阪野 貢 のすべての投稿

『社会教育の終焉』と「福祉教育の刷新」

筆者(阪野)は、自治基本条例の制定に関して、松下圭一の著作を複数冊読み返す機会を持った。その際、手元にあった『社会教育の終焉』(筑摩書房、1986年)、『同書(新版)』(公人の友社、2003年)を併せて再読してみた。以下は、その読後感の一部といったようなものである。ちなみに、松下は、「シビル・ミニマム」(自治体の政策公準)や「官僚内閣制」(官僚が内閣の政策に強い影響力を及ぼしている状態)の造語でも著名な政治学者である。
松下の社会教育終焉論の問題意識は、「なぜ、日本で、〈社会教育〉の名によって、成人市民が行政による教育の対象となるのか」。「国民主権の主体である成人市民が、国民主権による『信託』をうけているにすぎない、道具としての政府ないし行政によって、なぜ『オシエ・ソダテ』られなければならないのか」(『社会教育の終焉(新版)』3ページ)というところにある。要するに、そこには、政府ないし行政の「社会教育」への介入と、それによる「上から」の思想統制(「国家統治・国民教化」)、「教育という名の『生涯管理』」(118ページ)への嫌悪感がにじみ出ている、といってよい。
松下にあっては、「教育とは教え育てる、つまり未成年への文化同化としての基礎教育」を意味する。「今日の日本ではこれは高等学校水準」(3ページ)である。教育という言葉は、「未成年への〈基礎教育〉、あるいは未成年・成年を問わず特定社会の文化水準の習熟に不可欠な〈基礎教育〉のみに、限定すべき」(86ページ)ものである。そして、農村型社会を経て都市型社会の成立をみるにいたった今日、日本の国民は、「政治主体たる市民として『成熟』しつつある」。社会教育行政やその理論は、「国民の市民としての未熟を前提としてのみ、成立しうる」が、その前提はすでに破綻している。もはや、成熟した市民は、政府や行政によって「オシエ・ソダテ」られる対象ではありえない(4ページ)。
こうした松下の主張に異論をはさむとすれば、松下は、教育を直截的に「オシエ・ソダテル」営みに限定する。そもそも、教育は、一方的に「教え育てる」だけの営みではない。環境醸成や条件整備による間接的な教育もある。また、教育は文化同化のみならず、文化批判や文化創造のための営みでもある。今日、グローバル化時代に求められる高等教育システムのあり方が厳しく問われている。都市型社会の成立は、確かに生活・文化水準の向上や都市的利便性の享受を促したが、生活や教育の私事化や人間関係の希薄化などをもたらした。都市型社会の形成という歴史的かつ外的な要因によってのみ市民の成熟化が促されるのでもなく、また現代社会における成人はそのすべてが「成熟した市民」であるとはいいがたい。しかも、「成熟」は、完成やゴールを意味するものではなく、漸進的で、多様なプロセスを経て促されるが、成熟が「衰退」を意味することもある。したがって、成熟は「再構築」の過程として捉えることもできる。このように考えるとき、松下の言説には、「都市型社会」や「市民」に対する積極的な評価や過度の信頼がある。すなわち、そこには批判的視点や分析が欠けている。それゆえに、松下が想定する「教育」は一方的・限定的であり、「都市型社会」はプラス面の強調にあり、「市民」は一面的あるいは表面的である。その結果、その言説はユートピア的かつ理念的であり、偏狭で乱暴な立論にとどまっている、といわざるを得ない。
ところで、社会教育は、「自己教育」「相互教育」を本質とし、その実践が展開される代表的施設のひとつは公民館である。この点をめぐって松下は、次のように説いている。
「社会教育行政は、市民の『自己教育』『相互教育』といいながら、歴史的には、実質的に教化手段に堕していた」(136ページ)。「成人市民の自己教育・相互教育はむしろ『教育なき学習』というべきである」。「そこには、市民の自由な『学習』があるだけ」(5ページ)である。市民の「教育なき学習」すなわち「自由な学習」とは、「市民みずからによる〈模索・たのしみ・創造〉における模索過程」である。それを「市民文化活動」と呼べばよい。その「市民文化活動とくに模索における内部契機として、学習は位置づけられる」(89ページ)。すなわち、市民の自由な「学習」は、「〈市民文化活動〉の「模索」の一契機にとどまる。学習は自己目的たりえないのである」(5ページ)。
