになっていた。

1987年冬号の「山陰の文化を切り拓く総合雑誌」の『地平線』に決意を寄稿していた。

《「ingsマンとして」一つひとつの取り組みが勉強であり真剣勝負である。おのずから社会観が養われ、これまで見えなかったものが見えてくる。ほっと一息入れてみると、競走馬のように駆けてきた軌跡を振り返る。しかし、充実している。これからもingsマン(鳥取県イメージアップ懇話会の提言=積極人間=)として、走り続けて行くと思うが、郷土の将来をみながら、一歩一歩、ひとつずつ積み重ねていきたい。私達に今こそ必要なのは自己責任での当事者意識である。この地にどっかりと腰を据え、地域実現、郵便局実現、自己実現をやっていきたい。》

鳥取県イメージアップ懇話会での議論は、一人の鳥取県民として地域でどう生きるかを学ぶ場であった。また、自分自身のアイデンティティを問うた。そして、消極的な鳥取県民の気質を改めて認識した。その議論から自分自身のその後の生き方は、答申した「とっとりingsマン=積極人間」を実践することだとはっきりと自覚した。一寸の虫も五分の魂の覚悟だった。

1986年、デザイサーの白岡彪氏、「杉の絵本・しんいなばものがたり」の製作機会をいただいた。
1987年、日本海テレビ副報道部長の須崎俊雄氏、「地平線」の執筆機会をいただいた。
1988年、コンサルタントの吉田幹男氏の鳥取交流サロンで長尾眞文氏と出会った。
1989年、写真家の池本喜巳氏、智頭杉「日本の家」設計コンテストの作品の撮影を依頼した。
1991年、鳥取大学の佐分利育代先生、智頭杉棒体操を考案してもらった。
2019年、今井印刷相談役の永井伸和氏、2022年に智頭町づくり三部作を刊行した。

イメージアップ懇話会で出会った方々は、鳥取県の積極人間を共有した人たちである。帰郷して3年で委員に選ばれグットタイミングで地域を学ぶ機会となり、各委員との出会いが人財ネットワークとなった。また、将来智頭町に地域戦略のソフト機関を実現したいと思っていたので、委員会での審議の経験は有意義だった。そして、1987年から「地域実現」「郵便局実現」「自己実現」の三つをテーマに、とっとりingsマン=積極人間に挑戦した。

4. 社会科学の学びから「杉下村塾(さんかそんじゅく)」開講

1988年4月、CCPTの設立と同時期に岡田先生に初めてお会いした。その時、何を研究されているのですかと訊ねた。そうしたところ「島根県の匹見町に行って、過疎の研究をしています。」と答えられた。それならば智頭町に来てくださいとお願いして、出会いをきっかけに手弁当でCCPTに社会システム思考の講義をしていただいた。当初、果たして地域に社会科学の学習の場を設けて人が集まるかと心配したが、講義を受けるためCCPTのメンバーが智頭町総合センターの会議室に集まった。郵便局の職員、役場の職員、製材所の経営者、農業・林業従事者、大工さんなど。そして、講義を受けて議論が始まった。ディベート訓練では年齢に関係なく、60歳を超えた人たちが熱くなって議論をした。予想を超えた。

1). ジョハリの窓(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』第2章2)
最初の講義は「ジョハリの窓」の自他覚の概念であった。人間には「公開された自己」「隠された自己」「自分は気づいていないが、他者が知っている自己」「自分も他者も知らない自己」があり、「自分も他者も知らない自己」の領域を小さくし、「自他覚」の領域を広げることを表している。

2). 活性化プロセス
ごく一部の集団が内発的に「覚醒化」を起こす。覚醒化した集団と伝統的集団とで「葛藤化」が起こる。次に葛藤化を超える様相で地域全体が混沌とし、「攪拌化」が起こる。

思いがけない学習の場であった。講義や議論の様子をみていると、地域に社会科学を戦略的に入れることは有効であると考えた。早速、身近な人たちに声をかけてみた。しかし、杉の木村は智頭町の最奥部で交通の便が悪い。誰が講習会に3万円も払って参加するものがあるか。地域は運営であって地域経営の概念はない、経営は企業である。と反対意見があったが、思い切って杉下村塾を開講した。当初は講義方式だったが、参加型集団企画技法の四面会議システム(『ギブ&ギブ』第1章10)を開発し、受講生と講師がほぼ同数で、地域テーマを設定して知的生産の場となった。開講趣旨は、明治維新は吉田松陰の松下村塾に始まったが、平成の維新は杉の下の智頭町から起こそうと気概を持った。1989年8月25日から27日の2泊3日、建築間もない杉のログハウスに合宿形式で参集した。開講テーマは1984年に一歩を起こしたCCPTの活動から、「地域経営」(2章2)とした。1998年まで10年(回)開催した。(『ギブ&ギブ』第1章5)

新しい価値の創造に向けての挑戦だった。現状は、他力本願、行政依存によって住民自治の意識は低い、実はそこに問題がある。例えば、住民一人ひとりが地域を治める意識を持ち、地域資源に唯一無二の価値を認め、住民が地域の主宰者として計画を立て地域を経営すれば、地域が変わるかもしれない。この視点を持てば、萎縮した地域社会から脱出することが可能ではないかと考えた。つまり、過疎化を真正面から捉えたとき、住民の一人ひとりが住民自治の自覚と地域経営の概念により、地域が変わると予測した。実証実験に向けて一歩を起こした。

5. スイス山岳地のコミュニティで住民自治の種を発見

第1回杉下村塾の開講直後、9月20~28日の9日間、スイス山岳地調査に長尾主任研究員と、岡田先生に同行して、アルプスの少女ハイジのモデルの町となったシャトーディを訪問した。街を取り囲むロケーションは山岳地から丘陵地へとなだらかに続き、スイスの絵ハガキの情景であった。その地にあるチューリッヒ工科大学の研究所で、スイスにおけるスリム化された行政と、住民と大学機関との連携等について説明を受けた。翌日、ヴァレー州にあるシャンドラン(1,936メートル)のホテルに到着した。ホテルに着いた途端に胸が息苦しくなり、頭がズキンズキンと痛んだ、高山病である。とうとう食事も取らずに寝床に倒れ込んだ。これまで経験したことのない苦しみと頭痛だった。(『ギブ&ギブ』』第1章6)

その翌日、さらに登って小さな集落を訪ねた。天気は快晴、せっかくのアルプスの景観だったが体調が悪い。山々を眺めると山岳部の中腹に点々と家が見えた。まさに天(点)村である。そして、峰の一軒のホテルに着いた。高山病で苦しいと通訳してもらったところ、早速、オーナーが大きな皿にトマトやキュウリをスライスして、着いて来いと言われた。そこはコミュニティハウスの地下蔵だった。並べられたワイン樽から赤いワインをコップに注ぎ、高山病の薬だと言って差し出され一気に飲んだ。赤ワインは妙薬だった酔ってくると頭痛から解放された。ところが、アルコールが切れると高山病がぶり返した。その様子を一生忘れることができない。

そのホテルのオーナーから、ご自身の半生と集落の盛衰が語られた。「今は避暑地として栄えているが、過去には村が存亡の危機にあった。その時、全財産を投げ打ってホテルを建てた。教訓として、まず自分の村に誇りを持つことだ。スイスは山岳地から始まった。自然との共生の中で生活してこそ価値がある。今朝も鹿を一頭獲ってきた、ホテルで提供する。子どもたちは海外から帰ってきて一緒に仕事をし、この村が好きだと言っている。」と、地域の存亡危機脱出の秘訣を聞いた。高山病と赤ワインとオーナーの話は、スペシャルメニューだった。そして、山を下りて麓のコミュニティ調査で、住民が検討委員会を組織し、主体性を持って予算を獲得して行政やコンサルタントの知恵を引き出し、地域計画を立て実行していた。住民自治の種を見つけた。

スイス山岳地調査の直前に智頭町の町会議員の選挙違反が発覚した。1989年に改選が行われ、議長候補者が多数派工作で有力議員に金を配り議員の半数が逮捕された。この時の屈辱感は、智頭町に住んでいることが恥ずかしかった。長年にわたる山林を持つ者と持たざる者の構図が、地域の独特の価値観をつくっていた。封建体質にこそ問題がある。

スイスから帰国後、CCPTでは世代別の住民意識調査(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』資料編第2章1)を実施した。住民の意識を冷静に分析しみると、高齢世帯(60代から70代)では、「CCPTと行政が連携すれば町は発展する」の項目の回答が63%みられた。これは依存体質の裏返しだと読んだ。その当時、岡田先生が「CCPTに、社会心理学が必要だ。」と言われ、第4回杉下村塾(1992年11月6日から8日)に杉万先生を紹介された。11月7日㈯の夕方、杉万先生は杉の木村に入られた。外はみぞれが降って暗かった。初対面で研究の紹介があった。直感的に人間科学ですかとお伺いし、さらに、先生が書かれた本はありませんかと訊ねた。そして、翌年春の第9回耕読会(読書)の講師をお願いした。

6. 「かや(規範)の理論」から気づき、ささやきかける

1993年4月4日㈰午前10時、杉の木村には積雪が胸の高さまで掻き揚げられていた。山峡の地である。掻き揚げられた積雪に光が当たって眩しかった。そこで杉万先生から「かや(規範)の理論」の講義-1を受けた。人間科学を予想してテープレコーダーを用意していた。講義のポイントを紹介する。(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』講義-1)

➀ ささやきかける、手を取る、肩を押しながら逃げる
《誘導者は全く目立たない。それから大きな声でたくさんの人に働きかけるとか、あるいは大きなボディアクションなどはしない。さらに、「あっち」という方向を示すこともやめる。そういうことを全部しない誘導法をやってみようと思ったのです。では何をやるかというと、例えば地下鉄の場合ですと、誘導法は大体お店の店員さんが誘導するのですが、店員さんは、もちろん最初はシャッターを諦めるわけです。電気を消してシャッターを閉めて路上に出る。路上に出たら自分の前に居た人、一人だけにぼそぼそと「一緒に逃げてください」と、ささやきかけるのです。そして、その人の手を取るなり、あるいは肩を押しながら逃げる。こういう方法なのです。ボディアクションとかそういうことはやらないのです。》

② 「かや(規範)」は常に変化し、個人をしばる
《個人はその「かや」の影響を受ける。では100%「かや」にしばられてしまうのかというとそうではないのです。やはり、非常に大雑把な言い方をすれば、例えば、自分の体の右半分だけは「かや」の影響を受けるが、しかし、人間の左半分は主体性を持っているわけで、自由にいろんなことを感じて、泣いたり、笑ったりする。いろんなことをクールに考える。そして、行動します。そうすると、その結果として昨日の「かや」と今日の「かや」は違ってくるのです。変化するのです。変化しないという変化のありようもありますけれども、原則的に変化をする。するとその変化した「かや」が、また一人ひとりの人間を半分だけしばる。影響を与えるのです。しかし、残りの半分ではみんな自由に感じ、考え、行動をしますから、また、今日の「かや」とは違う次の「かや」ができていく。つまり、ジグザグ、ジグザクの関係なのです。個人によって「かや」ができ、あるいは「かや」が変化する。変わったところの「かや」が個人をしばる。個人がまた・・・。エンドレスのドラマなのです。》

かや(規範)の理論の吸着誘導法は、小集団活動の核心と受け止めた。テープ起こしをしながら、役場職員の覚醒化と、住民の封建体質の革新が一度にできないかと考えた。ただ、この理論を実行するには、地域にある慣習的な良い人を捨てる覚悟が要った。それまで周囲からかなり批判を受けていた。地域では出る杭は打たれる。二人の子どもへの影響を考えた。しかし、自分には財産は何もない、そこで生き様を示すことだと覚悟した。それからもう一つ、地域社会では物事をすべて損得でみるが、それは軸受け(ベクトルの支点のリスク)を避けていることだと気づいた。なんであれリスクを取る覚悟である。どこまでやれるか挑戦だった。

そして、1989年に選挙違反した議員が執行猶予にも係わらず、1993年の町長選挙に立候補して当選した。また、それまで町長をしていた者が県会議員に立候補し、これまた町会議員に金を配り、大量逮捕となった。そんな状況に発奮した。一年後の1994年4月29日にCCPTの総会を開き、役場とは対峙でなく、連携(融合)を提案し、智頭町の活性化は役場職員の覚醒化だと訴えた。

7. まず、郵便局と役場の連携プロジェクトがスタート

なぜ役場職員の覚醒化にターゲットに絞ったのか、それは職員が覚醒化することによって、住民規範が変わると予測した。まさに「かやの理論」の実践である。次の理由が考えられた。

➀地域で一番大きな事業体であり、雇用の場である。また、人材集積の場である。
②住民生活に影響を与える施策を実施している。施策に責任を持つ組織とする。
③国の過疎対策は的が外れている。声高に言っても仕方がない、この地に事実をつくる。
④地域を方向づける機関は他に無い。過疎化・高齢化・少子化、広域合併に備える組織とする。
➄住民規範は行政への依存体質である。智頭町の活性化は役場職員の覚醒化が課題であり、住民のニーズに応えられる組織とする。
⑥職員に地域哲学(アイデンティティ)が無い。

1993年までの10年間にわたり役場職員を観察してきた。地域における公的機関の職員として意識が低く、長い間の封建的で保守的な体質は職員を無気力にしていた。つまり、職員訓練がほとんどできていない。1985年に就任したF町長は一期、1989年のO町長も一期、1993年のH町長も一期の町政が続いていた。そして、二度の町会議員の選挙違反による大量逮捕である。町政トップがぐらついていた。ここに連携(融合)を図る主因があると考えた。

まず、1994年8月4日、智頭郵便局と役場でまちづくりプロジェクトチームが発足した。当時、郵便局の社会貢献が課題となっていた。役場も他機関と交流することで活性化を考えており、お互いに思惑が一致して、連携プロジェクトをやってみようとなった。役場のメンバーは各課横断的に5名が選ばれた。郵便局の職員は意図的に町外から通勤する者を登用していこうと、内務職員2名と外務職員2名の4名とし、プロジェクトチームは計9名でスタートした。

会議は月1回、午後2時から4時までの2時間、会議の方法は司会と議事録係を交互に担当し、前回の課題に対する経過報告と、議事テーマを絞って討議に入った。討議方法はCCPTが開発した模造紙会議方式を使った。最初のブレーンストーミングで約30項目が出た。中でも高齢者と郵便配達を掛けて、「買い物代行(ひまわり)システム」が発案された。

〇国際ボランティア貯金、智頭町長フィリピン視察報告会の開催(1994.12)
〇国際ボランティア貯金、海外視察グラビア発行(1995.4)
〇税金自動引き落とし導入(1995.4)
〇水道料金自動引き落とし導入(1995.4)
〇役場前にポストを設置(1995.5)
〇綾木杯マラソン支援(1995.9)
〇智頭急行開業一周年記念事業、阪神・淡路大震災まちづくりリーダー会議(1995.12)

1995年4月、一部地区の試行で「ひまわりシステム」がスタートした。新聞、テレビ、ラジオで報道され大きな反響を呼んだ。何よりも嬉々として働く郵便局の職員に注目が集まった。その影響は役場職員にも伝搬した。1996年には智頭町全域でサービスが開始され、第一弾の連携策としては大成功であった。次の施策に向けて追い風となった。

 8.  気づき、小集団が合流して群衆流へ

第6回杉下村塾 (1994年10月28日から30日) を開催した。中日の29日、模造紙を囲み四面会議システム(『ギブ&ギブ』第1章10)の演習で、テーマごとに4時間にわたって議論を行った。テーマの一つに「はくと・はるか・関空」シンポジウムの開催を設けた。12月3日、鳥取県民の悲願である第三セクターの「智頭急行」が開通する。特急「スーパーはくと」に乗れば、京阪神に2時間でアクセスできる。さらに特急「はるか」に乗り継ぎ、関西国際空港まで所要時間は約3時間である。地域活性化の起爆剤にならないかと、シンポジウムの開催をテーマにした。このチームから、「智頭町のグランドデザインは何か?」と質疑が上がった。

智頭急行のシンポジウムの素案と智頭町のグランドデザインの策定構想を、助役の前橋伍一氏に提案した。実現に向けて取り組むと快諾された。早速、中国郵政局に協賛を要請するため、12月26日、前橋助役に小林総務課長と同行した。企画課長と助役の会談で協賛の内諾があり、地域づくりの本質論でグランドデザインの策定が話題となった。そこで、全体の事業費から100万円を充てることが約束された。翌朝、プロジェクトチームの陣容を説明して確認をとった。早速、電話で岡田先生と、杉下村塾で「はくと・はるか・関空」チームだった経営コンサルタントの福田征四郎氏、地域コンサルタントの平山京子さんにアドバイザーを要請した。

帰郷した翌日、智頭町・旧用瀬町・旧佐治村の総務・企画担当者会議が開催された。大呂課長補佐の根回しで、議題に「はくと・はるか・関空」シンポが取り上げられ、3ヶ町村と郵便局(6局)でふるさとづくり実行委員会が設立されることになった。一度に、シンポジウムの開催とグランドデザインの策定と、二つのプロジェクトが動き出した。そうしていたところ、前橋助役が「CCPTの思いを五感で感じる。」と、身近な人に発言されたと伝わってきた。

1995年1月14日㈯、鳥取市内は豪雪だった。JR鳥取駅近くのホテルの会議室で、第1回グランドデザイン(智軸づくり)策定プロジェクト会議が開催された。助役をチームリーダーに職員7名が指名され、アドバイザーは岡田先生と、福田征四郎氏、平山京子さんの3名である。コーディネーターは私が務めた。その後は、土・日曜日に会議が開かれた。そして、議論の上「杉」は智頭町民の精神的支柱であり、杉を「サン」と読み「杉(サン)トピア」「杉源境(さんげんきょう)」と、表記することに一決した。

2月5日、多くの住民が参加し、「どう生かすか、智頭急行シンポジウム」が開催された。

4月12日、役場職員の「さわやかサービス」の接遇研修が、経営コンサルタントの福田征四郎氏の指導の基、全職員を対象に開始された。当初、郵便局の9局でスタートし、民間企業も参加していた。そして、3ヶ町村の役場に導入された。

14日、「ひまわり (買い物代行) システム」の出発式が行われた。テレビ・ラジオ・新聞で大々的に報道された。町が一気に輝き、スタッフは自信を持った。次には全町でサービスの開始である。(『ギブ&ギブ』第2章1)

6月3日、「はくと・はるか・関空」シンポジウムの企画は、3ヶ町村の役場職員が当たった。大阪南港の太平洋トレードセンターで3ヶ町村の住民100名と、3ヶ町村出身の関西在住の知人100名を招待して開催された。一つひとつの施策が実施され、まさに群集流となった。

7月8日、岡田先生がカナダウオータールー大学から名誉博士号を授与となり、記念講演会を智頭町総合センターで開催した。テーマは「ゼロ分のイチ」であった。(『ギブ&ギブ』第2章4)

7月、グランドデザイン策定の詰めは、小林総務課長・大呂課長補佐と三人で、竹輪を齧りながら「杉トピア(杉源境)構想」の図表を、マイステージ(生活・自治)・ユアステージ(交流・情報)・フォレストステージ(森林・自然)と、3つのステージに整理した。報告書は平山京子さんの主筆によってまとめられた。関係者の手持ち資料としたが、経ってみると秘策はしっかりと根づいていた。1995年版CCPT活動提言書(P87-97)に収録している。

9月2~3日、CCPTと関係者とで先進地の広島県旧高宮町を21名で訪問し、地区振興協議会の活動の実態を聞いた。そこで智頭町では振興協議会を、利益要求団体や行政の下請団体等にしないため、時間はかかるが集落単位から地区単位へと展開することにした。そして、翌年4月12日、村おこしコーディネーター会議の委員の委嘱を住民5名が受けた。

1995年秋、杉万先生から論文-1、「過疎地域活性化のグループ・ダイナミクス―鳥取県智頭町の活性化運動10年について」杉万俊夫・森 永壽・渥美公秀(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1)と、論文-2、「山村地域における地域活性化運動が住民に与えた影響について」森 永壽・渥美公秀・杉万俊夫・岡田憲夫、2本の論文が届いた。1984年から取り組んだ地域づくりが調査・検証されていた。手元には、(ゼロイチ運動と「かやの理論」)講義-1と2、「杉トピア報告書‐ちづ構想」と、論文-1と2の三点が揃った。次の課題は実行案の策定である。これら三点をどう読み解くか大きなプレッシャーを感じた。ほぼ半年をかけた。

10月27~29日、第7回杉下村塾で「智頭未来色」をテーマに討論会を林新館で開催した。

これら紹介した施策は、CCPTと役場職員の連携施策である。手づくり施策の効果は計り知れない、地域に対して当事者に愛着が起こった。例えば、故藤原孝係長はひまわりシステムのリーダーとして、またグランドデザイン策定プロジェクトから、ゼロイチ運動の企画に携わった。彼は、鳥取市との合併協議会の席上、「例え合併してもゼロイチ運動は譲れない。」と主張したと聞く。まさに智頭町づくりの自負心が言わしめたのだ。主体を持つことの大切さを学んだ。

 第2章 ゼロイチ運動と社会システム(仕組み)創造の企図

1. 英知を結集しゼロイチ運動に賭ける

1996年2月、グランドデザインの具体案づくりに向けて、意を決しH町長に直接申し出た。プロジェクトチームを編成してほしいと直言したところ、返ってきた言葉は住民5名を選んでもらいたいとあった。1996年4月12日、町長の指名により委員の委嘱を受け、「村おこしコーディネーター会議」が発足した。私はコーディネーターの役割を務めた。その企画会議では論文-1、「過疎地域活性化のグループ・ダイナミクス―鳥取県智頭町の活性化運動10年について」杉万俊夫・森 永壽・渥美公秀(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1)の「結語」が役立った。紹介する。

《あくまでも一つの可能性に過ぎないが、CCPT集合体が、一つの可視的「集団」としての様態から、より境界があいまいな、より緩やかな連結によって維持される様態へと変化するかもしれない。しかし、仮に、「集団」としての可視性を減じたとしても、あたかも変幻自在の軟体動物のように、地域コミュニティのひだの中にしみ込み、そして、岩をうがって伸びる木の根のように、縦割り行政システムの壁を突き崩して、その中に浸透していくならば、そこには、新しい住民自治に向けての一つの具体的な方向性が提示されてくるだろう、もし、そうなれば、それは一山間の過疎地の現象と言うにとどまらず、現在の日本社会が直面している大きな課題の一つ、すなわち、新しい政治・行政システムの構築にとって、一つの先駆けをなすものとさえ言えるのではないか。》

杉万論文の「結語」に武者震いした。この「・・・新しい政治・行政システムの構築にとって、一つの先駆けをなすものとさえ言える・・・」に刺激を受けた。大体、行政機関ではグランドデザインの報告書があれば一段落である。しかし、文中「・・・変幻自在の軟体動物のように、地域コミュニティのひだの中にしみ込み、そして、岩をうがって伸びる木の根のように、縦割り行政システムの壁を突き崩して、その中に浸透していくならば、そこには、新しい住民自治に向けての一つの具体的な方向性が提示されてくるだろう・・・」と、新しい社会システムの構築に向けて自負心がくすぐられ、さてどんな仕組みをつくるか、山間の智頭町から社会革新を起こす覚悟をした。その時のわくわくドキドキ感を今でも思い出す。時をかける思いだった。

そこでまず、地域づくりを「運動」とするか、一つの「事業」とするか議論を行った。やはり、子どもからお年寄りまで、自分たちが住んでいる地域を活性化するための計画づくりにしたいと考え、「運動」とした。では、運動のタイトルをどうするか、岡田先生の記念講演のテーマであった「ゼロ分のイチ」と、「杉トピア(杉源境)ちづ構想」の報告書から、『日本・ゼロ分のイチ村おこし運動』と命名した。ゼロイチ運動で、集落振興協議会を設立した場合を想定した。計画された事業は各事業とも主体的に実施され、いずれ価値あるものは定着する。その一つひとつの事業が新たな規範を形成し、それらが群衆流となると予想した。それら施策について住民同士で「コミュニケーション」が図られ、「集合的行動パターン」が起こり、それが「暗黙自明の前提」となって集落の特色をつくり、共有規範が生まれ、集落の規範がいずれ「環境」となると読んだ。ゼロイチ運動の実行案づくりはプロジェクトチームの最大の課題である。つまり、集落には総寄合があって意思決定権を持つ、そして、どの集落にも既存団体がある。公民館活動、老人クラブ、婦人会、消防団、青年団など、個々別々に存在する。それらを包摂する新しい組織づくりを考えた。これこそ地域革新である。そこで集落全体を包む大傘をイメージした。

振興協議会の構想には、杉万先生の講義-1の『かやの理論』と、講義-2の『こころと意味・「かや」』 (『ゼロイチ運動と「かやの理論」講義-1.と2.) の4点セットが役立った。早瀬集落で生活し、1986年から杉の木村の建設を体験したことが社会システムづくりに役立った。つまり、論文の「新しい総事」(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1)を創出する組織にするため、集落振興協議会の構想を村おこしコーディネーター会議で議論を重ねた。そして、1996年5月21日㈮~23日㈰の3日3晩、不眠不休でゼロイチ運動の企画書等①から⑥ (『ギブ&ギブ』第2章4) をまとめた。私の思いを、大呂課長補佐へ人生のプレゼントと手紙を書いた。

企画書(1)趣旨《・・・その町がマチとしての機能を持ち、高い自治を確立することによって、21世紀において、「智頭町」を確固たる位置づけとなすこともできよう。そのための小さな大戦略は集落の自治を高めることにある。智頭町「日本1/0村おこし運動」の展開によって、地域を丸ごと再評価し、自らの一歩で外との交流や絆の再構築を図り、心豊かで誇り高い智頭町を創造できるものと考える。1/0村おこしとしたのは、日本一への挑戦は際限がない競争の原理であるが、0から1、つまり、無から有への一歩のプロセスこそ、建国の村おこしの精神であり、この地に共に住み、共に生き、人生を共に育んでいく価値を問う運動である。つまり、この運動は、智頭町内の各集落がそれぞれの特色を一つだけ掘り起こし、外の社会に問うことによって、村の誇り(宝)づくりを行う運動である。》

企画書の趣旨と、②集落振興協議会規約、③運営要領、④組織概念図、⑤地域プランナーの手引き、⑥計画策定ステップの6策(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』資料編第4章)を町長へ答申し、7月の議会に諮られ議決された。企画書等は役場から各集落に周知された。

 2. ゼロイチ運動と地域計画、村の開闢(びゃく)以来の大作業

1996年度中に、ゼロイチ運動で10年間目指す行動計画書を作成した集落が、翌年度から導入することになった。ところが集落の長老支配は厳然と続いていた、保守的な体質である。果たして集落で地域計画が策定できるか、心配しながら見守った。ところがプロジェクトで発案のあった智頭町認定法人の指定が役立った。ゼロイチ運動は新鮮な学習の場となった。計画づくりに住民が参加することで、ゼロイチ運動の本質や隠し味に気づき、集落の体質改善につながると新鮮な空気が生まれた。そして、自ら暮らす集落をデザインする画期的な取り組みとなった。住民は積極的に参加し、計画づくりが集落運営に大きく影響を与えた。

早瀬集落では、1996年8月に入って総寄合が持たれ、ゼロイチ運動を導入するかどうか協議された。多数決を持って導入が決まった。9月から住民アンケート調査が実施され、さらにヒアリングを行い、ブレーンストーミングで洗い出し、語彙を短冊に書き出した。四面会議システムのディベートでは年齢に関係なく、人々は熱くなって計画づくりを行った。杉万先生はその場に立会されていた。(杉万俊夫編箸『よみがえるコミュニティ』P123)

《杉万~すごく印象的だったのが、早瀬集落のゼロ分のイチ運動が始まった頃、まだ、雰囲気がすごく静かなときに、横でみせてもらったんですが、時計が夜11時を回った頃、80歳ぐらいのお年寄りが、ぱっと立ち上がって、「俺たちがやらなきゃだめだ」ってね、こう宙をにらんで大声で演説をされるわけですね。あれだけの宙をにらんでの決意表明、80歳まで生きた人の力強い訴えというか。見えない壁、敵、受け身であり過ぎた過去、そういうものに対する挑戦ですよね。》

お年寄りの顔が輝いていた。そして、他の集落の計画づくりをどう導くか、新たに発足した「ゼロイチ運動担当者会議」のプロジェクトチームで作戦を練った。集落の計画書の作成方法を議論し、早瀬集落が先行し事例を示す戦略をとった。そして、各集落には担当者が、具体例として計画ステップや行動計画書と行動計画表等の書式を紹介した。この作戦は的中した。役場の担当者とコンサルタント2名は、住民の計画づくりを見守った。村の開闢以来の大作業は住民主体で展開した。(『よみがえるコミュニティ』P93)その様子を杉万先生が記録されていた。

《「ゼロ分のイチ村おこし運動」への助走が始まって半年くらいたった1996年12月8日、前橋氏(CCPT代表)の還暦祝いの会が、地域と科学の出会い館で開かれた。会もたけなわになったころ、今後の抱負を語る中で、前橋氏が言った―「ゼロ分のイチは、CCPTの第2幕だ」。智頭という町を舞台に、CCPTという小集団が、猪突猛進、身を持って能動的な地域づくりを実践して見せた最初の10年が、第1部。そして、第2幕では、最小コミュニティ単位の集落に、その能動的姿勢が移植され、住民自治の根を張りつつある。》

杉万先生は智頭町の変革を常に観察された。それでは集落では何が起こっていたのか、早瀬集落の情報紙「夢ステージ早瀬」と「村づくり情報」を紹介する。

(1). 1997年5月30日発行:「夢ステージ早瀬」の「時の流れの中で、今」から抜粋
《・・・社会の時流は、広く我が国の特に中山間地に過疎化、高齢化、核家族化、後継者不在などの社会現象を生み出した。早瀬集落(4つの小字から構成)をこの観点からみれば、平成9年2月現在、65歳以上の高齢者が55人で総人口の30%を超えたのに対して、18歳以下の人口は28人で15%を占めるに留まり、アンバランスな状態となっている。また一世代家庭の家庭が22軒(内、独居家庭が7軒)もあり、留守家庭となった家が3軒という、まさに寂れていく村の実態が浮き彫りされる状況となったことが分かる。そして、このまま時の流れに任せて早瀬集落が推移したと仮定した場合に、10年後を想像するのはちょうど底なし沼を覗くような恐ろしい気もするが、集落を支えて今を生きるものとしては、勇気を奮い起こして、村の姿を見つめ、寂れていく村に元気を取り戻す課題に早急に取り組む必要が痛感される。「わが家の今後」については、すでにそれぞれの家庭の大問題として意識されていたが、さりとてその対策によい知恵もなく、個々ばらばらに思い悩んでいたに過ぎなかった。また「わが村の今後」についても、世話人や公民館長などを中心とした動きの中で、ジゲ意識の垣根を越えて、「早瀬を一つ」と努力した伝統もある。そして、その結果、同じく大字にくくられた他の集落に比べて、その運営に格段成果をあげてきた点もあったろうが、「わが家」も「わが村」も、一個人、一世話人、一公民館長の努力では、時の流れによって生まれた「村が寂れる問題」に到底太刀打ちができないまま経過していた。このように、核家庭や集落全体が、蟻地獄にはまってもがくような、そして、ややあきらめの精神状態に陥りそうになったときに、私たちは日本・ゼロ分イチ村おこし運動に出会うことになったわけである。この出会いを集落の「起死回生、時の氏神」とばかりに受け止めて、早速、早瀬集落振興協議会を結成し、協議した計画書である。》

(2). 1997年12月20日発行:村づくり情報18の「動かなければ出会えない」から抜粋
《なんと「1,892人!」・・・この数字は、早瀬の村づくりのために動いた延べ人数です。その説明をしますと、平成8年8月29日に村の総寄合から委任された「ゼロイチ村おこし運動」について第1回検討委員会に参加した人から、平成9年12月14日の「ふるさと便り」の発送事務をした人数です。内訳は、役員会231人、委員会活動や部会活動・イベントなどに参加した人が1,093人、ボランティア活動に参加した人が568人となっています。この数字は事務局が記録している「活動記録票」から拾い出したので、かなり正確なものです。なお、早瀬集落以外から参加した人も数えられています。「在所(住むところ)に幸せを求めて喜びを創り出す」のがもっとも堅実な生き方です。メーテルリンクの「青い鳥」のお話でも、チルチルとミチルのきょうだいは、方々を探し回った挙句、自分の家に「幸せの青い鳥」を見つけて「ハッピーエンド」でした。私たちの村を幸せな村にしょう・・・これが村づくりの活動です。それにしてもたくさんの人が動いたものですね。》

(3). 次のステップに向けて、地域計画づくりにおける「地域経営」の概念
過疎化への起爆装置は、「集落振興協議会」と「地区振興協議会」の設立にあると考えた。地域の起死回生策として社会的紐帯の機能を模索していた。そして、CCPTの活動から、住民が地域を主体的に経営する概念を培った。そこで地域計画として、①は、住民自らの一歩による「住民自治」である。②は、地域資源を活かす「地域経営」である。③は、意図的に情報発信を行う「交流情報」の三本を、地域計画の要諦として提案した。つまり、1989年の第1回の杉下村塾の開講テーマに「地域経営」を掲げ、地域の課題を希求すれば必ず起死回生策が起こると期待していた。そして、いよいよゼロイチ運動によって地域理念(アイデンティティ)が復興する。

地域には、例えば農業経営はJAが、山林経営は森林組合が、商店経営は商工会が、企業経営は銀行によって経済循環している。地域福祉は社会福祉協議会、運動部門は体育協会、芸術文化部門は公民館である。財産区議会は山林等の管理である。すべてに社会形成されていると思っていた。ところが地域を主体的に見守っているのは一体誰なのか、町会議員なのか、役場職員かと、地域の主体を誰が持っているのか、地域の主体者(主宰者)は誰かととことん考えてみると、それは住民ではないかと思い至った。

住民が地域に主体を持ち、地域を丸ごとで価値化する概念が「地域経営」である。これまで集落も町も村も運営の視点で捉えられてきた。地域の「運営」と地域の「経営」では異なる。例えば、住民が主体を持ち地域の経営者として仮定すれば、当然、地域の資源の価値を問う運動が必要である。つまり、地域経営とは地域に内在するあらゆる資源であるヒト、モノ、コト、技術、文化、社会システム等の価値を引き出す概念である。地域経営の観点を持つことによって、人財や資源や経済が循環し持続可能な社会が創造されると考えた。実験的であったが、ゼロイチ運動の計画づくりの必須要件として、「住民自治」「地域経営」「交流情報」を設定した。

