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阪野 貢/阪野ブックレット 「言説」考 福祉教育と教育福祉とまちづくり

 


 

目 次

 


Ⅰ

新美一志

福祉教育における「当事者性」と「相互主体性」に関する一考察

―松岡広路、阪野 貢、鯨岡 峻の言説をめぐって―

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はじめに

〇超少子高齢・人口減少・多死社会と評される現代社会は、少子高齢化の進展をはじめ、貧困や社会格差の拡大、SNSトラブルの多発、環境破壊や災害の激甚化、グローバル化の進行、ダイバーシティ(多様性)の推進などによる複雑・多様な社会福祉問題に直面している。このような状況において、個々人がそれらの問題に主体的・自律的に関与し、共生社会を築き上げていくための教育、すなわち「福祉教育」の役割は一層その重要性を増している。この文脈において、「当事者性」と「相互主体性」という2つの概念は、福祉教育の理念と実践を深く規定する核心的な要素として位置づけられる。当事者性は、ある問題に直面する個人の経験や視点を尊重し、その問題への意識的な関与を促すものである。相互主体性は、他者との関係性のなかで自己と社会を認識し、共に課題解決を図る姿勢を育む基盤となる。

〇本稿では、福祉教育におけるこれら2つの概念の重要性を踏まえ、「当事者性」を説く松岡広路、「当事者性」や「他者性」に言及する阪野貢、そして「関係発達論」を提唱する鯨岡峻の3氏の言説を検討する。すなわち、それぞれの概念に対する3氏の独自のアプローチを明らかにし、それを通して福祉教育における当事者性と相互主体性の多角的な理解を深め、今後の実践と研究に資する知見を得ることをめざす。

Ⅰ 福祉教育における「当事者性」の概念と意義

1) 当事者性の概念規定と歴史的背景

〇「当事者」という言葉は、一般的には、ある問題に直面している人々を指すものとして理解される。「当事者性」という言葉は、単に問題に直面しているという事実だけでなく、その問題への関わり方や意識のあり方を質的に表現する概念である。例えば、障がい者の問題について言えば、障害のある人やその家族は第一義的な当事者として認識される。しかし、障害の社会モデルの視点から見れば、障害は個人の特性に起因するものではなく、社会の構造や環境が作り出す問題であるため、社会全体がその問題の当事者であると捉えることができる 。

〇中西正司・上野千鶴子は、その著書『当事者主権』(岩波新書、2003年10月)において、当事者を「ニーズを自覚している人たち」と規定した。この規定は、本人のニーズを専門家などの他者が本人に代わって規定することを許さないという立場から、重要な意味を持つ。しかし、この規定には、社会的な問題を特定の人に固有の問題として囲い込む「当事者/非当事者」という二項対立を生む危険性や、自覚していない当事者の存在を軽視あるいは無視してしまう可能性が指摘されよう。

〇福祉教育における当事者性は、単に問題に直面している事実だけでなく、その問題に対する当事者意識を持ち、課題解決に向けて自覚的に行動していく過程として捉えられる。この認識は、社会的格差と不平等、社会的分断と排除などが拡大・深刻化する現代社会の危機的状況を背景とする。そのような状況下で、社会の矛盾を的確に把握し、変革への道筋をつけることができるのは、先ずは不利益を意識化している人たち、すなわち自分たちの生命や生活が脅かされている人たちである。そして、彼らの主張に耳を傾け、共感し、連帯・協働(共働)することは社会の正義であり責務であるという認識が、当事者性の重要性を一層高めることになる。

2) 松岡広路の当事者性論:相対的尺度としての理解

〇松岡広路は、当事者性を固定的な実体概念としてではなく、より動的かつ関係的な視点から捉える。松岡によれば、当事者性とは「個人や集団の当事者としての特性を示す実体概念というよりも、『当事者』またはその問題的事象と学習者との距離感を示す相対的な尺度」、「『当事者』またはその問題との心理的・物理的な関係の深まりを示す度合い」と規定される(松岡広路「福祉教育・ボランティア学習の新機軸―当事者性・エンパワメント―」『日本福祉教育・ボランティア学習学会年報』Vol.11、万葉舎、2006年11月)。

〇松岡の研究テーマは、ジェンダー、子育て支援、インクルージョン、地域福祉、共生など多岐にわたり、松岡の当事者性論はこれらの広範な領域における関係性の深化を志向するものである。また、当事者性を相対的な尺度として捉える松岡の視点は、福祉教育において極めて重要な意味を持つ。この視点は、当事者性を固定的な属性としてではなく、学習者の問題、あるいは当事者との関係性の深まりとして認識することを促す。これは、学習者が非当事者から当事者へと一方向的に変化するのではなく、多様なレベルでの関与や理解の深化を許容する柔軟な枠組みを提供する。この相対的な理解は、学習者が自身の問題への関わり方を内省し、他者の経験を多角的に理解する余地を生み出すのである。

〇また、松岡の言説は、従来の当事者/非当事者という二項対立的な思考が持つ硬直性を緩和し、グラデーションのある関わり方を促進する効果が期待される。これにより、学習者が「自分は当事者ではないから」という理由で社会福祉問題から距離を置くことを防ぎ、誰もが何らかの形で問題に関わる可能性を提示する。こうした当事者性の相対的理解は、学習者の心理的・物理的距離感の意識化を促し、多様な関わり方の模索と受容へと繋がる。そして、結果として社会福祉問題への関与・参加の障壁の低減に貢献する。すなわち、インクルーシブな社会を形成するうえで、個々の住民・市民が自身の立ち位置を自覚しつつ、他者の当事者性を尊重し、共に行動するための基盤となる。そして、福祉教育において、学習者が当事者の経験を追体験するだけでなく、自身の生活のなかでの当事者性を発見するきっかけを提供し、エンパワメントへと繋がる可能性を秘めているのである。

3) 阪野貢の当事者性・他者性論:二項対立を超えて

〇阪野貢は、福祉教育における「共感」と「当事者性」、そして「他者性」という3つの概念に留意し、その相互関係を考察する。そのなかで阪野は、福祉教育における情動的な共感の強要に警鐘を鳴らす。すなわち、アメリカのポール・ブルーム(Paul Bloom)の言説から「共感には善玉と悪玉がある」「共感は道徳的指針としては不適切である」ことを指摘し、情動的共感が時に限定的・排他的なものとなり、他者の固有性を無視した一方的な思いやりにつながる危険性があることを強調する(<雑感>(185)阪野貢/「共感」再考:共感のメリットとデメリット ―山竹伸二著『共感の正体』のワンポイントメモ―/2023年8月23日/本文  )。