松下は続けていう。成熟した市民を「オシエ・ソダテル」教育ないし社会教育は、今日、もはや不要である。「『教育機関』たる公民館では、市民は社会教育行政職員によって準備された学習という『給付』をうけるたんなる受益者にとどまりがちになる」(44ページ)。しかし、市民の、生活から政治までの学習をふくめた「文化活動が『多様化・高度化』し、また市民の文化水準が行政の施策水準をこえてきた」(162ページ)今日、成熟した市民の活力を、社会教育行政のいう職員による「指導・援助」や「運営・管理」の公民館にとじこめることはもはやできない(59、60ページ)。ここに、職員をおかない市民管理・市民運営の、「貸部屋」ないし「たまり場」(29ページ)としての「集会施設」「地域センター」がうかびあがってくる。「それはコミュニティ・センターとよばれるかもしれない」(60ページ)。
以上の言説に関してはまず、「社会教育の終焉」の論拠のひとつである「市民の文化水準」の上昇について、それを判断する尺度や方法をどのように考えるのか。しかも、文化水準の高い、教養ある人が、必ずしも民主主義の精神や態度が形成されており、人権意識も高いとは限らない、といいたい。
公民館不要論については、例えば、小熊里実の次の指摘(「公民館論と公民館不要論の論理的つながり―公民館研究者はなぜ公民館不要論に反論しなかったのか―」『教育学雑誌』第44号、日本大学教育学会、2009年、117~130ページ)に留意しておきたい。「公民館論」と「公民館不要論」は、どちらも住民―行政間の対立軸を前提としている。両者の違いは、地域社会の民主的発展の進捗状況をどう捉えるかという点にあり、公民館論では「未だ達成せず」、公民館不要論では「成熟した」と捉えているという違いである(127ページ)。「少なくとも権力対住民という対立図式に基づく住民・行政間の関係を前提とする論理は、時代状況を考慮すれば明らかに採用できない。むしろ、両者の緊張関係は認めながらも両者の関係をより対等(・協力:阪野)なものとしてとらえる『協働』という観点からとらえ直す必要がある」。そして、「地域社会の各構成員による協治(ガバナンス:阪野)を念頭に置き、(中略)現代的な意味での『民主主義の学校』としての役割を公民館に付与していく必要がある」(129ページ)。すなわちこれである。そして、ここで、公民館の職員と地域住民(学習者、利用者)が一体になって豊かな学習活動や地域活動を計画的・継続的に展開する公民館活動が、全国のあちこちに蓄積されていることを思い起こしておきたい。なお、松下は、「協働」について、「今日、市民主権に反して、市民と行政とのナレアイになりがちな流行の考え方による『協働』という言葉をもちいて、市民文化活動と社会教育行政との協働を論ずることはマチガイである」(「新版付記」250ページ)と断じている。「協働」という名の行政の「下請け」化や「補完」化は「マチガイ」であることはいうまでもない。
また、松下は、「市民教育」についても言及する。「市民が、社会教育行政を終らせてゆけばゆくほどそれに反比例して、市民自治による市民文化の形成となっていく」(214ページ)。「社会教育行政は今日では市民文化の形成の阻害要因といわざるをえない」。「市民文化活動をめぐっては、行政は市民自治を基体としてミニマムの条件整備をするだけでよいのである」(213ページ)。「もし、『市民教育』がなりたつとしても、この市民教育も教育であるかぎり、成人にたいしてではなく、未成年にたいしてのみである。この意味では、学校に『道徳教育』にかわる『市民教育』の導入を訴えたい」(214ページ)。未成年に対する(学校における)「市民教育の基本」は「学校ですでにおこなわれているいわゆる『課外』の自治会、サークル、行事への参加の活性化」(215ページ)である。