3. ゼロイチ運動は集落運営にインパクトを与えた

ゼロイチ運動は1997年4月に7集落が、「〇〇集落振興協議会を智頭町の認定法人とする」(みなし法人)と指定を受けてスタートし、2011年まで(14年間)役場の助成が行われた。本運動を導入した集落は88集落の内16集落である。その内1集落は途中でリタイアしたが、15集落は堰を切ったように事業を展開し、報道発信を行った。集落ではゼロイチ運動をどのように受け取っていたのか、中原集落の中澤皓次氏が長老支配から脱却した様子を語っている。

(1). 中原集落の場合
《1996年4月に智頭町はゼロイチ運動をやろうと思うので、集落の実情について意見を聞かせてくれと言ってきた。実際は智頭町の「村おこしコーディネーター」の委員の委嘱であった。これを切っ掛けにして、この企画を推進してきた智頭町役場のメンバーや、故前橋登志行氏と寺谷篤志氏らと、親しく智頭町のまちづくりや地区や集落の将来について、議論をすることになった。私からは「実は、村のことをこれだけやっても、なかなか認められない」と実情を訴えた。それに対するコメントとして寺谷氏は「集落に水戸黄門の印籠を作ろう」というものであった。期待半分だったが、自分の集落でのポジションのこともあるので、ゼロイチ運動の集落振興協議会の展開に関心を持って見ていた。》(『創発的営み』第2章6)

《集落版ゼロイチの認定が智頭町長名であり、「中原集落振興協議会を智頭町の認定法人とする。」とあった。村を方向づけるにはこの認定は大きい、直感的にやれると確信を持った。ゼロイチ運動の特色は、他の補助事業と大きく違う。自分たちで向こう10年間の計画を立て、実践するところにある。中原集落では「横瀬の谷の親水公園」の整備を柱にして、これまで村づくりをしてきた知識やノウハウを基に計画を作った。この集落版ゼロイチは、中原集落のために策定されたのではないかと思ったほどだ。》(『創発的営み』第2章7)

 そして、中原集落では財産(山林)の配分ルールが変更されていた、長老支配を脱却した証拠である。ゼロイチ運動が集落運営に大きく影響していた。水戸黄門の印籠をつくる戦略は的を射ていた。ヒアリングによって中澤氏の証言に驚嘆した。まさに革命であった。

《大きく分けて「本竈(かまど)」、「分家竈」、「寄留竈」に分類されている。集落でずっと以前から財産や家を守っている人には10割が配分される。しかし後から集落に入った人には、3割とか2割しか分配されない。4年に1度見直しがあって、1ランクが上がる仕組みになっているため、1番下の寄留竈の人が本竈になるには40年もかかる。これでは本竈以外の人が集落で向上心を持って生活する意欲はなかなか上がらない。それではどうして本竈に上げるかと言うと、集落総会の折に「この人を本竈(跡取り)として認めたい」と提案をし、承認をされれば本竈になれる。本竈になることによって、集落のいろんな事業の役割の要職に就くことができるようになる。本竈になるのに40年もかかっていたのでは、本竈による長老支配が続いてしまう。集落はマンネリ化し、活力を生み出すことが難しい。事業を行うにしても、役員の選出の方法を工夫してゆるやかに変えることで、他所から移住してきた人たちを仲間と認め、彼等に集落の中で活躍する場を見出し、しかも役割を担ってもらうことが必要である。前々からこの仕組みを見直そうと若者の中で話し合い提案した。彼等を人材として認めることによって集落に活力を生み出すことができる。すんなりと決まったわけではないが、この提案は人材を認める切掛けとなった。》(『創発的営み』第2章5)

《親水公園のキャンプ場の目玉事業であるログハウス建築の第1期工事は、2005年秋から2007年7月で、間伐材150本を山から切り出し、手造りで建てた。作業人員は延べ460人、日数は28日間にも及んだ。この作業は危険を伴う重労働であったので印象深く思い出すことができる。何に一番腐心したかと言えば、怪我人を出さないことであった。そのため、酒を飲んでいる者、トロトロしている者、足手まといになる者は作業をさせなかった。怪我をしないように、場合によっては「もう帰れ」と厳しく言った。もし怪我人がでれば、「それみろ、怪我人がでた」と言われ事業がストップする。怪我人を出さないように細心の注意を払い、緊張感をもってやった。この事業は、この作業に携わった人々の汗と涙と、集落への思いと、誇りの結晶だと思っている。殆どの人は憎まれないようにやっているが、特に危険を伴う作業はいろんなことを想定して、自分が憎まれっ子を買って出た。一人の怪我人も出さなかった。ログハウスを建築するころから集落の女性の協力が得られ始めた。間伐材を切り出して中原神社の前まで運び、そこで一度組み立ててまた解体し、横瀬の谷の親水公園まで運んでいた。昼食はそれぞれ自宅に帰って食べていたが、その内、村の女性の有志は一生懸命に頑張っている姿を見て、自分たちができることをやろうと、カレーライスや丼物などを作ってくれた。自然発生的に始まった昼食の賄いの支援は、中原集落のゼロイチ運動の求心力を高め、結果的に集落のまとまりを一段と強くしていくことに一役買った。ログハウス建築の総工費は、175万円だった。内訳は寄付金96人で73万円、緑化推進委員会から10万円、キャンプ場収入5万円、自己財源87万円で、竣工式は2007年7月21日。初夏のまぶしいばかりの太陽の下、親水公園に歓声が上がった。》(『創発的営み』第2章7)

(2). 早瀬集落の場合
〇2012年8月発行:「ゼロイチ運動早瀬ものがたり」から抜粋
村おこし運動の年譜「10年間における人の動きのトータル」
《役員会114回延べ1,162名、部会27回延べ204名、委員会57回延べ609名、ボランティア延べ8,750名の参加者を数える。10年間のゼロイチ運動期間中には、外部からの視察79件、講演11回、大学生の卒業論文への資料提供など、わが村を説明する機会があった。夢ステージを語るに当たっては、計画した目標値を素材にすることが多く、実態との差を意識させられた。その意味において却ってこちらが足らざるを反省したり、新しい意欲(勇気)を湧かす機会としたと思う。》とあった。

〇2006年11月から12月:役員会によるゼロイチ運動総括[ゼロイチ村おこしで良かったこと]
➀ 理念として
・アンケートによる計画の策定は村始まって以来の事であった。
・ハードづくりに力を結集することで村のシンボルができ、村の意欲が揚がった。そして、ハードはソフトづくりから始まることがわかった。
・村おこしは経済面で計り知れない価値がある。
・ゼロイチ運動は終わるが、その過程で始まっているものも数多い。
② 自治会活動として
・「太陽の館(公民館)」の建築省エネ・自然エネルギー利用であり、若い人の力である。
・「東屋・竹炭窯・焼肉ハウス・いきいきサロン」の建設を成功させた。
・シンボル的なもの(交民の館・バス停・東屋など)に係わって沢山の動きが出てきた。
・自治会を発足させることで、土地の名義変更や税金対策ができた。
・葬儀の運営が合理化できた。・歳を忘れて皆よく頑張った。
・アンケートを半数以上の者が書いてくれたこと自体が素晴らしい。自分の村だからできた。
・盆典にたくさんの若い人が参加してくれるようになった。
・各土居が共同して動くことができるようになった。
・青年層の活動(公民館活動・盆典・消防団など)が盛んになった。
・村の歴史(古文書の保管で過去、村づくり情報で現在)を記録として残せた。
・ふるさと便り・村づくり情報は村の歴史となり、素晴らしい記録となった。評価すべきことだ。
・村づくり情報は「時の証言者」だ。後世にも大層な価値を持つことになる。
③ 交流活動について
・集落放送や村づくり情報などによって、情報公開ができた。
・人々の和(絆)が広がった。
・大阪自然教室と集落内で交流できるようになり、また収入も確保することができた。ゼロイチだからできた。
・外からの視察で、村の足りないところを意識することができ「自分を知る」ことに繋がった。
④ 集落運営について
・「太陽の館」の掃除が皆の協力により順調に行われるようになった。
・竹炭・味噌・給食等、自立したグループの結成と活動が良くできた。
➄ 組織運営について
・会長が辞めた後、事務局に入る人事の流れは良かった。
・ゼロイチ・うるおい事業の会計が詳細に記帳されており、担当された方に感謝したい。

〇2006年末:「活性化策5項目」を総寄合に提案
役員会のアンケート集約から、早瀬集落のゼロイチ運動10年を整理し、5項目を提案した。
①村の運営を早瀬自治会で行う。②自治会規約を制定する。③地方自治法260条の2項の地縁団体とする。④公民館(太陽の館)と、東屋(除雪機格納庫)の土地を法人登記する。⑤自治会長は自主的に立候補する。5項目が承認され翌1月から実行された。

〇2007年2月発行:「ふるさと情報・ふるさとだより」第40号から
「早瀬のゼロイチ運動に寄せて」から抜粋 杉万俊夫(当時:京都大学総合人間学部教授)
《・・・ゼロイチ運動の成果として新しい公民館(太陽の館)が誕生し、その「太陽の館」を管理するために自治会(地方自治法260条による法人)が結成された。そして、昨年末、その自治会に、ゼロイチ運動の組織である集落振興協議会のみならず、旧来からの寄り合いも包摂されることになりました。これら一連の動きは、昔からの伝統的な集落運営とは明らかに違う「もう一つの道」を早瀬集落が生み出したことを示しています。もちろん「もう一つの道」をいかなる道にすべきなのか、それを完全に見通せる人間など、この世には存在しません。それこそ早瀬の住民自身が試行錯誤を重ねながら、探し当てていくべき課題でしょう。「早瀬はこのままではだめだ。自分たちで動かんといかん」—―10年間のゼロイチ運動は、今は亡き老人の言葉を10年前よりも高い次元で受け止めさせてくれたように思います。》

〇2009年3月:『早瀬ものがたり』、情報最終の日に「村づくり情報」の発行に思う
初代早瀬集落振興協議会長 長石昭太郎氏

《・・・「村づくり情報」の綴りの表紙には、「村は時々刻々につれて動いている。それが年々発展する村の姿だ。その動きに鈍感であってはならぬ。情報は、生きた村を知るために、村をよく観る目を育てるために書く」と編集上の戒めを記している。そして、ゼロイチ運動の全期間、月に二回のペースで発行され、各家庭に配布された。植物の成長で言えば、運動は10個の年輪を刻んだことになる。年々歳々同じように思える行事(事業)を重ねながら、しかし、その時々に課題を解決して前に進んでいる。それが「年輪」であり、その「軌跡」を「村づくり情報」が克明に証言している。活力ある村・うるおいのある村の姿を模索しながら活動を進めた10年間、それは正直言って、運動を起こす前には創造も出来ないほどの大変な時間経過であった。「汗も涙も流した」し、「肩を抱いて喜び合ったり」「口角に泡を飛ばして論じあったり」もした。村がこんなに燃えたことは、おそらく、わが早瀬では開闢以来、初めてのことであったと思う。歴史には「もし・・」という立場はありえないが、しかし、私たちの村が“もし、運動を起こしていなかったら・・・”と考えながら様変わりした村を眺めるのは楽しいものである。みんなの知恵や汗の結晶がそこかしこに存在を主張している。それは様々になめた苦労を忘れさせるに十分な喜びを与えてくれる程のものである。》

早瀬集落の記録の編集は、全て初代会長の長石昭太郎氏による。「早瀬村づくり情報」は計第265号(第平成9年2月7日から平成19年3月26日まで)と、「早瀬自治会だより」は計第135号(平成19年4月23日から平成30年4月23日まで)が発刊され、更に冊子として編集された。50世帯の小さな集落の村おこし物語は、智頭町立図書館、鳥取県立図書館、国立国会図書館に寄贈された。これらの記録を地域経営で評価すればいくらの値になるか、とんでもない価値である。長石会長曰く、「わしの70代はゼロイチ運動だった。」と語られた。

(3). 二つの集落から見えたこと
地域への思いが、地域理念(アイデンティティ)を復興させた。過疎問題が論議されるが、どうしても過疎化や人口減少に関心が持たれがちである。しかし、いくら過疎化・高齢化・少子化を負の面から論じても意味はない。何歳になろうとも常に目標を掲げて挑戦することである。杉万先生は早瀬集落で80歳の古老との出会いを紹介され、目標を持って挑戦することが大切であると説かれた。また、中原集落では財産の配分ルールが変更されていた。その分母となる定住期間を、意欲論で昇格させる方法を集落(長老たち)は認め、まさに革新を起こした。一つひとつ事業を起こすことによって人々が引き寄せられ、集合流が生まれ、集落がコンセンサスを得ていく、そのプロセスが繰り返えされた。ゼロイチ運動という過疎化の起爆装置は、住民が発信した創発規範に互いが共振し、集落丸ごとで覚醒化、葛藤化、攪拌化を体験した。まさにエマージング(創発)が起こったと言える。

4. CCPTから役場へ、役場から住民へ、住民から議員へ、町長へ

2002年から2004年まで、合併か単独かと揺れた。智頭町の単独合併論争は寺谷元町長の信任闘争であった。町会議員の一人ひとりに自治権が委ねられた。町は異様な空気に包まれた。ここに合併に関する分析論文がある。(『アクションリサーチにおける質的心理学の方法によるセンスメーキング―町村合併で翻弄された過疎地活性化運動の再定位』―東村知子【心理学評論2006.Vol.49,No.3,530-545から】)

《第一の町長批判については、合併論者であった町長が、住民に何の説明もなく突然単独を表明したこと、すなわち合併問題が一部の人間だけで決められていることを徹底的に非難する。そしてその訴えを、第1ラウンドと同様住民の声を通して行う。》

《「住民のこえ、声、こえ、声・・・」あれだけ「合併、合併」と大合唱していたのに、急に「単独」と訳が分からん。・・・合併の相手が鳥取市だろうと八頭郡であろうと住民は一緒だ。「八頭郡、八頭郡」と言っていたのは町長、その時から住民の意見はもう入っていない。》

《・・・「我々に残された選択肢は、『より大きな不幸をとるのか、より小さな不幸をとるのか』しかないのです。合併は、より小さな不幸を選択するものであります」と述べる。このように合併派は、合併がいいとは決して語らず、自分たちは好んで選ぶわけではないこと、また、合併は自分たちのためではなく「子や孫のため」の苦渋の選択であることを強調する。一方、単独派は「お金で私たちの街を放棄したくありません」(議員の声)と主張し、財政問題を強調する合併派に対抗して、それが重要問題ではないことを訴える。ただし、チラシの大半は合併への反論となっている。単独派「創る会(語る会)」は、合併派「生かす会」の代表であるY氏にチラシ上で公開質問状を出し、名指しで批判する。特に、「合併のメリットを示さず、合併協議会にみちびくのは邪道」、「協議会で合併の是非を決めるかのような署名集めは方便」のように、上で見た合併の「手段」を攻撃する。・・・》

合併協議会の設置について、「賛成か」、「反対か」、を問うた。住民投票の結果は賛成3,134票で反対は3,027票とわずか「賛成」が107票上回った。合併の是非を問う住民投票では「合併する」が3,143票、「合併しない」が2,953票と「合併する」が190票上回った。そして、2004年5月に寺谷町長は辞職した。鳥取県東部10市町村合併協定調印式で調印されたが、町議会は合併関連議案を2度否決する。2004年6月20日に町長選挙で合併派の織田洋氏が当選した。ところが、町議会は単独派が多数を占め、再び合併関連議案を7月8日に否決して単独となった。これで合併単独論争は終結した。2008年6月、再選に向けて寺谷誠一郎氏が第一声を上げた。傍から見ていると進も地獄、引くも地獄、絶体絶命の覚悟を感じた。論文-6、「政策の立案・実行過程における住民参加の新しい試み―鳥取県智頭町「百人委員会」—」叶 好秋・樂木章子・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-6)に当時の状況が記述されている。

《・・・選挙運動の期間から、「もう俺についてこいという時代は終わった。これからは、あなたたち住民が主役となり、住民と行政が一体となって町の未来を切り開くしかない」と繰り返し訴え、百人委員会の実現を公約に掲げていた。寺谷町長が就任してすぐに、百人委員会の募集が始まった。一般公募である。寺谷町長に未来を託した住民が次々と応募してきた。予想を大きく上回る142名の応募があったが、これは住民の町政に対する危機感と希望が入り交じった結果であろう。また「優れた企画に対して町が予算を付けます」というのは全国的に珍しい試みであり、インセンティブとなった。》

いよいよ首長の姿勢が問われた。創発規範がCCPTから役場へ、役場から住民へ、住民から議員へ、町長へと伝搬した。智頭町議会の単独決議によって町は水を打ったように静かになった。それから4年、満を持して「あなたたち住民が主役」と第一声が聞こえてきた。

5. ゼロイチ運動と「地域力」のメルクマール(指標)

2010年に、論文-3、「住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年―鳥取県智頭町「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動―」高尾知憲・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-3)が公表された。杉万先生はゼロイチ運動の追跡調査を実施し、運動に参加する15集落の全住民を対象に、集落振興協議会の発足初期の2000年と、9~10年目に2回のアンケート調査を実施し、10年間のゼロイチ運動が分析・解析されている。

《10年間という期間設定は重要だったし、10年間という区切りは適切でもあったようだ。この期間設定がなかったら、あれほどのエネルギーを動員することなど不可能だっただろう。われわれ筆者は、ゼロイチ運動という舞台が設営されたことによって多くの役者が登場するのを目の当たりにしてきた。よく人材不足を嘆く声を聞くが、「よい舞台さえ用意すれば、結構、予想もしなかった役者が出現する」というのが、われわれの実感である。》

運動期間を10年間に区切ったことによって爆発的なエネルギーとなり、集落は創発規範を発信した。もしも、「事業」としていたら単年度で終わっていただろう。期間を10年間としたことによって大きな成果があった。つまり、集落に地域計画を通じて主体が生まれ、人材が人財として育っていた。このことは集落に限らず他の組織づくりにも応用できる。つまり、旧村単位の地区振興協議会の設立に向けて試案となった。論文-3の「要約」に成果が分析されている。

《その結果、①同運動は初期の段階で集落に浸透し、終始6割の住民が同運動に参加したこと、②同運動の理念を最も実現した集落では、伝統的な寄り合い組織と新しい集落振興協議会を、車の両輪のように使い分けていたこと、③伝統的な寄り合い組織が、同運動の民主的性格を帯びるに至った集落も存在すること、④2-3割の人が、同運動等によって新しい自己実現の場を得、また、少子高齢化が進む集落にあっても明るい将来展望を持つようになったこと、⑤同運動によって、女性の発言力が増したことが見出された。》

これこそゼロイチ運動の成果と、論文-3の「3.考察」に示唆があった。

《別に少子・高齢化に歯止めがかかったわけではない。今後も少子・高齢化、人口減が続いていくことは、誰の眼にも明らかだ。もし、人口減をもって過疎化と呼ぶならば、過疎化は今後も進む。そもそも、2004年をピークに日本全体の人口が減少に転じる、今世紀末にはほぼ半減するという予測もある。もはや、人口の増加を繁栄のメルクマール、人口減少を衰退のメルクマールとする時代は過ぎたのである。では、何をもって「地域力」のメルクマールとすべきなのか。ゼロイチ運動が住民の自己実現や将来展望に与えたインパクトは、それを考える貴重なヒントとなろう。》

ゼロイチ運動を10年間継続したからこそ確認できた。つまり、集落に新しい自己実現の場を得たことは人生の価値である。想定を超えた成果となった。そして、2006年末には文章化された早瀬集落振興協議会の運動総括(前記3. 「ゼロイチ運動は集落運営にインパクトを与えた」)と、合わせて、杉万先生からアンケート調査結果の途中説明を受けた。そこから、本命の地区振興協議会の設立に向けて構想を練った。すべての価値が手元にあった。

地区振興協議会の構想は、①領域自治を活動テーマとする。②智頭町の認定法人とする。③助成期間は10年間とし、その後は自立経営とする。④住民自治・地域経営・交流情報で計画を策定する。⑤会長の任期は3年とし、互選で選出する。⑥既存の組織を包摂する組織とする。⑦地区の創発拠点とする。⑧運営要領等の仕組みづくりを委ねる。と要点を整理した。

6. ゼロイチ運動は集落にどんな影響を与えたのか

論文-3、「住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年―鳥取県智頭町「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動―」高尾知憲・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-3)、1(3)b「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動」から要点を抜粋した。

➀ 地域経営-P44
《地域を経営の視点で見直すと、地域には結構な資源を見直すことができる。ある集落では、かつて集落で栽培されていたギボシという山菜の栽培を復活させた。「20-40歳代の女性を中心に」ということにはなったものの、いかんせん、ギボシ栽培などやったことがない。そこに登場したのが、70歳以上の女性たち。昔とった杵柄(きねづか)が発揮されるとともに、それまであまり接点がなかった高齢女性と若年女性の間に交流が始まり、高齢女性もゼロイチ運動に参加しだした。この集落以外でも、竹炭、餅、地酒など、それぞれの集落の資源を活かした特産品づくりが行われた。》

《集落で古くから行われてきた伝統行事も、集落の貴重な資源になる。ある集落では、集落の寺にある地蔵(何か考え込んでいる風情の地蔵)の祭り「考え地蔵祭り」を地域経営の起爆剤に選んだ。集落内部の祭りを集落外にも開放し、積極的に集落外・町外からの参加を呼びかけた。今では、よその集落も出店を出すなど、当初は考えられなかった人数が祭りを訪れるようになった。祭りの最後には、盛大な打ち上げ花火も行われるようになった。》

《その葬儀のやり方に対して、ゼロイチ運動が問題提起を行った。葬儀のやり方について、真剣な議論がなされ、何をどう守っていくか、どこをどう簡素化するかが決定された。用意する小道具も、一つ一つについて図解入りで、簡素化の詳細が定められた。また、参列者に振舞う料理についても、喪主が気兼ねをしなくてよいように、品目と量の目安が定められた。こうして、数ある伝統の中でも、まさにアンタッチャブルと信じられてきた葬儀さえ、ゼロイチ運動によって再創造された。再創造されることで、葬儀屋に依存することなく、「集落住民の手によって葬る」という伝統が守られたのだ。》

② 交流交流情報-P45
《集落外との交流には、積極的に情報発信していくことが必要だ。ある集落では、集落のゼロイチ運動をインターネットで発信するために、ホームページを作ろうということになった(当時ホームページ作成は一般のパソコンユーザに普及していなかった)。そこで一躍中心になったのが、電気関係の会社に勤めている一人の人物だった。その人物は、集落にもゼロイチ運動にも、さしたる関心をもっていなかった。しかし、ホームページ作りという舞台が用意され、その舞台の上で自らの持ち味を活かしたすばらしいパフォーマンスを発揮した。その人物は、後に集落振興協議会の会長にもなっている。》

《集落を越えた交流は、集落間の協同にもつながった。ある地区(旧村の一つ)では、4つの集落がゼロイチ運動に参加していた。ゼロイチ運動を開始して数年が経過した頃から、これら4集落が互いに連携し、ネットワーク組織を形成した。互いに集落のイベントを手伝い合う、毎月一度、隣接する岡山県との県境にある峠のドライブインで各集落の特産品を持ち寄って朝市を開催するなど、ネットワークの強みを遺憾なく発揮した。またそれによって、高齢者が多い集落は、他の集落の中堅層のサポートを得ることができる、各集落独自の持ち味を組み合わせてイベントを開催できるといったメリットが生まれ、単一の集落では見られなかった相乗効果が発揮された。自らの集落を考える上で、他の地域の取り組みは参考になる。ほとんどの集落では、おもしろい取り組みを行っている地域を訪問し、自らの糧とする視察旅行が行われた。また、都市部の住民との交流、近郊都市の大学生との交流、あるいは、外国人との交流も行われた。》

③ 住民自治-P46
《当初のリーダーグループの範囲を超えて(リーダーとなりうる)人材の裾野が広がるか否かは、運動開始から数年間の大きな課題であった。リーダーは集落に登場するのでなく、集落が育むものである。大きくても数10世帯という集落は、いわば固定メンツの世界である。その固定メンツの中から一人でもリーダー候補者を育むことができるかどうかは、運動の推移を大きく左右する。まず、ゼロイチ運動以前から集落活性化を模索していた団塊世代グループは、同運動を追い風にしつつ、リーダーとして成長していった。ここ数年、それらのリーダーから町会議員も誕生した。彼らは、それまでの議員とは異なり、まさに、ゼロイチ運動が育んだ議員、住民自治のすばらしさと難しさを熟知した議員である。》

《一方、従来からの男性優位の集落運営に対して、ゼロイチ運動によって女性たちも集落の活動に参加し始めた。その中からは、女性グループで行う活動のリーダーが生まれ、彼女たちの中からは、男性とともにゼロイチ運動のリーダー的役割を担う人も登場した。・・・2つの集落では、ゼロイチ運動が開始されてほどなく、婦人会が消滅した。婦人会は、全国組織として、都道府県単位、市町村単位に設けられ、集落婦人会はその末端に位置している。その運営は、基本的に、上位機関からのトップダウンによって行われ、イベントごとに動員がかけられる。上からの動員には辟易させられつつも、やはり女性が活動できる数少ない場として、婦人会活動は継続してきた。・・・少なくとも、脱退を考えるなど皆無であった。そこにゼロイチ運動。女性も、男性と平等に、しかも個人の資格でやりたいことを仲間と考え、実行に移せる。そこには、上位機関から動員されて、たまたま時間をともにする活動では得られないおもしろさがある。もちろん、意見が対立する場合もあるが、それでも一方的な動員による活動とは比べようのない魅力がある。なぜ、婦人会などに加入し続けねばならないのか・・・そんな疑問が生じても無理からぬことであった。ゼロイチ運動で育まれた積極性は、長いものに巻かれるのではなく、「いやなものはいや」という意思表明をも可能にした。》

《ゼロイチ運動では、「既存の伝統的集落組織を捨てて、ゼロイチ運動組織(集落振興協議会)に移行する」という発想ではなく、「あえて新旧両方のわらじを同時に掃いてもらう」という戦略が取られている。すなわち、新システムの集落振興協議会は、決して伝統的システムを排斥することなく、伝統的組織(公民館、婦人会、青年団、老人クラブなど)をも包摂する形をとっている。住民が、新旧両方のわらじを経験した上で、自らがはきたいわらじを選んでもらう(場合によっては、新旧両方わらじの経験から第三のわらじを作ってもらう)という意図がこめられていた。》

《ある集落では、ゼロイチ運動によって、寄り合いに劇的な変化が生じた。その集落では、ゼロイチ運動への取り組みが評価され、県の補助事業をうけることができた。その補助事業によってボロボロだった公民館を新築し、ソーラーシステム完備の公民館を建築することができた。この新しい公民館を維持管理していくために、地方自治法第260条(地縁団体による集会施設等の不動産保有に関する権利と義務を規定した法律)に基づく自治会が結成された。そして、ゼロイチ運動10年目を迎えた2006年、同集落は、集落振興協議会と寄り合いを合体させ、自治会に一本化することを決定した。ゼロイチ運動の成果である公民館を維持管理するために設立された自治会が、集落を代表する組織となったことは、ゼロイチ運動が寄り合いを換骨奪胎し、自治会として発展してきたことを物語っている。》

《1997年、ゼロイチ運動がスタートして以来、同運動に参加する各集落で住民主導の姿勢が貫かれた。確かに、町役場には、ゼロイチ運動をサポートする部署が設けられ、1-2名の職員が配置されたが、そのサポートが軽微の域を出ることはなかった。》

その通り、ゼロイチ運動の価値が真に理解されているとは思えなかった。しかし、毎年3月、「ゼロイチ運動活動発表会」で、住民が発表する内容に圧倒された。ゼロイチ運動はきっと成果があると確信していた。仮にトップが代わろうともゼロイチ運動を止めることはできない。必ず人財は生まれる。その通りとなった。

《それらのリーダーから町会議員も誕生した。彼らは、それまでの議員とは異なり、まさに、ゼロイチ運動が育んだ議員、住民自治のすばらしさと難しさを熟知した議員である。》

2004年、智頭町は議会の単独決議によって死守された。ゼロイチ運動の企画前の集落の状況を一言で言うと、集落は自閉していた。住民は無関心で他力本願、集落運営は無計画であった。共有する地域に住んでいながら、個々ばらばらである。そして、旧態依然の規範に縛られていた。これらの現状を打破するため、自ら立てた計画に基づき実行する集落活性化運動を考案したのである。つまり、ゼロイチ運動は無責任な集落の運営を、責任ある集落経営に切り換える運動である。住民はゼロイチ運動の10年間、集落という舞台で知恵と行動力を発揮し創発規範が生まれた。そして、社会システム(仕組み)が集落に奇跡を起こした。

杉万論文は、ゼロイチ運動の発足初期と、9-10年目に実施された2回のアンケート調査によって考察されている。この論文-3から集落活性化の方策が読み取れる。ゼロイチ運動の最大の成果として、2-3割の人が、新しい自己実現の場を得た。また、少子高齢化が進む集落にあって明るい将来展望となったこと、女性の発言力が増したことが見出された、とある。住民が自己実現や明るい将来展望を持ったことが、運動の特色として上げられる。

7. ゼロイチ運動と仕組み「偉大な創造」「創造的昔帰り」

ゼロイチ運動の本命は、地区振興協議会の設立にある。2007年秋、山郷地区の住民に打診して、事前の打ち合わせ会を持った。ところがいくら説明しても、有力者からできない理由の発言があった。住民感情の中に単独合併論争が根強く残っていた。それらを乗り越える企画がいる。年末、大呂企画課長の尽力によって、企画書と規約の二点が町議会に諮られ、議決された。企画書の「2運動の意義(次代の要請)」に、「偉大な創造」が提案されていた。

《・・・地区振興協議会は一見旧村の昔帰りに見えながら、実は『偉大な創造』である。旧村では想像もできなかった徹底したボトムアップ(住民による自治)の地区づくりである。この壮大な、かつ、他に類例のない「創造的昔帰り」は、この10年にわたって智頭町が住民とともに展開してきたゼロイチ運動があったればこそ可能となった。この点が全国各地で始まろうとしている地区の振興のための施策とは一線を画するものである。》

「偉大な創造」の一文は杉万先生が加筆された。そして、規約案の第1条(目的)に「ゼロに帰するか、イチを守るか」は、岡田先生の加筆による。住民に決起を投げかけた。

《本協議会は、これからの地域社会を見据え、地域内外の人財ネットワークを最大限に発揮し、持続可能な社会を実現するため、「ゼロに帰するか、イチを守るか」地域の生き残りを賭けて、英知を結集し、地域の特質を活かした行動計画を策定し、地区づくりのための運動を展開することを目的に設立する。》

地区振興協議会の企画書と規約で、領域自治システムの発足が宣言された。企画書の策定に当たった大呂企画課長は、役場内の企画書の調整と議会対策を担った。悲壮な決意が表情に表れていた。私は「貴君の将来のポジションづくりだ。」と励ました。1989年にスイス山岳地調査から満18年が経っていた。おそらく、地区振興協議会の設立は、過疎化に向けて拠り所となるだろう。草莽決起の檄文である。企画書と規約で住民に覚悟を促した。

2008年4月、地区振興協議会(住民の自主選択)は、まず、事前対話を図った山形地区と山郷地区で設立された。次に2011年に那岐地区が、2012年に富沢地区と土師地区に設立され、町内6地区の内5地区で設立された。どの地区もよちよち歩きである。しかし、確実に一歩を踏み出した。そして、5年後の2013年12月に、論文-5、「旧村を住民自治の舞台にー鳥取県智頭町:地区振興協議会の事例」伊村優里・樂木章子・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-5)の「5.考察」に、社会システム(仕組み)づくりの企図が解析されている。

《・・・「住民が自らの地域を何とかする」ための仕組み(システム)が、いかに重要であるかも教えてくれる。仕組み(システム)は、「まず、だれかが仕組みをつくって、それを多くの人々に適用する」といったやり方では、なかなかうまくいかない。仕組みの構築プロセスそのものに、それが将来的に適用される人々が参加していなければ、仕組みは機能しない。この点は、「風景を共有できる空間」のような顔の見える空間で、仕組みを構築する場合には、特に重要となる。》

地区の人々に社会システム(仕組み)の運営要領等を委ねたことは、賢明な判断であった。住民が主体的に地区振興協議会を立ち上げ、地域理念(アイデンティティ)とウェルビーイングを手繰り寄せた。社会システム(仕組み)が人々を「偉大な創造」へと導いた。

8. 集落振興協議会・地区振興協議会・百人委員会の仕組み

地域活性化は、意欲論や感情論で持続性や継続性は起こらない。ましてや経済オンリーの価値観で覚醒化などない。地域の持続性を考え社会システム(仕組み)創造に、地域づくりを特化した。ところが、飯が食えん者が余分なことをするな、何にもならんことをするなと揶揄され続けた。私から言えば大きな家に住み、美味しい物を食べ、何時になれば豊かさをつかむのかと聞きたい。つまり、地域への無関心はだんだんと地域の誇りや地域理念(アイデンティティ)を欠落させた。その誘因は実は一人ひとりの生き方にあるとみた。アンチ経済論である。

1997年に集落振興協議会を設立し、次に2008年に地区振興協議会が設立された。これら住民自治システムに影響を受け2008年には行政主導により、住民の発想を活かす「百人委員会」が起動(委員は自主的参加)した。百人委員会では住民の企画提案が通れば、役場職員と協働で事業が実施され、「智頭町もりのようちえん」など数多くの施策が生まれた。

(1). 集落振興協議会(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』資料編第4章)
企画書の「3 各振興協議会のメリット」
➀智頭町の認定法人~智頭町役場と村おこし事業の窓口を務める。
②活動経費の支援~活動の2年間は地区100万円、集落50万円のソフト事業費(運営費)を助成する。
③リーダーの民主的選出~住民の総意によって3年間の任期でリーダーを選出する。
④村おこしのための運営団体の組成~各種団体を包含した組織とする。
➄アドバイザーの派遣~村おこしのためのアドバイザーと町職員を派遣する。

(2). 地区振興協議会(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』資料編第5章)
企画書の「3 事業概要」
➀実施内容:地区(小学校区)単位で、ゼロイチ運動を推進する住民組織として「地区振興協議会」を設置し、自ら描いた「地区活性化計画」に基づき行政と協働しながら、住民自治や地域経営力向上に資する事業を幅広く戦略的に実施する。
②事業主体:地区振興協議会
③助成期間:10ヶ年(初年度に「地区活性化計画」を策定・認定する。) なお、計画は3年ごとに見直しを行う。

(3). 智頭町百人委員会
論文-6要約、「政策の立案・実行過程における住民参加の新しい試み―鳥取県智頭町「百人委員会」—」叶 好秋・樂木章子・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-6)

地域の一般住民が、政策の立案過程のみならず実行過程にまで参加する「住民参加」の新しい方式として、鳥取県智頭町では「百人委員会」という試みがなされている。百人委員会は、町長のイニシアティブのもと、平成20年(2008年)に発足した。
➀百人委員会の委員には、満18歳以上の町民か、町内の事業所で働いているならば、だれでも応募できる。
②百人委員会で立案された政策は、民主的な取捨選択を経るが、なるべく多くの政策に対して「予算措置」されることが約束されている。百人委員会の委員は、政策立案にとどまらず、行政職員とともに政策の実行・実現にも当たる。