〇また、阪野は、当事者/非当事者という二項対立的な思考が議論を硬直化させ、思考停止を生む危険性があると批判する 。そのうえで、当事者が抱える問題は当事者だけで引き受けるべき問題ではなく、現代社会の問題であり、社会全体で引き受けるべきものであるとし、「すべての人が当事者」であるという視点の重要性を強調する。そして、例えば学校福祉教育における障がい者などとの訪問・交流活動の場においては、子どもも障がい者も、教師も施設職員も、それぞれの立場として当事者であり当事者性を持つと同時に、互いに異なる視点・視座を持つ他者であるとする。そして、この訪問・交流の場で問われるのは、子どもと障がい者の「知識と経験」、教師と施設職員の「専門性と経験」の「相互補完性」であると強調する。ここでいう「経験」は、「体験」が行為そのものを指すのに対し、それを通して得られた気づきや学び、知識や技能・技術などの総体を指す(<雑感>(223)阪野貢/再掲/福祉教育における「共感」と「当事者性」 ―ワンポイントメモ―/2025年2月10日/本文)。

〇こうして、阪野の、すべての人が当事者であるという主張は、当事者性の概念を個別の問題から社会全体の問題へと拡張するものである。これは、社会福祉問題が一部の「困っている人」の問題ではなく、社会構造全体の問題であるという社会モデルの視点を強く反映している。とともに、他者性の認識を強調することで、画一的な共感の押し付けを避け、異なる視点を持つ他者との対等な関係性のなかで相互理解を深めることの重要性を示唆している。阪野の議論は、当事者性を問題への関与の度合いとして相対化する松岡の視点をさらに発展させ、社会全体を当事者として捉えることによって、福祉教育の対象と責任範囲を広げるものである(「包括的福祉教育」とでも言えようか)。また、情動的共感の限界を指摘し、他者性を尊重する姿勢は、相互主体性の基盤となる「対等な関係性」の構築に不可欠なものである、と言えよう。

〇別言すれば、阪野の言説では、当事者/非当事者という二項対立の批判から、すべての人が当事者であるという認識の深化、そして他者性の尊重と相互補完性の重視へと繋がることで、より包括的で対等な福祉教育実践の実現が期待される。この思想は、福祉教育が単に弱者支援の知識を教えるだけでなく、社会全体の問題として福祉を捉え、多様な人々がそれぞれの立場から社会変革の主体となることを促す、より主体的・自律的で包括的な福祉教育へと進化すべきであるという強いメッセージを含んでいる。阪野が基本的・継続的に追究する「まちづくりと市民福祉教育」のねらいや意義はここにある。また阪野は、特に「対話」や「共働」、「リフレクション」などを通じて知識や技能・技術を習得・共有することの重要性を強調しており、これは相互主体性の実践的側面を明示するものでもある。

〇以上を要するに、松岡と阪野の当事者性論を対比すると、こうである。松岡は学習者の視点から見た当事者との距離感という相対性に焦点を当てる。阪野は社会全体が当事者であるという視点と他者性の重要性を強調する。両者の言説は一見異なるが、共通して当事者/非当事者という固定的な二項対立を乗り越えようとする志向がみられる。松岡は学習者の内的な関係性の深化を、阪野は社会的な関係性における相互補完性を重視しており、これは当事者性理解の多層性を示唆する。そして、このような異なる視点・視座の提示は、概念の多義性を認識させるとともに、福祉教育実践における多様なアプローチの可能性を示唆するものでもある。この対比は、福祉教育が単に、当事者が抱える日常的な生活問題や苦悩などを理解するに留まらず、学習者自身の立ち位置を問い直し、社会全体で問題解決にコミットする当事者意識を育むための多様な道筋があることを示している。また、情動的共感に依存しない、より客観的で相互関係性に基づいた当事者性へのアプローチの必要性を浮き彫りにしている、といえよう。

Ⅱ 福祉教育における「相互主体性」の概念と意義

1) 相互主体性の概念規定と関係性への視点

〇「相互主体性」は、複数の主体(人間)が互いを単なる対象(客体)としてではなく、主体性を持ったそれぞれの存在として認識し、互いに影響し合うなかで形成される関係性や、その関係性のなかでの自己認識のあり方を指す概念である 。福祉教育において相互主体性の議論が重視されるべき根拠は、次のようなところにある。①福祉教育は、障害の有無や背景に関わらず、すべての人が地域社会の一員として尊重され、多様なつながりを再生・創造する共生社会の実現をめざす。②福祉教育は、地域住民が社会福祉問題を「自分ごと」として捉え、その課題解決に主体的・自律的に取り組むことを促す。③福祉教育では、すべての地域住民がその年齢や立場を超えて相互に学び合う関係性が重視され、多様な主体が関わるなかで新たな価値が創出され、地域社会の変革(「まちづくり」)へとつながる実践が意図される、などがそれである。すなわち、福祉教育における相互主体性の追求は、従来の、主体が客体に一方的に働きかける対立的なモデルから脱却し、主体と主体の関係性が重視される、すなわち誰もが主体性を持ち、互いを尊重し、共に学び、共に生きる社会を築いていくための重要なアプローチである。

2) 鯨岡峻の関係発達論と相互主体性:人間理解の深化

〇鯨岡峻は、従来の発達観である個体能力主義に対し、「育てる者―育てられる者」の相互的なやり取りのなかで両者が生涯に亘り変容していく過程として人の育ちを捉える「関係発達論」を提唱する。そこでの重要な概念のひとつが「相互主体性」(intersubjectivity)である。鯨岡にあっては、相互主体性は、多面多肢的な概念であるが、「間主観性」「共同主観性」「相互主体性」の3つの意味がある。「間主観性」(間主観性の意味でのintersubjectivity)とは、「私」と「あなた」のそれぞれ独立した主観が、互いに異なることを認めつつ、両者の主観(「私」は「あなた」の主観、「あなた」は「私」の主観)が部分的に共有され理解される状態をいう。すなわち、「私」と「あなた」の「共感」の基盤となるものである。「共同主観性」(共同主観性の意味でのintersubjectivity)とは、「私」と「あなた」がある目標や体験を共有するなかで、あたかもひとつの主体であるかのように振る舞い協働することをいう。すなわち、「私」と「あなた」の共通の目標設定や価値観の共有、さらには集団としての合意形成に繋がるものである。「相互主体性」(相互主体性の意味でのintersubjectivity)とは、「私」と「あなた」が主体としての存在そのものを深く認め合い、影響し合い、共に変容していく、より能動的で発展的な関係性をいう。すなわち、その過程を通して、「私」と「あなた」が共に新たな主体性を形成し、「私は私」という閉塞的な主体から「私は私たち」という開放的な関係性へと開かれることになる。要するに、間主観性は最も根源的な心の通い合い(共感)を、共同主観性は共通理解と協働の基盤を、そして相互主体性は自己と他者の境界を超えた関係性のなかでの変容と成長を示唆するのである(鯨岡峻『ひとがひとをわかるということ―間主観性と相互主体性―』ミネルヴァ書房、2006年7月)。

〇鯨岡が相互主体性に与える3つの意味は、単なる共感や理解を超えた、より動的で生成的・共働的な人間関係のあり方を示している。特に、相互主体性が「私は私」から「私は私たち」への変容を促すという点は、福祉教育がめざす共生の深い意味合いを提示する。これは、個人の自立だけでなく、他者との関係性のなかで自己を再構築し、共に生きる力を育むという福祉教育の目標に直接的に貢献するものである。鯨岡の理論は、発達を固定的な能力獲得ではなく、関係性のなかでの絶え間ない変容と捉える。この視点は、福祉教育において、子どもや障がい者などを「未完成な」あるいは「不完全な」存在と見なすのではなく、共に学び、共に成長する「相互理解」と「相互変容」のプロセスとして捉えることを促す。これは、阪野が説く相互補完性に通底するものである。