「成人市民には、『市民教育』ではなく、現実の『市民参加』になる。市民参加には市民文化活動そのものが基盤となるとともに、これにくわえて自治体ことに基礎自治体としての市町村を中心に、(1) 市民行政=ボランティア・コミュニティ活動の展開。(2) 市民立案=政策ないし計画への批判・参画。(3) 市民決定=選挙ないし政党の選択。という参加が不可欠である。この過程で、市民はそれこそみずから教育なき『学習』つまり模索をふまえて、たのしみながら、創造をするのである」(215ページ)。
「市民自治」「市民教育」「市民参加」をめぐる以上の主張は、かなり楽観的なものである。学校における市民教育を適切かつ十全なものにするためには、「課外」活動としてのそれだけではなく、全教科・全領域における「教育」が基本となる。成人市民の全てが主体的・自律的に市民文化活動や市民参加をすすめるとは限らない。参加の過程を通して「学習」することはあるが、活動へのひとつの参加条件として、成人市民に上記の(1) (2) (3)の「市民参加」を促す契機や営みは依然として必要である。そのためのひとつに社会教育(その一環としての市民福祉教育)があることは排除できない。高度化・複雑化した都市型社会の地域における課題の解決と魅力の伸長、すなわち「地域づくり」の推進を図るためには、いわゆる「一般市民」だけでなく、むしろ専門的な知識や技術・技能を備えた「市民エリート」(坂本治也『ソーシャル・キャピタルと活動する市民』有斐閣、2010年、136ページ)を必要とする。そこには主体形成としての「教育」は欠かせない。市民参加や市民活動が活発化したとはいえ、なかには「動員」や「下請け」といった擬似的な主体性や公共性の問題が存在する。それを回避するためには「教育」(「学習」)が必要となる。「教育」と「学習」の関係については、「教育は学習の指導である」。「学習のないところに教育はない」(勝田守一『能力と発達と学習』国土社、1990年、149~150ページ)、といえる。

付記
本稿のタイトルをあえて「『社会教育の終焉』と「福祉教育の刷新」」としたのは、福祉と教育を取り巻く今日的状況と、福祉教育実践・研究の問題点や課題、あるいは限界などについての筆者(阪野)なりの認識のもとに、福祉教育の終焉論や不要論、あるいは代替論などが提起された場合、それに如何に対応し得るか、反論の視点や論拠をどこに見出し得るか、といった想いを表示したものでもある。「地域福祉は福祉教育ではじまり福祉教育でおわる」(全国社会福祉協議会、2012年)といわれる。また、全国社会福祉協議会は、「社協がやらねばだれがやる」(2006年)、「住民主体による地域福祉の推進のための『大人の学び』」(2010年)と訴える。社会福祉協議会は地域福祉推進の中核的な組織・団体として、十全にとはいわないまでも、本当に、福祉教育の機能を果たし、役割を担うことができるのであろうか。松下圭一は、公民館は不要であり、市民が自由に活動できる場としてのコミュニティ・センターがあればよいという。本稿のタイトルが含意するところをくみ取っていただきたい。

自治基本条例と市民福祉教育(第1報)

自由民主党の政務調査会が2011年9月に、「チョット待て!!“自治基本条例”~つくるべきかどうか、もう一度考えよう~」という政策パンフレットを出している。それは実に面白いものである。その意味は、人々を信じさせる強いメッセージ性もなく、それ以上に何の理屈もロジックもない、という点においてである。そこでは、多くの人々を信じさせたいという一念で、空虚な言葉が無意味に書き連ねられているだけ、といわざるを得ない。まるで、伝統的な暮らしや文化を過度に重んじる環境のなかで育った“やんちゃ坊主”が、周りのことも考えられずに駄々をこねているようなものである。等閑視してよい代物であるとはいえ、なぜ駄々をこねるのかを考え、その気持ち(内容)を理解することも必要であろう。
周知の通り、自治基本条例は、北海道の「ニセコ町まちづくり基本条例」(2000年12月制定、2001年4月施行、2005年12月第1次改正、2010年3月第2次改正)を嚆矢とし、2013年4月現在、273の市区町村で制定されている。2013年1月現在の全国の市区町村数は1742(東京23区を除くと1719市町村)であるから、およそ16パーセントの地方自治体で制定されていることになる。今後もその数は増えていくものと推測されるが、その背景には地方分権改革の進展がある。また、そうしたなかで、「新しい公共」の創出や「新たな支え合い」の強化が叫ばれ、行政への住民(市民)参加や行政と住民(市民)との協働によるまちづくりの推進が図られていることも、背景のひとつと考えられる。
