〇筆者(阪野)の手もとに、ベル・フックス著、里見実監訳、朴和美・堀田碧・吉原令子訳『学ぶことは、とびこえること―自由のためのフェミニズム教育』(原題:Teaching to Transgress, Education as the Practice of Freedom, 1994。ちくま学芸文庫、2023年5月。以下[1])がある。[1]は、アメリカの批評家・フェミニスト理論家であるベル・フックス(bell hooks)による教育論のエッセイ集である。フックスは、パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』(⇨参照)の影響を受けつつ、教育とは教師による一方的な情報・知識の伝達・注入(「銀行型教育」)ではなく、抑圧的な構造(人種・階級・ジェンダー)を超えていく営為(「自由の実践としての教育」)であり、教師と学生が互いに主体として、双方向的に関わり合いながら(「関与の教育」)、全人的な成長・発達をめざす営為である、と説く。
〇本稿では、[1]のなかから、フックスの言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。
「学びの共同体」と「わくわく」感:授業は学生と教師の共同作業である
授業は刺激的な場でなければならない。絶対に退屈な場であってはならない。(18ページ)/刺激的な学びを創造するためには、そこで語られている内容が刺激的であるだけでは、まだ十分ではない。教室という場はひとつの共同体であるから、「わくわく」を生み出す能力は、わたしたちがお互いに関心をもちあうこと、相互の声に耳を傾け合うこと、他者の存在を認め合うことと、深く関わり合っている。(中略)教師が一人ひとりの存在を真に大切に思わなければならない。クラスにいる全員が授業のダイナミズムに関係しており、みんながそれに寄与しているのだという認識がなくてはならない。このみんなの寄与が、資源なのだ。この資源を有効に活かせば、学生たちはどんな授業においても、開かれた「学びの共同体」をつくりだす能力を自ら高めていくのだ。(20~21ページ)
「自由の実践としての教育」と「越境」:教育は既存の境界を越え、自由を実践する営みである
長年にわたって授業という場は、学ぶというよりも他人を出し抜くための踏み台として教育を利用しようとする教師や学生たちによって、さんざんに蝕(むしば)まれてきた。(中略)わたしたちのだれもが精神と心を開き、通念のとばり(既成の考え方や常識が、その先にある知を覆い隠している、仕切りとなる垂れ幕――引用者注)を越えた知に迫り、思考し、さらに再思考し、新たなヴィジョンを創出していくことを願いながら教える。この越境を可能にする教え――境界を逸脱し、それを踏み越えていく精神のこの運動こそが、教育を自由にする実践なのだ。(28ページ)
「関与の教育」と「告白」:教師もまた自らを語り、さらけ出す存在である
教育が自由の実践である以上、分かち合い、告白を求められるのは一方的に学生だけであってよいはずはない。関与の教育学(教師も学生も、知識を一方的に伝達・受容するだけの関係ではなく、互いに全人格(知性・身体・精神)をもって主体的に授業に関わり、共に学び合い、成長していこうとする教育――引用者注)は、単に学生のエンパワーメントだけを追い求めているのではない。ホリスティック(全人的――引用者注)な学びの方式を使った授業は、その授業を通して、教師が成長しエンパワーされる場でもあるはずだ。(中略)教師が自らの経験を授業で語るということは、つまりは、すべてを知りつくした沈黙の尋問者として振る舞う可能性を放棄するということなのだ。教師がまずリスクを負って自分の経験を告白し、それを学問的な議論と関連づけることで、経験というものが学問の理解を高め、興味深いものにするかを示すならば、そのことでしばしば豊穣な学びが生まれてくる。でもそのためには、教師は授業のなかでもっと傷つきやすい存在になること、心とからだと魂の全体をさらす存在として、学生たちの前に立つことを求められる。(46~47ページ)
「多文化主義の教育」と「差異」:教室内の多様性は学びの資源であり、教育を問い直す出発点である