Ⅲ 松岡・阪野・鯨岡の言説にみる当事者性と相互主体性の統合的考察

1) 各言説の共通点と相違点:概念の多層的理解

〇松岡・阪野・鯨岡の各言説を統合的に考察すると、福祉教育における当事者性と相互主体性に関する多層的な理解が浮かび上がる。

〇共通点としてまず、3氏ともに、当事者/非当事者といった固定的な二項対立的な思考や、一方的な支援関係からの脱却をめざしている点が挙げられる。松岡は当事者性を相対的尺度として捉え、阪野はすべての人が当事者であるという視点と他者性の尊重を強調し、鯨岡は「私は私」という閉塞的な主体観から「私は私たち」への主体変容を説くことで、いずれも従来の枠組みを超えようとしている。次に、福祉教育に関連づけて言えば、個人の内面だけでなく、他者との関係性のなかで主体性や人間理解が深まることを重視している点も共通する。松岡の「距離感の深まり」、阪野の「相互補完性」、鯨岡の「関係発達論」は、いずれも関係性が教育的営みの核心にあることを示唆する。さらに、3氏の議論は、単なる概念論に留まらず、実際の福祉教育やフィールドワーク実践からの示唆や、実践への応用可能性を意識している点も共通している、といえよう。

〇相違点としては、当事者性の捉え方に違いが見られる。松岡が学習者と当事者との心理的・物理的距離感に焦点を当てるのに対し、阪野は社会全体が当事者であるという視点から、より広範な社会的責任と他者性の認識を強調する。鯨岡は関係発達論という発達心理学的な視点から、人間関係における深い心の交流と相互変容のプロセスを多層的に分析する。一方、阪野は、福祉教育実践論のなかで、対話や共働を通じた相互補完性やエンパワメントの実現を相互主体性の実践的側面として位置づける。松岡の言説は、共生やインクルージョンについての論究から、相互主体的な関係性の構築を前提としていると解釈される。

〇3氏の議論を重ね合わせると、当事者性は個人の内面的な意識や関与の度合いを指し、それが相互主体性という他者との関係性のなかで深化し、変容していく動的なプロセスとして捉えられる。つまり、当事者意識が芽生えることで他者との関わりが始まり、その相互作用を通じてより深い相互主体的な関係が築かれ、それがさらに個人の当事者性を再構築するという循環的な関係が見出される。松岡の相対的な当事者性、阪野のすべての人が当事者であるという視点と他者性、そして鯨岡の「私は私たち」への変容は、それぞれ異なる角度からこの動態的な関係性を捉えるものである。松岡は「入り口」としての当事者性の相対的な深まりを、阪野は「広がり」としての社会全体への当事者性の拡張と他者との対等な関係性を、鯨岡は「深化」としての相互変容のプロセスを描いている、と言えようか。

〇以上のように、松岡の当事者性の意識化から、阪野の他者性(他者との関係性における自己と他者の認識)、そして鯨岡の相互主体性(相互作用を通じた主体変容)へと繋がることで、より包括的な当事者意識の醸成と共生社会の実現が期待される。それはすなわち、「当事者性」と「他者性」と「相互主体性」の各概念は、それぞれが独立して存在するのではなく、互いに影響し合い、補完し合う関係にあるといえる。そして、こうした統合的な理解は、現代の社会福祉問題が複雑化・多様化さらには多層化するなかで、福祉教育は個人の単なる意識変革に留まるものではない。個人の内面的な変容(当事者性の深化)と他者との関係性における質的向上(相互主体性の構築)、そして社会構造への働きかけ(社会変革の促進)を同時にめざすべきである、という複合的な目標を明確にするものである。従ってそれは、単一ではなく、多角的な理論的・実践的アプローチが求められることになる。

2) 福祉教育実践への示唆と今後の研究課題

〇松岡・阪野・鯨岡の各言説を統合的に考察することで、福祉教育の実践と今後の研究における重要な方向性が導き出される。

〇まず、福祉教育実践への示唆として、当事者性の多層的理解の促進が挙げられる。学習者が自身の生活のなかで当事者性を発見し、他者の当事者性を相対的に理解する機会を提供することが重要となる。単なる社会的弱者としての当事者理解に留まらず、すべての人が当事者であるという視点から、社会全体の問題として社会福祉問題を捉える教育が必要とされる。

〇次に、情動的共感から理性的な他者理解への移行が求められる。安易な情動的共感を強要するのではなく、他者の他者性を尊重し、異なる視点や経験を理性的に理解し、相互補完性を図る教育実践が重要となる(ここで、イギリスのアルフレッド・マーシャル(Alfread Marshaii)が提唱した「冷たい頭と熱い心」(cool head and warm heart )という言葉を思い起こしたい)。さらに、鯨岡が提唱する相互主体性の概念に基づき、相互変容を促す関係性の構築を重視した教育プログラムの開発が不可欠となる。子どもや教師、障がい者や高齢者、保護者や地域住民などが「育てる者―育てられる者」として相互に変容し、共に成長する関係性を重視する視点を取り入れることで、より深遠な学びが期待される 。

〇さらに、阪野が強調する対話、共働、リフレクションなどを教育プロセスに積極的に取り入れ、それを通じた主体形成を促進することが重要となる。当事者や多様なステークホルダーが共に知識や技能・技術を獲得・共有し、それを利活用する場を創出することは、地域福祉における住民主体とその育成の推進にも繋がる 。

〇これらの点は、現代の福祉教育が単に知識の伝達や技能・技術の取得に留まらず、学習者の内面的な変容、他者との関係性の質的向上、そして社会全体のシステム変革を同時にめざすという、より包括的な役割を担っていることを示している。松岡・阪野・鯨岡の言説は、この複雑な役割を果たすための多面的な視点を提供している、といえよう。

〇今後の研究課題としてはまず、当事者性と相互主体性の動態的関係性の実証的研究が挙げられる。松岡・阪野・鯨岡の言説が示唆する当事者性と相互主体性の循環的・動態的関係性を、実際の福祉教育実践においてどのように測定し、実証していくかという課題である。特に、例えば外国籍の子どもや地域住民との多文化共生や、多様なニーズを持つ子どもたちとの交流活動における当事者性と相互主体性の関係を深掘りする研究が期待される。

〇次に、阪野が規定する「経験」(体験を通して得られた気づきや学び)の質をどのように評価し、それが当事者性や相互主体性の深化にどのように寄与するのかを、人々が語る物語(ナラティブ)の分析や質的調査などを通じて明らかにする必要がある 。

〇さらに、AIやオンラインコミュニケーションが普及するなかで、当事者性や相互主体性の概念がどのように変化し得るのか、新たなテクノロジーが福祉教育における関係性構築に与える影響等についての考察も必要となる。