地方分権改革に関していえば、1993年6月の衆参両議院で採択された「地方分権の推進に関する決議」などを契機として、1995年5月に地方分権推進法(1995年7月施行)が制定された。以後、1999年7月の地方分権一括法(2000年4月施行)や2006年12月の地方分権改革推進法(2007年4月施行)などによって、政府・自民党は、1990年代以降、総合的・計画的な地方分権改革を積極的に推し進めることになる。なかでも、地方分権一括法は、475本の関連法を改正または廃止するもので、この改正によって機関委任事務制度の廃止や、国の地方自治体に対する関与(統制)の見直し、地方自治体への権限の移譲などが図られた。それによって、国と地方自治体の関係は、上下・主従の関係から対等・協力の関係へと変わることになる。要するに、地方分権一括法は、地方自治体に対して、地方分権のための法的根拠・保障を与えたものである、といえる。そして、地方分権の推進に対応すべく、行財政基盤の強化や自治の効率化を目標に、1999年から政府主導で推進されたのがいわゆる「平成の大合併」である。
以上のことを、地方自治体(とくに市町村)のサイドに立って平易に要約すれば、地方自治体は、国(中央政府)から独立した地方政府として、地域のことは地域で決めるという「自己決定・自己責任」の考え方に立って、主体的・自律的な自治体運営(「団体自治」)を図る必要性と重要性が増大した、ということである。また、1993年の国会決議に始まるこれまでの地方分権改革は、地方自治体の権限の拡大、しかも形式的なそれに偏りがちであり、地方自治のもうひとつの要素である「住民自治」(地方自治は、その地方自治体の住民の意思と責任に基づいて行われるべきであるということ)をどのように実現し、その強化を図るかが、2000年代に入って問われるようになった、ということである。これは、国による縦割り・全国画一行政が破綻するとともに、国民愚民観や自治体蔑視意識の変革、いいかえれば住民(市民)や自治体職員の自治意識の拡大が求められることを意味する。さらには、社会、経済、政治、文化などのあらゆる側面でグローバル化が急速に進むなかで、世界に開かれた地域社会の創造や地方自治の展開が欠かせないことになる。こうしたところに、その地域独自の住民自治の仕組みについて定めた自治基本条例制定のひとつの根拠がある。そして、前述のように、北海道ニセコ町の条例がその最初であった、ということである。なお、「自治基本条例」という名称の条例は、東京都杉並区のそれ(2002年12月制定、2003年5月施行)が最初で、その後は「まちづくり条例」よりはむしろ「自治基本条例」の方が多数となっている。
ここで、自己決定・自己責任の考え方に関して加筆しておきたい。そのひとつは、自己決定は、その結果の影響を受ける者が決定を下すべきである。自己決定は最大限、尊重されなければならない。自己決定には自己責任が伴う。ただし、自己責任には限界がある。また、責任を強く求めたり、責任を回避あるいは転嫁することは許されない、ということである。いまひとつは、すべての住民(市民)に自己決定の要求や能力が備わっているわけではない。また、住民(市民)は、すべての問題に対して正しい認識や判断ができ、それに基づく行動がとれるわけではない、ということである。このように考えたときにまず求められるのは、実践や運動としてであれ、制度としてであれ、住民(市民)の「参加」(参集、参与、参画)と「協働」(共働)、それに「学習」(教育)である。そして、それらのための仕掛けと仕組みである。自治基本条例とその制定に関して留意すべき点である。