9. 地区振興協議会は過疎化の起爆装置

地域を地理的な視点で見ると、旧小学校区単位に地区振興協議会を設立する意図が分かる。智頭町は、戦前から終戦直後の「昭和の大合併」(1953-61年)で、当時の6つの村が合併して形成された。それら旧村は、現在、地区と呼ばれ、維持されている。渓谷の川筋添いに集落が点在し、一つの地区は、10から25の集落がまとまり、風景が共有できる空間である。旧村に小学校が置かれていたが、2012年1校(智頭地区)に統合された。

智頭町は93%が山林である。鳥取砂丘に流れる一級河川の千代川の最上流部の「山郷地区」は、岡山県の西粟倉村に隣接している。支流の北股川に「山形地区」があり、鳥取県八頭町と若桜町に隣接している。千代川は町の中心部で合流し「智頭地区」を形成するが、南東から土師川が注ぎ、「土師地区」とその上流部の「那岐地区」は、岡山県の奈義町に隣接している。また、西側には新見川が流れ込み、「富沢地区」が位置し、隣接するのは岡山県の津山市である。まさに杉源境である。地区によって、隣接する県境地域の言葉や生活習慣に影響を受け、それぞれの地区が特色を持っている。私達が小学生のころは年に一度、六部会という一堂に会する運動会が開催されていた。地区振興協議会の企画時点(2007年)に、六部会を復興させようと話し合った。

地区住民は、企画書の「偉大な創造」「創造的昔帰り」と、規約案の「ゼロに帰するか、イチを守るか」地域の生き残りを賭けて・・・の檄文をどう受け取ったのか、草莽決起を期待した。2012年までに5地区で地区振興協議会が設立され、創発拠点を獲得した。地域計画の柱とした住民自治、地域経営、交流情報は、過疎化の起爆材となった。

論文、「旧村単位の住民自治運動に関するアクションリサーチ」(集団力学研究所、 2021年 第38巻 pp.20-34)樂木章子(岡山県立大学保健福祉学部, 准教授)

《要約~農山村の多くでは、昭和の大合併以前の旧村が、旧村単位の小学校や、旧村単位で行われる運動会や祭りに見られるように、今なお一つのまとまりを維持している。この旧村を単位とした住民自治システムを構築しようとする運動が2008年から開始され、現在、智頭町6地区のうち5地区(山形地区、山郷地区、那岐地区、富沢地区、土師地区)が順次、地区振興協議会を立ち上げた。この運動は、最初の10年間は行政から財政的な支援を受けるが、それ以降は、それぞれの地域住民の手による地域経営が求められている。

本研究は、5地区でフィールド研究を実施し、それぞれの活動を追尾し、その地域資源や活動の特徴を筆者の目線から描き出したものである。山形地区では、介護保険によらない地域住民による地域の高齢者のために「森のミニディ」事業を展開し、これが他の地区へと拡大されていった。山郷地区では、防災活動の他、比較的新しい旧小学校校舎を活かした企業誘致に力を入れており、かつ、いち早く、法人格を取得した。那岐地区では、企業誘致や特産品の販売の他にも、地区住民を繋ぐ旧小学校校歌継承活動を開始していた。富沢地区では、障がい者や高齢者雇用の場ともなるキクラゲ栽培に力を入れていた。土師地区では歴史資料館を開設し、智頭町内の文化財の保存と展示に貢献していた。それぞれの活動は多様であるが、共通するのは、どの地区も行政からの独立を見据えた地域経営のビジネスモデルを展開しようと試行錯誤している点である。本研究ではそれぞれの地区振興協議会の最新情報を紹介するものである。》

10. 住民等の発案による百人委員会の主な事業

特に2015年から智頭中学校生と智頭農林高校生が、2017年には鳥取大学が参画している。
【平成21年度】(2009)
〇智頭町に森のようちえんを作ろう!~ 森のようちえんを運営する。
〇智頭米を活かした国際貢献~国際交流を通して、子どもの奉仕の心を育み、道徳心の向上を図る。
〇智頭農林業活性化プロジェクト~特産物の発掘、間伐材の有効利用、森林セラピーの推進を図るための先進地視察を行う。
【22年度】(2010)
〇郷土由縁の作家「米原万里展」の開催~智頭町由縁の作家故米原万里氏を町民に広く知ってもらう機会として展示会等を開催する。
【23年度】(2011)
〇木の宿場「第2段階」への林地残材活用のための先進地視察~ステップアップに向けた調査検討する。
【25年度】(2013)
〇智頭宿ハイカラ・プロジェクト~智頭宿ハイカラ市を開催し、レトロカーを集め誘客促進を図った。
【26年度】(2014)
〇自分を生きる学校の設立!~まるたんぼう付属小学校~智頭町の資源を活用した特色ある週末型フリースクールの運営をする。
【27年度】(2015)
〇Wonderful People ☆in Chizu!!!~智頭町の達人100人を図鑑で紹介する。伝統継承や智頭町の魅力UPを狙う。(智頭中学校)
〇智頭宿の魅力アップ-格子製作及び藍染のれん製作-智頭町の職人の技を継承し、見直すことで魅力アップにつなげる。(智頭農林高校)
〇「ちのりんショップ」の取組から見えてきたもの、平成26年度に開店した「ちのりんショップ」の拡大を図る~開店1時間後くらいからオープンカフェを実施し、住民の憩いの場、高校生との会話の場を設け、商店街に人を呼び込みたい。商店街各店舗の「わが店の自慢の逸品」を各店舗と高校生とが共同で見いだし、ちのりんショップで紹介する。商店街の人の往来を活発にしたい。(智頭農林高校)
【28年度】(2016)
〇「杉のまち智頭」独自の薪ストーブ等購入助成制度の導入~智頭町の山をきれいにする重要な3点 ①林業環境整備、残材、担い手育成、②の残材・間伐流通について、搬出された材を「薪」として町内に流通させることにより、智頭材の地産池消と環境貢献に寄与するため、薪ストーブの導入に補助金継続する。
〇学びにも選択肢を!「新しい学校」を智頭町に定着させたい!サドベリースクールの支援。
【29年度】(2017)
〇智頭宿まちかどプラットフォーム構想~空き家のリノベーションとIT技術の活用~智頭宿全体を「生きた博物館」として環境整備するために、平野家の利活用を検討する。鳥取大学建築環境工学研究室のメンバーを中心に、それをサポートする職能者(鳥取大学教職員・建築士会等)で「ForestValley(フォレスト・バレー:FV)」を設立する。平野家利用に向け、清掃活動WS、もの作りWS(裏庭整備・杉玉作り・風鈴作り・木製看板等)等を開催。Code for Tottoriと協力して「オープンデータ・ハッカソンin智頭宿」を実施する。(鳥取大学)
〇きて・みて・とまって・またきんさい~民泊マラソンを通じて民泊の魅力を伝える。智頭町産の杉板を使用した距離表示、方向指示表示、給水所表示作りをする。マラソンパンフレットに高低差の断面をつけたマップを作る。民泊先にインタビューし、各民泊先の良さをパンフレットにする。中学生もチームを作って参加し大会を盛り上げる。給水所、エイド、ゴール関係では、給水所の増設をし、ゴールで消化の早い食べものをふるまう。(智頭中学校)
【30年度】(2018)
〇智頭町百人委員会『10年のキセキ』~10周年記念広報誌として、これまでの各部会の活動の軌跡をまとめあげ、全戸配布、主要公共施設に配置する。上記広報活動を通じて、町民にまちづくりへの関心を高めてもらい、百人委員会活動のPR、新たなまちづくりを実践する。百人委員会活動の存在と事業・活動などをより多くの人に知ってもらい、これまでの支援に対する感謝の意を伝え、これからの活動への参加のきっかけ・機会を作る。
〇“智頭は今日も元気です”計画[CKGK](シーケージーケー)~智頭オリジナルカレンダーを作成し、県内外への配布活動を通じて町の魅力を伝え、活性化を図る。カレンダーの上半分のデザイン(12ヶ月分)については、写真や絵、デザイン、文字などを組み合わせて作成する。毎月のカレンダー部分の下に智頭町HPなどのアドレスやQRコード、検索を誘うような名称を記載。 (智頭中学校)
【令和元年度】(2019)
〇「智頭歴史トランプ」を学校教育に!~子供向けの智頭の歴史を知るツールとして、遊ぶだけで分かる「智頭歴史トランプ」を作成し、智頭の小中学校を始めとする教育関連施設に配布し、智頭の歴史を知ってもらい、智頭に愛着を持ってもらう。小・中・学童等に80セット配布する。
〇”新智頭図書館プロジェクト「智頭町にこんな図書館があったらいいな」~新図書館開館に合わせ、智頭らしさを滲ませた杉しおり3,000枚を製作し、ノベルティとして配布する。(智頭中学校)
【2年度】(2020)
〇森のやっかいものを地域の資源に!!~狩猟者が捕獲したシカを解体施設に搬入、1頭あたり1,000円の謝礼を狩猟者に支払う。消費拡大に向けたPR、捕獲頭数の増加、革製品の商品化、獣肉解体処理施設を整備する。
【3年度】(2021)
〇智頭町宿まちかどプラットフォーム構想~アプリを使った「智頭宿魅力発信マップ」作り~
7事業実施、3,910千円

11. 持続可能な社会システム(仕組み)、ポツンと一軒家

私にとって地域は唯一無二である。時代のうねりの中で過疎化、高齢化、少子化が進行している。杉万先生は論文-3、「住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年―鳥取県智頭町「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動―」高尾知憲・杉万俊夫(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-3)の「考察」で、地域力のメルクマール(指標)について記述されている。

《そもそも2004年をピークに日本全体の人口が減少に転じ、今世紀末には人口はほぼ半減するという予測もある。もはや、人口の増加を繫栄のメルクマール、人口減少の衰退のメルクマールとする時代は過ぎたのである。では、何をもって「地域力」のメルクマールとするべきなのか、ゼロイチ運動が住民の自己実現や将来展望に与えたインパクトは、それを考える貴重なヒントとなろう。》

何を持って地域力のメルクマール(指標)とすべきか、提案されている。実はこの提案を考え紐解くヒントが身近にある。毎週日曜日、我が家で楽しみにしている番組がある。朝日放送テレビの「日本全国大捜索!ポツンの数だけドラマがある。」の『ポツンと一軒家』である。

《日本各地の人里離れた場所に、なぜだかポツンと存在する一軒家。そこには、どんな人物が、どんな理由で暮らしているのか!?衛星写真だけを手がかりに、その地へと赴き、地元の方々からの情報を元に、一軒家の実態を徹底調査しながら、人里離れた場所にいる人物の人生にも迫っていく。1枚の衛星写真から、どのような人がどんな暮らしをしているのかに思いを巡らせるのは、MCの所ジョージとパネラーの林修。》

人里離れた場所になぜだかポツンと存在する一軒家がある。見ていると過去には数軒あったが、その後に燐家は山を下りて、ほとんど最初から一軒家ではない。ポツンと一軒家に住んで、山峡の地にあっても、生き生きと暮らし、豊かな人生が送られている。新しいメルクマール(指標)はポツンと一軒家にあるのではないか。どんな地域活性化論よりも説得力がある。それでは、地域で生き生きと豊かな人生とするためには、創発的な舞台がいる。それが提案する社会システム(仕組み)の創造である。1984年に一歩を起こし、身に着いた知識がある。持続可能な地域づくりに向けて6つの戦略に整理した。

(1) 企画力
企画力は、模造紙会議から「四面会議システム」(『ギブ&ギブ』第1章10、2章6)を考案した。企画は人々の知恵を集めることにあり、事業計画を立てる方法を工夫した。壁面に模造紙を張って半円形に座り、ペンも資料も持たない、前頭葉を上に向け、ブレーンストーミングで思いついたことを発言してもらい、模造紙に殴り書きした。1990年に智頭町出身大学生との交流事業で、参画型集団企画技法に体系化を考え、岡田先生の助言を得て四つの部門(総合管理・広報情報・人的支援・物的支援)に整理し、ディベートを取り入れ策定ステップを示し、四面会議システムを考案した。誰でも使える企画法を目指した。1996年にゼロイチ運動で早瀬集落振興協議会と、2008年に山郷地区振興協議会の計画づくりに活用した。

(2) 物事の本質をつかむ概念の共有
本書ではひまわりシステムと、ゼロイチ運動の概念図等である。事業の目的や趣旨を明確にする必要がある。図式化は主催者の思いを伝える法として有効である。物事の本質を図式化するヒントは、広島市の職場でミニ情報紙を発行しその価値を実感した。CCPTの事業でも積極的に概念図やイラストを活用した。それと耕読会で南方熊楠の因果律に出会い、日常会話で「因果」の語彙で会話するが、因果律として偶然は「曲線」で、必然は「直線」で描かれ、それらの交点が「結縁」である。起点は「因」で終点は「果」と表記されていた。(鶴見和子著『南方熊楠・萃点の思想—未来のパラダイム転換に向けて』)図式表現にこだわった。2015年に『まちづくりに求められる思考のデザイン』(『「地方創生」から「地域経営』へ)概念図81を編集した。

(3) 社会科学による住民意識調査の実施
住民の意識調査を実施した。企画や活動を持続するためには地域の実態を踏まえることが重要である。〇1988年に八河谷集落の住民意識調査を実施した。また、スイス山岳地調査後、〇智頭町の世代別の住民意識調査を1990年から1991年の間に行った。そして、杉万先生は〇1995年秋、CCPTの活動10年を解析し、〇2010年にゼロイチ運動10年を考察された。住民意識調査はCCPTの方向づけと、地域づくりの戦略構築に役立った。

(4) 資金の裏付け
事業の実施には必ず資金がいる。(1)から(3)を踏まえ、必要経費の概算見積もりを洗い出すことができる。スタッフはボランティアに徹することである。しかし、地域経営の視点から人件費の計上によって、事業価値の目安が把握できる。CCPTの活動では、青少年の海外研修派遣事業は住民から寄付を募った。木づくり遊便コンテストは中国郵政局と智頭町商工会(樹齢100年の智頭杉の寄付)の支援で、智頭杉日本の家設計コンテストの事業資金は智頭町役場の助成である。また、杉の木村ログハウス建築事業イベントは、智頭町役場と笹川平和財団にお願いした。「はくと・はるか・関空」シンポジウムは、智頭町・旧用瀬町・旧佐治村と中国郵政局の協賛によって開催した。杉下村塾は一人3万円の参加費で、CCPT活動実践提言書の発刊は一部3,000円で300部を販売し活動資金に充てた。

ゼロイチ運動の見積もりは、集落版で1年と2年は50万円、3年から10年は200万円の計300万円で、導入予定集落は20集落で6,000千万円とした。地区版は1年と2年は100万円、3年から10年は400万円の計600万円で、導入予定地区は6地区で3,600万円とした。総計9,600万円を見積もった。年500万円の経費である。実質経費は、集落版4,500万円と地区版3,000万円の合計7,500万円であった。行政は単年度予算である。企画者の思いが10年間の補助事業を実現させた。また、集落振興協議会と地区振興協議会への予算付けは、「先渡し方式」を選択した。これは郵便局の民営化前の渡切経費システムを応用した。そして、グランドデザインの策定は、係わる人々と人生を賭けた一大プロジェクトであった。仮にマネジメントすれば、数千万円、数億円が見込まれる。僅か100万円である。

(5) 人材養成
人材養成は、1984年に一歩を起こし1988年にCCPTを設立、青少年の海外研修派遣のため「智頭町活性化基金」を設立して、5年間で34人を支援した。1989年から1998年の10年間に杉下村塾を開講し、1997年にゼロイチ運動による集落振興協議会の15集落の設立は、論文-3で、《よく人材不足を嘆く声を聞くが、「良い舞台さえ用意すれば、結構、予想もしなかった役者が出現する」》と、人財養成が起こった。そして、2008年に地区振興協議会がスタートし5地区が設立している。人財養成の舞台ができた。合わせて、百人委員会の企画実践が地域づくりの核心にある。つまり、これら社会システム(仕組み)は過疎化における起爆装置である。当初、地域の持続性を考える機関は役場以外にないと吐露したが、住民の地域への思いが、社会システム(仕組み)の地区振興協議会を実現させた。

(6) 広報戦略
広報戦略は地域づくりに大きく影響する。農山村社会では出る杭は打たれる。批判や中傷が村の噂となる。本人が居ないときを狙って無言電話がかかってきた。新聞に掲載されただけで新聞社に抗議の声が届いていた。これには人権意識を持って闘おうと思った。地元紙の報道課長は鳥取県に必要な動きだと応援を約束し、今日まで支援がある。心強かった。こんな声に負けないためにも広報戦略を考える必要がある。どんな小さな事業でも地元紙に投げかけ、その継続発信によって無責任な批判者は口を閉ざす。つまり、徹底的に情報の発信を行い、ルーティンすることだ。負の規範の粉砕である。2011年に京都市へ移住したが、一人の関係人口として―智頭町の集合体の自伝―をささやかに編んでいる。

第3章 創意工夫でコミュニティの価値を生む

 1. 京都市に移住、マンション自治に取り組む

そうしていたところ2010年3月19日、主治医の木村文昭先生(玉野市民病院)から電話があり、翌日、受診を受けることになった。右腎臓癌の告知だった。4月27日、岡山大学病院で摘出術を受け、命を救ってもらった。そして、妻の「京都に行こう!」に触発され、2011年3月末に郵便局を退職し、10月18日に京都市に移住した。

京都市内の新築マンションに入居した。戸数は48戸である。翌年の7月、たまたま管理組合の理事に就任した。京都市内のマンションでは自治会を設立することは難しいと言われていた。そこで、この機会にマンション自治会を立ち上げてみようと思った。きっと、「かやの理論」が応用できる。そこで管理組合の理事会が主体性を持たせるため、理事の任期の半数を一年延長し2年交代を提案した。全理事が賛同して仕組みができた。次に、自治会を提案しようと規約案を協議して、2014年2月14日に臨時総会を開き、自治会が設立された。

《ホップ》2012年~[できることから]
理事会に防火責任者の設置提案する⇒手を上げる。
東階段と歩道の交差の危険性を理事会に提案する。
防火責任者研修受講⇒翌年度消防訓練計画策定する。
植木の剪定の承認あり⇒剪定作業をする。
節電のために照明センサーと時間設定の変更等を調整する。
照明センサーの移設工事、承認される。

《ステップ》2013年7月[社会システムを少しだけ変える] 管理組合の役員任期を2年に変更、半数入れ替える。
臨時総会~2014年2月
変更、2022.7.31.第11期通常総会~管理組合役員1名が自治会役員を兼務する。
駐車スペース1台分を賃貸にすることを決議する。
変更、2022.7.31.第11期通常総会で管理組合と自治会~別々に開催することを決議する。
消防訓練の実施~2014年4月⇒家族状況調査を実施する。
総会で予算5万円自治会助成を承認する。~2014年7月

《ジャンプ》2014年8月~[具体的に実施する]
地蔵盆・クリスマス会を実施する。
ハロウィン実施する。~2015年10月
出水学区の防災訓練に自治会が参加する。~2015年12月
剪定作業を返上~2020年9月、作業を関さん家族が手を挙げる
管理組合が居住者調書を作成予定~2022.7.31.第11期通常総会に提案する。
大規模修繕工事⇒2023年3月~6月末
社会システム(仕組み)は大きく変える必要はない、少し変えることを心掛けた。ところが、コロナ禍で新たな課題が起きた、仕切り直しである。

 2. 創発規範の連鎖の拡大を検証

地域に規範の定点観察の視点がない。つまり、その後智頭町はどうなったのか、CCPTの創発規範は伝搬(『ギブ&ギブ』第2章7)したのか、ゼロイチ運動は地域にどのような影響を与えていたのか、創発規範の「贈与と略奪」の行方を知りたいと思った。2015年夏、田舎のパン屋さんタル―マーリーの渡邉格氏ご夫妻にお会いして、出会い館で「腐る経済」の話を聞いた。そのころ智頭町では「おせっかいのまちづくり宣言」が行われ、百人委員会に智頭中学校生、智頭農林高校生が参画していた。そして、2016年7月、地域経営まちづくり塾の参加者から松岡正剛氏の「QON DAY 2016」の講演を紹介してもらった。

《「エマージング」です。つまり、「創発」ですね。物質現象は水が氷になったり水蒸気になったりするように、液体が個体になる、液体が気体になるなど、状態のフェーズを変えます。ことを「相転移」といいますが、この時に起こっているのがエマージングプロセスです。》

地域づくりをエマージング(創発)と認識してから、明治大学教授の小田切徳美先生に連絡して、同年11月、京都駅の喫茶店で面談し、書評の快諾をいただいた。書名は「創発的営み」とアドバイスをもらった。翌年の2月にかけて共著者の澤田廉路氏にヒアリングをしてもらった。ゼロイチ運動が大きく影響していた。そうしていたところ、2019年7月、智頭町が内閣府のSDGsの未来都市に認定された。勇気を得た。地域の持続可能に向けて地域づくりに挑戦してきた。10月、『創発的営み』を出版した。早速、杉万先生から手紙をいただいた。

《1992年11月、みぞれまじりの中を初めて智頭を訪れてから今までのことが、走馬灯のように駆け抜けましたというか、もっと正確には、走馬灯の中で私の知ることのなかったことも含めて、大作の映画を見るような感じでした。岩波ブックレット(『地域からの挑戦』2000年発行)と今回の本を比べると、インターローカルへの贈与-略奪の連鎖の拡大が明らかですね。岩波ブックレットでは、CCPT時代から集落ゼロイチの最初の2~3年を書きました。それはそれで壮絶ともいえるスタートだったわけですが、今回の本では、それが軽やかに拡大していった成果が如実に表現されています。(1)岩波ブックレット、(2)集落ゼロイチの総括をした高尾・杉万論文、(3)地区ゼロイチの端緒を書いた樂木・山田・杉万論文、(4)地区ゼロイチの経緯を追った伊村・樂木・杉万論文、(5)今回(『創発的営み』)の本、というように並べると、壮大な絵巻物になりますね。(2)-(4)は集団力学研究所のホームページにあります。大学の講義には、格好の予習・復習の課題になるかもしれません。》(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』第8章6)

杉万先生の提案を重く受け止めた、何とか実現したい。グランドデザインの報告書の編集で、主筆を務められた平山京子さんに協力をお願いした。翌年、『ゼロイチ運動と「かやの理論」』で実践編・資料編・論文編を発刊した、大作業だった。2020年、智頭町「おせっかい奨学金」制度が発足し、高校や大学等への進学者に向けて創設された。通常より有利な金利で、ローン返済の利子については全員、元金は10年以内に町に帰ってきた場合には補助対象となる仕組みである。2022年6月、横浜市立大学国際商学部の吉永ゼミ等との交流を『ギブ&ギブ』に編集し、発刊した。「ナギノ森ノ宿」宿・銭湯・店(旧那岐小学校「一般社団法人 那岐の風」)が、2023年春オープンに向け、マネージャーを公募した。地域は動いている。

3. 智頭町「おせっかいのすすめ」施策

(1). おせっかいのまちづくり宣言(広報ちづNo766から)
(平成27(2015)年12月1日「おせっかいのまちづくり」推進懇談会)
《私たちは、家族や親せき、隣近所、地域、学校、職場など様々な社会の中で、支え、支えられて暮らしています。近年、この支えあいの力が弱くなっており、また「向こう三軒両隣」の助け合いの精神も、忘れ去られているのではないでしょうか。私たちが幸せに暮らしていくために、これからは、少しの「おせっかい」が大事な要素になってくるのではないでしょうか。そこで、地方創生元年の今、町民が肩を寄せ合い、共に支え合いながら地域の人々が、心も暮らしも豊かに「智頭らしく生きていく」そして、訪れた人が町を好きになり「ホッと癒され」また訪れていただく、そんなまちを目指して「おせっかいのまちづくり」をここに宣言します。今日から、押しつけにならないように気をつけながら、少しのおせっかいを始めることで、「安全で安心な住み良いまち」をめざし、本日、ご参会の皆様をはじめ、全町民の方が積極的に行動していきましよう。》

【本町が推進する「おせっかい」】(広報ちづ 2020年9月)
『目配り・気配り・心配りのあるやさしさ『おせっかい』⇒「心が温かくなる」「優しい心を育む」』
【毎月1日「おせっかいの日」】
【おせっかい標語2020】『大賞~あいさつと、笑顔でひとこと“おせっかい”』

(2). 「おせっかい奨学金」スタート(智頭町ホームページから2021年6月4日)
本町は年間25人(2019年)の子どもが生まれています。しかし、高校や大学進学などで自宅から通えない学校に通う場合は、町を離れていきます。子どもたちが町に帰ってきたいという気持ち、大人たちの町に帰ってほしいという願いを叶えたい思いで、このパッケージができました。
〇10年以内にUターンしたら奨学ローン返済額が補助対象
町外の学校に通う場合、自宅から通う人より生活費が平均で月に4万5千円多くかかります。鳥取信用金庫(連携金融機関)の「おせっかい奨学ローン」を借りていただき、生活費を補填いただくことで、中山間地特有の条件不利な環境の改善を図ります。また、その利子については全員が補助の対象、元金については10年以内にUターンした場合は補助の対象となります。
〇おせっかい奨学ローン借入額
高等学校/毎月3万円
大学、大学院、専門学校等/毎月4万5千円
〇おせっかい奨学金をまちぐるみで積み立て
「おせっかい奨学ローン」返済額を補助の対象とするために、「おせっかい奨学基金」を創設しています。町の予算だけでなく、子どもたちのUターンを支えるために、寄附を募り、それを基金に積み立てます。
〇実施時期
2020年4月からスタート

4. 「ギブ&ギブ」、横浜市立大学吉永ゼミ等と交流

2021年3月、横浜市立大学国際商学部の吉永崇史先生の吉永ゼミ等の皆さんが、智頭フィールド調査をされていることを知った。それではと関係書籍をお贈りしたところ、4月11日、吉永先生のメールに論文が添付されていた。

《筆者は、横浜に戻った後で、智頭町をフィールドとして研究してみたいと考えるようになった。具体的な研究テーマが思い浮かんだわけでもないが、直感的に、この“コミュニティ”に研究者としての魅力を感じたのだ。あえて言語化するならば、智頭町の人が、雰囲気が、洗練されている。その“ 洗練さ” は何によってもたらされているのであろうか。経営組織論を専攻し、とりわけ組織開発に関心を持つ筆者にとって、このコミュニティに感じるものが何なのかを知りたい、そのように思うようになった。》(横浜市立大学論叢社会科学系列2020.03.31:vol.71No.03)

これは凄い評価だと思った。是非とも吉永ゼミ等の胸をお借りして、智頭町の魅力と洗練さを探ってみたい、そこで地域づくりのダイジェスト版を編集して送った。学生諸氏はどう受け取ったのか、「かや(規範)」「贈与と略奪」「ギブ&ギブ」「おせっかい」「提案マネジメント」など、新しい語彙が感度高く受け止められていた。実は、インターローカル論で、実践の知恵は地域を越える。そして、吉永先生から智頭町住民との“対話”を重ねた筆者にある洗練さのイメージは、①歴史と伝統に裏打ちされた本物の暮らし、②暮らし(ライフスタイル)と仕事(ワーク)両面での専門家、③自然との共生、④他者への温かさと受容、⑤他者との関係性構築としてのおせっかい能力。と解析された。やり取りを編集して『ギブ&ギブ』を出版した。学生から感想文が届いた。

〇智頭町の「おせっかい」が訪問者を魅了して、再訪を促す重要な要素になると再認識した。
〇まず、ギブ&ギブの精神は、相手の反応を予期せず、捨てるがごとく行うべきである。相手の反応を期待するのではなく、自分がしたいからする。これは非常に大切なことであると考えた。
〇自分で1から作ることは簡単なことではない。しかし、行動を起こしたからこそ、智頭町が変わっていったように、自分や周りを変えたいのであれば行動すべきである。
〇ギブ&ギブの利他思想の背景には、エディターシップの実践があることを改めて強く実感した。
〇地域づくりの根本にある精神的支柱は「ギブ&ギブ」の利他主義にあるということを実感した。
〇本書を通じて、「エディターシップ」「四面会議システム」等からトップダウン的な一方通行ではなく、普段からは汲み取ることのできない動機を洗い出し、能動的なコミュニケーションから生まれる案や考え方の重要性を再確認した。
〇初めて智頭町を知った時に感じた智頭町のエネルギーや時代に対応する柔軟さは、過去にCCPTのような智頭に対する熱い思いが、今も受け継がれていると思うと地域活性化とは、単に経済的な成功のみではなく、志や信念があってこそ活性しうるものだと実感することができた。

感想文は一部の紹介である。なぜ『ギブ&ギブ』を編集したのか、それは学生諸氏が、積極的に地域と向き合ってほしいと考えたからだ。例えば、知恵や考え方がどうであれ、自分たちの姿勢によって地域は掘れば掘るほど価値が生まれる。それをつかむため智頭町と向き合ってもらいたかった。そして、『ギブ&ギブ』の出版で、改めて智頭町の魅力と洗練さは日々の暮らしや、隣人との関係にあると発信した。

5. ニ兎追って三兎を追い、夢を実現

私は、夢を実現するという目標を持っていた。精神的に良く持ったものである。こうしたい、ああしたいと夢見る、次にそれを実現するためにどうすれば良いかを考える。ちょっと踏み出してみる。また考えて一歩踏み出す、この繰り返しでやってきた。目標を達成するためにはあらゆる手段を考え、そこにやりがいを見出した。心の中に分け入ってみると、批判や中傷を受けてもなぜ持ったのか、それは物事の本質を知りたいと強く願ったからである。例えば、なぜ過疎化が起こるのかを問うた。導きだした対案は、一つは「誇りの創造」をテーマにしたゼロイチ運動である。そして、拙著『ゼロイチ運動と「かやの理論」』の「おわりに、ウィズコロナと創発的営み」に経済の尺度とは異なり、地域には唯一無二の価値があると提案した。

《これから地球規模で人類の大移動が起こるだろう。その際に、本書で確認したことが活きる。つまり、どの地にあっても思いがあれば創発(エマージング)的な生活により、小さな小循環が生まれる。先人はそのことを体現してきた。地域は誇りありきではない、また、経済ありきでもない。私の先祖も貧しいから山の中で暮らしてきたのではない、逆に豊かな地だから何世代にもわたって営み続けてきた。それは、便利とか、不便とか、お金や時間の尺度ではない。家族、風景、環境など、他では得られない唯一無二の桃源郷の価値を、その地に見出していたからだ。つまり、農山村には人々が生活していく確かな安全・安心がある。おそらく、これから人々は真に豊かな地を目指す。》

地域は唯一無二の地である、人々にとって掛け替えのない価値がある。一歩、一歩、踏み出しながら確信を得て取り組んだ。私はすごく慎重(臆病)な性格である。勝算が立たなければ事は起こさない。①事前に、企てを緻密に図る。そして、②大胆に実行する。③物事の事後は、繊細に情報を収集する。この思考でルーティンを掛けてきた。そして、実現すれば達成感を共に味わい、人々と美酒に酔った。極限の中で「一隅を照らすは 国宝なり」と、1200 年前の思想に拠り所を見つけた。そして、山間の地での生き方に落とし込んだ。青年時代から行動規範とした「我在存宇宙」、我レ在ル故ニ宇宙ハ存ス、つまり、命が亡くなればすべてなし。人々と向き合い、一文字、一文章、一つの仕組みに精魂を込めた。政府の過疎対策に疑問を持った。単に批判ではなく、この地に事実を作ることだと覚悟した。社会科学の学びの場から、役場と研究者等のプロジェクトからゼロイチ運動を発案した。社会システム(仕組み)の創造はウェルビーイングを手繰り寄せた。

知人で彫刻家の近藤哲夫先生は、2012年4月京都に来て半年経った頃、岡田先生の退官祝賀会に出席のため我が家に一泊された。その際、「この文字がすっと頭に浮かんだ。」と言って7枚の色紙をいただいた。『やっと一息』『ほっ』『礎』『きょうもよかった』『生』『道』『魁』と、薄い墨と金色の太い文字で書かれていた。京都に来て心情が定まらないことを見透かし、最高のプレゼントであった。後日、畳一枚の『魁』(さきがけ)の扁額が届いた。

私は帰郷後間もない時期に鳥取県イメージアップ懇話会の委員の委嘱を受けた。一年かけて議論し、「とっとりingsマン=積極人間」を答申した。その後、自分自身の行動指針とした。世の中で二兎を追う者は一兎を得ずと言われる、ところが「地域実現」「郵便局実現」「自己実現」と三兎を追い夢中で走った。納得である。

 6. 地域の規範の「定点観察」、記録はメモから

第3回杉下村塾で、岡田先生はベクトル思考で問題解決の種子は水平思考にある。つまり、水平型ネットワークのエディターシップ(編集)で、全体と部分を考えることが大切である。(『ギブ&ギブ』第1章8資料-1と2)そして、地域活性化は(熱)(執)(冷)の視点がいると説かれた。

《CCPTは、間口を広げる水平思考をしながら、プロジェクトにより問題解決し、目標を達成している。つまり、ベクトル思考を持った集団と言える。地域を活性化するためには、ベクトル思考を持たないと問題は解決しない。ベクトル思考とは二つ以上の軸を持って考えることが、備わっているかどうかである。そして、ベクトル思考は「地域経営プロジェクト方式」であり、障害を乗り越え問題解決し、目標達成する力である。》

《地域を活性化するためには、(熱)(執)(冷)が必要である。(熱)とは情熱的なひたむきな心で、(執)とは目的を達成するための執念であるが、だいたい活動家と言われる人々には、この二つは備わっている。しかし、あと一つ(冷)、冷ややかに見る目をもっているリーダーは少ない。(冷)とは科学での分析、検証、評価である。いくら個人的な感情面で地域をとらえても真の活性化は起こりえない。》

(熱)(執)は知的好奇心を持つことである。私は物事の頭に「なんで・・・」「どうして・・・」と、言葉を置くことによって物事に強く関心を持った。関心を持つことが熱意につながり、解き明かそうとするところに執念が生まれた。大切にしたことは、熱い思い(感性)である。そして、夢見る(希望)ことである。次にこうありたいとビジョンを持つことによって、行動規範となった。つまり、実現へのステップは、 1.気づき、2.企画し、3.実践し、4.記録し、5.編集する、と5段階のステップを常に心掛けた。私にとって一番できないことは(冷)である。地域で(冷)を持つためにはどうすればよいのか、岡田先生は科学での分析、検証、評価であると言われた。それでは住民が(冷)思考を持つには工夫が要る。私の解決策は観察と記録である。兎に角、観察して記録した。今、このように本書をまとめることができるのも、行事予定表に30年分を記録しているからだ。メモのきっかけは1983年に帰郷する際、中国郵政局の先輩から「メモをとると良いよ」とアドバイスをもらった。気づいたことをメモにとる。積み重ねたメモは定点観察となった。