〇またさらに、これはすでに自明のことであるが、地域福祉やまちづくりにおける住民主体を掲げながらも、地域住民の多くが無関心であったり、差別や偏見を抱く現実に対して、当事者性と相互主体性の視点からどのようにアプローチし、より多くの人々を福祉教育(阪野が言う「まちづくりと市民福祉教育」)に巻き込むことができるのか、実践的な研究が求められる。

〇以上の諸点は、福祉教育実践・研究を 単なる机上の空論ではなく、複雑化・多様化さらには多層化する現代社会において、福祉課題の解決に貢献し、未来の福祉教育の方向性を指し示すものとなろう。特に、情動的共感に依存しない理性的な他者理解、相互変容を促す関係性の構築、そして対話と共働を通じた主体形成を重視した福祉教育実践を展開していく必要がある。そして、「当事者性」と「相互主体性」という概念は、個人のエンパワメントから社会全体の共生文化の醸成に至るまで、幅広い実践領域において不可欠な要素である。この点を改めて強調しておきたい。


Ⅱ

新美一志

福祉教育の理論と実践と研究に関する一考察

―大橋謙策と阪野 貢、原田正樹の言説をめぐって(素描)―

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阪野 貢/「ふだんの くらしの しあわせ」それを編み直す7つの視座―「思いやり教育」から「権利と構造変革の教育」へ―

 


 

目 次

 


Ⅰ

「ケア」と「編集」:「弱さ」はそのままで、
いまある<傾き>として「輝き」を放つ

―白石正明著『ケアと編集』のワンポイントメモ―

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〇筆者(阪野)の手もとに、白石正明著『ケアと編集』(岩波新書、2025年4月。以下[1])がある。白石は、自身が手掛けた医学書院(出版社)の<ケアをひらく>シリーズで数々の文学賞を受賞した「名物編集者」「スター編集者」、あるいは「名伯楽」(すぐれた資質を持った人を見抜く力のある人物)などと評される。
〇[1]で白石は、「ケア」と「編集」の関連性をめぐって鋭い視点で深く洞察する。その際、白石にあっては、「ケア」と「編集」は問題点や弱点として評価されてしまう個々の<傾き>をそのままにして、その環境や文脈を変える作業・行為をいう。本人(「図」)を変えるのではなく、その背景(「地」)を変えるという意味でソーシャルワーク的である(「ソーシャルワーク的編集」37~38ページ)。
〇また、[1]で白石は、具体的なエピソードをまじえて、「ケア」にまつわる名著を興味深くガイドする。そのなかで、「自立は依存先を増やすこと。希望は絶望を分かち合うこと」(243ページ)、「自立とは依存先が分散されていることである」(61ページ)という熊谷晋一郎の言葉や、ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の生きる姿から「ただ生きるために生きればいいんだ」(185ページ)、障害を肯定しても否定しても “いま、ここにわたしがいる” ことは確かであり、「評価より存在のほうが強いのだ」(31ページ)という白石自身の言葉などに、改めてハットさせられる。
〇[1]の根幹に位置づけられる思想のひとつは、北海道浦河町にある精神障がい者の生活拠点「浦河ベてるの家」で実践されてきた「当事者研究」に深く依拠している。次の一文をメモっておく(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

➀困りごとを外在化する:「他者経由のアイデンティティ」の尊重
べてるの家では、主語は「自分」ではなく、病を得た客観的な存在としての「当事者」である。そこに自分自身との距離ができる。そして「語り」ではなく「研究」である。自分の困りごとを自分の外に出して、他人事(ひとごと)のようにそのメカニズムを探るのだ。/そして最大の特徴は、当事者研究は「ひとり作業」ではないことである。必ず複数の仲間とやる。障害者運動の先人が、(親や支援者や周囲の人ではなく)「自分のことは自分がいちばん知っている」という地点から切り拓いたのが「当事者主権」という理念だ。その成果を尊重しつつ、当事者研究は「自分のことは自分がいちばん知らない」という前提からはじめる。だから自分ひとりでやるのではなく、仲間と研究する必要がある。/あえて強調すれば、「これがわたしです」と自分の思う自己像を仲間に提示するのではなく、さんざん語りあったのちに、仲間が自分について持った像を「じゃあそれを自分としよう」と後から自分に取り込む。そんな「他者経由のアイデンティティ」を尊重するところが最大の特徴だとわたしは思っている。(21~22ページ)

〇白石にあっては、当事者研究とは、困りごとを抱える当事者に対して専門家が権威主義的・一方的に治療や矯正を行うのではなく、当事者自身が自らの困難や経験を客観的に「研究」し、専門家や仲間たちとともにそのメカニズムを探求する協働的な営み(協同作業)をいう。この営みの意義は、当事者の障害や病気などについての個人的な経験や思いを、信頼すべきデータとして再定義することにある。そして、「自分のことは自分がいちばん知らない」という前提のもとに、他者との「対話」を通じて新たな自己像を構築することになる。

〇➀に加えて、白石の思想的な核心を成す3つの文章を、重複していることを承知の上でメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。そこに通底するのは、問題そのものを解決するのではなく、その問題に対するマジョリティの「モノサシ」や「背景」「分母」を変える、という考え方である。

➁「弱さ」を解放する:見方を変える行為
マイノリティ(少数派)はマジョリティ(多数派)に認められるべくがんばってきたが、もはやこれまでと諦めてうなだれたときに、足下にまったく違ったモノサシが落ちていた。それで測ったみたら、あーらふしぎ、自分は変わらなくてもモノサシを変えればいいのだった。/ここにはちょっとした発見と感動がある。そうした感動に向けて物事の組み換えを行い、モノサシ、つまり分母を変えることを目指すのが、編集という行為ではないのか?!/世間の常識(分母)から外れた人が、ふたたびその分母に合わせて自らを改変するという努力が強調されやすい。でも自分で変えられること、自分でコントロールできることなんてほんの一割くらいじゃないか? それだけをピックアップして「こうすればできます」と言うのは勝手だが、残り九割はコントロールの外にある。/コントロールできない。そんな自由きわまりない世界に生きていると思うと、深々と息ができるような気がする。(75ページ)

〇白石にあっては、個人の「弱さ」は、生産性や効率性、自己決定や自己責任などを問う既存の「モノサシ」(見方)によって測られ、克服すべき問題や排除の対象として位置づけられてきた。そうした既存の価値観や評価軸(マジョリティの「モノサシ」や「分母」)を問い直し、その転換を図ることによって、弱さは克服すべき問題から解放され、その人の存在を特徴づける個性(<傾き>)として再定義されることになる。すなわち、自分を変える努力ではなく、自分を取り巻く社会の既存のルールや評価基準を変えるという発想の転換こそが、より自由な生き方を可能にする。それは、世間の常識(分母)を問い直し、新しい価値観を創造する「編集」という行為に通じるのである。