(人種・階級・ジェンダーなどの差異による――引用者注)多文化的な集団では、ときとして、それぞれに違った学び方や認識方法があり、それを受け入れなければならないことを、教師も学生も思い知らされる。/考え方を変えることは、教師にとって難しいように、学生にとっても難しい。(77ページ)/多文化主義の立場に身をおくと、教育に携わる者は、知識がこれまでどんなに狭い枠組みのなかで教えられたり学ばれたりしてきたかを、いやでも自覚せざるをえなくなる。ありとあらゆる種類の偏向を受け入れ、維持してきた、その共犯者が自分自身であることに気づかざるをえなくなる。学生たちは、知ることの前に立ちふさがっている障壁を突破したいと熱心に望んでいる。既存の知識を問い直す批判的な精神、惰性に逆らう知的探求の論理に、すすんで自らを委ねたいと欲している。多文化的世界の認識をふまえたラディカルな教育変革を、わたしたち教育者がしたそのときに、学生は、自分たちが希求し、また当然享受してしかるべき教育を、手にできるだろう。わたしたちは自由に表現できる空気を、意識を変える授業を、創り出すことができるだろう。それこそが、真に開放的人間教育の神髄なのである。(81~82ページ)
〇いささか牽強付会で(けんきょうふかい)はあるが、フックスの以上の言説を「まちづくりと市民福祉教育」の文脈に読み替えてみると、次のようになろうか。そこには、地域を「学びの場」として捉え直すためのいくつかの示唆が見えてくる。すなわち、まちづくりとは単に地域の施設や環境を整備することではなく、そこに暮らす人びとが互いに学び合い、関わり合いながら、自分たちの地域のあり方を問い直し、新たな関係と未来を創っていく教育的営為でもあるのである。
〇第1に、「学びの共同体」の思想は、まちづくりにおける住民参加の理念に通底する。授業が刺激的な場であるためには、内容の充実だけでは不十分であり、教室にいる全員が互いに関心を持ち合い、その存在を認め合うことが必要である、とフックスは言う。これはまちづくりにおいても同じであろう。まちづくりを「わくわく」する営みにするのは、行政や専門家が用意した計画そのものではなく、そこに暮らす住民一人ひとりがこのまちの担い手であると認識し、互いの声に耳を傾け合う関係性である。住民の存在と関与そのものが、まちづくりの資源なのである。
〇第2に、「越境」の思想は、行政や専門家と住民のあいだに引かれてきた境界線を問い直す視座を与えてくれる。授業という場が、学ぶことより他人を出し抜くことの道具として蝕まれてきたように、まちづくりや市民福祉教育の現場においてもまた、支援者と受援者、専門家と素人という固定的な役割分担によって、相互に学び合いながら新たな関係をつくる可能性が狭められてきたのではないか。既成の枠組みを越え、共に新たなヴィジョンを創り出していく実践こそが、「自由の実践としての教育」であり、市民福祉教育のめざすところである。
〇第3に、「告白」の思想は、専門家・支援者の側にも自己開示や、自らの弱さ・脆さを隠さない開かれた姿勢を求める。フックスは、教師がすべてを知りつくした沈黙の尋問者であることをやめ、自らの経験を語る存在になることを説く。まちづくりと市民福祉教育の現場においても、支援する側が一方的に支援を与える立場に留まり続けるのではなく、自らも弱さや迷いを抱えた一人の住民として認識することが求められる。専門家が持つ専門知と住民が持つ生活知という価値が対等に響き合う、相補的なパートナーシップが構築されてはじめて、共働としての「関与の教育」が始まるのである。
〇第4に、「差異」の思想は、地域社会の多様性をそのまま、まちの資源として捉え直す視点を与えてくれる。年齢、障害の有無、国籍、生活背景などの差異ある住民が集う地域は、フックスの言う多文化的な教室と重なり合う側面がある。それぞれの差異を問題や障壁としてではなく、まちを豊かにする資源として受け止め、既存の枠組みを問い直す姿勢、すなわち「多文化主義の教育」の実践こそが、真に開かれた「まちづくりと市民福祉教育」の神髄であろう。
〇フックスの「自由の実践としての教育」は、学校という場だけに閉じられた・限定された教育論ではない。人びとが共に生き、共に学び、共に地域・社会を創っていくための実践論である。「学びの共同体」「越境」「告白」「差異」という4つの視点は、「まちづくりと市民福祉教育」を、行政や専門家が住民に提供するものとしてではなく、住民、専門家、行政などが互いに学び合いながら、共に地域・社会を創っていく「開かれた学びの場」として捉え直す手がかりになる。すなわち、学校や施設だけが教育の場なのではなく、「まち」そのものが、人びとが出会い、関わり、学び合いながら現状を批判的に捉え直し、共に社会変革を促していく創造的な営みの場、「学びの共同体」となり得るのである。