そして、CCPT活動実践提言書は1989年から1998年まで編集した。年に一冊200ページ、10年間で2000ページである。資料は、一つの証拠でメモも積もれば力となる。これら提言書は智頭杉の木箱に入れ、山形地区振興協議会、智頭町立図書館、鳥取県立図書館、国立国会図書館に寄贈した。智頭町づくりの自伝の記録となった。

もう一つ、講義で要旨が語られる。鵜呑みにするのでなく、テープ起こしをすると講義の本旨をつかむことができる。大変な作業だが、言葉を受け止めるから知識を得る。本書はその事例である。そして、関係論文や報告書から何を引き出せるか、特に要約と結語を読み込んだ。報告書では文章末の結語である。それでは論文等を私一人で解釈ができたのか、秘訣は、翻訳プロジェクトチームの編成である。小集団を組織して課題を共有しながら、議論を行い、素案をつくり、議論を重ね、素案を作成してコンセンサスを得た。行政施策は最終的に議決が要る。手数がかかる分、その施策に思いを込め地域理念(アイデンティティ)が醸成された。

7.8. 地域づくりとマンション自治のヒアリング

1984年からCCPTが取り組んだ地域づくりの資料は、山形地区振興協議会 (電話0858-75-0343:旧山形小学校:)の『智頭町まちづくりレガシー館』に保存してある。新聞記事はアルバム20冊、企画に伴う書類ファイル、CCPT活動実践提言書(1989年版-1998年版)、書籍関係、また、拙著『ギブ&ギブ』の校正原稿の編集ステップも保管されている。そこで、大呂佳巳氏が地域づくりの語り部を務めている。(1988年、地域づくりの目標を「親の世代から夢は与えてもらわなかったが、せめて子どもたちに語れる町にしよう」と話し合った。)

読者に分かり易く伝えたいと思い大呂氏にインタビューした。その中で「智軸づくりプロジェクトは人生のプレゼントであった。」と回答があった。感動したまさに結縁である。

(1). 地域づくり、大呂佳巳氏にインタビュー(2022.07.20.)
《私は現在、山形地区振興協議会(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-4)の会長をボランティアで務めている。地区振興協議会は2008年にスタートした。2012年に旧山形小学校の校舎の管理を智頭町から受託して、旧校舎の活用を地区振興協議会の独自事業と、テナントで民間企業が展開している。自分が卒業した小学校の校舎で、時代の流れとは言え、まさかのまさか、地区における創発拠点として「山形共育空間」構想の実現のため、本当に、日々忙しく、楽しく遊び、学び、人生実現に向けて取り組んでいる、とても不思議な世界にいる。

翻って、1980年代の役場の雰囲気は、トップが「烏が白いと言えば白い、黒いと言えば黒い。」がまかり通っていた。どうあがいても封建体質に従うしかなかった。そんな中で、寺谷局長からまちづくりをしようと声をかけられたが、「智頭町ではまちづくりはできない。」と答えたのは、そんな空気を感じてのことであった。しかし、CCPTは1988年に、智頭杉「日本の家」設計コンテストを実施した。これまでの智頭町の体質とは全く違う、外の世界を巻き込んだ仕掛けだった。そして、役場の中に事務局を置くということで、総務課の一員として事業に当たった。次に1989年に杉下村塾が開かれ、研究者や科学者の方と議論をする機会を得て、将来に可能性を感じた。ところが、町会議員の選挙違反が発覚した。4年後に選挙違反をした本人が町長に立候補して当選し、その直後に元町長が県会議員に立候補して金を配り、再び町会議員が大量に逮捕されるという事件が起きた。

そんな時、第6回杉下村塾での提案をきっかけに助役が中心となって、1995年1月14日に智頭町グランドデザイン(智軸づくり)策定プロジェクトが発足した。例え、トップが揺れようとも自分たちが地域プランナーとして、確固たるまちづくり理念を持っていれば振られることはない。本プロジェクトを役場職員は真剣に受け止めた。そして、智軸づくりプロジェクトから、杉トピア(杉源境)ちづ構想へと、次にゼロイチ運動の企画へと進展したが、その取り組みによって救われた。まさに、智軸づくりプロジェクトは人生のプレゼントであった。1998年のCCPT活動実践提言書の表題に、「居合わせた者よ、いきさつの語り部となれ」とあるが、その示唆もあって母校を舞台に、今、『智頭町まちづくりレガシー館』の語り部を務めている。まずもって感謝である。自分たちが歩んできた智頭町の地域づくりの軌跡を、自分の言葉で語っている。こんな幸せを、地域づくりからつかむことができた。幸せは豊かな「かや」から生まれると、次の世代に是非とも伝えたい。》

(2). マンション自治、関さんにインタビュー(2022.07.20.)
《マンションに入居したのは2011年秋のオープンと同時だった。それまで京都市内に住んでいたが、近所の方に子どもを可愛がってもらい、大変親しくしていただいていたので、新しいところへ移ることに少し躊躇していたら、一番親しくしていた方から、「新しいところに行ったら、きっと新しい出会いがある。また訪ねてきたらいいよ。」と言ってもらった。その時、上の子は2歳だった。

そして、2014年に自治会ができて、8月の盆過ぎの日曜日、京都ではどの町内会でもやられている「地蔵盆」が催された。地蔵盆では親子で参加した。子どもたちは学校や幼稚園の関係ではなく、同じマンションでエントランスを走り回り、ペットボトルをピンに見立ててボーリングやゲームをして楽しんだ。あるお父さんは図書館から紙芝居セットを借りてきて物語を話して聞かせた。そして、終わりにはビンゴゲームで商品が当たるというおまけつき、我が家の子は、特賞5キロのお米を当てて喜んで帰ってきた。僅か2時間ばかりの地蔵盆だが、参加した親子は本当に打ち解けた。その次にクリスマス会である。クリスマスツリーの飾りつけから後始末まで、できる者が参加して手作りで会をやってきた。

そして、2020年にコロナ禍で全て中止になった。そんな時、当初は寺谷さんが植木の剪定作業をされていたが、家族で話し合ってみんなでやってみようということにした。まず、ツツジの花を咲かせるため剪定時期を考えなければいけない。家族総出で剪定後の後始末をする。上の子は小学校六年生、下の子は6歳だ。行き交う通行人に気をつけながら作業をしていると、マンションの大人や子どもさんから「ありがとう」と声が届いた。それから今春、剪定をしようとした日に上の子の陸上競技会があって、剪定する間、下の子を寺谷さん家に預けた。本人は何の違和感もなく遊んでいて、成長を見ることができた。このマンションに同じように住んで、少しみんなのためになることをすれば、感謝の言葉が返ってきた。そして、子どもたちもツツジや植木に関心を持って、他所の剪定の様子など親子の会話の話題にもなった。こんなマンションはどこにもないなあと言って、親子で年に2~3回、一緒に汗を流している。コロナ禍で自治会の行事は中止されたが、みんなと遊んだ思い出はきっと大人になっても覚えている、このマンションがふるさとになった。素晴らしい出会いに感謝している。》

智頭町では地域の自伝を書く人は貴重だと聞く。また、マンションでは寺谷さんのようなお年寄りから子どもたちに声を掛けてもらうと助かる。と、ささやかな利他精神の実践である。先に出版した『ギブ&ギブ』を、マンションの子どもたち10人にプレゼントした。入居から10年が経って、みんな10歳大きくなった。「かやの理論」や「こころと意味」や「エディターシップ論」は、何かに役立つだろう。隣の阪本ゆうき君は小学校5年生、『ギブ&ギブ』の感想を聞いた。どんな言葉を覚えているかな、「ベクトル、マズロー、おせっかい」とあった。「おせっかいは、ゆうき君を赤ちゃんの時から知っているので、本を読んでねと言ったことが良い意味のおせっかいだよ。ゆうき君に感想をもらうことでおじいちゃんも元気になった、ベクトル、マズローに関心を持ったことは良いことだ。それではもう一冊、『「地方創生」から「地域経営」へ』をプレゼントするよ、右から読むと「思考のデザイン」が書いてある、絵をみたら面白いよ。」と話した。こんなやり取りができるようになった。私にとって大切な交流である。

9. 天啓・社会システム(仕組み)創造の意味

本書の編集に当たって佳境に入ったとき、まさに天啓が起こった。私の思いで一度は袂を分かったが大きな心で受け止めてもらった長尾眞文氏(元笹川平和財団主任研究員)に、2021年の出版時に、拙著『ゼロイチ運動と「かやの理論」』をサプライズ謹呈した。合わせて、先般出版した『ギブ&ギブ』を献本した。主宰されている秋田読書クラブの題本(2022.07.24.ZOOMで読書会開催)に、『ギブ&ギブ』を推薦いただいた。1988年の出会いから34年の時を経て、新たなご縁へと導いていただいた。それは、関西大学社会学部教授の草郷孝好先生との出会いである。そして、珠玉のコメントをいただいた。特記すべきことは、《それを仕組みに変えて社会システムとしたところが最高に凄いところで、それは見事です。》と、解析いただいた。智頭町での地域づくりと、京都市マンション自治の取り組みの本質が喝破された。その直後、草郷先生のご著書『ウェルビーイングな社会をつくる』(明石書店)を贈呈いただき、神の啓示と受け止めた。

《実は三冊(智頭町づくり三部作)の本を送っていただいていたのです。全部読ませてもらって、そうなのだとつながりにたまたま昔からの同僚も沢山絡んでいて、大阪大学の研究室の三隅先生、杉万先生のラインの方々だと分かりました。今日話を伺って確信に変わったのは、寺谷さんはやっぱり革命家なのです。つまり、社会の中をいい意味で変えていく、社会は醗酵するという考え方を持っていますが、まさに、寺谷さんはその中でも最高級に近い杜氏役です。空気をどう変えていくかが凄く大事だけど、なかなか掻き混ぜる人がいない、空気が澱んでいて、澱むと沈んでしまいます。凄く感覚的に変えていかれた人で、一番気になったのは寺谷さんがそういうふうな思いを持って、自分の中で取り入れて吸収するようになったのか、どこに原点があったのか、小さいときと言われたが、智頭町での遊びとか、智頭農林高校とか、謎だけど興味津々です。

杜氏はどうやったらできるか関心があります。寺谷さんのような人をいろんなところで発掘できないか、私的には同じような局面でどうやったらみんなが考えていない所に引っ張っていけるかを考えているけれど。例えば、大きな四角があったら端っこに誰も考えていないところに、それについて寺谷さんと共感する点がある。マインドセットを変える。考え方の枠組みを変えていけば、お金を作ることは結論で資源を使えないのかと、寺谷さんはやっていかれたのは凄く見事にやってこられた。杉の名刺、杉があるよねとあるモノを活かしていく、普通の人はお金に替えれば終わりだけれど、寺谷さんは止まらずに行く。かやの理論に寺谷さんは出会っただけであって、かやの理論的なところに踏み込みたいと思われていて、後押しする確信を持てるような要素を杉万先生の話から受け止めたからだと理解しました。それと、水平思考と訳されますが、エドワード・デボノのラテラルシンキングの考え方に通じる、「ちょっと考え方を変えてあげる、物の見方をちょっと変えてみること」で空気が変わる。空気を変えることを見事にされている。それを仕組みに変えて社会システムとしたところが最高に凄いところで、それは見事です。》

目の前の霧が一気に晴れた、長年の夢から覚めたような感じだった。草郷先生の社会が醗酵するとは、エマージングであり、場立ちである。これまで何を求めてきたのかがはっきりした。コミュニティにおけるウェルビーイング(幸せ・誇り)である。そのために社会システム(仕組み)の創造に関心を持ち、実現に向けて挑戦したのだ。

 10. 持続可能社会とコミュニティライフ

地域社会で無いモノをいくら嘆いても、地域は変わらない。私たちが智頭町で一歩を起こした時、住民は温泉がない、観光資源がない、見せる物は何もない、杉しかないと言っていた。ところがその杉にこだわった。そして、スイス山岳地調査で住民自治の種を見つけ、新しい住民自治システムの実現に向けて挑戦した。ベクトル思考を持ったことによって可能性が広がった。世界に目を向ければヒントがある。それでは京都市のマンションではどうか、周りの町内会では毎年地蔵盆の祭りが催されていた。そこで地蔵盆をやろうと声を掛けた。地蔵盆は400年前に豊臣秀吉の街づくり政策だったとの説もある。ところがお地蔵さんが無いとなった。そこで考えた、お地蔵さんは大地が蔵ですべての生命が芽吹くところと解釈した。石仏が無くてもよい、私たちは大地に見守られていると話した。皆さん納得された。地域づくりは地域文化に根差し、百果競甘である。その地の方言や生活文化を大切にすることが、地域理念(アイデンティティ)を育む。地域はそれぞれに違って価値がある。

実は、地域社会に無いのはモノではなく感性である。人々は日々周りに気遣いし、角を立てないよう生活を送っている。つまり、地域に無いのは実は創意工夫である。そのことに気づくことによってすべてが始まる。社会科学の学びから気づきを得て、感情論に捕らわれず、そこから社会システム(仕組み)をつくった。人々の規範がどのように変化するかを考え、企画、実践、検証、見直しを心掛けた。地域づくりは創作の場である。コミュニティを35歳で意識してほぼ40年になる。私にとって人間修養(啓発)の場であり“利他”(ギブ&ギブ)精神に導かれた。それは身近な生活環境にウェルビーイング(幸せ・誇り)を手繰り寄せることであった。

ところが、生活の場であるコミュニティに無関心の人が多い、コミュニティは何もしなくてもある。しかし、極論だが、無関心はある意味でコミュニティの崩壊につながる。私達はコミュニティで生活している。その生活の場をいかに豊かにするかが、結局、地域の持続可能につながる。人生100年時代になった。多くの人々が例えば70歳まで働いたとしても、それからどうするのだろうか。退職したら家庭のお荷物になる、そんな人生はおかしい。若い内からコミュニティに参画(協働)したが良い、私は、人々がコミュニティの価値に気づき、ライフスタイルとしてコミュニティに関係することは豊かな人生をつくると考える。

これまでの価値観は会社(組織)を中心に形成されてきた。一生懸命に勉強して良い大学に入り、一部上場の企業に就職し、立身出世をする。多くの人の目標であった。ところが頑張ってきたが幸せは一体どこにあるのか、皆さん、人生を問い質した。先日退職された知人に地域社会に関心を持って積極的に顔を出してくださいと提案した。そうしたところ年賀状をいただいた。『「何でも見てやろう、やってみよう」の精神で、地域の朗読会、ダンディイングリッシュなどにせっせと顔を出しながら、これまでと全く違う世界を楽しんでいます。』とあった。コミュニティライフ万歳! そして、三つの磁波(サイクル)がリンクすれば自己実現のイメージである。

11. 社会システムとは、身体を維持する交感神経と副交感神経

草郷先生から《空気をどう変えていくかが凄く大事だけど、なかなか掻き混ぜる人がいない、空気が澱んでいて、澱むと沈んでしまいます。感覚的に変えていかれた人で、一番気になったのは寺谷さんがそういうふうな思いを持って、自分の中で取り入れて吸収するようになったのか・・・・・空気を変えることを見事にされている。それを仕組みに変えて社会システムとしたところが最高に凄いところで、それは見事です。》と、私の思考について問いを発していただいた。本書の構成では社会システム(仕組み)をキーワードに、改めて筆を起こした。しかし、草郷先生の問いに答えていない、考え続けた。

社会システムの概念に出会ったのは、1988年に鳥取大学工学部の岡田先生を訪ねた時のことである。教室の表札に「社会開発システム工学科」と表記されおり、岡田先生に社会システムとはなんですかと質問した。問に対して「向こう岸とこっち側に橋を架ける場合、どこに橋を架けたらよいのかを考えるのが社会システムだ。」と説明をされた。この出会いから手弁当で智頭町を訪問していただき、CCPTのメンバーに対して社会システム思考について講義をされた。一部講義の内容は1章4「社会科学の学びから「杉下村塾(さんかそんじゅく)」開講」と、『ゼロイチ運動と「かやの理論」』の第2章2「課外授業、社会システム思考」、もう一冊は、『ギブ&ギブ』の第1章に収録している。1984年に一歩を起こし、1989年に杉下村塾を10年間にわたって開講した。その学習プロセスの記録はCCPT活動実践提言書に収録している。

それからもう一方に実践による体験がある。1989年の7月から8月の二か月間に杉の木村で智頭杉ログハウス建築イベントを開催した。現地スタッフは3名、全国からログハウスの建築のためボランティアを募集した。代表の前橋氏も私も現地で指揮をとることはできない。どうすればよいのか考えた。そこで、受付、保険加入、作業システム、炊事システム、宿泊システム、朝礼、安全点検、夕礼、五右衛門風呂で入浴など、ベニヤ板に書き、現場スタッフが説明した。一人5日間の作業を行えば向こう5年間、年3日無料でログハウスが使用できる。智頭杉の丸太を加工してログハウスを建築する大作業を展開した。事故が起きたらイベントは中止という条件、全体を動かすために、社会システム(仕組み)を具体的に示した。ボランティアは計68名、事故もなく5棟を建築し無事事業を終えた。(1989年版CCPT活動実践提言書収録)

私が考える社会システムとは、人間で言えば毛細血管や自律神経である。生身の身体を維持している交感神経や副交感神経に例えられる。表面的には分からないので観察や状況の分析によって浮き出てくる生活実体である。つまり、社会システムとは地域社会を維持する神経経脈で、それらは丸ごとで見る必要がある。そして、社会システムは地域を一歩進める仕組みづくりで、一気に百歩進めるものではない。社会システムはデザインによって規範が変わる。人々によって充実する社会システム(仕組み)の創造が理想である。 (ISディジタル辞典=社会システム概要「人間社会を機能させるための公共性の高いシステム。」)

もう一つ、地域活性化は「啐啄(そったく)」 (goo辞書=「啐」はひなが卵の殻を破って出ようとして鳴く声、「啄」は母鳥が殻をつつき割る音) で起こる。例えば、地域づくりではいつも相手を説得し、集団を方向づけてきたと思われるかもしれない。しかし、説得工作は一切やっていない。当然、社会システムが成就した場合を想定し提案したが、後は当事者の選択に委ねた。例えば、青少年の海外研修支援事業しかり、本人が手を上げその人を支援する。また、ゼロイチ運動についても1997年のスタート時点、CCPTメンバーや役場スタッフの集落から参加はなかった。企画は欲しい人に提供するのが自然である。例えば、説得し説諭しても物事は成就しない。つまり、必然的に企画力が闘いである。「贈与と略奪」の理論(『ギブ&ギブ』第2章7)に物事の本質がある。早瀬集落ではゼロイチ運動の導入を総寄合にかけて多数決で決めた。一人の住民の意思を動かすことは至難の業である。民主的な一人ひとりの選択が成果につながった。だからこそ自主性を前提に社会システム(仕組み)の創造に全精力を入れた。

地域社会で社会科学を学ぶ場を意図的につくってきた、全ては実践による一歩と学びから始まった。岡田先生の説かれる社会システム論と杉万先生の「かやの理論」に喰らいついた。地域に具体的にどう落とし込み実現するかを考え続けた。そして、1995年1月、役場職員と研究者によるグランドデザイン策定プロジェクトから、ゼロイチ運動が発案された。社会システム(仕組み)の創造によって、杉しかないと言われた智頭町に誇りが生まれた。小さな力で大きな成果となったが、もう一歩、社会システム創造の価値を過疎地域に紹介したい。

《引用文献》
論文-1 杉万俊夫・森 永壽・渥美公秀「過疎地域活性化のグループ・ダイナミクス―鳥取県智頭町の活性化運動10年について」【土木学会論文集NO.562/Ⅳ-35,27-36,1997.4】特集論文(土木計画学におけるリスク分析と応用)
論文-2 森 永壽・渥美公秀・杉万俊夫・岡田憲夫「山村地域における地域活性化運動が住民に与えた影響について」【第43回日本グループ・ダイナミックス学会大会発表論文集(1995)】
論文-3 高尾知憲・杉万俊夫「住民自治を育む過疎地域活性化運動の10年―鳥取県智頭町
「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動―」【集団力学2010年第27巻pp.76-101集団力学研究所2010年掲載】
論文-4 樂木章子・山田奈々・杉万俊夫「「風景を共有できる空間」の住民自治—鳥取県智頭町
山形地区の事例―」【集団力学2013第30巻pp.2-35集団力学研究所2013年掲載】
論文-5伊村優里・樂木章子・杉万俊夫「旧村を住民自治の舞台に―鳥取県智頭町:地区振興協議会の事例―」【集団力学2013第30巻pp.409-435集団力学研究所2013年掲載】
論文-6 叶 好秋・樂木章子・杉万俊夫「政策の立案・実行過程における住民参加の新しい試み
―鳥取県智頭町「百人委員会」—」【集団力学2018年第35巻pp.3-83集団力学研究所
2018年掲載】
講義-1 『かやの理論』 杉万俊夫‐(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』編著:寺谷篤志、今井出版 2021)
講義-2 『こころと意味・「かや」』 杉万俊夫‐(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』編著:寺谷篤志、今井出版 2021)

 第4章 身近に人生の師あり、独立自尊

 1. 山間の地に生まれ、一冊の本もなく

1948 年、鳥取県智頭町芦津に生まれた。芦津集落は、鳥取砂丘に流れる一級河川の千代川の上流、鳥取県と岡山県と兵庫県をまたぐ山岳地帯、渓谷と名瀑の宝庫とされる那岐山/氷ノ山/後山国定公園の芦津渓谷の登山口にある。下流の集落から断崖絶壁に沿って上ること約 2 キロメートル、これから上流に人家があるのかと思われるような山間の地で育った。本家の墓石を見ると、江戸時代から林業と少ない耕地面積の農業でほそぼそと生活してきた。四季が織りなすパノラマに80 世帯ばかりが暮らしている。集落は智頭杉の天然林を含めた共有林1,500 ヘクタールを所有し、その入会権は村人のみが相続する。村を出た者の権利は消滅する。集落では、寺谷・武田・綾木姓がそれぞれ氏神の祭祀を行い、同族意識が強く、血縁が結束の元にある。妻と二人の愚息のお嫁さん(各務原市と浜松市)も、先祖さんはよく命を繋いできたものだとびっくりしている。集落内の男は国有林(営林署)の作業員か、私有林の山林労務を行っていた。父は山林労務をしていた。時々、「この村に居ても飯は食えん」と言っていた。その言葉は子供心に残っている。父母は沖の山杉の赤差し苗の栽培や、なめこ茸の栽培をして三人の子供を育てた。働く後ろ姿から山里の生活は創意工夫することだと学んだ。

春まだ水が冷たい頃から渓流に入ってイワナを突いた。祖父母が囲炉裏で魚を焼いてくれた。裏山に登っては探検をし、台風が来ると近くの山で芝栗を拾った。大人は栃の実を拾いに深山に入った。祖父は入り婿だった。尋常高等小学校に上がらず、屋根(茅葺職人)屋の丁稚に入ったという。その時の切なさを話していた。家屋のみの分家で田畑はなかったが、木材の売買をして少しの山林と畑があった。なぜ本家の隣に家があるのかと聞いたところ、祖母の兄が分家を希望したからだと聞いた(おそらく、兄夫婦に子供がなかったため、叔父が5歳で養子になった。)。祖父は3キロメートル下った浅見集落で生まれ、20世帯ばかりの中に縁者が4軒あった。子どものころ連れられて祖父の生家の墓参りをした。背丈ほどもある自然石に「梅花山人」と彫られた墓石があった。裏側に回ると「思い煩うことなかれ なるようにしかならぬ 市蔵」と刻まれていた。峡谷の老梅を愛でた銘文に強く影響を受けた。

1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風は、紀伊半島から東海地方を中心にほぼ全国にわたって甚大な被害をもたらした。この台風で集落までの県道はズタズタに流されたが、翌年春、智頭町の中心部までの中間点にある旧山形郷中学校に入学した。道路が復興するまで毎日片道4キロメートルを歩いて通った。芦津集落の出身者は全員バスケットボール部に入った、中学、高校とバスケットボールをした。身長140センチながら走り回っていた。そして、三年生からは統合によって智頭中学校に通学となり、学年は一気に400人となった。1クラス50人のぎりぎりの教室で混ぜ飯状態であった。喧嘩に巻き込まれないために戦々恐々とした。

そして、バスケットボール部は大所帯となり、監督から身長の低い者は要らないと言われた。その一言で山形郷中学の同級生は皆辞めた。しかし、私は身長で区別されることに納得がいかなかった、くそったれと思って最後まで続けた。(この監督とは小学校六年生の時に出会っていた。無理強いする先輩を注意してほしいと約束したにも関わらず対応してくれなかったので、先生はおかしいと抗議したところ、いきなり平手打ちを喰らった。その理不尽さに遺恨があったので、退部しなかった。)秋の県大会で正選手に選ばれ、監督にリベンジした気持ちで納得した。

そして、地元の智頭農林高等学校の林業科に入った。恩師の言葉に勇気づけられた。国田隆広校長からは「君たちはメノウの原石だ、これから自分自身を磨いて宝石となれ!」と。肺結核で入院していて、病室の窓から燕が入って額に糞をしたそこで糞を運が着いたと希望を持ち、病状が回復したと話された。物事は受け止め様で生死の分かれ道になると語られた。小谷先生の「美しいバラの花は野茨の根の上に咲く」は、後日ジャーナリスト大宅壮一の言葉と知ったが、植物の本質と野茨の生命力を感じた。松永能典先生は「親になることは易いが、親たる親になることは難しい、人糞泌尿器になるな!」と説かれた。智頭農林高校に行かなければ出会えなかった。

智頭農林高校では森林の再生に関心を持った。例えば、森林の更新には5通りがある。挿し木、接ぎ木、取り木、実生、萌芽更新である。農業や林業を学んだことは、地域が拠って立つ基本を知った。そして、樹木の移植から根回しの語源を実感し、森林の下草狩りや枝打ちなど、優良材の生産にかかせない作業を実習した。そして林業は、なによりも祖父母の代に植林した杉・ヒノキを、30年50年後に伐採するというサイクルに畏敬の念を持った。目の前の森林は私有林であっても、周囲の緑の山々は共有林のように思えた。しかし、過疎化によって森林に手を入れなくなった。

見ていると地域の後継者に一つの現象があった。普通高校に行った者は大学進学や京阪神に就職して町を出た。実は地域の後継者は、実業高校の卒業生ではないかと自負を持った。高校を卒業して電気工事会社に就職したが、タンパク尿が出て会社を辞めた。社会に一歩出て挫折した。ところで我が家には一冊の本もなかったので、本家の本を借りて乱読をした。中でも「葉隠(はがくれ)」は「武士道といふは、死ぬ事と見つけたり」と、その崇高な精神に触発され、日々、覚悟を持って生きる姿勢を知った。志賀直哉の暗夜行路では鳥取の大山の宿坊で、ウドのカス漬けを食べたとあった。ウドのカス漬けを試作したが美味だった。また、吉川英治の「宮本武蔵」で、沢庵和尚は武蔵を池田輝政に預け、姫路城天守閣の開かずの間で「孫子の地形篇」を学ばせた顛末に、人生の師は身近にあると考え、祖父の薦めで地元の郵便局に再就職した。

2. 井の中の蛙(カワズ)、大海を知る

21 歳の初冬の夜、地元小学校の宿直室に故小林義男先生を訪ねた。先生とは6 歳違いで年齢も近く、石炭ストーブに手をかざしながら自分の境遇を語った。次の夜、先生は一冊の本を手渡し、「自分が自分自身を諦めたらいけん、勉強しよう。」と、独立自尊を諭された。それは「ピーターの法則―創造的無能のすすめ―」だった。内容は、《階層社会では、全ての人は昇進を重ね、おのおの無能レベルに到達する。》とあった。そうか、誰にも能力の限界があるのだ、無能の限界を超えるには学び続けることだと気づいた。そして、1 対 1 の読書会が始まった。そこで実践が必要と考えるようになった。青年団活動に創作演劇を取り入れ、一作目は、山村の若者の都市へのあこがれを創作し、「芦津の田螺(たにし)」の脚本を書いて演出した。二作目は、地元小学校の統合問題を、児童と地域住民の立場に立ち、果たして統合が必要かと訴えた。いずれも仕事を終えて練習を行い、地域で公演をした。それまで黙って見ていた村の人たちが観に来てくれた。声援とともに御花(金一封)がびっくりするほど集まった。地域テーマを題材とすることの大切さを知った。振り返えってみると、1984 年からの地域づくりは、まさに故郷版地域シナリオの実践であった。

そのころ、曹洞宗興雲寺住職(当時智頭町農協組合長)の吉田冥莫(めいばく)和尚と、禅問答をして薫陶を受けた。死とは何か、生きるとは何か、面と向かって質問した。死とは何も無くなることだと返ってきた。その問答から自己の存在を強く意識するようになった。ある時、「今の職場の上司の下では寺谷の成長は無い、郵便局を辞めて農協に来い。そして農民のために働け!」と、強く転職を勧められた。冥莫和尚の言葉にショックを受け、どう生きるか悶絶した。合わせて青年団活動で新聞づくりをガリ版刷りで行っていたら、「戦前のような刷り物をするな、農協に持ってこい。」と、タイプライターを打ってもらい毎月発行した。

この時期、海外を見たいと強く思った。それは鳥取県選出の衆議院議員、故古井喜実先生の国会報告会で、日中国交正常化交渉について話を聞いた。私は勇気を出して手を挙げて質問した。「先の戦争で中国に甚大な被害を与えている。はたして国交正常化がはたせるのか?」と問うた。古井先生は満面の笑みで、「中国は偉大な国だ、心配ない。」と答えられた。1972 年秋、田中角栄首相が訪中して中国側の小異を捨てて大同(だいどう)に就くとの大英断によって、日中国交正常化が図られた。古井先生のご尽力と偉業に驚嘆した、身近で世界が動いていた。

古井先生の話を聞いて素直にぜひとも海外を見たい、世界を知りたいと思った。ところがお金がない、海外に行く方法を探した。そうして総理府の「第 6 回青年の船」に応募した。休暇申請について中国郵政局に問い合わせたところ休職扱いで乗船しろとあった。当時、智頭町の大原教育長から休職は履歴に傷がつくので乗船を辞めるようにとアドバイスがあった。しかし、なんであろうと乗船しようと思い、御殿場で開催された事前研修に参加した。そうしたところ、出航間際に公用パスポートが交付され、特別休暇で乗船することとなった。1972年10月、にっぽん丸は晴海埠頭を出航した。最初の訪問国のフィリッピンまで太平洋の荒波に揉まれた。そして、セブ島に上陸した。インドネシアのジャカルタ、オーストラリアのメルボルン・シドニー、ニュージーランドのウェリントン・オークランド、最後にラバウルに寄港し60 日間かけて訪問した。インド洋のど真ん中、海原を見回しても何もないが、クジラが潮を吹きイルカが群れて泳いでいた。生命を感じた。意を決し渡航した60日間、給料は支給された。仮に周りの人たちの声を聞いていたら、あの感動はなかった。初心貫徹であった。

3. 志を立て、国境(県境)を出奔する

冥莫和尚の薫陶を受けチャンスがあれば必ず活かそうと思った。考えた末、やっぱり郵便局で人生をつくろうと思い、勇気を出して故郷を出奔する覚悟をした。帰国して 2ケ月、郵便局の公報で中国郵政局(広島市)の職員募集を知った。チャンスをつかもうと受験した。二次試験で、数年後に直属の上司となる稲田人事課長の面接を受け、青年の船の体験を語った。そして合格した。周りの人たちはなぜ長男が家を出るのかと止めた。ところが冥莫和尚は「寺谷は広島に出て来い。」と明快だった。そして、餞(はなむけ)の言葉として“我レ在ル故ニ宇宙ハ存ス”「我在存宇宙」と励ましの言葉をもらった。意を決し独立自尊を覚悟した。

将来、智頭町を何とかしたいと思っていた。僅か80世帯ばかりの芦津集落で、山林を持つ者と持たざる者の貧富の差を見てきた。同じ集落で祖父の従兄は山持の婿養子となっていた。その方は集落の顧問と称えられ、同じ婿なのにとポッと祖父の愚痴を聞いたことがある。格差に屈辱感を持った。1973 年7月、広島市で武者修行する思いで故郷を出奔した。私には何もなかったので行動目標がいると考えた。そこで一つ目は、是非とも労務管理能力を身に着けたい。当時、郵便局の職場では労働紛争があって自殺者が出ていた。二つ目は、自分自身の持ち味は企画だと思っていたので企画力を磨きたい。三つ目は、なんであっても信用・信頼される人間になりたいと、目標を持った。まさに一身独立の気概であった。転勤によって、法律や通達、文書を読んで仕事をするようになった。ところが読解力がない。そこで身近な人たちに声をかけて、土曜日の朝に自主参加で、経営管理・労基法・勤務時間管理規程、経済白書などを題材に輪読会を開いた。なぜ寺谷が主宰するのかと批判や中傷があったが、意に介さなかった。この自発的な勉強会によって理論を得た。その中に郵政省の教養の書のリーダーシップ論(著者松本順)5.「小集団を燃えさせる」があった。

《エリッヒ・フォン・ホルストという生理学者が、ハエという淡水魚の前脳を手術でとり除き、ハエの群れの中へ入れた。前脳を取り除かれたハエは餌を食ったり、泳いだりするのはさしつかえないが、判断力がなくなる。判断力がないからこわいもの知らずというべきか、いきなり群れをはなれていく。その態度たるやまさに決然としている。すると面白いことにほかのハエが全部これにくっついていく。ホルストは何回も実験をやったがいつも同じ結果だったので、集団を引っぱっていくには決然たる態度が必要であるということを言っている。私は以前、磁石はなぜ、鉄片をひきつける力を持っているだろうかと物理学の本を調べてみたことがある。その結果、わかったのは、磁石のなかには、小磁極がいっぱいあって、これら小磁極が皆、同じ方向を向いている。だから鉄片をひきつける力を持つということであった。これに対して磁性のない鉄の小磁極はテンデンバラバラの方向に向いている。だから鉄片を引きつける力をもたないということであった。

この原理は、人間関係にもあてはまると考えられる。人を引きつける力を持っている人は、その人の考え方とか価値観が皆、正しい方向を向いている。だから相手の人を引きつけることがで きる。逆に人を引きつける力を持っていない人は、その人の考え方とか、価値観が正しく統一されておらずテンデンバラバラになっている。だから人を引きつける力を持つことができないわけである。》