➂ケアを編集する:「依存」を転換する視座
健康といわれる多くの人は、(中略)多くの依存先(「依存できる物」「依存できる人」など)を持っている。つまり依存症とは、依存先が一つとか二つとか極めて乏しい人のことであり、言ってみれば「依存症の人は依存が足りない」のである。/弱さや依存は「克服すべきもの」という問題設定のままであれば、弱さは強さに、依存は自立に変更されなければならない。(62ページ)/なんだかんだ言っても、「現在がよくないから、こうしなければならない」あるいは「現在はよくないが、こうすればもっとよくなる」は、どちらも「現在のままではダメ」なのだ。(63ページ)/(依存症の人が)「これしかない」と考えられているところに「こうも考えられる」という別の補助線を出して、その補助線にしたがってこれまで出ている要素を並べ直すと、景色がガラッと変わってくる。/出された問題に答えるのではなく、その問題自体を組み替えてしまうこと。あるいは、与えられた問題の外に出てしまうこと。ここで述べた例についていえば「弱さ」とか「依存」といった克服されるべき問題――なにより当人がもっとも「克服すべき」と思っている問題――に別の光を与えること。/それは編集という仕事そのものだと思う。(63~64ページ)

〇白石にあっては、依存症は依存のしすぎではなく、人や物、仕事や趣味などの依存先(依存できる対象)が少ない状態をいう。その状態を「克服すべきもの」として理解するのではなく、新しい視点・視座(「補助線」)で捉え直すことによって異なった意味や価値を引き出すことができる。例えば、「依存先を増やす」という視点に転換することによって、その人が抱える問題の本質は「依存のしすぎ」ではなく、「依存の不足」であると再定義される。このような「編集」こそが、問題解決の本質であり、「ケア」そのものである。その意味において、「ケア」と「編集」は本質的に類似した行為であると言えるのである。

➃「輝き」を引き出す:背景を変える編集術
(この本の執筆)当初は「ケアと編集は近い」という感覚だけはあったが、どこがどう近いのかはよくわからなかった。そこでいつも著者に言うように「それを探すために書くんですよ!」と自分に言ってみたら、どこかでシフトチェンジが起きたらしく、どうにか書き終えることができた。/今、ケアとは何か、と聞かれたらこう答えるだろう。/「それ自身には改変を加えず、その人の持って生まれた<傾き>のままで生きられるように、背景(言葉、人間関係、環境)を変えること」と。/編集もおそらく似たような行為なのだろう。文章に改変を加えるより先に、その人や文章の<傾き>が輝きに変わるような背景(文脈、構成)をつくっていく作業が編集の本態ではないか。そうしたやり方を、わたしはケアする人たちから学んできた。そして、それ以外の編集のやり方をわたしは知らない。(240ページ)

〇白石にあっては、ケアの利用者や個々の文章が持つ固有の<傾き>(利用者の個性、文章の癖など)を問題点や改変すべきものとしてではなく、その人や文章の重要な特性として尊重し、受け容れる。しかも、そのものに直接的な改変を加えるのではなく、その<傾き>に新たな価値や独自の魅力(「輝き」)が引き出されるよう、その背景や文脈を変える・整えることが重要となる。すなわち、その人や文章の「輝き」を引き出すために、周りの環境や構成を変えるというその作業・行為こそが、「ケア」と「編集」に共通する重要なそれであり、その本質である。

〇白石の思想を端的にいえば、社会的な関係性のなかで形成される「弱さ」の肯定である。そしてその思想は、その「弱さ」を哲学的・実践的に、個人や社会の関係性の源泉として見直し、捉え直すことを促すものである。
〇ここで、以上の視点・視座や言説を「まちづくり」に引き寄せて一言する。白石の思想は、「まちづくり」にも大きな示唆を与える。➀まちづくりは、地域・住民が抱える困りごとを、あたかも他人事のように客観的な「研究」対象として取り扱うことによって、感情に流されることなく、問題の本質やメカニズムを冷静に分析できるようになる。➁まちづくりは、地域・住民の「弱さ」や「課題」を「克服すべき問題」としてではなく、それを「特性」として捉え直し、新しい価値観でそのまちを再定義することによって、より豊かで持続可能なものになる。➂まちづくりは、地域・住民の「克服すべき問題」を新しい視点・視座(「補助線」)で捉え直し、それぞれの「依存先」を分散させる仕組みを創ることによって、地域・住民の課題解決能力を高めることになる。➃まちづくりは、地域・住民の固有の<傾き>(人間関係、環境など)を弱点として消し去るのではなく、それを活かせる背景を「編集」することによって、その魅力を引き出し、創り出すことになる、などがそれである。
〇加えて、白石の「ケアと編集」は、筆者が説く「市民福祉教育」の実践的な方法論を提供しているとも言える。地域・住民が➀自己理解を深める教育の基盤となる。➁福祉的価値観の再構築を促す教育の契機となる。➂支え合いのネットワークを構築する力の育成を図ることになる。➃多様性を尊重する地域づくりの感性を養うことになる、などがそれである。すなわち、市民福祉教育は、地域・住民が「ケア」と「編集」の視点や力を取り戻す、あるいは育むプロセスである、と言えようか。付記しておきたい。


Ⅱ

「中途半端さ」と「共事者」が
“弱い紐帯の強み” を生む

―小松理虔著『小名浜ピープルズ』のワンポイントメモ―

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市民活動紹介

市民によるまちづくり活動の紹介
Introducing city development activities by citizens


公民館:講座企画・生涯学習活動

コミュニティセンター:情報発信・オンライン交流活動

地区集会場:意見交換・話し合い活動

図書館:読み聞かせ・図書整理活動

神社:祭典準備・伝承活動

小学校:放課後学習サポート・地域学習活動

地区集会場:子育て支援・ふれあい生き生きサロン活動

地域:安否確認・見守り活動

公共広場:レクリエーション・世代間交流活動

公共広場:避難・防災訓練活動

公共施設:緑化推進・清掃美化活動

公共施設:地域共生支援・日本語教育活動

公共施設:政策提言・活動報告活動

 


実践事例紹介

「総合的な学習の時間」における市民福祉教育実践
―施設訪問・交流活動―

Integrated Study Time:
Practical Citizen Welfare Education
— Facility Visits and Exchange Activities―


事前学習:きんじょ の おじいさん、おばあさんを たずねよう!

フィールドワーク➀/高齢者による施設案内:わたしが あんないするね!

フィールドワーク➁/高齢者から学ぶ:むかし この きんじょ はね!

フィールドワーク➂/地域を知る:ご 近所 だから また来てね!

事後学習:おじいさん、おばあさんから おそわったことを コトバ にしよう!

報告会:まなんだことを ほうこくします!

意見発表会:こんなまちにしたい!

 


 

プログラム紹介

市民福祉教育プログラムの紹介
Introduction to the Citizen Welfare Education Program


市民福祉教育プログラム 1-➀/交通安全ボランティア

市民福祉教育プログラム 1-➁/インクルーシブ教育

福祉教育プログラム 1-➂/慰問活動(以前は、こんなことをしていた!)

 


 市民福祉教育プログラム 2-➀/地域学習


市民福祉教育プログラム 2-➁/地域探究学習

福祉教育プログラム 2-➂/疑似体験(以前は、こんなことをしていた!)

 


市民福祉教育ブログムム 3-➀/地域ふくし懇談会

市民福祉教育プログラム 3-➁/意見発表会

福祉教育ブログムム 3-➂/行政主導型まちづくり(以前は、こんなことをしていた!)