一匹のメダカと人間関係の原理に関心を持った。おそらく、体験的に社会規範は職場にあっても地域にあっても一点と全体から起こると考えた。一冊の小本によって小集団の本質と行動スタンスを学んだ。そして、帰郷後の1984年春、「決然」と一歩を起こした。木材加工による小集団を立ち上げながらCCPTを組織していった、一匹のメダカのリーダーシップ論は的を射ていた。中でも「小磁極」は地域理念(アイデンティティ)と解釈し、人々の精神的支柱である「智頭杉」をテーマに徹底して、「杉」にこだわり、施策の企画にわくわくドキドキしながら取り組んだ。

当初のやり取りを紹介したい。1988年に岡田先生に智頭町に入ってもらうようお願いした。その際、懇親の場で「なぜ、地域づくりをしているのか?」と質問された。私は即座に「自負心です。」と答えた。そして、帰郷後5年経ったころ地域で祝賀会が開かれた。上座の長老(元県会議員)から手招きが受け、こう切り出された。「良い声でなく鶏は枝ぶりを見て止まるが、見ているとあんたはどの枝にも止まらんが?」と、詰問された。私は即座に「小さくとも一本の木(気)になろうとしています。」と応えた。数年後、杖を突いて郵便局を訪ねられ、「どうか、地区の行く末を頼む。」と頭を下げられた。つまり、物事を成就させるためには日和見でいけない、私は一貫して決然とした態度で、まさに独立自尊の姿勢を貫いた。

合わせて、役場や助成団体の下請けはしないと決めていた。下請けは妥協と考えていた。例え、そのことでマイナスになろうとも貫いた。自分の心に忠実でなければリーダーは失格である。私の一挙手一投足を自覚した。それともう一つスタッフの悪口は絶対言ってはいけない、そんな評価(マネジメント)はない。人生を賭けた地域づくりである。一寸の虫も五分の魂、物事を成就させるには覚悟がいった。つまり、頼みとするCCPTメンバーや住民は常に私の姿勢を見ている、この自覚が大事だと思った。ところが、地域社会では小さい者や弱い者に対しては、強い者になびけと身近な人が善意でささやく。しかし、私は意を持って決然としていた。

そして、闘いを終えた感慨は、(箸)松本順のリーダーシップ論に出会えて本当によかった。どの理論よりもより実践的で、CCPT・ゼロイチ運動・地区振興協議会の思想性を作った。どんな本に出合うか、それこそ運であり万に一つの偶然である。まず文学全集を乱読した、小林先生から「ピーターの法則―創造的無能のすすめ―」で無能の限界を知った。広島の職場の輪読会で出会った「リーダーシップ論」と「孫氏の兵法」を愛読した。1991年から10年間にわたり開催された耕読会では、(箸)木村尚三郎の『「耕す文化」の時代—セカンド・ルネサンスの道』と39冊と出会った。本と出会い、人と出会い、物事と出会い、知識は増えた。しかし、実践者にとっては論より証拠、事実は小説より奇なり、社会システム(仕組み)を実現することが全ての回答である。

私の行動規範の起点は一匹のメダカの理論である。地域実現は日和見では起こり得ない。秘訣は「決然」、「智頭杉」をテーマに「一貫した価値観」と、「人財」にある。例えば、早瀬集落の革新は長石昭太郎氏から始まった。私は「長石先生は智頭町の文化振興に貢献されたが、早瀬集落には尽力されていない。このままで早瀬はいいのですか?」と問い、余人を持って代えがたいと貢献を嘆願した。氏は住民の英知を結集し、奇跡の集落づくりを実現された。(第2章2)

4. 出会いは神の計画、職場は人間形成の場

1). その人の本質をつかむ
「おーい、寺ちゃん、郵政記念日(4月20日)の宿泊担当をやってくれ―。」と、係長から命じられた。聞いてみると夫婦同伴で1,000人の宿泊のお世話である。中国郵政局に転勤後の1年間は貯金部調査課で、郵便局から上がってくる証拠書に算盤を入れた。次の2年間は給与担当である。その次の2年間は、広島郵便貯金会館(メルパーク)の経営管理と岡山郵便貯金会館の施設構想を担当した。その後、中国管内の為替貯金担当職員の訓練を5年間担当し、貯金部管理課に10年間在籍したが、凄く勉強になった。

先ほどの宿舎の職務は給与担当2年目のことである。なぜ、そうなったかというとおそらく背景に、大事な仕事をしたからだ。それは上司のA部長が退職されることになり、退職金計算をすることになった。ところが部長に兵役期間があったので人事部の要員給与課と何度も協議した。そこで、兵役後に無職であったことが証明されれば通算できると判断された。係長から「部長はきれいに退職されたいのだから・・・。」と、釘をさされた。しかし、私はそのことと退職金とは違う、是非ともご本人に確認してくださいとお願いした。その結果、兵役期間が通算され満額の退職金が支給となった。そんな経緯があった後、宿舎担当の指名である。広島市内のホテルを何か所か抑え、宿泊者を割り当て事前作業は終えていた。ところが、国鉄のストライキで全ての作業が無駄となり、5月に入ってから改めて同じ作業をやれとなった。そこで一計を案じた。一つは、トラブルが無いように宿舎担当を通して変更することにした。つまり、寺谷の印がないものは責任を持たないということにした。もう一つは、変更があった所属局に確認電話を入れた。そして、当日を迎えたのだが、トラブルは0件と納得のいく事務作業となった。後日、総括担当の秘書課課長補佐から良くやったと御馳走になった。

ある日、係長に今晩はついてこいと言われた。郵政局の玄関を出る際には大きな鍋と、麻袋に入ったワサビの葉を持って、歓楽街の流川へとタクシーに乗った。聞いてみると、今夜はバーを訪ねてワサビの葉漬けをして回るということだった。とにかく後ろについていった。訪問するとお湯を沸騰させてもらい、その鍋にワサビの葉を手で切って入れ、熱湯をかけて蓋をして力一杯振った。そして、水分を切って瓶に詰め、醤油をかけてワサビの葉漬けをした。とてもユニークな係長だった。気心が知れてくると人間関係の絶妙な機微に感嘆した。そこでワサビの葉漬けのことを聞いてみた。どうして私に声をかけられたのですかと聞いたところ、郵政局に職員が700人いるが、ワサビの葉漬けができるのは先輩のK氏と寺谷だと答えられた。何となく、ふーんと、頷いた。そして、庶務担当として毎週土曜日に各課対抗のバレーボールや軟式野球など、レクリエーションを開催した。どうしても参加されない方があるがと係長に聞いたところ、心配するな、この指さばれ方式だと意に介されなかった。職場が明るい空気に包まれた。

それから、広島郵便貯金会館の施設の増築が浮かんだ。収益を上げるためにどのように施設を増築するか、披露宴会場やレストランの稼働率など実態調査をして、シュミレーションしながら増築計画を立てた。そして、岡山郵便貯金会館の施設構想に入った。用地交渉から施設内容を本省と連携して取り組んだ。広島会館の反省から、岡山会館は会議室と披露宴会場のサービス動線と、客動線を切り離す方式を提案した。これは好評だった。広島会館の増築構想に携わったことが役立った。それと、玄関からコンベンションホールへの吹き抜けが実現した。

2). 部長朝礼とミニ情報紙の作成
月2回、N部長の朝礼が行われた。丁度、土光臨調の真っ只中のころである。貯金部100人あてにミニ情報紙が発行されていた。内容的には貯金部の事業等が編集されていた。そのころ、郵便貯金事業はどんどん改善され、公共料金の引き落とし、給与の振り込み、財形貯蓄など、新しいサービスが追加されていた。そこで新サービスの内容を分かり易く概念図で表すことにした。これがなかなか好評だった。私は法律や規則、規程を読んで図式に示した。そうしたところ、ミニ情報に収録された概念図の方が説明しやすいと、郵便局職員の講習会資料となった。そんな経験から地域づくりに概念図を多用してコンセンサスを得た。

そして、N部長による月2回(1回15分)の朝礼をカセットテープに取り、テープ起こしをして要点をまとめミニ情報に掲載した。情報は価値である。そのミニ情報を貯金部出身の普通郵便局の管理者に郵送を始めた。そうして1年経ったころ、目の前にN部長が立たれ、「管内の郵便局に臨局してみると、みんなが朝礼内容を知っているが?」、と訊ねられた。そこで、私は無断で送っていたことを白状した。そうしたところ、それならば心して朝礼をしなければいけないと、次の回から熱が入った。テープレコーダーに録って、文字に起こし、文章に編集して、要点をミニ情報で周知することにした。それから1年経って、文章を万年筆で浄書し一冊に製本して、N部長に表紙のタイトルを命名してもらった。部長朝礼「自戒」の編集を終えた。2年間、48回のテープ起こしによる文章化と、要点編集は、朝礼の本旨を読み取る貴重な訓練となった。単なる100人に配布の部内紙(B4版1枚)を、最先端の情報に切り替えた。どこに居ても創意工夫、我在存宇宙に導かれた。その思い入れのミニ情報紙一年分を、小冊子に編集し自費出版した。中国郵政局での仕事と知己は人生の財産となった。1973年に鳥取県境の因美線の物見トンネルを武者震いしながら越え、10年後の1983年初夏、一匹のメダカのリーダーシップ論と丸くしたマズローの欲求概念(『ギブ&ギブ』第3章1)、孫氏の兵法を秘め帰郷した。(第1章1)

3). 50年間、友人はどう見ていたか
2022年10月7日に郵政局からの友人である石田素風氏から、第37回国民文化祭の川柳の部で準特選に入ったと、作品の紹介とともに吉報メールが届いた。

課題は「フルーツ」/準特選作品「天と地と汗で実ったAランク」である。

《寺谷さんの生きざまを世に知らしめられたことに大きな拍手を送らせていただきます。ゼロからイチを生む、格闘の日々、芽を育て上げたプロセスが、奇跡を起こしドラマになり、共感を呼んでいるのですね。学者、評論家の皆様は机上論で生きている方も多いのでしょうが、実践論には勝てない。事実は小説より奇なり。オブラードで包んで、化粧しても、真の美学にはかなわない、と同じことでしょう。このほど発刊された書籍類が、これからも輝きを増してゆくことでしょうね。寺谷さんは大病との闘いもあったし、挫折もあったことと思いますが、流川の酒に溺れる(どなたかな?)こともなく、「今に見ていろ」を追い続けた勝利者です。これからも、「おしまいのページに好きな色を塗」(素風)って、行かれることでしょう。第37回国民文化祭/美ら島おきなわ文化祭2022 の 「川柳の祭典」の部に投句していたら素風の句が準特選になり、大会で読み上げるとの知らせ(本日)が来ました。沖縄旅でコロナのうっぷん晴らしをしてこようかな、と思っています。素風より》

友人とは中国郵政局で一緒に仕事をした。挑戦しているときも、病んでいるときも、挫折を経験したときも、ほぼ50年にわたって静かに見守っていただいた。最近の発句に「幸せの分母に蒔いた趣味の種」がある。私は視点に社会システムの目を感じると返信したところ、重ねてメールが届いた。《ありがとうございます。魂を込めて、これからも、句作りに挑みます。寺谷さんの生きざまこそ、句づくりのお手本です。》と、エールを交換した。天と地と友に見守られ、それぞれに実った人生である。お互いに後期高齢者となり新たな世界に入った。

 5. どんな姿勢を持つか、地域づくりは自分との闘い

私には資産も財産もない。智頭町の規範の本質は、山林を持つ者と持たない者の長い歴史的関係にある。まず、地域の規範の本質を知らなければ活性化はない。山林が無い者がいかに正論を言おうと相手にされない。屈辱の社会構造であった。青年団活動をしていた時も、いつもあんたの父親は、祖父はと聞かれた。私にとってこの問いは常に序列かを意識した。家柄の意識が強く、町会議員になるのはその集落の有力者とほぼ決まっていた。

例えば、集落の総寄合で物事を決める。その翌日には反故になる。強いて言えば長老支配が続いていた。なぜそれが起こったのか、それは自分たちの祖父母の世代までは、中山間地域は耕地面積が少ないため、山林と田畑がない者は山持の家に労働等を提供して人夫賃や米などの糧を得ていた。つまり、家と家の主従関係があった。戦後、農地解放はあったが、山林開放はなかった。冬場の米一升が夏場の一人役とも言われていた。例え、集落の総寄合で決められたことであっても、山持(旦那さん)が頭を縦に振らなければ合意にならない、暗黙のルールがあった。江戸時代の家と家の関係がそのまま続いているように思えた。

私が広島市から帰郷したころ、友人に何かをやろうと言っても、智頭ではできない、周りがその雰囲気でない。突き詰めると町長が悪い、町会議員が悪い、組合長が悪い、と他人批判に終始していた。つまり、身を切らないと暗に言っていた。知人の役場の職員にまちづくりをしようと投げかけた。返ってきた答えは、「智頭町ではまちづくりなどやれない。」とにべもなかった(その知人とは大呂佳巳氏で、山形地区振興協議会長である。第3章7)。この状況に、それではどう生きるか自分自身に問うた。智頭町の活性化とは規範の切り変えである。ある種の秩序の中で静かに生活しているので、生半可な姿勢では達成できない。つまり、「人気」の生き方では地域の規範を革新することはできないと考えた。熟考に熟考を重ねた。結論として「本気」で生きることを覚悟した。二人の息子たちに生き様を示そうと腹を括った。想到な決意だった。

地域づくりは、山の向こうの人々に説得を試みても味方を得ることはできない。つまり、集まった人たちによって挑戦するしかない。そして、身近な人たちの価値を発見することにある。とにかく、この考え方を一貫して持った。私は知らぬ間に、社会の核心をつかんでいた。そして、何か事業を実施すれば必ず新しい人が現れた。知人がその様子を見ていて、どうしてあんな人たちと付き合うのかと忠告したが、帰郷後意図的に地域で変わっている人たちを訪ねた。正面から向き合ってみると、個性的で独特の持ち味があり、その方の長所もあれば短所もある、つくづく人とは面白いと思った。智頭町の規範はまるで平安京の鵺(ぬえ)のようであった。地域の規範を革新するという大望がある。変わった人たちを訪ね、懐に入ってその人に寄ってみると、常識人よりも個性的でユニークな個性であった。世の風評で人を見るようでは強力な組織はつくれない。組織化するならば個性的な人たちを方向づければダイナミックな集団になると考えた。まずは、相手の良いところを見つけてフォローする、一人ひとりが持つ得手をマネジメントする必要があった。そこで地域革新の志を持って組織したのがCCPTである。つまり、組織を維持するための集団はつくらない。テーマによって人々が集まり、テーマを達成すれば自然解散する臨機応変な組織づくりである。常に人間力が問われ、自分自身との闘いであった。

 6. 祖母の通夜と「新しい総事」の概念

1986 年 8 月 14 日、盆の14日に祖母が亡くなった。隣家の本家の仏様を拝み、お茶を一服いただいて、バナナを懐に入れたまま逝った、92 才の大往生だった。通夜の夜、本家の叔父から「杉の木村は、親族の恥さらしだ。」と叱責された。私は覚悟して取り組んでいたので、「いや、今、必要なのだ。」と言って口答えはしなかった。何百年にもわたる地域の規範からすれば、まさに私の行為は異端であり、大人の常識を親切心で諭す言葉であったが、思いを持って突っ走った。それから9年経って、1995年秋、杉万先生の論文-1、「過疎地域活性化のグループ・ダイナミクス―鳥取県智頭町の活性化運動10年について」杉万俊夫・森 永壽・渥美公秀(『ゼロイチ運動と「かやの理論」』論文-1) の解析、4.「活性化運動の対象となった村落に関するグループ・ダイナミックス的考察」によって、杉の木村の建設から「新しい総事」の概念をつかみ、1996年にゼロイチ運動の企画書の要諦とした。抜粋して紹介する。

《しかし、忘れてはならないのは、「杉の木村」で行われている総事は、あくまで、「新しい」総事であるという点である。その総事は、CCPTという能動的な経営感覚の持ち主によって創出された総事であり、また、年間1万人を越える外来者を相手にした総事でもある。それは、単に、消滅しかけていた総事の復活にとどまらない。それは、従来の総事が、村落「内部」における共有財産の維持・管理、あるいは、村落住民「内部」における互助のための総事であったのに対して、はるかに、村落「外部」に開かれている。八河谷の村落集合体もまた、その伝統的体質としての閉鎖的集合性を有している。そうだとすれば、「杉の木村」をめぐる新しい総事には、その閉鎖的集合性にいささかでも変化のきっかけを与え得る可能性が秘められていると考えることはできないだろうか。》

論文考察から集落活性化のヒントを見つけた。集落を能動的な経営感覚を持ち、「新しい総事」に挑戦する集合体に切り替えることである。そのためには八河谷集落で組織した「杉の木村産業組合」のように、各集落でも新たに「集落振興協議会」を設立すればよいと考えた。その協議会が集落の活性化計画を立て実行するのだ。そして、活性化計画の柱に「地域経営」を設ければ、必然的に能動的な組織となる。杉万論文を読み解くことによって、住民自治システムを具体的に構想することができた。私にとって論文によるヒントはまさに天恵となった。新しい総事をキーワードに「日本・ゼロ分のイチ村おこし運動」の具体策を1996年に企画した。

親族に理解されないことは苦痛だったが、杉の木村の建設は決して無駄ではなかった。過疎化の本質を知りたいと杉の木村の建設に執念を持って取り組んだ。言わば叔父の忠告を聞き入れなかったから、智頭町が茹でカエルにならなくてすんだ。ただ、心の支えとなったのは、祖母が生前だれに聞いたのか、「あつしは夢を実現する子だ。」と言っていた。通夜の夜の勝負感はなにからきたのか、それはきっと、祖母の慈愛に応えられると確信を持っていたからだ。杉万論文-1を手にしたとき、杉の木村の建設にこだわって良かったと心の底から思った。これで理論的な裏づけはできた。次の段階に向けてステップをどう踏み出すか、そこが勝負である。

実現に向けてアプローチをどうするか思案した。1996年2月、意を決しH町長に「村おこしコーディネーター会議」の設置を進言した。(第2章1)

 7. 希望の希求から新たな光が見えた

義父等から戦争体験で極限状態の話を聞いて息を飲んだ。生死の臨場感から人の在り様を見た。そこに過疎化のヒントがあった。つまり、死線を越えた体験談はどんな書物よりも得難い、希望の希求から生命の光を見つけていた。もうお二人とは二度とお会いすることはできない、身近な人たちから自然な言葉で聞き取った。静かに語られた戦争体験に心を打たれた。人間が生きようとした時、何を思いどんな考えを支えとするのか。ふっと1989年にスイス山岳地調査で出会ったシャンドランのホテルのオーナーの言葉がオーバーラップした。(第1章5)

義父は、第二次世界大戦中インドネシアに従軍し、飛行場を造っていた。明日は投降する前夜、戦友と枕に入れていた小豆をぜんざいにして食べて、美味しかったと語っていた。義父は、飛行場造成のため現地の人たちと働いていた。そして、戦争が終わって日本軍の兵隊は整列させられ、連合軍の前で首実検が行われたという。現地の人が悪い人と証言したら即銃殺刑となり、義父は「良い人」と言われて助かったと話した。重たい言葉だった。おそらく、義父は日本軍であるとき、虎の威を借りずに現地の人たちに接していたのだろう。もしかして、逆転を想定していたのかも知れない。生前中、酒に酔ってはインドネシア語で「テレマカシー(ありがとう)」と言っていた。

義祖母の弟は、ニューギニア戦線で撤退命令が出たという。頭を海面に出すと機銃掃射を受けるので、マングローブの下で一昼夜にわたって鼻だけ出して生き延びたと語った。話を聞いて私なら焦燥感と不安感で発狂していたかもしれないと思った。どうして生き残ることができたのか訊ねた。そうしたところ、夜になったら必ず沖合に友船が来て合図の点滅をしてくれる、その船に暗がりに紛れて泳ぎ、助かったと話した。戦争の友船は不確かなものであるが、友船を待つことで生き残ころうと耐えていた。極限の中、希望を持ったことで生き残ったのだ。お二人の話に引き込まれた。翻って過疎もしかり、誇りの前に希望を持つことである。希望は人々の英知によって創造することだ。希望の希求から新たな光が見え、その光を手繰り寄せることによって誇りが生まれる。

2021年5月、義母は 満99才で逝去した。私は妻と一緒になって満 45 年、いつも、「あつしさんが智頭に帰ってから智頭町は変わった。」「みんなは人の顔色を見ている、信じる道を歩きなさい。」「わしは信じている。」と、声をかけ続けてくれた。周りの誰の言葉よりも確かな評価である。義母の信頼に応えようと思った。振り返ってみると、私は常に人々の信用・信頼の輪の中にいた。まさに萃点(すいてん)(goo辞書=「萃」は、あつまるの意、さまざまな物や事柄があつまる場所。南方熊楠の造語。)の世界である。ところが残念なことにコロナ禍で葬儀に帰郷することができなかった。亡くなった義母に手紙を書いた「お義母さん、いつも勇気を与えてくれてありがとう。」と、一人の理解者を得ることは万人の力を得たと同じである。

まず目の前の方(人)と向き合うことである。小集団活動はイコールチーム人数ではない。そこに新しい発見がある。地域づくりは人の力による、大願成就するためには人徳貯金を心掛けることだ。人間関係は1対1の自他の概念(1章4)に秘訣がある。つまり、誰にも自他は存在する。他者にも自他がある。濃密な人間関係は一瞬にして自と他×2、自と自・他と他、とタスキ掛けで自と他の6通りが成立する。(「ギブ&ギブ」第3章2)次に三角形(トライアングル)のコミュニケ―ションによって小集団は輝き、希望を希求することによって光が見えた。

 8. わくわくドキドキ感は、幸福革命(ウェルビーイング)

地域づくりは無血クーデターだと言っていた。その意味するところは幸福革命である。当時、住民は智頭町には杉しかないと嘆いていた。そんなことはない、視点を変えれば大きな価値があると、一枚の杉の板切れを郵便はがきに応用すれば海外に届くと提案した。智頭杉日本の家と銘打ってアピールすれば地場の杉が使われて新築住宅や腰板が張られ、智頭杉で小学校校舎が2校建築された。そして、生木のまま活用する建築材の縁桁(えんげた)に価値があると、木材市場から智頭杉の生木を購入してログハウス村を建設した。その根底にあったのは、人も物も視点を変えれば最高に価値がある。まず、地域の特色に気づき、違いを認めることからはじめようと、青少年や社会人海外派遣事業や国際交流は、当初欧米の人たちと、そして軸足を東アジア(中国・韓国・台湾)へと展開してきた。それらの活動から地域の活性化は役場を覚醒化することだとターゲットを絞った。例えば、住民が役場の職員を説教しても効果はない、そこで経営コンサルタントの指導による接遇訓練の場を設け、全職員による研修システムが起動した。そして、町のグランドデザインを策定し、集落住民が地域計画を立て実行する日本・ゼロ分のイチ村おこし運動に15集落が10年間取り組んだ。この運動によって住民自治と地域経営の概念が地域に根づいた。次に領域(地区)自治を想定して旧村単位で地区振興協議会を設立したところ、行政(役場)による百人委員会が稼働した。

これら地域づくりは、どのような考え方を持って取り組んだのか。それは地域で生きることを誇りに思い、生き方や住まい方を発信した。こだわったのは「直感力」である。それらの取り組みは義務感でなく、未知との遭遇、わくわくドキドキ感で意外性の演出を心掛けた。兎に角、この地で面白く生きようと思っていた。そして、困難や壁に当たったとき、伝教太師の「一隅を照らすこれ則ち 国宝なり」と、平櫛田中の「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」の格言を唱えた。つまり、どこにあってもその環境に感謝し「足る を知る」と挑戦した。この姿勢によって、目の前の人が最高に輝き、自分自身も最善に活かされた。

1984年、杉板はがきや杉名刺を開発したころ、「寺谷のアイデアも一時のことだ、そう長くは続かない。」と、周りの人たちの嘲笑が聞こえてきた。面と向かって皮肉を言う人もいた。当初は閃きによるアイデアであったが、思いつきは限界があると考えた。そこで創作する場を設けた。その会議は前頭葉を上にして浮かんできたことを言葉にした。合わせて、周りの人たちも意見に乗って連想した。語彙を模造紙に殴り書きして、“つぶやき”や“ささやき”を企画に組み込んだ。創発規範の発酵の場は、まさに豊かな人生時間となった。

1994年8月24日、杉万先生から『こころと意味・「かや」』(「ゼロイチ運動と「かやの理論」講義-2) の講義を受けた。要約すると、「環境」「集合的行動パターン」「コミュニケーション」「暗黙の自明の前提」の4点がワンセットで、「かや(規範)」と説かれた。つまり、コミュニケーションが通じる範囲の人々が世間を作り、コミュニケーションを張っている人たちの中で、暗黙自明の前提ができる、そこから意味が出てくる。その意味が暗黙自明の前提から取り出され、私たちの心の世界が出来上がるというのだ。究極、人々とのコミュニケーション(エディターシップ「ギブ&ギブ」第1章8)と、創発規範のわくわくドキドキ感によって、ウェルビーイングを手繰り寄せた。

9. 地域づくりに定年なし、コミュニティライフ

自然災害は予測できない。2011年3月11日、テレビで衝撃の映像が飛び込んできた。東日本震災である。真っ黒な濁流が逆流し、自動車を飲み込んだ。「逃げろう―」と声を上げた。街をみれば津波に飲み込まれていく。その悲惨な映像は今でも目に焼き付いている。大きな衝撃を受けた。62歳で腎臓癌を発症し3月末をもって退職しようと決めていた。つまり、腎臓機能の低下は冬季間の除雪や、これまでのように公園の草刈りなどボランティアはできない。何分にも悪性癌の再発の可能性とeGFR値35にショックを受けた。自分自身の命の限りを自覚し、退職後は意を決し京都市への移住を決断していた。それこそ環境を変えることが生きることになる。妻の「京都に行こう」の一言によって、命がある内に妻の老後と二人の子どものフォローを第一義に考えていた。そこに東日本震災である。

予測がつかない、飛んでもない災害が起こることを改めて認識した。私に何ができるのか、満身創痍で汗をかくこともできない。そんな時、地震学者の今村明恒(1870年(明治3年)~ 1948年(昭和23年))の生き方を知った。《1899年に当時としては異端説とされた「津波の原因は海底の地殻変動とする」説を提唱。1905年に投稿記事の中で今村は「将来起こりうる関東地方での地震への対策を訴える」と猶予はないと警告し、今村は「ホラ吹きの今村」と中傷されるが、’23(T12)年に関東大震災によって現実のものとなった。1923年に東京大学地震学講座の教授として、地震博士として幅広い震災対策を呼びかける一方、地震発生が予想される南海道地方に私設観測所を設置、’29(S4)年に日本地震学会を再設立して会長に就任。地震計の考案、地震波の位相の伝播速度測定など、地震学の発展に業績を残した。’31年に定年退官。その後も私財を投じて地震研究を続けた。’33年に三陸沖地震発生後の復興の際に津波被害防止のため高所移転の提案をした。また、「稲むらの火」を教科書への収載を訴え、小学生から津波被害に関する教育の重要性の認知にも取り組んだ。(Wikipediaから抜粋)》

凄い地震学者がいた。自分自身も何にもならんことをするなと揶揄されてきた。ところが、今村は現職中に私設観測所を設置し、1931年に定年退官後も私財を投じて地震研究を続け、防災教育に「稲むらの火」と高所移転を提案した。その結果、高所移転を実現した岩手県大船渡市三陸町綾里(りょうり)地区では、東日本震災で住民の99パーセントが助かっていた。そんな生き方を知った。そうだ、地域づくりに定年はない。どこまで地域に関わることができるのか、それは自分自身の人生姿勢にあると思った。

そして、2011年に京都市に移住し、何から手をつけたらよいのか模索した。そうしていたところ2014年12月、明治大学農学部教授の小田切徳美先生が、『農山村は消滅しない』(岩波書店)を出版された。その一節に智頭町の地域づくりが紹介(P60)されていた。「1996年には、住民で組織する「智頭町活性化プロジェクト集団」(約30名)と行政職員が、約2年間にわたり積み重ねた議論を集約し、『日本・ゼロ分のイチ村おこし運動』の企画書を作成した。これは、やや大げさに言えば、我が国の地域づくりにとって、記念碑的文章とも言える。その全文を掲げておきたい。」とあった。運動の趣旨が丸ごと掲載されていた。“我が国の地域づくりにとって、記念碑的文章とも言える”と最高の評価をいただいた。感動した。1996年に三日三晩で起草した文章だ。

小田切先生の書評に刺激を受け、ゼロイチ運動が住民にどのような影響を与えたのか、調べてみようと思った。2016年11月、京都駅の喫茶店で小田切先生にお会いし智頭町の動きを編集することを約束した。関係者にヒアリング(第1章2)をしてみるとゼロイチ運動が大きく影響していた。そして、2019年7月、智頭町が内閣府の「SDGs未来都市」に認定され、一気にまとめ10月に『創発的営み』を出版した。小田切先生は解題で“にぎやかな過疎”を提案されている。そして、創発規範の連鎖の拡大は、2021年に『ゼロイチ運動と「かやの理論」』と、2022年に『ギブ&ギブ』の出版によって検証した。敢えて言うならば、地域づくりに定年はない。

10. 無意識の力に突き動かされた

『ギブ&ギブ』の監修をしていただいた立命館大学教授山口洋典先生の「生き方・働き方の哲学への挑戦」の最終葉に、《寺谷さんの連作は、とりわけ全員が実名で登場する本作は、学問の枠に収まるものではなく、日常生活の科学を言語化する挑戦であったのだと確信しています。》と、解説いただいた。わが意を得た。つまり、「日常生活の科学を言語化する」との表現に出会い、日常における思考の在り様を知ってもらうことができたと思った。そのことを自覚するか無自覚かは知らないが、その人の内面の世界があって行動や思考が起こる。つまり、「日常生活の科学を言語化する」に反応した。そして、草郷先生から名指しがあった「まさに、寺谷さんはその中でも最高級に近い杜氏役です。」と看過されたが、それらは特別に意識したものではなく、当然の感覚であった。その無意識で当然の感覚を問うてみた。

そうかと思いついたのは、私は肝臓疾患の患者であった。話せば長い。肝臓病を医師から診断されたのは30歳の年末だった。その夏、身体がだるかったので病院で血液検査を受けたところ、γ-CTPが異常値を示し、脂肪肝の病名がついた。今から考えれば疲れていたのだと思う。肝機能の数値に振り回され、組織検査を受けた。当時は、肝臓は再生しないと言われていた。ショックであった。治療薬が無いので漢方薬を服用した。そして、血液検査でC型肝炎が判明したので、インターフェロン治療を受けたが逆効果となった。そして、2005年に玉野市民病院の木村文昭先生の瀉血治療を受け、2010年に腎臓癌を発見してもらった。C型肝炎の治療薬 (エレルサ・グラジナ錠) が開発され、木村先生の薦めにより2020年2月に肝機能は完治した。この間、常に病気があった。まさに死刑囚のように時間を凝縮して生きてきた。そんな様子を見ていた関西医科大学看護学部教授鮫島輝美先生に、病気と地域づくりの関係について指摘を受けた。

《寺谷さん:いつもありがとうございます。自伝のところを読ませていただきました。人に生かされ、人を生かしてきたんだな、と思いました。確かに、病との関係性が「時間を凝縮した」といえるし、同時に終わりとの関係性がいつも切実にあるので、火事場のくそ力と言いますか、アドレナリンがどっと出る出会いが、ずっと続いているんだな、とも思いました。病と共にあることが、すでに寺谷さんのアイデンティティの一部になっている、そう感じられました。もちろん、病気になりたい人などいませんが、病があったからこその人生もあるな、そういう意味での「病の語り」を読ませていただいた気がしました。鮫島》

私が無自覚か自覚かに関わらず、肝臓病と腎臓癌は自身の個性となっていた。当然、病気になると限りある命を意識するので、火事場のくそ力を発揮したのだろう。病気が自分自身の思考や行動の深層心理の一端を担っていたことは確かである。鮫島さん曰く、「病があったからこその人生もあるな」と語られ、その通りである。しかし、病気は時間を凝縮したかも知れないが、どんな影響を与えたのかと問われると不確かである。ただ、出会いによる一期一会の意識は強く、言葉や語彙、その情景は映像の如く刻まれた。つまり、日常生活の科学を言語化する挑戦やマインドセットを変えたのは、好奇心と実は無意識の力によるかも知れない。

 11. 雲外蒼天(うんがいそうてん)、天知る、地知る、人知る

2022年の夏、『ギブ&ギブ』を出版した。山形郷中学校の恩師の葉狩守先生に謹呈したところ、感想をいただいた。何分にも60年ぶりの通信簿である。

《貴重な労作をいただき恐縮しています。時間を無駄にせず、生命がけで郷土を想い描いておいでですね。一人で書き、考え、発想してまとめて、素晴らしい書物です。学生やこれに続く人たちの教えになります。自分の利益中心の考え方でなく、郷土の創生のために一銭にもならないことに生命を賭ける。そんな人が芦津から生じたこと、まことにうれしい限りである。小生、目の病で十二分の読破ができませんが、『ゼロイチ運動と「かやの理論」』など骨が通じている。吉永先生をはじめ、大学の専門の方々の知恵、頭脳を参考にまとめてある。ひとりでできないことが、故前橋登志行様など地元の関心のある方々も寄り添って応援された。寺谷さん自身が動き、仲間を動かし、勉強の場を作られた。八河谷のログハウス、那岐地区の出会い館、アジサイの苗と花の園、魚の掴み取りやウグイのジャブなど、口先にとどまらず、手足、口、心が動いた。ゼロイチ村の振興協議会が動き、寺谷氏の心が村の自治に入り込んだ。郷土の古い物語を掘り起こし、英語の文に訳してスピーチを試みたり(省略)単なるギブ&ギブの本ではありません。》

葉狩先生には62年にわたって見守っていただいていた。すべて見通しておられた、有難いことである。また、日本海新聞社の元記者富長一郎氏から貴重なコメントが届いた。

《「ギブ&ギブおせっかいのすすめ」をご恵送いただき、ありがとうございました。もっと早く到着のお礼を差し上げなければならなかったのですが、生半可な返事は失礼かと思い、熟読しておりました。が、申し訳ありません。ギブギブとはあまりに大きなお題であり、体系的に消化できませんでした。断片的な感想です。大きく思ったのは、寺谷さんの「喜びや楽しみの壮大な回収」がいま始まっているということです。ギブギブとは文字だけ見ると捧げて捧げて略奪されまくったようですが、その一方で、この本からは広島から智頭に帰った時の思いを可視化できた寺谷さんの今の喜びがひしひしと伝わってきます。ギブギブとは地域を、集団を変化させる何よりの手段です。そして、その手段で願いをかなえた喜びを報酬として今、回収している。さらにはこの書を次代に残すことによって、地域づくりの実践を次代の若者に残すことができた喜びも回収されておられるのだと思います。いま、壮大な回収で全身が満たされているのではないでしょうか。断片的な感想ですので話題が飛びます。吉永先生が「関係人口」という概念にふれておられました。ふっと思ったのですが、これはカナダ・ペトロリアへ行く前夜の智頭町とペトロリアの人々の間柄もそうだったのではないでしょうか。カナダと智頭の間には絶対的な距離があったのですが、互いに交流する中で関係人口が創出されていった。いまとなってはその創出も寺谷流「ギブギブ」の産物ですね。そして関係人口が実際に交流すれば、どんな素晴らしい瞬間が待っているのかをだれもが体験した。それ以降、いくつもの多様なパターンの関係人口を創出してきたと思いますが、今回は学生たちという年代も居住地も距離がある人々との関係人口ができた。これは未来の関係人口です。本来は同じ時代の物理的な距離がある人々の間柄を関係人口と呼ぶのでしょうが、本書に収納されている関係人口は今と未来という3次元的な時間距離を隔てた関係人口です。次代への「時空を超えたギブギブ」という何よりの実践例ではないでしょうか。岡山にて》

広島時代の友人から一編の感想が届いた。出会ってから50年、地域づくりは人も物も本物が試され、人間力が根本から鍛えられた。

《今般は貴殿の大作を恵送いただき有難く拝読しました。約40年間にわたり智頭への思いがよく伝わりました。打たれても、打たれても進まれ、沢山の著作本当に素晴らしいことです。①エディターシップ、②ギブ&ギブ、③利他、この三つで頑張れたのだと思います。本著が集大成かと存じますが、益々のご活躍をお祈りします。浦部哲夫》

そして、本書の編集に当たって珠玉のコメントがあった。氏から「1983年に帰郷する際、中国郵政局の先輩から「メモをとると良いよ」とアドバイスをもらった。」(3章6)、以来40年、塵も積もれば宝となれとメモ(記録)を実践した。

《感想 酒樽をかき混ぜるように、書き直すたびに、寺谷物語の豊穣な香りが立ち昇ります。しかも、ついには素風川柳まで添加された、大吟醸に仕上がってきたようです。見事な一代記です。極めてアナログ的な、地域おこしの集大成を、デジタルの手法を駆使してまとめ上げた、貴重な記録であることを、応援団の一人として、高く評価してやまない次第です。ご苦労様でした。山下宅夫》

地域づくりは世のため人のためと思っていた。情けは人のためならず、自分自身に返ってきた。ギブ&ギブの利他思想を持って邁進した。多くの人々の支援と協力を得て社会システム(仕組み)による地域づくりを実現し、誇りを創造した。まさに1983年に智頭町へ帰郷した時点から見ると雲外蒼天(うんがいそうてん)、想定外も想定外、遥かに予想を超えた地域づくりとなった。智頭町に賭けてよかった。そして「ギブ&ギブ」を出版後、関西大学社会学部教授の草郷孝好先生との面談(第3章9)をきっかけに、社会システム(仕組み)の視点で本書を編集した。

昨秋、北京外国語大学教授の宋金文先生が主宰された東アジアシンポ(横浜市立大学教授吉永崇史先生/韓国・全国災害安全研究所副所長羅貞一氏/鳥取県建築士会事務局長澤田廉路氏)の議論の中で、智頭町の住民は長年にわたって学習してきたと所見があった。まさに地域内外の人々との交流によって新しい知識に触れ心をときめかせた。それが刺激となって誇りを引き寄せたのだ。つまり、社会システム(仕組み)は、智頭町の人々の起爆装置となった。

1973年に一念発起し故郷を出奔してから半世紀の50年になる。奇跡的に命がある、まず感謝である。夢見たことを実現するため挑戦した。本書の第1章から第3章は、ゼロイチ運動による社会システム(仕組み)が、集落に奇跡を起こした事実を検証した。そして、本章は草郷先生の問いである思考の背景を書いた。文章の編集は孤独な闘いであった。できるだけ素直に一語一語を絞り出し、記録と記憶の取捨選択によって構成した。そして、京都市へ移住して11年になる5冊の出版と本書を編集した。地域に気泡のように萃点が生まれ、人々と事と心を紡いだ。実践者の学びと、社会システム(仕組み)創造の記録である。

参考資料
『ひまわりシステムのまちづくり』(共著:地域と科学出会い館、はる書房 1997)
『CCPT活動実践提言書』(編集:智頭町活性化プロジェクト集団 1989から1998)
『地域からの挑戦』(著者:岡田憲夫、杉万俊夫、平塚伸治、河原利和、岩波書店 2000)
『よみがえるコミュニティ』(編著:杉万俊夫、ミネルヴァ書房 2000)
『「地方創生」から「地域経営」へ』(共著:寺谷篤志・平塚伸治、編著:鹿野和彦、仕事暮らしの研究所 2015)(中国語翻訳出版、北京外国語大学教授宋金文 2017)
『定年後、京都で始めた第二の人生』(著者:寺谷篤志、岩波書店 2016)
『地方創生へのしるべ—鳥取県智頭町発 創発的営み』(編著:寺谷篤志、澤田廉路、平塚伸治、今井出版 2019) (中国語翻訳出版、北京外国語大学教授宋金文 2021)
『ゼロイチ運動と「かやの理論」』(編著:寺谷篤志、今井出版 2021)
『ギブ&ギブ、やせっかいのすすめ』(編著:寺谷篤志、今井出版 2022)

著者紹介
1948年鳥取県智頭町芦津に生まれ、1973年から1983年中国郵政局勤務。1983年那岐郵便局長、1984年杉板はがき発案、1988年CCPT設立、1989年地域経営をテーマに杉下村塾を開講する。1995年智頭町グランドデザインプロジェクト、1996年ゼロイチ運動の具体策を考案、1997年ゼロイチ運動スタート、2008年地区振興協議会スタート。2011年退職し京都市に移住、コミュニティにおける創発規範の連鎖を検証、執筆する。自称、地域経営実践士。
好きな言葉は、一隅を照らすこれ則ち国宝なり。いまやらねばいつできるわしがやらねばたれがやる。一寸の虫も五分の魂。我在存宇宙。独立自尊。

新美一志/「福祉教育」「まちづくり」「ふくし」のキャッチフレーズに関するメモ

〇「福祉教育」に関して、「社協活動は、福祉教育で始まり、福祉教育で終わる」「福祉まちづくりから福祉まちづくりへ」「ふくしは、だんの、らしの、あわせ」など、いろいろなキャッチフレーズがある。それらは、時に、「社協の先輩たちが語り継いできた言葉」「福祉教育実践の先人たちからのメッセージ」、あるいは「詠み人知らず」(作者不詳)として紹介され、引用されている。しかし、その短いフレーズには、その作者の理念や思想が込められており、また作成された時代や社会の様相が反映されているはずである。そう考えると、キャッチフレーズは、宣伝や広告のための「単なる」謳い文句として軽視することはできず、歴史的・社会的なキーワードとして重要な意味をもつものである。
〇「社協活動は、福祉教育で始まり、福祉教育で終わる」は、島根県瑞穂町(現邑南町おおなんちょう)社協の地域福祉環境や地域福祉実践に基づく言葉である。瑞穂町社協は、1980年前後以降、生涯学習の視点から、学校内外における子ども・青年の福祉教育実践や地域住民を対象にした社会福祉学習などに先駆的・総合的に取り組んできた。その中核を担ったのは日高政恵(元事務局長)であり、その取り組みを全面的・継続的に支援したのが大橋謙策である。日高は、「大橋先生から、福祉の町づくりなのか、福祉で町まちづくりなのか、とよく言われました」と述懐している。大橋が本格的に福祉教育やボランティア活動の実践に触れ、研究を展開するのは1980年前後からであるが、その当初から大橋は「福祉で町づくり」を説いていたのである(大橋謙策監修、澤田隆之・日高政恵著『安らぎの田舎(さと)への道標(みちしるべ)―島根県瑞穂町 未来家族ネットワークの創造―』万葉舎、2000年8月)。
〇この点を関して、コミュニティデザインの第一人者と評される山崎亮が、大橋へのインタビューを通して次のように述べている。「大橋さんの言葉を借りれば、福祉事業者や研究者の間で70年代からスローガンのようにいわれていた『福祉まちづくり』が、90年代から『福祉まちづくり』へと変わったのである。」「大橋さんは、2010年代は『福祉でまちづくり』から『福祉まちづくり』といわれる時代へと移行したと話していた」(山崎亮『縮充する日本―「参加」が創り出す人口減少社会の希望―』PHP新書、2016年11月、331、335ページ)。
〇「福祉」を平仮名の「ふくし」と表記したひとりに、木原孝久(住民流福祉総合研究所)がいる。木原は、1974年9月に「福祉教育研究会」を立ち上げ、ミニコミ誌「福祉教育」を創刊した。その後、誌名を「わかるふくし」(2003年4月「住民流福祉」に改題)に変更し、『わかるふくしの発想』(福祉教育研究会、1984年1月)と同名の『「わかるふくし」の発想』(ぶどう社、1995年6月)を上梓する。その頃の木原の関心は、住民が理解に苦しむ「福祉」から「それならわかる」と言ってくれるような「ふくし」、すなわち「わかるふくし」づくりを進めることにあった。その意識や姿勢は今日も変わらない。
〇先駆的に「ふくし」を「だんの、らしの、あわせ」を意味する言葉として使用したひとりは、阪野貢である。1990年代中頃からであり、およそ30年前のことである。それは、「福祉」を広義に解釈し、子どもから大人まで親しみやすい言葉として使われ、しかもすべての人々が福祉社会の形成や福祉文化の創造に主体的に関わることを企図してのことであった。そこで阪野は、「ふくし」とは「ふだんの、くらしの、しあわせ」について「みんなで考え、みんなで汗をながすこと」であり、「しあわせ」とは「みんなが、満足していて楽しいこと」であるという。留意したい。なお、阪野によると、その表記の直接的なきっかけは、茨城県社協主催の福祉教育セミナーに参画したことにあるが、そこで学んだのは「ふくし」=「普通の、暮らしの、幸せ」であった、という。その後、阪野は、「まちづくりと市民福祉教育」について論究することになる。
〇日本福祉大学は、身近な生活から「福祉」を考えるために、2004年度に初めて発行した高校生向けの冊子(『はじめての福祉』)と2006年度の大学案内で、「福祉」を「ふくし」と表記した。それは、「つうの、らしの、あわせ」を意味するものであった。以後、日本福祉大学は、2009年度から「ふくしの総合大学」を標榜する。
〇大学図書出版が2008年10月に、日本福祉教育・ボランティア学習学会の監修のもとに全国誌『ふくしと教育』を創刊した。雑誌名に「ふくし」が使われた最初である。
〇その後、「ふだんの、くらしの、しあわせ」の「ふくし」については、原田正樹によって全国的な普及が図られている。そこでは常に、「貧困的な福祉観」の再生産が懸念される学校や地域における福祉教育実践に対する警鐘が鳴らされる。とともに、先進的で具体的な提言がなされ、確かで豊かな福祉教育実践の方向性が提示される。特筆されるべきところである(『共に生きること 共に学びあうこと―福祉教育が大切にしてきたメッセージ―』大学図書出版、2009年11月)。
〇「ふつうの、くらしの、しあわせ」の「ふくし」については、たとえば清水将一がその意味内容について言及している。清水はいう。「普通に暮らす幸せとは人それぞれで普遍的ではない。『普通って一人ひとりで違うもの あなたの普通を押しつけないで』(読み人知らず)という歌がある」(『ボランティアと福祉教育研究』風詠社、2021年6月)。

年間レポート/阪野文庫

――市民福祉教育研究所年間レポート――

 
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――阪野文庫――

【図書目録】
「福祉教育」「地域福祉」「社会福祉」等に関する 3,163冊 の図書(雑誌を含む)が所蔵されています。
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【資料目録】
「福祉教育」に関する 113巻(冊)、834点 の第一次資料(コピーを含む)が所蔵されています。
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(1)福祉教育に関する資料(論文・報告書等)〔第1巻~第26巻〕
※全26巻376点の「資料目録」があります。

(2)福祉教育副読本・指導資料・手引書等に関する資料〔第1巻~第22巻〕
※全22巻262点の「資料目録」があります。

(3)日本福祉教育・ボランティア学習学会に関する資料〔第1巻~第11巻〕
※全11巻のなかに、1995年2月~2012年11月までの、学会創設の準備活動等を含めた諸資料が収録されています。

(4)全社協・「福祉教育セミナー」に関する資料〔第1巻~第8巻〕
※全8巻のなかに、1983年3月23日~25日に開催された「(第1回)福祉教育セミナー」から、2004年2月17日~18日に開催された「平成15年度全国福祉教育セミナー」までの、各年度の福祉教育セミナーに関する諸資料が収録されています。

(5)日本社会福祉教育学校連盟に関する資料〔第1巻~第7巻〕

(6)日本青年奉仕協会に関する資料〔第1巻~第4巻〕
※全4巻81点の「資料目録」があります。

(7)神奈川県における福祉教育に関する資料〔第1巻~第3巻〕
※全3巻21点の「資料目録」があります。

(8)全社協・福祉教育研究委員会(第2次大橋委員会)に関する資料〔第1巻~第3巻〕
※全3巻のなかに、第1回(1982年9月29日)から第4回(1985年1月21日)までの委員会資料と、委員会が中心になって行った「福祉教育セミナー」「東・西日本福祉教育研究協議会」の開催や『福祉教育ハンドブック』の編集等に関する諸資料が収録されています。

(9)徳島県子供民生委員制度に関する資料〔第1巻~第3巻〕

(10)静岡県における福祉教育に関する資料〔第1巻~第3巻〕
※全3巻32点の「資料目録」があります。

(11)狛江市社協・「あいとぴあカレッジ」に関する資料〔第1巻~第2巻〕

(12)狛江市社協・「ふくしえほん あいとぴあ」に関する資料〔第1巻〕

(13)栃木県社会福祉教育センターに関する資料〔第1巻~第2巻〕

(14)機関誌『福祉教育』(木原孝久)〔第1巻〕

(15)機関誌『わかるふくし』(木原孝久)〔第1巻~第2巻〕

(16)機関誌『元気予報』(木原孝久)〔第1巻~第2巻〕

(17)福祉新聞『シリーズ 福祉教育の新展開』に関する資料〔第1巻〕

(18)長沼豊『ボランティア学習』に関する資料(論文)〔第1巻〕
※8点の「資料目録」があります。

(19)全国ボランティア学習指導者連絡協議会に関する資料〔第1巻〕

(20)鳥取県八頭郡の中学校における福祉教育に関する資料〔第1巻〕

(21)初期社会科教育実践に関する資料/大阪市民生事業に関する資料(論文・報告書等)〔第1巻〕

(22)高岡市ジュニア福祉活動員制度に関する資料/松原市子供民生委員制度に関する資料〔第1巻〕

(23)全国福祉高等学校長・総会、研究協議会等に関する資料(平成5年度~)〔第1巻〕

(24)教科「福祉」と高等学校「福祉関連学科」基礎資料(平成17年度版~)〔第1巻〕

(25)全国高等学校長会家庭部会福祉科校長会・全国福祉科高等学校及び福祉教育実態基礎調査集計報告〔第1巻〕

(26)第19回日本福祉大学社会福祉公開夏季大學・「高等学校福祉科の教育」に関する資料〔第1巻〕

(27)静岡県民生部『社会連帯の育成をめざして』/静岡県労働部『心情豊かな人づくりのために』〔第1巻〕

(28)東京都社会福祉協議会『社会福祉の理解を高めるために』/東京都社会福祉審議会『東京都における社会福祉専門職制度のあり方に関する中間答申及び最終答申』/国際社会福祉協議会日本国委員会『今日の社会福祉教育』〔第1巻〕

(29)中央社会事業協会・社会事業研究生インタビュー等に関する資料〔第1巻〕

阪野 貢/まちづくり幻想:自覚と打開の道 ―木下斉著『まちづくり幻想』のワンポイントメモ―

僭越ながら、いま暮らす “まち” で「よそ者、若者、ばか者」の役割を多少とも果たそうとしてきた(している)。しかし、地域からはいまだに、「物言わぬよそ者」としての振る舞いが要求される。地元の“名士”が主役の地域活動や “あやふや” と “うやむや” が交錯する会議では、「梯子(はしご)を外される」(梯子はかかっていなかった)、「出る杭(くい)は打たれる」(出る杭は抜かれる)ことも二度三度。さすがに「あほらしくってやってらんねーよ」。いまだに「世間」の「空気」が読めない自分がいる。

〇筆者(阪野)の手もとに、内閣府の「地域活性化伝道師」(地域おこしの専門家。2022年4月現在、394人が登録されている)を務める木下斉(きのした・ひとし)の『まちづくり幻想―地域再生はなぜこれほど失敗するのか―』(SB新書、SBクリエイティブ、2021年3月。以下[1])という本がある。「地方創生」や「地域再生」が叫ばれて久しいが、「地方」や「地域」はますます衰退し、「創生」や「再生」は混迷の度を深めている。その原因のひとつは「まちづくり幻想」にある。その幻想を振り払い、打開するためには、まちづくりや地域再生に関する意識や思考の範囲を広げ、面倒なことに果敢に取り組み、一つひとつの事業・活動を地道に積み上げていくことしかない。一人の住民の覚悟と意識変革(「思考の土台」の再建)、地域人材の発掘と育成、地域循環経済による地域経営(稼ぎ)、そして仲間と「地域の未来」について語り合う、それがまちを変える。木下が主張するところである。
〇[1]から、まちづくりの「幻想」とその「打開策」に関する木下の論点や言説のいくつかを、限定的・恣意的になることを承知のうえで、メモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

人口さえ増加すれば地域が活性化するという幻想/人口減少と新たな経済的成長
▷地方が人口減少で衰退しており、それを解決すれば再生する考え方そのものは、大いなる「幻想」です。(40ページ)/地方の人口減少は衰退の原因ではなく、結果なのです。つまり、稼げる産業が少なくなり、国からの予算依存の経済となり、教育なども東京のヒエラルキーに組み込まれる状況を放置した結果、人口が流失したわけです。(41ページ)
▶一時的に移住定住の補助金をもらい、地域おこし協力隊などの限られた収入を3年ほど担保されただけの人口が、各自治体で数人、数十人増加しただけで構造的に変わるでしょうか。/人口論に支配された地方活性化論は、どこまだいっても無理が生じます。人口さえ増えればすべてが解決する、という幻想を捨て、先をみた思考が必要です。(43ページ)/できもしない方法に固執するのではなく、新たな付加価値の生み出し方と向き合う時代にきているのではないでしょうか。経済的成長を諦めるのではなく、今までとは異なるアプローチでの経済成長シナリオが必要なのです。(46ページ)

予算があれば地域は再生するという幻想/学び、動くヒトと組織が地域を変える
▷トップの仕事とは「人事」が9割を占めると言っても過言ではありません。「何をやるか」よりも「誰とやるか」「誰に任せるか」の方が圧倒的に重要です。/しかしながら、衰退地域のトップの多くは、「筋のよい事業に適切な予算を確保すれば成功する」という幻想に因(とら)われているのです。(62~63ページ)
▶どんなに筋のいい(見込みがある)事業で、適切な予算を確保できたとしても、どうしようもないチームでは絶対に失敗します。/内発的な力があるチームを作り出せるかどうかがすべての勝負の始まりです。だからこそトップの仕事は、事業のネタ探しでも、予算確保でもなく、よい人事なのです。(63ページ)/(意思決定層は、)組織の外で多様な接点を持ち、適切な学習時間を確保し、学び続ける必要があるのです。(64ページ)/自治体の意思決定者は、予算獲得の前に自分たちの地域がどのようなシナリオで再生するか、その戦略をつくる時間と人材を優先しなくてはなりません。そのことで適切な予算活用と事業の選択が可能になるのです。(67ページ)

成功事例を真似れば成功するという幻想/金太郎飴型からの脱却
▷意思決定層の傾向は、すぐに「答え」を求めがち。その定番は「成功事例を真似れば成功する」という幻想です。/毎年どこかの地域の「成功事例」を視察し、それをパクるための予算を行政に確保させ、取り組んでみる。うまくいかないと、次のネタをまた探し、行政の予算を確保させ‥‥‥という無限ループ(繰り返し)に陥っている地域は多くあります。(72ページ)
▶いつもこのように、ネタとカネを配って全国各地が一斉に真似をし、市場の崩壊を繰り返す。意思決定層は短絡的かつ適当なパクリをせず、自分たちの頭で考えるチームの養成に力をいれるべきなのです。国側も成功事例の横展開、水平展開の幻想から早く脱却することが必要です。(79ページ)

「うちの地域は大変な状況にある」という幻想/若者が地域の未来を豊かに語る
▷地方の意思決定層の抱える問題の一つは、地域の未来に対して非常に悲観的な人が多いことです。(96ページ)/(「うちの地域は大変な状況にある」という)ネガティブなプレゼンテーションは、その地域に関わろうとする人を減らしていく効果はあるでしょうが、プラスになることはありません。皆で「大変だよな」と言って、互いの傷をなめあったところで何も変わらないのです。(97ページ)
▶危機を乗り切る時に意思決定層の人たちが、20年、30年先に生きていないやつが意思決定をするべきではないと次の世代に席を譲り、それを支える立場に回ることは、まちづくりにおいて非常に重要です。(100ページ)/バトンを次世代に積極的に渡し、次なる世代を支え、未来に向けて動いていこうとする地域は、世代横断で変化を作り出しています。いつまでも長老たちが取り組んでいる地域は、どんどん若者はいなくなり、沈んでいきます。「誰がやるか=人」と向き合う必要があります。(101ページ)

すごい人に聞けば「答え」を教えてくれるという幻想/良いパートナーの発掘
▷(地域事業のチームメンバーを組織する際に)一番やってはいけないのは、単に「力ありそうだから」と目的も共有しないままえらい人や有名な人にチームに入ってもらうといったことです。(106ページ)/すごい人たちに聞けば「答え」を教えてくれるという幻想は捨てましょう。(108ページ)
▶(「答え」は、)自分たちで考え抜き、その上で共にプロと議論し、実践してこそ見えてくるものなのです。(108~109ページ)/「強烈な少人数チーム」(3~5人)を組織し、圧力をかわしながら、時に相手の力も借りながらプロジェクトを前に進めていくことが大切なのです。(105ページ)/地域事業の要は安易に思考を放棄せずに、自分たちでリスクをとって実践するチームなのです。税金で予算をつけた無料の研修では担い手なんて育ちません。そもそもそんなところで良いパートナーを「発掘」できるはずもないのです。(109ページ)

地域が衰退しているから誰がやっても失敗するという幻想/集団圧力からの解放
▷成功者は地域で妬(ねた)まれてしまう問題があります。(110ページ)/「悪くなるのも、よくなるのも全員一緒でなくてはならない」という、悪しき「横並び」幻想があります。足並みを乱すものは許さないという集団圧力こそが、成功者を潰し、次に続く挑戦者すら排除して、地域を衰退に至らしめることになるのです。(112ページ)。/「人口減少だ」とか、「経済が低迷している」とか環境要因のせいにして、「だから何をやっても失敗する」という幻想(に囚われている地元の事業者がいます)。(113ページ)
▶このような集団的な妬みによる状況を打破するためには、本当は意思決定者が地元の成功者を巻き込んだプロジェクトを立ち上げることが必要なのですが、なかなか難しいものです。/このような集団圧力が発生する中では、まず着実に投資して、事業を積み上げていくということに徹するのが大切です。(114~115ページ)/自らの事業を通じてまちを変えようと経営を続けられている方たちこそ、地元でより様々なシーンでの活躍が必要です。ただしその時には従来の民間と行政の関係ではなく、民間が投資、事業を開発する立場を貫くこと、そして行政もよからぬ組織心理で動かぬ、新たな公民連携のカタチが必須です。(118ページ)

集団が持つ無責任、他力本願、現状維持を正当化するための幻想/「挑戦者」「成功者」を活かす
▷集団が持つ幻想は無責任と他力本願と現状維持を正当化するために共有されているものが多くあります。(137ページ)/日本人は「みんなでやることは素晴らしい」という幻想が刷り込まれていて、それを美徳にしすぎています。/地域活性化でもよくいわれる「みんなで頑張ろう」とは、私は責任はとらないよ、という意味です。(126ページ)/地域で現状を打開し、変化させたいと思っている方であれば、それらの圧力をかわしながら、自らの動きを続けていく必要があるわけです。(137ページ)
▶(誰かの成功を)「ねたむ」「ねたまれ、疲弊する」ことによって地域は「新たな負の連鎖」に陥ります。(137ページ)/この問題の解決には2つの軸に分けて考える必要があります。地元の人々が「挑戦者・成功者を目の前にしたときにとるべき行動」と、「挑戦者・成功者側が意識すべきこと」の2軸です。(138ページ)/(前者については、)様子見などせず、最初の不安な時期にしっかりと具体的に応援すること。(後者については、)7~8人から反対されるうちに「仕事」を始め、地域での挑戦者を潰して回るのではなく、育て、投資すること、が重要です。(138~145ページ)/成功者を潰すのではなく、成功者を讃(たた)え、教えを乞い、そして褒められた成功者もオープンな姿勢で対応する。このような連携が発揮されたとき、地域に競争力のある大きな産業が生まれます。(146ページ)

「外の人」に手伝ってもらえば地域が豊かになるという幻想/「関係人口」との健全な関係
▷地域においては「よそ者」が地元を荒らす悪者の幻想を抱かれていることもあれば、有名なシンクタンクやコンサルタントを過剰に持ち上げる「よそ者」幻想に支配されているところもあるのです。(148ページ)/(関係人口については)「地元のファンが増加すれば地域がよくなる」という幻想を持ったものも多くあります。(161ページ)
▶地方に必要なのは単にゆるい関係をもつ人口(居住人口でもない、交流人口でもない、第三の人口としての関係人口)ではなく、明瞭に消費もしくは労働力となる人口を移住定住せずとも確保していくところに価値があるはずです。(162ページ)/関係人口という「外の人」に期待されるべき経済的役割としては2つがあります。(166ページ)/一つは、地元に住んだり訪れたりするだけではない「新たな消費」に貢献してくれるということです。/もう一つは、地元に不足する「付加価値の高い労働力」となってくれるという視点です。(166~167ページ)/漠然とした中で関係人口を募集するのではなく、「消費力」「労働力」という2軸をもとに地域に必要な関係人口をターゲティングし、そのような方々と意味のある関係を適切に築いていくことが重要です。(167ページ)

「わからないことは専門家に任せるもの」という幻想/外注依存の「毒抜き」
▷「わからないことは専門家に任せるもの」という幻想が、いまだはびこっています。/ハイエナのようなコンサルタントなども多くいるのも確かです。(171ページ)/地方のさまざまな業務の問題点は、計画するのも外注、開発するのも外注も、運営も外注、となんでもかんでも外注してしまうことにあります。(173ページ)
▶本来は、地元の人たちで計画を組み立て、事業を立ち上げ、産業を形成して動くのが基本です。(171ページ)/外注ばかりを続けると外注しかできなくなります。(173ページ)/地域の外注主義と、そこに群がるコンサルの構図が生み出す悪循環は、地域から3つの能力を奪います。➀執行能力がなくなり、自分たちで何もできなくなる、②判断能力がなくなる、③経済的自立能力が削がれ、カネの切れ目が縁の切れ目となる。(174~176ページ)/外注依存の「毒抜き」のためには、自前事業を一定割合で残し、外注よりも人材へ投資をする、です。当事者たる地元の人たちの知識や経験を積み上げて、独自の動きをとるのがなんといっても大切です。(176ページ)

「お金があるから事業が成功する」という幻想/事業を起こす際の4原則
▷地域で事業を起こすときに、「先立つものがない」という声が多く聞かれます。つまり「お金があるから事業が成功する」という幻想をもっていて、お金がないからできないというわけです。それは全くもって幻想、勘違いです。(189ページ)
▶(地域における初めての事業では、次の4つのポイントを意識して事業に取り組むことが大切です。)➀負債を伴う設備投資がないこと:借金したり投資家から資金を調達してまで、いきなり大規模な設備投資を伴う事業からスタートするのはリスクが高すぎます。②在庫がないこと:在庫を持つような特産品開発も、はっきり言ってナンセンです。③粗利(あらり、売上総利益)率が高いこと(8割程度):商売には、「最初は安く始め、後から高くしていく」という選択肢はありえません。製造工程から、自分にしかないスキルを提供することで付加価値を高め、粗利率が高い商売にしなければなりません。(190~192ページ)

〇木下は、以上のような「幻想」を打開する「プレイヤー」として、行政の意思決定者、行政の組織集団・自治体職員、民間の意思決定層、民間の集団・企業人、そして「外の人」を設定し、そのアクションについて言及する。その要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約。一部見出しは筆者)。

行政の意思決定者/「役所」ですべきこと、「地域」ですべきこと
アクション1 外注よりも職員育成
有名な外の人に任せればよいという幻想に囚われている限りは、成果が生まれないのです。/幻想に組織が侵されないために、可能な限り、行政は「自前主義」を取り戻し、委託事業などの予算を管理した上で、人材投資に切り替える必要があります。(207ページ)
アクション2 地域に向けても教育投資が必要
何より健全な意思決定を地域全体で民主的に行うためには、最低限の教育レベルが担保されることは不可欠です。行政のみならず、議会などがまともに機能するためには、地元有権者も含めて教育ラインを引き上げていかなければ、地域の問題を自分たちで考えることは困難になってしまいます。自治体こそ国任せにしない、独自の教育投資が求められる時代になっていると思います。(209~210ページ)
アクション3 役所ももらうだけでなく、稼ぐ仕掛けと新たな目的を作る
「役所が稼ぐのはよいことではない」というのも幻想です。/意思決定者たちこそ、経営者として目を覚ます時です。必要な資金を稼ぎ、公共として投資を続けていかなくてはなりません。/稼ぐのはあくまで手段なのです。(210ページ)/自治体の意思決定層こそ、経費のかかるものを購入する「貧乏父さん」の思想から、稼ぐ資産に投資していく「金持ち父さん」の思想に転換する必要があります。(211ページ)

行政の組織集団・自治体職員/「自分の顔を持ち、組織の仕事につなげる」
アクション4 役所の外に出て、自分の顔を持とう
組織内での信頼、行政組織としての制度などに対する知識が備わっていることは基本としつつも、やはりそこから先、何かを具現化する上では地域における様々な方々に協力してもらわなければ、予算があったとしても形になりません。/同時に予算も限られる昨今、自分が言えば協力してくれる地元内外仲間をしっかり持っていないと、大きな動きは作れません。(213~214ページ)/仕事は役所内で完結するという幻想を振り払うため、アクションを起こすことが大切です。//役所内完結幻想を振り払い、まちに出ていきましょう。(216ページ)
アクション5 役所内の「仕事」に外の力を使おう
行政に所属している一人として重要なのは「役所にしかできないこと」を通じた地域への貢献です。/小さな取り組みは大切ですし、個人として顔を持つことも重要ですが、これらはあくまで手段です。それらを役所内の仕事にどれだけつなげていけるか、が大切。(217ページ)

民間の意思決定層/「自分が柵(さく)を断ち切る勇気」と「多様寛容な仕事作り」
アクション6 既存組織で無理ならば、新たな組織を作るべし
集団意思決定は、時に大きな間違いを犯す集団浅慮(しゅうだんせんりょ)に陥ったり、異なる人を排除する側面を強くするものでもあります。(219ページ)/これを打開する方法は、異分子をいかに意識的に取り込むか、にあります。/地域の取り組みにおいても、地元のいつも同じのえらい人だけでなく、外の人を効果的に取り込む仕掛けを作れるかどうかが問われています。(220ページ)
アクション7 地域企業のトップが逃げずに地域の未来を作ろう
人口減少になったらもう地方経済は終わり、というのは幻想です。/地域意思決定者の中には、極端に悲観的な予測と、まちのことは民間ではなく行政の仕事だという幻想に支配されている人がいます。(222ページ)/一方で、地元に積極的に投資を続ける経営者もいます。/地方における基盤の一つは、民間企業の存在です。地域における民間企業経営者だからこそできる地域活性化は、事業を通じた貢献なのです。(223ページ)

民間の集団・企業人/「地元消費と投資、小さな一歩がまちを変える」
アクション8 バイローカルとインベストローカルを徹底しよう
民間側の様々な組織、企業に属する人たちは、実は地元で最も大きな構成員であり、この層がどう動くか、はとても重要なことです。(225ページ)/地域内消費を、近隣の地元資本のお店にいって普通に買い物する(バイローカル)だけでも、地域内に流れるお金は違います。/地域内では地元資本を持つ人たちがお金を出し合い、地元事業に投融資すること(インベストローカル)はとても大切な動きです。(226ページ)
アクション9 一住民が主体的にアクションを起こすと地域は変わる
まちが変化するのは、大きな開発が行われる時だけでなく、小さな拠点が一つできることから始まったりします。(227~228ページ)/消費にしても、投資にしても、自ら始める企画にしても、大きな事業である必要はないのです。小さな取り組みを積み重ねれば、大きな地域の変化につながる。積小為大(せきしょういだい)、小さな一歩をないがしろにしなければ、一人の住民がまちに影響を与えることは大いにあるのです。(228~229ページ)

外の人/地元ではない強みとスキルを生かし、リスクを共有しよう
アクション10 リスクを共有し、地元ではないからこそのポジションを持つ
まず外の人として、(プロジェクトは失敗することもありますので、)地域プロジェクトに対して一定のリスクを共有することです。(230ページ)/その上で、地元ではないからこそのポジション、つまり、時に憎まれ役になるようなことも必要です。(231ページ)
アクション11 場所を問わない手に職をつけよう
地域おこし協力隊のみならず、外の人は一定のプロフェッショナルとしての役割を持つことが大切です。地域に関わる時に何ができるのか。具体的なスキルを持ち、一定の提案ができる動き方ができないと、すでに地域にある仕事をそのまま引き受けるだけになってしまいます。/「手に職」というのは高度な技術だけではなく、地域に関わる「フック」(地域・住民の興味関心を引くもの)です。(232ページ)
アクション12 先駆者のいる地域にまずは関わろう
どんな地域に関わったらいいかについては、地域との相性や地域の受け入れ態勢や準備などから、外の人としては、2つの原則があります。一つはいきなり移住しないこと、もう一つは先行者がいるところをまずは選ぶこと、です。(233ページ)