 


市民福祉教育プログラム 4-➀/子ども提言活動

市民福祉教育プログラム4-➁/赤い羽根共同募金活動

福祉教育プログラム4-➂/募金活動(以前は、こんなことをしていた!)

 


 

 

阪野 貢/「自由」:回顧と再考― エーリッヒ・フロム著『自由からの逃走』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)の手もとに、エーリッヒ・フロム著、日高六郎(ひだか・ろくろう)訳『自由からの逃走』(Erich Fromm,Escape from Freedom,1941.  132版(新版)、東京創元社、2024年4月。以下[1])がある。訳者である日高は、その「訳者あとがき」で次のようにいう。「フロムによれば、現代における自由の問題は、たんに巨大な機械主義社会や政治的全体主義の圧力などによって、個人の自由がおびやかされているということだけではなくて、いっぽうではひとびとが求めてやまないはずの、価値としての自由が、他方では、ひとびとがそこから逃れでたいとのぞむような呪咀(じゅそ)となりうるところにあるという」(329ページ)。[1]におけるフロムの主要なメッセージである。そして、日高によると、[1]は「専門書であるばかりでなく、むしろそれ以上に、一般の知識人全体にうったえる文明批評の書である」(333ページ)。超ロングセラーの所以でもある。
〇もう一冊、筆者の手もとに、仲正昌樹(なかまさ・まさき)著『人はなぜ「自由」から逃走するのか―エーリヒ・フロムとともに考える―』(KKベストセラーズ、2020年9月。以下[2])がある。[2]は、[1]の「純粋な解説書」ではない。それは、[1]の「議論の流れに即して、全体主義を可能にした歴史的・社会的条件を確認し」、「大衆社会の住人が『自由』から逃走し始め、その一部が全体主義を支持するに至ったプロセスを再構成したうえで、どうして『自由』は重荷になるのか」(17ページ)を、仲正の視点・視座から広く・深く論究する専門書である。仲正は、フロムと[1]について、こう説述する。

エーリヒ・フロム(1900~1980)は、ドイツ系ユダヤ人で、フロイトに始まる精神分析の理論を社会的性格の分析に応用する研究に従事していたが、ナチス政権成立後、アメリカに亡命し、戦後はアメリカやメキシコで研究活動を続けた。「愛」「悪」「神」「自由」「ヒューマニズム」「社会主義」「革命」など、人間の生き方の根本に関わる重要なテーマに関する多くの著作を残し、政治的・宗派的な立場の違いを超えて様々な立場の人に影響を与えてきたが、最も大きなインパクトがあったのは、彼が大戦中に執筆した『自由からの逃走』(1941)である。/この著作は、そのタイトルが示しているとおり、近代世界において「自由」を与えられた諸個人が、自由に生きることに伴う重圧、不安に耐えかねて、自らが自由を放棄するに至った過程を社会心理学・社会史的に描き出している。(15~16ページ)

〇この最後の一節に関して仲正は、フロムがいう「‥‥‥への自由」という「積極的な自由」と、「‥‥‥からの自由」という「消極的な自由」について、次のように要約する。「安定感を与えてくれていた第一次的な絆が断ち切られ、世界と対峙することを強いられ、無力感と孤独感に囚われた個人には、二つの選択肢がある。/一つは「積極的自由」への道、愛情と仕事を通して、自発的に世界と結び付く道である。この道を歩めば、彼は、独立と個人的自己の統合性を失うことなく、人間らしく、自然と調和して生きることができる。/もう一つは退行し、自らの自由と独立、自己の統合性を放棄する道である(「消極的自由」:阪野)。耐えがたく思われる心理状態を取りあえず回避するための『逃走』である」(116ページ)。
〇フロムの言によると、「積極的な自由」は、「自我の実現」すなわち自分の独自性と個性の成長や実現をめざした「全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する」(284ページ)。「消極的な自由」は、母子関係や封建的・伝統的な束縛・強制などの「個人が完全に解放される以前に存在する第一次的絆」(35ページ)からの解放である。そして次のようにいう。ひとは「『‥‥‥からの自由』の重荷にたえていくことはできない。かれらは消極的な自由から積極的な自由へと進むことができないかぎり、けっきょく自由から逃れようとするほかない」(150~151ページ)のである。

近代人にとって自由は二重の意味をもっている。(中略)すなわち、近代人は伝統的権威から解放されて、「個人」となったが、しかし同時に、かれは孤独な無力なものになり、自分自身や他人から引きはなされた、外在的な目的の道具となったということ、さらにこの状態は、かれの自我を根底から危くし、かれを弱め、おびやかし、かれに新しい束縛にすすんで服従するようにするということである。それにたいし積極的な自由は、能動的自発的な生きる能力をふくめて、個人の諸能力の十分な実現と一致する。(296ページ)

〇こうしてフロムは、「人間存在と自由とは、その発端から(切り)離すことはできない」(42ページ)。こんにち人間は「貧困よりも、むしろ大きな機械の歯車、自動人形になってしまった」(302ページ)なかにあって、自由は単に外的な束縛から個人を解放するだけでなく、自己を認識し、自発的・創造的な行為・活動を生み出すとして、「積極的な自由」の重要性を主張するのである。
〇なお、フロムにあっては、「自由からの逃走」は、「権威主義」(服従)、「破壊性」(破壊)「機械的画一性」(同調)という3つの行動パターンとなって表れる。それぞれについてその要点をメモっておく(抜き書きと要約)。

権威主義
権威主義的性格の人間は、権威をたたえ、それに服従しようとする。しかし同時にかれはみずから権威であろうと願い、他のものを服従させたいと願っている。(182ページ)

権威はつねに、汝はこのことをなせ、あのことをなすべからずと命令するような個人や制度であるとはかぎらない。この種の権威は、外的権威と名づけることができるであろうが、権威は、義務、良心あるいは超自我の名のもとに、内的権威としてあらわれることもある。(184ページ)

権威主義的性格の問題で注意すべきもっとも重要な特徴は、力にたいする態度である。権威主義的性格にとっては、すべての存在は二つにわかれる。力をもつものと、もたないものと。それが人物の力によろうと、制度の力によろうと、服従への愛、賞賛、準備は、力によって自動的にひきおこされる。力は、その力が守ろうとする価値のゆえにではなく、それが力であるという理由によって、かれを夢中にする。かれの「愛」が力によって自動的にひきおこされるように、無力な人間や制度は自動的にかれの軽蔑をよびおこす。無力な人間をみると、かれを攻撃し、支配し、絶滅したくなる。ことなった性格のものは、無力なものを攻撃するという考えにぞっとするが、権威主義的人間は相手が無力になればなるほどいきりたってくる。(186ページ)

破壊性
破壊性は、対象との共棲(きょうせい)を目指すものではなく、対象を除去しようとするところにある。破壊性は、たえがたい個人の無力感や孤独感にもとづいている。外界にたいする自己の無力感は、その外界を破壊することによって逃れることができる。たしかに首尾よくそれを除去することができても、私は依然として孤独である。しかし、そのときの孤独はすばらしいもので、私はもはや外界の事物の圧倒的な力によって、おしつぶされるようなことはない。外界を破壊することは、外界の圧迫から自己を救う、ほとんど自暴自棄的な最後の試みである。(197ページ)