〇筆者はこれまで、1990年前後から2015年頃にかけて複数の地域で、福祉によるまちづくりの代表的な実践である地域福祉(活動)計画の策定に関わってきた。そのいずれにおいても、基本的には住民の主体形成としての「まちづくりと市民福祉教育」に焦点を当ててきた。それは、まちづくりは一人の住民の意識変革と小さな一歩(行動)から始まる、と考えているからである。また筆者は、計画の策定は、地域・住民が自分たちの「未来(あす)の夢」を語ることである。「夢」は追い求めるものであり、育むものでもある、と言ってきた。その際には、計画(夢)が画餅に帰すことのないよう細心の注意を払ってきた。それは、計画に基づく事業・活動の実現可能性を担保するためである。そしてまた、計画策定後も何らかの形でそれぞれの地域に関わってきた。それは、「関係人口」としての自分自身のあり方を問うものでもある。
〇例えば、東京都狛江市社協の地域福祉活動計画『あいとぴあ推進計画』(1990年3月)に基づいて取り組んだ一般市民を対象にした「あいとぴあカレッジ」の開講や保育園・幼稚園児を対象にした福祉絵本(「幼児のあいとぴあ」)の作成・配布、岐阜県関市社協の地域福祉活動計画『みんなで創る福祉のまちプラン21』(2000年5月)に基づく「地域ふくし懇談会」の開催などは、とりわけ思い出深いものがある。
〇狛江市社協の取り組みでは、計画策定に関わったT氏の怒りに満ちた言葉を思い出す。「私は、タバコ販売でほそぼそと暮らしていて、普段もほとんど外出はしない。こんな会議に参加している暇なんかないんだ」。その後、彼は、カレッジで自分の障害や暮らしについて語り、福祉のまちづくりの必要性を訴える「物言う当事者(市民)」に変貌する。関市社協の取り組みでは計画策定後、16の支部(地区)社協主催の基幹事業(福祉教育事業)となる「ふくし」懇談会で、さまざまな人との出会いがあった。Y氏が、「この地域にはこんなに多くの障がい者がいる。この地域の恥だ。こんな資料を懇談会に出してもらいたくない」と強い口調で不満をぶちまけた。翌年に開催された懇談会には、地元に所在する福祉施設で暮らす知的障害の若者数人が、地元住民として参加した。「自己紹介をお願いします」「‥‥‥」「‥‥‥」。彼らを温かく見守る参加者のなかにY氏もいた。
〇こんな話は枚挙にいとまがないが、地域に住む一人の住民が変わり、一人の住民が仲間と共に地域を変える。「まちづくりと市民福祉教育」の醍醐味がここにある。まちづくり幻想を振り払いまちを変えるのは常に、「百人の合意より一人の覚悟」(235ページ)であり、地域を変えるには「夢」(97ページ)が必要である、という木下の言葉を思い起こしたい。
〇絶対的に地盤沈下しているその今日的状況のなかで、社協は地区社協(小・中学校区の圏域)を基盤に、専門多機関や多職種、そして何よりも一人ひとりの高齢者や障がい者、子どもから大人までの地域住民などが、「まちづくりと市民福祉教育」を通していかに連携し共働・共創するかが問われている。それは、社協の唯一の生き残り策であるとも言える。「地域福祉(社協活動)は福祉教育ではじまり、福祉教育でおわる」という言葉を改めて強く認識したい。

よくある話ですが、うちは閉鎖的だとか、出る杭は打たれるだとか、結局、言い訳なわけです。閉鎖的だろうと、出る杭は打たれるだろうと、やる人はやるわけです。/「自分の保身で怖いからやりたくないんです。絶対に損したくないし」といってくれればよいのですが、なぜか土地のせいにします。そもそもよそ者でなくても、若くなくても、バカなんて言われなくても、やればいいだけなのです。(129ページ)

付記
「関係人口」については、阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」論の体系化に向けて―その本質に迫るいくつかの鍵概念に関する研究メモ― 7 関係人口/地域再生主体としての「新しいよそ者」/2022年10月30日投稿 を参照されたい。

阪野 貢/追補/「差別」再考―「共事者」と「当事者」に関するメモ―

〇本稿は、先の記事――<雑感>(168)「差別」再考―「差別はたいてい悪意のない人がする」「差別は思いやりでは解決しない」のワンポイントメモ―/2023年2月4日投稿 の追補である。
〇『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020年9月)で知られる斎藤幸平の新著に、『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』(KADOKAWA、2022年11月)がある。本書は、2020年4月から2022年3月にわたって毎日新聞に連載された「斎藤幸平の分岐点ニッポン」を書籍化したものである。行き詰まっている資本主義の現場から、23のテーマについて言及する。第3章の「偏見を見直し公正な社会へ」では、声をあげることが難しい「沈黙する(日本)社会」にあって、「外国人労働者」をはじめ「釜ヶ崎の野宿者」「東日本大震災の復興」「水俣病問題」「部落差別」「アイヌ」などに関する実相が抉(えぐ)り出される。
〇斎藤は、本書の「あとがき」で補足的に、マジョリティの特権集団に欠けている他者へのエンパシー(共感)や想像力について触れ、「一から学び直す」必要性を説く。また、誰もが加害者であり被害者でもある「事を共にする」ゆるい関りに根ざした「共事者(きょうじしゃ)」(いわき市在住の地域活動家、小松理虔の言葉)について言及する。
〇ここで、「共事者」とその類義語・関連語である「当事者」に関する斎藤の文章をメモっておくことにする(抜き書き)。

共事者は、一つの問題や正義に固執し、他の問題や自分の加害性に目を瞑(つぶ)るのではなく、さまざまな問題とのインターセクショナリティ(交差性)を見出し、さまざまな違いや矛盾を超えて、社会変革の大きな力として結集するための実践的態度である。/共事者になることは、これまでの「敵/味方」「被害者/加害者」というような単純な二元論的語りのなかで、排除・抑圧されてきた声を聞き取ることができるようになるための一歩である。(217ページ)

当事者とは誰か、本当の当事者探しをして、彼らの意見を絶対視して、尊重すべきことなのか? それは、当事者・非当事者という線引きのもとで分断を生むだけでない。結局、「真の当事者」として誰を優先するかを決定するにあたって、そこにもまた研究者や支援者の権力関係が入り込んでくる。自分にとっての都合のいい「真の当事者」の主張を探して、他の人々を黙らせることが一般化するだろう。それでは「当事者」も利用されているだけだ。それに、自らの正義に固執して、それに合致しないものを糾弾するような運動は、共感も生まない自己満足で終わる。/結果的に、「真の当事者」への語りを限定していくことが、多くの人にとって「自分には語る資格がない」と声どころか、考える能力さえも奪うことになる。その先に待っているのは、無関心と忘却である。それでは社会問題はまったく改善しない。「自分は当事者ではないから発言をするのを控えよう」というのは、一見するとマイノリティに配慮しているようで、単なるマジョリティの思考放棄である。それは、考えなくても済むマジョリティの甘えであり、特権なのだ。そのようなダイバーシティでは、差別もなくならない。(215~216ページ)

〇福祉教育ではしばしば、「当事者」や「当事者性」について議論される。その際の「当事者性」とは、「当事者」またはその問題との心理的・物理的な関係の深まりを示す度合いを意味する言葉である。その点において福祉教育は、その当事者性(すなわち当事者やその問題をどの程度 “ 我が事 ” として捉えるか)を高め深めることを支援することによって、問題意識や問題解決のための具体的な行動を得ようとする実践である、といえる(松岡廣路「福祉教育・ボランティア学習の新機軸―当事者性・エンパワメント―」『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報』 VOL.11、万葉舎、2006年11月、18、19ページ)。付記しておきたい。

大橋謙策/異なる国の文化・生活慣習と多文化理解―キリーロバ・ナージャ著『6ヶ国転校生・ナージャの発見』を読んで―

〇私が、国によって文化や言語が違い、その結果として「ものの見方、考え方」が違うことに関心を持つようになったのは、何歳の頃か定かでない。ただし、笠信太郎の『ものの見方・考え方』を読んで、非常に興味をそそられたことは覚えている。
〇そんなこともあり、私は1960年代に社会福祉方法論としてのケースワークを習ったが、その内容が基底になる文化、言語の違いがあるにも関わらず、アメリカの“直輸入”的で、どうにも馴染めず、学習が進まなかった。
〇当時、“社会福祉と文化”との関係を極める必要があると考え、社会人類学や民俗学、文化論等の書物を読んだが、奥が深く、幅が広くとても自分には研究できないと考え、“文化・民俗学・社会人類学の視点からの社会福祉研究”を断念した思い出がある。しかしながら、その命題は、いつも私の心に、私の思考に引っかかる命題であった。
〇1990年代半ばに「村山談話」がだされ、日本が侵略した韓国、中国への私の贖罪感、こだわりも少し解消され、韓国への調査研究に出掛けられるようになった。その折に、韓国と日本の食文化、食事作法の違いに、改めて驚かされた。1970年代から、アメリカ、ヨーロッパに出掛けていたにも関わらず、その当時は食事マナーに気がとられていたのか、あまり注目していなかったが、韓国への旅行では食文化、食事作法をはじめとして様々な文化の違い、生活習慣の違いがあるにも関わらず、日本は“侵略”し、日本語を強制し、創氏改名まで強制した蛮行になんとも心が痛んだ。この“蛮行”をすべての日本人に理解してもらわないと、真の交流にはならないと思っている。
〇朝日新聞の1月9日の「天声人語」で紹介されていたキリーロバ・ナージャ著『6ヵ国転校生・ナージャの発見』(集英社インターナショナル、2022年7月)を読んだ。学校の給食、テスト、体操での整列の仕方等、国々によってこんなにも違うのかと改めて驚いた。それは、現象、制度が違うだけでなく、そのことを通して何を獲得するのか、なにを学ぶのかまで左右する大きな違いがあることに驚かされた。国の違う学校の試験でも、「正答」を求めない試験もあるという。つまり、社会生活の中で、常に「正答」は一つではないことを考えさせる取組でもある。一つの価値基準が全てという画一的な思考法とは異なる取り組みである。
〇この本を読んで、多文化理解とは、その国の、その民族の生活様式、文化を理解するだけでなく、それらがもたらす思考方法の違いにも目を向けなければ、その理解は皮相的なものになることを教えられた。まさに“ものの見方、考え方”の違いを理解することが多文化理解なのではないかと教えられた。そこでは自分にとって“「ふつう」こそ個性だ”という記述はとても考えさせられる記述であった。
〇以前悩んだ文化、社会人類学あるいは民俗学をきちんと学ばないと“生活に関わるソーシャルワーク”の理解は深まらないのではないかと改めて考えている。研究者生活を50年間もやってきて、いまさらながら、何をしてきたのだろうかという“自虐的自戒”に囚われる。
〇私は2005年に書いた「わが国におけるソーシャルワークの理論化を求めて」(相川書房『ソーシャルワーク研究』Vol31No1、2005年所収)において、中根千枝の社会構造研究において日本をタテ社会と論じた枠組みを援用して、日本の社会福祉、ソーシャルワークの問題について論究した。そこでは、日本には実質的にソーシャルワーク実践、研究が1990年までなかったと主張している。
〇我々は、多文化理解、多様性等について、“分かっている気になっている”が、本当に分かっているのであろうか。『6ヵ国転校生・ナージャの発見』を読んで、改めて福祉教育の奥の深さ、難しさを思い知らされた。この本は、福祉教育関係者、地域福祉関係者の必読文献と言っていい本である。
 
 
付記
キリーロバ・ナージャ/「ふつう」が最大の個性だった!?
「環境が変わると、ガラッと変わるものは?」
答えは、「ふつう」だ。転校するたびに今まで「ふつう」だと思っていたことが、急に通用しなくなる。転校生なら少なからずみんな経験している気がする。
絶対的な「ふつう」がないんだとしたら、自分の「ふつう」ってなんだろう? 今まで考えたことはなかったけれど、誰かの「ふつう」を真似する限り、二番煎じにしかならないし、自分の本当のよさが生きてこない気がした。
子どものころはなかなか気づけないけれど、まわりと違う自分の「ふつう」こそが、「個性」の原料だ。そう気づいてから、今まで嫌いだった自分の「ふつう」がなんだか少しだけかわいく見えた。
そう、みんな「ふつう」でいいし、「ふつう」に対するコンプレックスをもっともっと捨てられるといいなと。
「ふつう」を磨いていくことが、「個性」を磨くことよりずっと早いという発見をしてから、ずっとそう思っている。(114~118ページ抜粋)

阪野 貢/「差別」再考―「差別はたいてい悪意のない人がする」「差別は思いやりでは解決しない」のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、「差別論」に関する本が2冊ある。キム・ジへ著/尹怡景(ユン・イキョン)訳『差別はたいてい悪意のない人がする―見えない排除に気づくための10章―』(大月書店、2021年8月。以下[1])と神谷悠一著『差別は思いやりでは解決しない―ジェンダーやLGBTQから考える―』(集英社新書、2022年8月。以下[2])がそれである。いずれも、ハッとするタイトルである。
〇[1]は、韓国で16万部超のベストセラーとなったキム・ジへ(김지혜、Kim Ji-hye)著『善良な差別主義者』(선량한 차별주의자、2019)の日本語訳版である。筆者の差別や人権についての稚拙な考えや思い・願いに変革を迫る、強烈なメッセージを発する本である。内容的には、事例を交えながら、女性や障がい者、セクシュアル・マイノリティ、移民などに対する差別や人権の諸問題が取り扱われる。
〇「本書が注目されたのは、差別に関する既存の考え方に新たな問いを投げかけたからと考えられる。一般に、差別に対する認識は、差別をする加害者と、それを受ける被害者という構造の中で議論される。本書でも指摘されているように、だれもが差別は悪いことだと思う一方、自分が持つ特権には気づかないので、みずからが加害者となる可能性は考えない傾向が強い。こうした考え方に、本書は『善良な』という表現を用いて、『私も差別に加担している』『私も加害者になりうる』という可能性に気づかせる。つまり、平凡な私たちは知らず知らず差別意識に染まっていて、いつでも意図せずに差別行為を犯しうるという、挑発的なメッセージを著者は投げかけている」(金美珍、[1]229~230ページ)。
〇[1]では「トークニズム」、「特権」、「優越理論」、「間接差別」、「差異の政治」などの理論に基づき、「多様性と普遍性」(「多様性をふくむ普遍性」)や「形式的平等と実質的平等」の観点から、また個人的レベルと構造的レベルの差別などをめぐって論究する。「差別禁止法」についての言及も注目される。それぞれの理論と差別禁止法に関する言説の一部をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

トークニズム―名ばかりの差別是正措置:お茶を濁す―
トークニズムtokenismとは、歴史的に排除された集団の構成員のうち、少数だけを受け入れる、名ばかりの差別是正措置をさす。/トークニズムは、被差別集団の構成員のごくわずかを受け入れるだけで、差別に対する怒りを和らげる効果があることが知られている。それによって、すべての人に機会が開かれているように見え、努力し能力を備えてさえいれば、だれもが成功できるという希望を与えるからである。結局、現実の状況は理想的な平等とは雲泥の差があるにもかかわらず、平等な社会がすでに達成されているかのような錯覚を引き起こす。(25ページ)

特権―「持てる者の余裕」:意識にのぼらない恩恵―
特権とは、一部の人だけが享受するものではない。特権とは、与えられた社会的条件が自分にとって有利であったために得られた、あらゆる恩恵のことをさす。/不平等と差別に関する研究が進むにつれ、学者たちは平凡な人が持つ特権を発見しはじめた。ここで「発見」という言葉を使ったのには理由がある。このように日常的に享受する特権の多くは、意識的に努力して得たものではなく、すでに備えている条件であるため、たいていの人は気づかない。特権というのは、いわば「持てる者の余裕」であり、自分が持てる側だという事実にさえ気づいていない、自然で穏やかな状態である。(30ページ)/自分には何の不便もない構造物や制度が、だれかにとっては障壁(バリア)になる瞬間、私たちは自分が享受する特権を発見する。(31ページ)/ほとんどの人は平等という大原則に共感しており、差別に反対している。(中略)しかし、相対的に特権を持った集団は、差別をあまり認識していないだけでなく、平等を実現するための措置に反対する理由や動機を持つようになる。(38ページ)

優越理論―嘲弄(あざけり、からかうこと):他人の不幸は蜜の味―
プラトンやアリストテレスなど、古代ギリシアの哲学者たちは、人は他人の弱さ、不幸、欠点、不器用さを見ると喜ぶと述べた。笑いは、かれらに対する一種の嘲弄(ちょうろう)の表現だと考えたのだ。このような観点を優越理論superiority theoryという。トマス・ホッブズは、人は他人と比べて自分のほうが優れていると思うとき、プライドが高まり、気分がよくなって笑うようになると説明する。だれかを侮蔑(ぶべつ)するユーモアがおもしろい理由は、その対象より自分が優れているという優越感を感じられるからである。/優越理論によれば、自分の立ち位置によって、同じシーンでもおもしろいときと、そうでないときがある。そのシーンから自分の優越性を感じる際にはおもしろいけれど、逆に自分がけなされたと感じればおもしろくない。(92ページ)/集団間の関係においても、同じような現象があらわれてくる。人は自分を同一視する集団に優越感を持たせる冗談、すなわち自分とは同一視しない集団をこき下ろす冗談を楽しむ。もしも相手の集団に感情移入してしまうと、その冗談はもはやおもしろくなくなる。(中略)相手の集団に対してネガティブな偏見を持っている場合はどうだろうか。決して自分とは同一視せず、むしろ距離を置こうとする集団に対する侮蔑は、みずからの属する集団の優越性を確認できる、楽しい経験になる。(93ページ)

間接差別―一見の平等と実際の差別:同じようで違う―
だれに対しても同じ基準を適用することのほうが公正だと思われるかもしれないが、実際は、結果的に差別になる。司法書士試験で、問題用紙・答案用紙と試験時間をすべての人に同一に設定すれば、視覚障害者には不利になる。製菓・製パンの実技試験において、すべての参加者に同じように手話通訳を提供しない場合、聴覚障害者に不利である。公務員試験の筆記試験で、他の受験生と同様、代筆を許可しない場合、高次脳機能障害の人に不利である。これらは、全員に同一の基準を適用することが、だれかを不利にさせる間接差別indirect discriminationの例である。(117ページ)

差異の政治―多様性を含む普遍性:みんな違う、みんな同じ―
承認とは、たんに人であるという普遍性についての認定ではなく、人が多様性をもつ存在であること、すなわち、差異を受け入れることをふくむ。集団間の違いを無視する「中立」的なアプローチは、一部の集団に対する排除を持続させる。「中立」と見せかけている立場は、実は主流の集団を「正常」と想定し、他の集団を「逸脱」と規定して抑圧する、偏った基準であるからだ。アイリス・マリオン・ヤングが述べる「差異の政治politics of difference」は、このように「中立性」で隠蔽(いんぺい)された排除と抑圧のメカニズムに挑むために「差異」を強調する。(194ページ)/アイリス・ヤングは、抑圧的な意味を持つ「差異」という言葉を再定義する必要があると述べる。「主流集団を普遍的なものとみなし、非主流だけを『異なる』と表現するのではなく、違いを関係的に理解し相対化すること」である。女性が違うように、男性も違うことができ、障害者が違うように、非障害者も違うと見る、相対的な観点だ。したがって、差異とは本質的に固定されたものではなく、文脈によって流動的なものである。車いすに乗っている人が「つねに」異なるわけではなく、運動競技のような特定の文脈では差異があっても、他の脈略では差異がなくなるようなものだ。(196~197ページ)/私たちはみな同じであり、またみな異なる。私たちを本質的に分ける差異はないという点で、私たちは人間としての普遍性を共有するが、世の中に差別が存在するかぎり、差異は実在するため、私たちはその差異について話しあいつづけなければならない。(197ページ)

差別禁止法―平等を実現するための方策:文化の改善か、政治改革か―
私たちが生涯にわたって努力し磨かなければならない内容を、「差別されないための努力」から「差別しないための努力」に変えるのだ。これらすべての変化は、市民の自発的な努力によって、一種の文化的な革命としておこなうこともできる。平等な社会をつくる責任のある市民として生きる方法を、市民運動に学ぶのだ。しかし同時に、平等の価値を共同体の原則として明らかにし、新しい秩序を社会の随所に根づかせるための法律や制度も必要だ。日常における省察とともに、平等を実現するための法律や制度に関する議論が必要なのだ。(202ページ)/差別撤廃という目的には同意するが、国が介入する問題なのかという疑問を抱く人々もいる。かれらは、国が介入するかわりに、自発的な文化の改善を通じて社会の変化をつくりだせると考える。これは、たしかに理想的で望ましく、法の制定とは無関係に、根本的な社会変化のために必要なアプローチではある。しかし、すでに差別が蔓延している社会で、法律で定められた規範ないし実質的な変化を期待することは難しい。(208ページ)

〇以上に加えて、キム・ジヘの言説の理解を深めるために、文章のいくつかを抜き書きする。

●  私をとりまく社会を理解し、自己を省察しながら平等へのプロセスを歩みつづけることは、自分は差別をしていないという偽りの信仰よりも、はるかに貴重だということだけは明らかである。(プロローグ:13ページ)
●  私たちが権利や機会を要求するとき、結果として求めるのは、ただ楽な人生ではない。私たちは、施設に閉じ込められ、他人から与えられたものだけを食べて寝て、何の労働もせず生涯を送る人生を、人間らしい生き方とは思わない。(中略)不平等な立場にいる人が平等な権利と機会を求めるのは、他の人と同じように、リスクを覚悟して冒険し、自分なりの人生を生きていくための権利と機会という意味なのである。(1章:36ページ)
●  立ち位置が変われば、風景も変わる。/風景全体を眺(なが)めるためには、世の中から一歩外に出てみなければならない。(中略)私たちの社会がユートピアに到達したとは思えない。私たちはまだ、差別の存在を否定するのではなく、もっと差別を発見しなければならない時代を生きているのだ。(1章:41ページ)
● 固定観念は、自分の「頭の中にある絵」にすぎない。(中略)固定観念は、自分の価値体系をあらわす、ある種の自己告白になる。(51、52ページ)/固定観念は一種の錯覚だが、その影響力は相当強い。(中略)人々は、自分の固定観念に合致する事実にだけ注目し、そのような事実をより記憶し、結果的に、ますます固定観念を強固にしていくサイクルが作られる。一方で、固定観念に合致しない事実にはあまり注意を払わない。固定観念を覆すような事例を見かけたとしても、なかなか考えを変えようとしない。かわりに、その事例を典型的ではない特異なケースとみなし、例外として取りあつかうのである。(2章:52~53ページ)
●  差別を眺めるとき、性別や人種という軸に加えて国籍、宗教、出身国・地域、社会経済的地位などの軸を加えると、状況はさらに複雑になる。(62~63ページ)(中略)差別の経験をひとつの軸だけで説明することはできない(中略)。/さまざまな理由で幾重にも重なった差別を受ける人、差別を受ける集団の中でさらに差別を受ける人もいる。差別とは、二つの集団を比較する二分法に見えるが、その二分法を複数の次元に重ねて立体的に見てこそ、差別の現実を多少なりと理解することができるのだ。(2章:63ページ)
●  差別は私たちが思うよりも平凡で日常的なものである。固定観念を持つことも、他の集団に敵愾心(てきがいしん)を持つことも、きわめて容易なことだ。だれかを差別しない可能性なんて、実はほとんど存在しない。(2章:65ページ)
● (差別について)考察する時間を設けるようにしないかぎり、私たちは慣れ親しんだ社会秩序にただ無意識的に従い、差別に加担することになるだろう。何ごともそうであるように、平等もまた、ある日突然に実現されるわけではない。(3章:85ページ)
●  「からかってもいい」とされる特定の人々(中略)だけに同じようなこと(揶揄、蔑視)が集中してくりかえされる。私たちは、だれを踏みにじって笑っているのかと、真剣に問いかけるべきなのだ。(96ページ)/だれかを差別し嘲弄するような冗談に笑わないだけでも、「その行動は許されない」というメッセージを送れる。(中略)少なくとも無表情で、消極的な抵抗をしなければならないときがあるのだ。(4章:105~106ページ)
●   私たちはたちは教育を通じて、不公正な能力主義を学んでいるのではないだろうか。そのことによって、何ごとも不合理に区分しようとする、不平等な社会をつくっているのではないか。いまさらながら怖くなる。(5章:124ページ)
●  「差別は(中略)人種や肌の色を理由に、だれかを社会の構成員として受け入れないとするとき、その人が感じる侮蔑感、挫折感、羞恥心の問題である」。すなわち、人間の尊厳に関する問題なのである。(6章:143ページ)
●  民主主義が実現するには、基本的な前提として、社会のすべての構成員が平等な関係をもち、対等な立場で討論できなければならない。(中略)私たちは、同じ空間を共有しながら生きていくための倫理について考えなければならない。そうしてこそ、隠蔽された不平等を前提として平等を享受していた、古代ギリシアのポリスとは違う、真の民主主義をつくることができるだろう。(7章:162ページ)
●  正義とは、真に批判する相手がだれなのかを知ることである。だれが、または何が変わるべきなのかを正確に知る必要があるということだ。世界はまだ十分に正義に満ちあふれているわけではなく、社会の不正義を訴える人々の話は、依然として有効である。(8章:182ページ)
●  平等に向けた運動に参加できるのはだれだろうか。全員の賛同を期待することはできないだろう。歴史上、何の抵抗もなく達成された平等はなかったからだ。しかし同度に、一部の人々は、自分の立場や地位に関係なく、正義の側に立ち、マイノリティと連帯した。結局は、私たちだれもがマイノリティであり、「私たちはつながるほどに強くなる」という精神が世の中を変化させてきた。あなたがいる場所で、あなたはどんな選択をしたいだろうか。(9章:202~203ページ)
●   だれもが平等を望んでいるが、善良な心だけでは平等を実現することはできない。不平等な世界で「悪意なき差別主義者」にならないためには、慣れ親しんだ秩序の向こうの世界を想像しなければならない。そういう意味で、差別禁止法の制定は、私たちがどのような社会をつくりたいかを示す象徴であり宣言なのだ。(10章:219ページ)
●   閉鎖されたひとつの集団としての「私たち」ではなく、数多くの「私たち」たちが交差して出会う、連帯の関係としての「私たち」も可能ではないだろうか。だれかに近づき、「線を踏んだでしょう」「出て行け!」と叫ぶのではなく、みんなを歓迎し、一緒に生きる、開かれた共同体としての「私たち」をつくりたい。(エピローグ:224ページ)

〇[2]は、「差別」を「心の問題」として捉え、善意の「思いやり」や「優しさ」で解決しようとする「思いやり」万能主義からの脱却を説く。そして、権利保障と差別を解消・禁止するための法制度の整備や施策の推進の必要性と重要性について論究する。そこで取りあげる差別は、主に女性差別と性的少数者差別である。
〇神谷はこういう。「思いやり」はあくまでも、個人の資質や感情に基づくものである。その「思いやり」に基づかなくても人は守られる、というのが「人権」の考え方である。差別のひとつに「アンコンシャスバイアス」(無意識の偏見)があり、「思いやり」と同じ匂いがするフレーズに、現状の取り組みを是認する(新規性がない)意味の「周知を徹底する」や、他人事の象徴としての「何も気にしない」といったものがある。セクシュアルハラスメントに関して、「防止」法制(規定)はあるが「禁止」法制(規定)はない。また、男女の雇用機会の均等に関しても差別は禁止されているが、罰則の規定はない。ともに実効性が低く、「思いやり」に留まっているのが日本の現状である。
〇そこで神谷にあっては、制度や法律を整備することによって、一定の水準で権利を担保することが重要である。差別の防止・解消や禁止についての「啓発」の制度化や、差別禁止の法制度の導入が必要であり、「これが一番の近道」(93ページ)となる。
〇[2]における神谷の主張は要するに、「差別は権利の問題であり、思いやりは人権尊重の理念を持たない」、「差別は思いやりではなく、制度で解決すべきである」というものである。その言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換)。

●  人権問題、特に「ジェンダー」や「LGBTQ」の問題を考えたり語ったりする際に、突然「思いやり」が幅を利かせ始め、万能の力を持つかのように信奉されてしまう。(中略)何をするにしても「思いやり」が靄(もや)のように現れ、実際には何も進んでいないにもかかわらず、何かを「やった感」「やっている感」だけが残るというのが長年の日本の状況(である)。(4~5ページ)


●  「思いやり」は、個々人の「気に入る」「気に入らない」といった恣意性に左右されやすいものであり、不具合が起きてしまうものである。思いやりも人それぞれ、ということになると、そこで保障されることも人それぞれであろう。そんな普遍性のないものを「人権」と呼べるだろうか。(49ページ)
●  ジェンダー規範からの逸脱は、排除を引き起こし、差別やハラスメント、仲間外れや無視といった事象が、逸脱したマイノリティ(女性、性的マイノリティはもちろん、これらの人たちに限らない)自ら、自分を制約する方向に力を加える。それが差別に対する異議申し立てを封印し、「男らしさ」を優遇する。だから、性的マイノリティに対する個別の差別や暴力根絶とともに、大元の性差別撤廃(女性差別を含むが、より広い意味で)にも力を入れるべきだ、ということである。(112ページ)
●  思いやり「だけ」では、多岐にわたる複雑な問題を解決することはできない。仮に思いやる心があったとして、それを持続的に、習慣的に、社会的な背景や構造にアプローチできる何らかの方法で実行しない限り、社会はもとより、身の回りを変えることも難しいが実情である。/関心のない人も含めて、より多くの人がジェンダーの領域に一定程度の水準まで取り組みを進めるためには、オーダーメイド的な(職人的なと言ってもいいかもしれません)取り組みだけではなく、ある種の「量産型」的な、誰にでも取り組め、扱うことのできる手法(研修・講習による定期的な周知・啓発:筆者)も、同時に求められている。(133~134ページ)
●  「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」(略称「人権教育・啓発推進法」。2000年12 月 公布・施行)は、人権一般を扱うほとんど唯一の法律であるが、教育・啓発を実施するための行政の体制整備以外のことは規定がなく、実際の権利の保障には至っていないという致命的な課題がある。(52ページ)/この法制度に基づく取り組みは、「心がけとか思いやりとか、私人間の関係性のレベルにとどまっている」という指摘もある。(50ページ)
●  イギリスでは、「性別」や「障がい」など各分野の差別禁止法を統合したものを、通称「平等法」と呼び、両者はほぼ同じ内容として見られているようである。イギリスの場合、各分野の差別禁止法を統合した「平等法」のほうが、差別禁止法よりも積極的に平等を目指すために「公的機関の平等義務」などを規定しているとの指摘もある。(187ページ)

〇以上の言説を「福祉教育」に引き寄せて一言する(問う)。福祉教育(実践と研究)はこれまで、ジェンダーやLGBTQの問題について見て見ぬ振りを決め込んできたのではないか。また、福祉教育(実践と研究)はどれほどに、外国籍の子どもだけでなく外国人労働者や移民などの人権や差別について体系的に言及してきたか。厳しい差別や排除の現場に立ってその実態から気づき・学びを深める教育(体験学習)に積極的に取り組んできたか。差別の背景や構成要素(直接差別、間接差別、合理的配慮の否定など)について加害者と被害者を構造化して考えてきたか。不公正な能力主義や不合理な選別主義に対峙する批判的な福祉・教育理論の構築や実践に関心を払ってきたか。社会通念の変革とともに、差別を禁止・根絶するための政策の立案や関係法律・制度の改善・整備について思考し行動(運動)を起こしてきたか。そして何よりも、「思いやり」はこれらについての「思考停止」を促してきたのではないか。自責の念に駆られる。

老爺心お節介情報/第40号(2023年2月3日)

「老爺心お節介情報」第40号

皆さんお変わりありませんか。
「老爺心お節介情報」第40号を送ります。
今号はやや私的な事情の述懐が含まれていますがお許し下さい。

2023年2月3日   大橋 謙策

 立 春 > 
< メジロ来て梅を励ます小坪かな >

〇この句は、季語が実質的に2つあり、俳句の関係者には受け入れられない句かも知れないが、私が好きな句の一つである。
〇毎年、我が家の小坪に、メジロが来て、庭の梅の木にとまり、蕾をくちばしで突いている情景を謳ったものである。私の書斎から見えるメジロの愛くるしい姿はまさに“絵になる”情景で何とも心が洗われる思いがする。春の到来を予感させる情景である。
〇私の大学教員50周年を記念した『地域福祉とは何か』に、この句を入れたのも、俳句の出来悪しはしょうがないとして、私の心にぴったりする句で気に入っている。

Ⅰ 異なる国の文化・生活慣習と多文化理解――『6ヶ国転校生・ナージャの発見』

〇私が、国によって文化や言語が違い、その結果として「ものの見方、考え方」が違うことに関心を持つようになったのは、何歳の頃か定かでない。ただし、笠信太郎の『ものの見方・考え方』を読んで、非常に興味をそそられたことは覚えている。
〇そんなこともあり、以前の「老爺心お節介情報」にも書いたが、私は1960年代に社会福祉方法論としてのケースワークを習ったが、その内容が基底になる文化、言語の違いがあるにも関わらず、アメリカの“直輸入”的で、どうにも馴染めず、学習が進まなかった。
〇当時、“社会福祉と文化”との関係を極める必要があると考え、社会人類学や民俗学、文化論等の書物を読んだが、奥が深く、幅が広くとても自分には研究できないと考え、“文化・民俗学・社会人類学の視点からの社会福祉研究”を断念した思い出がある。しかしながら、その命題は、いつも私の心に、私の思考に引っかかる命題であった。
〇1990年代半ばに「村山談話」がだされ、日本が侵略した韓国、中国への私の贖罪感、こだわりも少し解消され、韓国への調査研究に出掛けられるようになった。その折に、韓国と日本の食文化、食事作法の違いに、改めて驚かされた。1970年代から、アメリカ、ヨーロッパに出掛けていたにも関わらず、その当時は食事マナーに気がとられていたのか、あまり注目していなかったが、韓国への旅行では食文化、食事作法をはじめとして様々な文化の違い、生活習慣の違いがあるにも関わらず、日本は“侵略”し、日本語を強制し、創氏改名まで強制した蛮行になんとも心が痛んだ。この“蛮行”をすべての日本人に理解してもらわないと、真の交流にはならないと思っている。
〇朝日新聞の1月9日の「天声人語」で紹介されていた『6ヵ国転校生・ナージャの発見』(集英社、2022年)を読んだ。学校の給食、テスト、体操での整列の仕方等、国々によってこんなにも違うのかと改めて驚いた。それは、現象、制度が違うだけでなく、そのことを通して何を獲得するのか、なにを学ぶのかまで左右する大きな違いがあることに驚かされた。国の違う学校の試験でも、「正答」を求めない試験もあるという。つまり、社会生活の中で、常に「正答」は一つではないことを考えさせる取組でもある。一つの価値基準が全てという画一的な思考法とは異なる取り組みである。
〇この本を読んで、多文化理解とは、その国の、その民族の生活様式、文化を理解するだけでなく、それらがもたらす思考方法の違いにも目を向けなければ、その理解は皮相的なものになることを教えられた。まさに“ものの見方、考え方”の違いを理解することが多文化理解なのではないかと教えられた。そこでは自分にとって“「ふつう」こそ個性だ”という記述はとても考えさせられる記述であった。、
〇以前悩んだ文化、社会人類学あるいは民俗学をきちんと学ばないと“生活に関わるソーシャルワーク”の理解は深まらないのではないかと改めて考えている。研究者生活を50年間もやってきて、いまさらながら、何をしてきたのだろうかという“自虐的自戒”に囚われる。
〇私は2005年に書いた「わが国におけるソーシャルワークの理論化を求めて」(相川書房『ソーシャルワーク研究』Vol31No1、2005年所収)において、中根千枝の社会構造研究において、日本をタテ社会と論じた枠組みを援用して、日本の社会福祉、ソーシャルワークの問題について論究した。そこでは、日本には実質的にソーシャルワーク実践、研究が1990年までなかったと主張している。
〇我々は、多文化理解、多様性等について、“分かっている気になっている”が、本当に分かっているのであろうか。『6ヵ国転校生・ナージャの発見』を読んで、改めて福祉教育の奥の深さ、難しさを思い知らされた。
〇この『6ヵ国転校生・ナージャの発見』は、福祉教育関係者、地域福祉関係者の必読文献と言っていい本である。

Ⅱ 健康診断とがん告知――“説明同意書”へのサインと3人の身元保証人の必要性?