われわれの社会生活における人間関係を観察すると、破壊性がいたるところに、非常に多く存在していることに気づかないものはあるまい。その大部分は破壊性として意識されず、さまざまな方法で合理化されている。(中略)愛、義務、良心、愛国心などが、これまで他人や自己を破壊するためのカムフラージュとして利用されてきたし、現在も利用されている。(197~198ページ)

破壊性の源泉は、孤独と無力、不安、生命の障害(孤独になった無力な人間は、その感覚的、感情的、また知的なさまざまの能力を十分に実現することができない。かれは内的な安定性と自発性とをかいている)の3つである。(199~200ページ)

機械的画一性
機械的画一性とは、個人が自分自身であることをやめるのである。すなわち、かれは文化的な鋳型によってあたえられるパースナリティを、完全に受けいれる。そして他のすべてのひとびととまったく同じような、また他のひとびとがかれに期待するような状態になりきってしまう。「私」と外界との矛盾は消失し、それと同時に、孤独や無力を恐れる意識も消える。このメカニズムは、ある種の動物にみられる保護色と比較することができる。かれらはその周囲の状態にまったくにてしまうので、周囲からほとんどみきわめがつかない。個人的な自己をすてて自動人形となり、周囲の何百万というほかの自動人形と同一となった人間は、もはや孤独や不安を感ずる必要はない。しかし、かれの払う代価は高価である。すなわち自己の喪失である。(203~204ページ)

〇地縁・血縁などの社会的紐帯の希薄化・弱体化が進み、「社会的孤立」や「無縁社会」などが叫ばれるようになって久しい。そのひとつのきっかけは、2010年1月に放映された
NHKスペシャル「無縁社会―“無縁死” 3万2千人の衝撃―」であったと言われる。そして、とりわけ最近のSNS(Social Networking Service)の進展は、ネットワーキングとは裏腹に、新たな社会的孤立や無縁状態を生み出している。そうした日本社会の現状を抉り出し、現代に生きる人間の「存在」(実存)について考えるにあたって、求められる新たな視点・視座をどこにおき、新たな哲学思想をどう構築するかが問われなければならない。その際、「自由」はひとつのディープな概念であろう。そんな認識のもとに、本稿ではフロイトの『自由からの逃走』を取りあげることにした。
〇仲正は、「『自由からの逃走』はかつて、少なくとも私が学生だった30数年前には、現状批判的な社会科学を学ぶ者が当然読んでおくべき基本図書だった」(16ページ)という。筆者はそのさらに前の世代であるが、もうひとつの必読書に、デイヴィッド・リースマンの『孤独な群衆』(David Riesman,THE LONELY CROWD,1950.  みすず書房、1964年2月)があった。人間の「社会的性格」は、伝統や慣習に従う伝統指向型  → 自分の価値観や良心に基づく内部指向型  → 他人からの承認を求める他人指向型へと変化するという言説である。そして、高度産業社会において人は、他人指向型になり、内面的には孤独感に囚われ、それをやわらげるために群衆のなかに紛れ込む(「孤独な群衆」)のである。
〇余談であるが、当時筆者は、「自由」と「疎外」について、また「社会心理学」に興味・関心をもち、大冊のセオドア・ミード・ニューカムの『社会心理学』(Theodore Mead Newcomb,Social Psychology,1950.  培風館、1956年)や南博の『体系社会心理学』(光文社、1957年)などに “ 挑戦 ” したことが懐かしく思い出される。
〇フロムの疎外論については、観念論的なそれであるとも評されるが、マルクス主義的な言説を併せもつものでもある。例えば[1]には、次のような一文がある。

資本主義においては、人間は巨大な経済的機械の歯車となった。(127ページ)
人間は利益を求めて働く。しかし獲得した利益は消費するためのものではなく、新しい資本として投資するためのものである。(128ページ)
資本の蓄積のために働くという原理は、(中略)主観的には、人間が人間をこえた目的のために働き、人間が作ったその機械の召使いとなり、ひいては個人の無意味と無力の感情を生みだすこととなった。(129ページ)

〇私事に渡るこんなことを思い出しながら、フロムがその重要性を説く「積極的な自由」の核心は、人間が自発的・創造的な活動を展開することにある、ということを再確認しておきたい。

付記
「積極的自由」と「消極的自由」については周知の通り、イギリスの政治哲学者のアイザイア・バーリン(Isaiah Berlin)もその著――『自由論』(Four Essays on Liberty,1969.  小川晃一ほか訳、新装版、みすず書房、2025年5月)で明示的に定義している。積極的自由は自己実現や自立としての自由、消極的自由は他人の干渉からの自由を意味し、前者を「への自由」(freedom to)、後者を「からの自由」(freedom from)と表現する。バーリンにあっては、この2つの概念は両立するものではなく、衝突するものである。

 

 

市民福祉教育プログラム 4:子ども提言活動/赤い羽根共同募金活動

市民福祉教育プログラム 4-➀/子ども提言活動

市民福祉教育プログラム4-➁/赤い羽根共同募金活動

福祉教育プログラム4-➂/募金活動(以前は  こんなことを!‥‥‥)

 

共同研究者

共同研究者


田村禎章/愛知県
市民福祉教育研究所 主宰
東海学院大学健康福祉学部総合福祉学科 講師

三ツ石行宏/高知県
市民福祉教育研究所 主宰
高知大学教育研究部人文社会科学系教育学部門 准教授


阪野 貢/岐阜県
市民福祉教育研究所 顧問

大橋謙策/東京都
市民福祉教育研究所 顧問
日本地域福祉研究所/元日本社会事業大学大学院・東北福祉大学大学院

上野谷加代子/大阪府
市民福祉教育研究所 顧問
日本医療大学/大阪市ボランティア・市民活動センター


村上 進/東京都
市民福祉教育研究所 サイト運営協力者


原田正樹/愛知県
日本福祉大学社会福祉学部社会福祉学科・同大学院社会福祉学研究科

鳥居一頼/北海道
地域福祉アドバイザー

宮脇文恵/栃木県
宇都宮短期大学人間福祉学科

坂本大輔/北海道
登別市社会福祉協議会


青木尚人/群馬県
高崎健康福祉大学健康福祉学部社会福祉学科

朝倉美江/愛知県
金城学院大学人間科学部コミュニティ福祉学科

新崎国広/大阪府
ふくしと教育の実践研究所 SOLA/元大阪教育大学教育学部教育協働学科

有馬正史/東京都
認定NPO法人さわやか青少年センター

飯尾良英/岐阜県
中部学院大学人間福祉学部

井沢武則/長野県
元長野県立福祉施設

市川茂春/北海道
社会福祉法人北海道友愛福祉会

伊藤光洋/愛知県
江南市社会福祉協議会

今中博之/大阪府
社会福祉法人素王会・アトリエインカーブ

馬川友和/北海道
北海道民生委員児童委員連盟

梅木博志/神奈川県
横浜市社会福祉協議会

大石剛史/宮城県
東北福祉大学総合福祉学部

忍 正人/北海道
旭川市立大学

恩田峰代/岐阜県
関市社会福祉協議会(主任介護支援専門員)