〇現在、がんは国民の2人に1人がり患する病気であり、生存率も格段に良くなり、完治する病気にもなってきている。しかしながら、生活習慣病とは異なり、体のどこの部位に発症するのかも予測できないし、がん予防の対策も今一つはっきりしない。
〇私は、1987年3月の島根県邑南郡瑞穂町(現邑南町)への出張中、咳が酷く、風邪だろうと思い帰宅後の3月13日(金)に稲城市民病院珉を受診した。診療に当たった医師は、私の胸部レントゲン写真の他に3葉のレントゲン写真を並べ、私に私のレントゲン写真が示された3葉のレントゲン写真のどれと似ているかを質問した。3葉のレントゲン写真は肺がんのもの、肺結核のもの、肺炎のものの3葉であった。私は、自分の肺の写真の中に白い、丸い画像があったので、同じような写真を同じだと挙げた。医師は、その写真は肺がん患者の写真だと説明し、あなたは“肺がんである”と宣告し、慶應大学病院か国立がんセンターに行って、詳しい検査を受けるようにと言って、肺がんの診断書と共に紹介状をくれた。
〇風邪と思って受診した私に取って、肺がんの宣告は“晴天の霹靂”で、当時日本社会事業大学の移転業務を担っていた関係もあり、その足で、大学へ行き、相談して国立がんセンターへ検査入院することになった。
〇国立ガンセンターでの検査でも主治医は98%、肺がんだと思うが、国立ガンセンターは病理検査の結果がでないと確定診断はしないということで、セカンドオピニオンを求められ、肺結核専門の複十字病院と北里病院を紹介された。2つの病院とも肺がんの診断であった。
〇国立がんセンターの治療方針は,肺生検を行い、病理検査で確定させてから手術を行うという。病巣が右肺の上葉にあるが、内視鏡を使えないので、肺生検で病理検査を行うという。手術は右肺の肋骨3本を切除し、右肺上葉を切除するというものであった。
〇肺生検は肺の部分の局部麻酔なので、私自身の意識はあり、検査の際にモニターのブラウン管に映し出される自分の肺に針が刺され、血が滲んでいくのが見える。咳が続く中での肺生検は辛いものであった。2回行われた肺生検では病巣から組織をとることができなかった。にも拘わらず、4月17日に手術を行うということになり、術後の呼吸法の訓練が始まった。この呼吸法の訓練は辛く、いつも涙を流していた。
〇4月17日の前日、最後の検査としてレントゲンでの確認がおこなわれた。この時、レントゲンに映っていた肺の丸い、がんと思われる病巣の画像が少し変形したことに医師が気が付いてくれ、少し様子をみるということで、17日の手術は延期になった。その後、咳も止まり、退院したが、再度12月に同じような病巣の画像があらわれ、医師は手術をさせてほしいといったが、私は拒否した。その後のレントゲンではその病巣の画像は出ず、今日に至っている。
〇当時、がんは不治の病であり、生存率も低く、私はがん告知を扱った井上靖の本を始め、多くのガンについての本を読み、どう死に対応するのか、残す子どもたちの将来はどうなるのか、煩悶する日々であった。
〇他方、この“肺がん騒ぎ”の時は、丁度1987年に成立した「社会福祉士及び介護福祉士法」の国会審議の最中で、私は日本社会事業学校連盟(現日本ソーシャルワーク学校連盟)の事務局長を仰せつかっていたこともあり、築地の国立がんセンターから永田町の自民党の本部などに駆け付け、請願活動をしたことも懐かしい思い出である。
〇このような経験もあり、私は健康診断や人間ドックにやや懐疑的になっていく。日本社会事業大学の専任教員の際は、法定の健康診断が求めれるが、私学共済事業団の人間ドックは受診しないようになっていく。“肺がん騒ぎ”の頃は、未だ子どもが小さいこともあり、人間ドックを利用していたが、子どもが成長してからは人間ドックを利用しなくなった。そんな折に読んだ近藤誠医師(昨年2022年に急逝、医学界の常識を覆すような論説をいくつもの本で提起)の影響もあったかもしれない。
〇日本社会事業大学退任後は、法定の健康診断も受けず、かつ自治体から送られてくる高齢者の健康診断も受けず、かかりつけ医で6か月に1回受ける血液検査で、自分自身の体調の変化を確認することにした。ヘモグロビン(Hb)A1c、γ―GTP、血糖値、コレステロール、クレアチニン等の検査項目をチェックしている。
〇2022年3月の定期血液検査の際、S先生の強い奨めもあり、20年ぶり位に前立腺がんの腫瘍マーカーであるPSAの検査項目を入れておこなった。その結果、普段の血液検査では、検査結果票を渡してくれるだけなのに、その時はかかりつけ医が診察室に私を呼び、PSAの数値が15.4なので、前立腺がんが疑われる(正常値はPSA数値が4以下)ので、紹介状を書くのですぐに受診してほしいとのことであった。稲城市立病院と日本医科大学多摩永山病院が提示され、どちらにするかという選択をせまるので、日本医科大学多摩永山病院をお願いし、紹介状を書いてもらった。
〇多摩永山病院では、ⅯRI検査、CTスキャナー、骨シンチ等の検査を行い、前立腺以外への転移がないことが確認された。前立腺への生検が1泊2日の入院でおこなわれ、グリソンスコアが8,がんのステージ(臨床病期)はT2aで、ステージ2と診断された。
〇これに基づき、医師は選択肢が4つあると提示。第1は、このまま治療せず、放置しても余命が10年間はあるので治療しない。第2は手術ロボット・ダビンチによる全摘手術、第3はホルモン療法と放射線治療を行う。この場合には、がんは完治できないかもしれない。第4は重粒子線治療とホルモン療法を行う。ただし、東京都内には重粒子線治療ができる病院がないので、神奈川県立がんセンター(自宅から小田急線、相鉄線を乗り継いで、二俣川駅で下車、片道約2時間かかる)に行かなければならない。重粒子線とは放射線よりも重い粒子で、炭素イオンを高速で回転させ、がん細胞に照射するという。この重粒子線治療ならばがん細胞を完治できるという。夫婦で呼び出されていたので、相談して、その選択は第4の重粒子線治療にすることを決めた。
〇この一連の過程で、常に医師、看護師に問われたのは本人の意思確認であり、そのための丁寧な説明であった。インフォームドコンセントが徹底しており、そのために、必ず、“了承した旨の同意書”へのサインが求められた。またセカンドオピニオンも奨められ、その際には検査結果は提供するという姿勢であった。35年前とは雲泥の差で、医療界が大きく患者目線に変わってきていることを実感した。
〇他方、これだけの丁寧な説明をし、同意書にサインをさせておきながら、本人を信頼しないのか、時には配偶者もしくはそれに代わる人の臨席を求められることには違和感を感じた。私の子どもは勤務しているわけだし、同居ではないので、配偶者だけの身元保証人でいいのではないかといっても、身元保証人は3人必要だといって譲らない。
〇今後、一人暮らし高齢者や一人暮らし障害者等その意思確認や説明を理解できない人への対応の在り方が医療界でも社会福祉界でも大きな問題になると思われた。
〇単身高齢者が増え、身元保証人(それも3人も必要?)もいない人が増えてきている状況、一人暮らしの障害者も増加してきている状況の中で、医師、看護師からの説明を理解し、同意書にサインを求められても対応できない人が多くなることがこれからは考えられる。これは、社会福祉界において重要な、かつ喫緊の課題であると、改めて自分自身の体験から痛感した。
〇このように、配偶者、身元保証人の臨席を求めるものだから、病院内は付き添いの人も含めて大混雑であった。
〇神奈川県立がんセンターは、築50年以上の日本医科大学多摩永山病院とは異なり、近代的な建物であり、空間も広く、かつ診察システムもICTを活用した近代化された病院であった。
〇神奈川がんセンターでも日本医科大学多摩永山病院と同じような診断が下され、グリソンスコアが8、がんのステージはT2aかつ2ということであった。ホルモン療法は2年間、重粒子線治療はホルモン治療開始後6か月以降に行うという治療方針が示された。
〇ホルモン治療の効果をチェックする3か月ごとの検査では、PSAの数値が10月3日には0・217になり、1月10日は0・04迄下がっている。この数値なら、重粒子治療は必要ないのではないかと尋ねると、ホルモン治療の結果、数値が下がっているが、ホルモン治療だけではいずれ効果がなくなり、また数値が上がるので、重粒子線治療が必要との回答であった。
〇重粒子線治療がいよいよ2月末から始まる。重粒子線治療が始まるとお酒が飲めないという。それだけならまだしも、治療終了後3か月間もお酒は飲めないという。6月20日まで禁酒である。
〇前立腺がんと診断されて以降も、何の自覚症状もなく、毎日お酒を楽しんできたものにとって、3か月半の禁酒は“人生最大の危機”である。
〇3回行った「四国歩きお遍路」でも、第2回目を禁酒しただけである。その時は約40日間お酒を飲まず、結願したあと、徳島での打ち上げ式にお酒を飲んだら、まずくて早々に引き上げた記憶があるが、今度は100日間の禁酒である。どのような体質になるのか、今から楽しみである。
〇1月30日の再診で、重粒子治療に向けた準備が始まった。整腸剤を始め、4種類の服薬が毎食後必要になったが、外出している時にはついつい服薬を忘れてします。4種類の薬をコミュニティ袋に分けて持ち歩いていても、昼食等外食する際にはついつい忘れてしまう。頭では分かっていたつもりでも、いざ自分がその身になってみると、一つ一つが新たな体験で、社会福祉分野での話し方、考え方をもっと実情に合わせて考えなければならないことの反省と実感の日々である。
〇現時点では、何の自覚症状もなく、自分が前立腺がんに罹患していることが全く自覚できない、不思議な状況である。治療しなくても10年間の余命というなら、その選択肢もあったのかなという思いと、他方これからどんな体験ができるのかという楽しみと不思議な感情がなり混ざった心境のこの頃である。

(2023年2月3日記)

阪野文庫

――阪野文庫――

 

【図書目録】
「福祉教育」「地域福祉」「社会福祉」等に関する 3,163冊 の図書(雑誌を含む)が所蔵されています。
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「福祉教育」に関する 113巻(冊)、834点 の第一次資料(コピーを含む)が所蔵されています(個別「点」数の表示が困難な資料は、1巻(冊)を1点としています。例えば、(3)日本福祉教育・ボランティア学習学会に関する資料/全11巻(冊)は11点となります)。
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(1)福祉教育に関する資料(論文・報告書等)〔第1巻~第26巻〕
※全26巻376点の「資料目録」があります。
(2)福祉教育副読本・指導資料・手引書等に関する資料〔第1巻~第22巻〕
※全22巻262点の「資料目録」があります。
(3)日本福祉教育・ボランティア学習学会に関する資料〔第1巻~第11巻〕
※全11巻のなかに、1995年2月~2012年11月までの、学会創設の準備活動等を含めた諸資料が収録されています。
(4)全社協・「福祉教育セミナー」に関する資料〔第1巻~第8巻〕
※全8巻のなかに、1983年3月23日~25日に開催された「(第1回)福祉教育セミナー」から、2004年2月17日~18日に開催された「平成15年度全国福祉教育セミナー」までの、各年度の福祉教育セミナーに関する諸資料が収録されています。
(5)日本社会福祉教育学校連盟に関する資料〔第1巻~第7巻〕
(6)日本青年奉仕協会に関する資料〔第1巻~第4巻〕
※全4巻81点の「資料目録」があります。
(7)神奈川県における福祉教育に関する資料〔第1巻~第3巻〕
※全3巻21点の「資料目録」があります。
(8)全社協・福祉教育研究委員会(第2次大橋委員会)に関する資料〔第1巻~第3巻〕
※全3巻のなかに、第1回(1982年9月29日)から第4回(1985年1月21日)までの委員会資料と、委員会が中心になって行った「福祉教育セミナー」「東・西日本福祉教育研究協議会」の開催や『福祉教育ハンドブック』の編集等に関する諸資料が収録されています。
(9)徳島県子供民生委員制度に関する資料〔第1巻~第3巻〕
(10)静岡県における福祉教育に関する資料〔第1巻~第3巻〕
※全3巻32点の「資料目録」があります。
(11)狛江市社協・「あいとぴあカレッジ」に関する資料〔第1巻~第2巻〕
(12)狛江市社協・「ふくしえほん あいとぴあ」に関する資料〔第1巻〕
(13)栃木県社会福祉教育センターに関する資料〔第1巻~第2巻〕
(14)機関誌『福祉教育』(木原孝久)〔第1巻〕
(15)機関誌『わかるふくし』(木原孝久)〔第1巻~第2巻〕
(16)機関誌『元気予報』(木原孝久)〔第1巻~第2巻〕
(17)福祉新聞『シリーズ 福祉教育の新展開』に関する資料〔第1巻〕
(18)長沼豊『ボランティア学習』に関する資料(論文)〔第1巻〕
※8点の「資料目録」があります。
(19)全国ボランティア学習指導者連絡協議会に関する資料〔第1巻〕
(20)鳥取県八頭郡の中学校における福祉教育に関する資料〔第1巻〕
(21)初期社会科教育実践に関する資料/大阪市民生事業に関する資料(論文・報告書等)  〔第1巻〕
(22)高岡市ジュニア福祉活動員制度に関する資料/松原市子供民生委員制度に関する資料〔第1巻〕
(23)全国福祉高等学校長・総会、研究協議会等に関する資料(平成5年度~)〔第1巻〕
(24)教科「福祉」と高等学校「福祉関連学科」基礎資料(平成17年度版~)〔第1巻〕
(25)全国高等学校長会家庭部会福祉科校長会・全国福祉科高等学校及び福祉教育実態基礎調査集計報告〔第1巻〕
(26)第19回日本福祉大学社会福祉公開夏季大學・「高等学校福祉科の教育」に関する資料  〔第1巻〕
(27)静岡県民生部『社会連帯の育成をめざして』/静岡県労働部『心情豊かな人づくりのために』〔第1巻〕
(28)東京都社会福祉協議会『社会福祉の理解を高めるために』/東京都社会福祉審議会『東京都における社会福祉専門職制度のあり方に関する中間答申及び最終答申』/国際社会福祉協議会日本国委員会『今日の社会福祉教育』〔第1巻〕
(29)中央社会事業協会・社会事業研究生インタビュー等に関する資料〔第1巻〕

新美一志/追記/書く:「論文の書き方」について―あなたへ―

〇本稿は、先の記事――<雑感>(165)新美一志/書く―あなたへ―/2022年12月12日投稿 の追記です。内容的には、「論文の書き方」についての基礎と基本(土台と中心、知識と認識)のあれこれを改めて考えようとするものです。叙述の形式(フォーム)については、他の記事との整合性を考慮して、阪野貢氏のそれに依ることにしました。

(1)清水幾太郎『論文の書き方』岩波新書、1959年3月(改版:2015年2月)
〇本書は、自身の経験に触れながら、「文章構成の基本的ルール」をエッセイ風に纏めたものである。それは、「Ⅰ 短文から始めよう」から始まり「Ⅱ 誰かの真似をしよう」がそれに続くが、いわゆる「ハウツーもの」ではない。文章を書く行為は人間にとって気高い精神の営みであることが詳述される。岩波新書のロングセラーであり、「古典的名著」と言われる所以でもある。
〇清水にあっては、文章・論文を書くというのは、「或る問題に答えることであり、或る問題を解くことである」(19ページ)、「観念や思いつきを大切にしなければいけない」(21ページ)、「言葉を使い、論理(ロゴス)を重んずるといことである」(108ページ)、「経験と抽象との間の往復交通を必要とする」(181ページ)、「思想に秩序を与えることである」(157ページ)、「思想を作ることであり、人間を作ることである」(229ページ)。
〇本書のうちから、留意したい言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

書くことを通して本当を理解することができる
読むという働きより一段高い、書くという辛い働きを通して、読むという働きは漸(ようや)く完了するのである。即ち、書物を読むのは、これを理解するためであるけれども、これを本当に理解するのには、それを自分で書かねばならない。自分で書いて初めて書物は身につく。/読む人間から書く人間へ変るというのは、言ってみれば、受動性から能動性へ人間が身を翻(ひるがえ)すことである。書こうと身構えた時、精神の緊張は急に大きくなる。この大きな緊張の中で、人間は書物に記されている対象の奥へ深く突き進むことが出来る。しかも、同時に、自分の精神の奥へ深く入って行くことが出来る。対象と精神とがそれぞれの深いところで触れ合う。書くことを通して、私たちは本当に読むことが出来る。表現があって初めて本当の理解がある。(8~9ページ)

「が」に頼っていては文章は書けない
「‥‥‥が、‥‥‥」。相当に長い句が「が」という接続助詞で結びつけられている文章がある。(56ページ)/「が」の重要な用途を挙げてみると、第一に、「しかし」「けれども」「にも拘わらず」の意味があり、前の句と後の句との反対関係が「が」で示される。第二に、「それゆえ」「それから」の意味で用いられ、前の句と後の句との因果関係が「が」で示される。第三に、「そして」という程度の使い方があり、前の句と後の句との単なる並列乃至(ないし)無関係が「が」で示される。(57ページ、要約)/「が」は極めて便利な接続助詞なのであって、これを頻繁に使えば、誰でもあまり苦労せずに文章が書ける。(中略)眼の前の様子も自分の気持も、これを、分析したり、また、分析された諸要素間に具体的関係を設定したりせずに、ただ眼に入るもの、心に浮かぶものを便利な「が」で繋いで行けば、それなりに滑かな表現が生まれるもので、無規定的直接性の本質であるチグハグも曖昧も表面に出ずに、いかにも筋道の通っているような文章が書けるものである。(中略)それだけに、「が」の誘惑は常に私たちから離れないのである。(60~61ページ)/本当に文章を書くというのは、無規定的直接性(眼前や心中に現れているものをそのまま表現すること:阪野)を克服すること、モヤモヤの原始状態を抜け出ることである。(60ページ)

文章とは認識であり行為である。文章には個人性と社会性がある
文章とは、認識である。行為である。(60ページ)/(文章はそれを理解し認識することによって初めて意味をなすが:阪野)どうにでも受取れるような曖昧な表現は避けねばならない。主語がハッキリしていること、肯定か否定かがハッキリしていることが大切である。(81ページ)/(それは)書く本人が責任を負うということである。(46ページ)/言うまでもなく、文章を書くというのは自分を主張する行為である。与えられた現実を、自分というものを通して再構成する働きにほかならぬ。自分の、自分だけの行為である。文章には強く個人性の側面があると言わねばならない。しかし、その半面、特定の個人に宛てた手紙とは違って、文章は広く不定限の人々によって読まれるものである。それは社会生活の中へ出て行かねばならぬ。文章は社会生活の中で活動し、そこで評価を受けなければならない。(144ページ)

文章は自由であるが常に孤独である
話し言葉は協力者(話し相手)の群に囲まれていると同時に、紐つきである。これと反対に、書き言葉即ち文章は、孤軍奮闘、何処にも味方がいないと同時に、非常に自由である。しかし、自由は何も楽しいものとは限っていない。/文章においては、言葉は常に孤独である。それは全く言葉だけの世界であって、何処を眺めても、協力者はいない。会話において多くの協力者がやってくれた仕事を、一つ残らず、言葉が独力でやらなければならない。文章を勉強するには、何は措いても、このことを徹底的に頭に入れておく必要があると思う。この点で、書き言葉は話し言葉と全く条件が違うのである。文章を書く場合、具体的な人間が相手になっているのではないし、まして、相槌など打ってはくれない。具体的状況を相手と共有することもないから、これを当てにするという便宜も欠けている。言うまでもないことだが、表情や身ぶりも手伝ってはくれない。しかも、そういう協力者がいないというだけでなく、会話で協力者が果してくれた役割の一つ一つを、文字を使って自分で果して行かねばならないのである。(75~76ページ)

論文には説得力の広さと強さが求められる
論文は、誰にでも読んで貰える、誰にでも通用する、広い且つ強い説得力を持つべきものである。相手がいても、その相手に甘えたら、立派な論文は書けない。そういう広さや強さを身につけておいて、その上で特定の相手を考えるのが順序である。読む人の中には、さまざまの考え方の人がいるであろうが、文章は、考え方の相違を突破して行くだけの力を持たねばならない。しかし、力はただ烈しい形容詞などを用いても生れはしない。むしろ、大切なのは、静かな、しかし、誰でも認めずにいられぬような証明であろう。(77~78ページ)/文章を真面目に勉強している人なら、相手の著書や論文を本気で研究することから始めなければいけない。相手が言おうとしていることを、相手に代ってキチンと言えるくらいでなければいけない。(中略)著者の身代りになって表現出来るほどにマスターした書物や論文であってこそ、本当の批判を加えることが出来るのである。(中略)文章の修行は、ただ文章の修行ではなくなる。技術の勉強ではなく、内容の勉強に発展する。(中略)それから、もう一つ、批判の文章では、著者は確かに相手であるけれども、手紙でない限り、著者だけが読むのではない。著者以外の読者という相手がいること、そこから要求される説得力の広さと強さ、これを忘れてはならない。(78~79ページ)

日本語を客体として意識しなければならない
私たちは日本語に慣れ、日本語というものを意識していない。これは当り前のことである。しかし、その日本語で文章を書くという時は、この日本語への慣れを捨てなければいけない。日本語というものが意識されないのでは駄目である。話したり、聞いたりしている間はそれでよいが、文章を書くという段になると、日本語をハッキリ客体として意識しなければいけない。自分と日本語との融合関係を脱出して、日本語を自分の外の客体として意識せねば、これを道具として文章を書くことは出来ない。文章を書くというには、日本語を外国語として取扱わなければいけない。(87ページ)

文章を書くに当たって学説と現実的な問題に気を配る必要がある
当の問題について、既にいろいろな学説があるものである。主要な学説は、それを採用するか否かに関係なく、これを知っていなければいけないし、学説の間には相互に批判があるにきまっているから、それぞれの要点も知っていなければいけない。こういう方面で非常識であってはならない。仮に既存の学説をすべて拒否するにしても、その大体を知った上での拒否でなければならない。/社会には必ずアクチュアル(現実的)な問題がある。どういう時代にも、人々の関心を集めているアクチュアルな問題があって、それをめぐっていろいろの勢力や意見が戦い合っているものである。こういう状況はよく掴(つか)んでおいた方がよい。それは、世間の注目を集めている問題についてのみ発言せねばならぬという意味ではない。自分の文章がどんなにアクチュアルでなくても、結局はそこで読まれ、そこで或る役割を果すのであるから、こういう状況の構造は知っておく必要があるという意味である。(145ページ)

文章には攻める面と守る面とがある
文章には、攻める面と守る面とがある。文章を書く時、私たちは攻撃と守備という二つの活動をするのである。言うまでもなく、攻撃というのは、自分の意見や発見を主張する側面である。これは自分だけが社会に向かって行うものであり、自分だけが行うものであればこそ、文章を書くという張り合いがある。(中略)これに対して、守備というのは、自分の意見や発見が、学説の上と現実の上とで、社会的に孤立しないように、そこにしっかりと足場を固める作業である。これが不足だと、或いは、不足だと感じられると、社会に向って歩み出して行く自信が生まれてこない。攻める方が個人性の面であるとすれば、守る方は社会性の面である。(中略)文章を書く時、二つの側面があることを念頭に置かねばならぬ。自分は何処を攻めているのか。何処に自分の意見や発見があるのか。それを知っていなければいけない。というのは、うっかりすると、ただ守るばかりで、一向に攻めない文章を書いてしまうからである。(146~147ページ)

(2)小熊英二『基礎からわかる 論文の書き方』講談社現代新書、2022月5月
〇本書は、自身が担当する慶応義塾大学藤沢キャンパスでの「アカデミック・ライティング」の講義をもとに、学問分野を超えた共通の科学的な「論文の書き方」の「基礎」として、「論文とは何か」「科学とは何か」を提示する。そのうえで、「研究の進め方」「文章の書き方」などについて説述する。しかし、それは、「論文の書き方マニュアル」ではなく、また「文章指導」でもない。「論文の書き方」の「基礎」の「教養」(451ページ)である。
〇小熊にあっては、「基礎からわかる」とは、初歩ではなく、根本から理解することを意味する。そして、人間が論文を書くのは人間の不完全さに気づき、不完全な人間が進歩するためである(446ページ)。論文(アメリカ式の論文の型式)は、「自分の考えを根拠と論理をもって説明し、他人を説得する」(4ページ)型式であり、「必ずしも真実の探究の技法ではない」。すなわち、主題(問い)を提起し、論証し、再確認する(問いに答える)という型式(構成)で、たとえば「戦争をやろう」とも「戦争をやめよう」とも主張でき、「善用も悪用もできる技法」でもある(56ページ)。そして小熊はいう。学問は、意見・考えに対する批判と追検証による協同作業を通して発展し、みんなの共有財産(共有知識)になる(68ページ)。論文は、その「協同作業の一部」である(94ページ)。科学は、目や耳で経験的に観測できる対象を調査し、追検証できるような研究を求める(118ページ)。その実践(現実・事実の説明と因果関係の論証など)が論文の作成である。ここに、論文の社会的意義が見出され、著者の責任が問われることになる。
〇本書のうちから、留意したい言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。見出しは筆者。語尾変換)。

「論文の書き方」の基礎
「科学は進歩する」というのなら、科学は不完全だということ、もっといえば人間は不完全だということを、前提にしていることになる。(445ページ)/人間は不完全だから進歩するし、努力する。そして、人間が一人でやれることには限界がある。だから書いて、公表し、他人と対話する。それが「論文の書き方」の、いちばんの基礎にあたるものである。表面的な型式がいくらか変わったとしても、そこは変わらない。(446ページ)

「論文」の型式と「良い文章」の基準
「論文」は基本的には、①主題となる問いを提起し(序論introduction)、②証拠を挙げて論証して(本論body)、③問いに対する答えを述べる(結論conclusion)、という流れを構成する。(29ページ)/論文とは、論理で説得する技法である。/そのためには、意味が明快で、つながりが論理的であることが求められる。/それを実現するには、一つ一つの文がどういう内容を持っているのか、どういう論理的なつながりをもってその位置にあるのか、を意識することが必要である。一つの文が一つの内容を持ち、全体の主題を支えるように配置される。そのように意識するのが、論文の文章を書く一つのやり方である/。またもう一つ、学術的な論文に要求されるのは、典拠(てんきょ)が示されていることである。これがないと、読者が追検証できない。/これらから考えると、論文における「よい文章」の基準は、①意味が明確であること、②論理が追いやすいこと、③典拠が示されていること、の三つである。(376~377ページ)

「科学」の考え方と論文を書くことの意義
近代の「科学」は、論文を公表して、相互批判や追検証を行いながら発展してきた。(63ページ)/「科学」というのは、お互いに前提を共有して、論拠を確認しながら、論理的に対話していくことである。「これは科学的に証明されていることだ。反論は許さない」とかいったら、それは「科学に名を借りた権威主義」といっていい。(64ページ)/科学が権威になったら、それはもう科学ではない。不完全さに気づき続けることが科学である。/そして、それを実践するのが、論文を書くということである。(459ページ)/学んだ知識や理論を使って、自分の問いを立て、先人の不完全さを指摘し、自分で対象を選び、自分で設計した方法論methodology(調査設計:個別の方法methodを組み合わせて、調査の全体を設計していくこと。方法の体系・システム:阪野)で調べてみる。それによって、自分が立てた問いや、自分が設計した方法論が不完全であったことを、対象と向かいあうことによって知る。あるいは、先人の知恵と試行錯誤に畏敬(いけい)の念をもつ。そうした経験をすることが、論文を書くことの意義である。(460ページ)

(3)戸田山和久『最新版 論文の教室―レポートから卒論まで―』NHKブックス、2022年1月
〇本書は、「ロングセラーの論文指南書」などと評される『論文の教室―レポートから卒論まで―』の第3版にあたる(『初版』2002年11月、『新版』2012年8月)。そこでの基本的な主張は、論文は「問いと主張と論証」のある文章であり、「型にはまった」文章である。「論文はアウトラインを膨らませて書くもの」であり、「論文の命は論証にある」(15ページ)、ということである。
〇戸田山は本書で、「論文とは何か」に始まって、論文を書くときの心構えや気をつけるべきこと、論理的な文章を書くためのノウハウ(しきたり、作法)などをめぐって、36の[鉄則](必ず守らなければならない規則)を提示する。そして、具体例をあげたり練習問題を示しながら分かりやすく、ときにはユーモアを交えながら解説する。
〇「鉄則」は次の通りである。そこから、「論文とは何か」(論文の定義)については、[鉄則05]から、「明確な問いを立て、その問いに対する一つの明確な答えを主張し、その主張を論理的に裏づけるための事実的・理論的な根拠を提示して主張を論証する文章」となる。その際の「論証」とは、ある主張の説得力を論理的に高めるためになされる言語行為のことをいう(162ページ)そして、その論証を説得力の高いものにするためには、そこで使われている根拠が十分な裏付けをもち、併せて論証の仕方・形式が妥当なものでなければならない。とりわけ留意しておきたいところである。


(4)澤田昭夫『論文の書き方』講談社学術文庫、1977年6月
〇本書は、「いかに研究するか、それをいかに論文としてまとめあげるか」についての具体的な手引であり、上述の清水の理論書に対して、「実用中心のハウ・トゥーもの」である。その重点は、論文にまとめあげるまでの研究過程に置かれ、それに関する戦略知識を提示する(15、16ページ)。その点において「名著」と評され、ロングセラーとなっている。
〇澤田にあっては、論文はおよそ次のようなプロセスを経て作成される。①論文書きの時間の約三分の二は、資料集め(トピックの選択、文献・資料探し、資料研究)で占める。②資料探しは体系的・合理的に行い、大ざっぱに資料に目を通す(仮読みする)。③参考図書に目を通し、参照した文献・資料はすべて記録する(文献カードを作成する)。④資料の必要部分を熟読し、テーマごとに分類・整理する(研究カードを作成する)。⑤手に入れた資料の真正性や信頼性をテスト(資料批判)し、正確なデータを作る。⑥集まったデータを構造的に組み立て、論理的なアウトラインを作り、それを文章化し、肉づけする(「書く」の型式的操作)。⑦データの内容について時間的・論理的アプローチや5W1Hなどの方法を用いて説明・解釈する(「書く」の内容的操作)。⑧下書き、書き直し、総点検(論文全体が明瞭で、正確で、無駄なく整理され、淀みなく流れるようにでき上っているかをチェック)し、論理的で説得力のある論文に仕上げる。
〇澤田は、「書く」ことと「読む」ことについてこういう。「書くというのは何よりも構造を作ることで、論文書きにはそれが最も大切なこと」である(103ページ)。「『書く』というのは、内容的には、資料に即して確立された正確なデータを、データに即して構成した一般概念によって説明、解釈すること」である(140ページ)。「『読む』のは、感受性、想像性、思想を豊かにするために『読む』こと」を指す(166ページ)。「広く深く『読む』ことは、よく『書く』ことの大前提で、優れた論文や著作は、『読む』ことによって豊かにされた精神からのみ生まれて」くる(167ページ)。付記しておきたい。

(5)小笠原喜康『最新版 大学生のためのレポート・論文術』講談社現代新書、2018年10月
〇本書は、レポート・論文術のベストセラーである『大学生のためのレポート・論文術』の第3版にあたる(『初版』2002年4月、『新版』2009年11月)。「1.レポート・論文のあたりまえの基本」から始まり、「2.レポート・論文の基本ルール」「3.文献・資料の集め方(テーマを絞る)」「4.レポート作成の基本」という順に詳述される。「1」と「2」は「論文の書き方事典」(16ページ)である。
〇小笠原は本書で、論文を書くテクニックではなく、クリティカル(鋭敏)な論文につながる「あたりまえの基本ルール」を微細にわたって説明する。小笠原はいう。「論文を書くには、必要な情報を検索して、問題点を絞りこみ、筋道をたてて表現しなくてはならない。こうした、探求力、構想力、論理力、表現力を総合的に身につけられるのが論文を書く作業である」(5ページ)。「現実の論文作成は、もっと泥臭く、もっと逡巡(しゅんじゅん)し、もっと後悔的である。簡単ではない。自分との闘いである」。「その苦しさの中で、自分があらわれてくる。(中略)結果ではなく、過程である」(6ページ)。「論文は、自分物語を書き、自分の世界をつくるためにある。他の誰でもない自分が、自分をみすえて自分の世界を変えていく。それが自分になる」(231ページ)。論文指導や論文論(論文に関する論)の第一人者と評される小笠原の思想・哲学である。

―あなたへ―
〇「論文の書き方」に関する本や資料は山ほどあります。今回は、論文指導や論文論に関する本のなかから、叙述の抽象度の高・低と射程範囲の広・狭を軸に、さらには論文の書き方のノウハウ(技術、コツ)の詳細度を考慮して、とりあえず以上の5冊を取り上げました。それぞれの特徴や視角・視座について誤解を恐れずあえて一言でいえば、清水のそれは「理論、」小熊は「学問」、戸田山は「鉄則」、澤田は「過程」、小笠原は「指導」という言葉になるでしょうか。また、それぞれにあっては論文を書くことは、「人間が進歩するため」(小熊)であり、「思想を作り、人間を作る」(清水)、「自分をみつける」(小笠原)、「自分を高める」(戸田山)、「自分の思想をまとめて表現する」(澤田)ことであるとしています。そして、その点への言及には哲学的・理論的な考察が含まれています。そこには濃淡(濃い味、薄い味、隠し味)がありますが、それぞれの本が版を重ねている理由のひとつを見出すことができると思います。それは、単なる「ハウツーもの」「手引書」「実用書」ではない、ということです。
〇詳細は原典にあたっていただくとして、内容の一部でも「あなた」に伝わることを願っています。