金田喜弘/京都府
佛教大学専門職キャリアサポートセンター

唐木清志/茨城県
筑波大学人間系人間学群教育学類

木本光宣/愛知県
特定非営利活動法人ユートピア若宮

近藤美紀也/岐阜県
元中央法規出版岐阜営業所

佐甲 学/岐阜県
中部学院大学人間福祉学部

篠原辰二/北海道
一般社団法人 Wellbe Design

菅井直也/広島県
元広島文教大学人間科学部人間福祉学科

杉本和美/静岡県
特定非営利活動法人地域支援ネットゆう

田中美紀/岐阜県
一般財団法人高山市福祉サービス公社

田辺則人/愛知県
NPO法人志民連いちのみや/元一般社団法人地域問題研究所

谷野愛梨/徳島県
四国大学短期大学部幼児教育保育科

種石 進/静岡県
社会福祉法人駿府葵会特別養護老人ホーム蜂ヶ谷園

辻 浩/東京都
元名古屋大学大学院教育発達科学研究科

寺谷篤志/京都府
地域経営実践士

照山秀一/北海道
札幌学院大学人文学部英語英米文学科

飛永高秀/長崎県
長崎純心大学人文学部地域包括支援学科

中嶋秀行/福井県
あわら市民生委員児童委員協議会

名賀 亨/大阪府
華頂短期大学幼児教育学科

中野伸彦/長崎県
鎮西学院大学総合社会学部社会福祉学科

祢宜佐統美/愛知県
愛知文教女子短期大学幼児教育学科

野尻紀恵/愛知県
日本福祉大学社会福祉学部社会福祉学科・同大学院福祉社会開発研究科

野田 智/富山県
射水市社会福祉協議会

原 良子/埼玉県
日本語適応指導員/元東京都北区児童館

日開野 博/徳島県
徳島車いすテニスクラブ/元四国大学短期大学部人間健康科

平田 厚/静岡県
静岡福祉文化を考える会

古田稔幸/岐阜県
北方みなみ子ども館

保坂美保子/秋田県
大館市立栗盛記念図書館

蒔田勝義/三重県
NPO法人桜ボランティア協会

松井克憲/岐阜県
株式会社みらい

松岡広路/兵庫県
神戸大学大学院人間発達環境学研究科

水上真裕/福井県
坂井市社会福祉協議会

宮崎正宇/岡山県
倉敷市立短期大学保育学科

棟方 梢/青森県
青森明の星短期大学子ども福祉未来学科保育専攻

山下 彦/長崎県
長崎国際大学人間社会学部社会福祉学科

山田仁司/岐阜県
元関市社会福祉協議会

山田光広/岐阜県
関市社会福祉協議会(コミュニティソーシャルワーカー)

山本寿子/島根県
日本ボランティア学習協会/元松江市ボランティアセンター

渡邊一真/京都府
京都府社会福祉協議会


윤 정숙(尹 貞淑)/大韓民国
慶北科学大学社会福祉科


2025年12月8日現在/61名

主宰

主 宰


田村禎章 (たむら さだあき):Sadaaki Tamura

市民福祉教育研究所 主宰
President of the Institute for Citizen Welfare Education

東海学院大学健康福祉学部総合福祉学科 講師


三ツ石行宏(みついし ゆきひろ):Yukihiro Mitsuishi

市民福祉教育研究所 主宰
President of the Institute for Citizen Welfare Education

高知大学教育研究部人文社会科学系教育学部門 准教授


 

顧問

顧 問


阪野 貢 (さかの みつぐ):Mitsugu Sakano
日本福祉教育・ボランティア学習学会名誉会員(2023年)
Honorary member of the Japan Academic Association of Socio‐education and Service Learning

宝仙学園短期大学保育科  専任講師・助教授・教授(1973年4月~1997年3月)
中部学院大学人間福祉学部人間福祉学科  教授(1997年4月~2013年3月)
中部学院大学大学院人間福祉学研究科 教授(2003年4月~2013年3月)
NHK「社会福祉セミナー」講師(福祉教育等担当)(1997年8月~2009年1月)
皇學館大学大学院社会福祉学研究科 非常勤講師(2002年4月~2011年3月)
福井県立大学大学院看護福祉学研究科 非常勤講師(2003年4月~2021年3月)
文教大学生活科学研究所  客員研究員(2013年4月~2021年3月)
市民福祉教育研究所  主宰(2012年6月~2020年12月)
市民福祉教育研究所  顧問(2021年1月~)
日本福祉教育・ボランティア学習学会事務局長・副会長、日本福祉文化学会理事、全社協・東京都社協・埼玉県社協・静岡県社協・富山県社協・岐阜県社協・三重県社協等の福祉教育・ボランティア等委員会委員・委員長等を歴任
著書
『戦後初期福祉教育実践史の研究』(単著)角川学芸出版、2006年
『福祉教育のすすめ』(監修)ミネルヴァ書房、2006年
『市民福祉教育の探究』(単著)みらい、2009年 など多数


大橋謙策(おおはし けんさく ):Kensaku Ohashi
日本福祉教育・ボランティア学習学会名誉会員(2018年)
Honorary member of the Japan Academic Association of Socio‐education and Service Learning

日本医療大学客員教授
元公益財団法人テクノエイド協会理事長
元特定非営利活動法人日本地域福祉研究所理事長
日本社会事業大学名誉教授
元日本社会事業大学学長
放送大学客員教授、日本学術会議第18期・19期会員(2000年~2005年)、日本社会福祉学会会長(1999年~2005年)、日本地域福祉学会会長(2002年~2008年)、日本福祉教育・ボランティア学習学会会長(1995年~1998年)、ソーシャルケアサービス従事者研究協議会代表(2000年~2016年)等を歴任
著書
『地域福祉の展開と福祉教育』(単著)全国社会福祉協議会、1986年
『コミュニティソーシャルワークの新たな展開』(共編著)中央法規出版、2019年
『地域福祉とは何か』(単著)中央法規出版、2022年 など多数


上野谷加代子(うえのや かよこ):Kayoko Uenoya
日本福祉教育・ボランティア学習学会名誉会員(2024年)
Honorary member of the Japan Academic Association of Socio‐education and Service Learning

日本医療大学教授
社会福祉法人大阪市社会福祉協議会大阪市ボランティア・市民活動センター所長
同志社大学名誉教授
放送大学客員教授、日本地域福祉学会会長、日本福祉教育・ボランティア学習学会会長、ソーシャルワーク教育学校連盟副会長、厚労省社会保障審議会福祉部会委員等を歴任
著書
『たすけられ上手たすけ上手に生きる』(単著)全国コミュニティライフサポートセンター、2015年
『地域福祉の現状と課題』(共著)放送大学教育振興会、2018年
『共生社会創造におけるソーシャルワークの役割』(編著)ミネルヴァ書房、2022年 など多数