さて、冒頭に記した自民党のパンフレットは、「自治基本条例の制定そのものに、問題があるわけではありません」としている。それもそのはずである。地方分権改革に積極的に取り組んできたのは、ほかならぬ自民党政府だからである。しかし、パンフレットの表紙では、「注意! 自治基本条例によって、○住民生活に本当に役立つか、○住民間の対立をかえってあおることはないか、○地方行政の仕事を妨げ、議会の否定にならないか、○特定団体に地方行政をコントロールされることはないかなど、注意しなければならない点が多数あります」と記している。一見穏やかないい回しであるが、「本来のあるべき姿とは異なる偏った自治基本条例が増えてきている」として、本文では、自治基本条例の制定をめぐっていくつかの点について批判している。その主な論点は次の3点であろうか。(1) 国→都道府県→市区町村という上下方向(上意下達)に、国が地方自治体を支配・統制する国家統治の考えと、主権には憲法が規定する国民主権と国際社会における国家主権しか存在しないという考えに基づく批判、(2) 外国籍住民や子どもなども意見を表明し、まちづくりに参加する権利が認められることは、過度な権利主張を招き、とりわけ外国籍住民については地方参政権の付与に繋がるのではないかという警戒心、(3) 条例の構成や内容がパターン化しており、それは「国家の概念を否定し、個人やグループの存在と発言に重きを置く」特定の考え方(「イデオロギー」)に基づいた「組織的な動き」によるのではないかという疑心暗鬼。すなわちこれである。(1) については「分権型社会」や「シティズンシップ」、(2) については「意見表明権」や「ソーシャルインクルージョン」、(3) については「直接民主主義」や「熟議と参加のデモクラシー」等々の言葉を思い起こすだけで、反論するには十分である。要するに、パンフレットの内容は「不審」と「不信」(2つの「フシン」)に基づく何ものでもない、と断ぜざるを得ない。
なお、(3) について加筆すると、パンフレットの記述内容は、要するに松下圭一(法政大学名誉教授)の、国家統治を批判する「市民自治」の政治学に異を唱える立場からのものである。すなわち、そこでは、多くの自治基本条例は「市民」中心の「補完性の原理」と「複数(政府)信託論」が反映されており、「国家の否定が根底にある」とする。いうまでもなく、市区町村は都道府県や国の下請け機関ではなく、地方と国の関係は補完性の原理(principle of subsidiarity)に基づくものである。また、議員内閣制と二元代表制という仕組みの違いはあるものの、市民(国民)は国政への信託(the trust of citizen on the government)だけでなく、都道府県や市区町村(首長と議会)に対しても信託(選挙と納税)を行っている。さらに、阪神淡路大震災(1995年1月)を契機に、ボランティアやNPОなどの市民活動が広がりを見せ、地域の課題は住民自らが解決していこうとする意識(地域やまちづくりへの関心、自治意識)が高まっている。それは、東日本大震災(2011年3月)に際して、より顕著になっている。こうしたことだけを考えてみても、パンフレットの内容は、理論的でもまた現実的でもなく、説得力のある論拠が欠けているといわざるを得ない。自治基本条例の動向や内容に批判的見解を展開するパンフレットが発行された後も、例えば2012年4月から2013年4月までの間に、32の市町で自治基本条例が制定・施行されていることはその証左である。
ところで、筆者(阪野)は、昨年の12月から、S市の自治基本条例策定審議会の委員(公募委員)として策定のための審議に参加している。審議会は、公募委員が17名、公共的団体等の推薦による委員が10名、そして学識経験者が3名、計30名の委員で構成されている。これまで、グループ討議を中心にした審議会が5回開催され、筆者はそこから多くの気づきと学びを得ている。まさに、審議への参加の過程が学びの過程である。それらを踏まえた、現段階におけるとりあえずの条例私案の一部を、以下に記すことにする。
なお、審議会ではまだそこまで至っていないが、S市の総合計画と自治基本条例との相互関連性について十分に討議する必要がある。“車の両輪の関係”にある総合計画と自治基本条例が相俟ってはじめて、S市独自の住民自治の仕組みが創設されるのである。留意しておきたい。

1 前文
S市は、日本の○○○に位置し、豊かな自然や積み重ねられた歴史、育まれてきた文化など貴重な地域資源にあふれた、○○○のまちとして発展してきました。
わたしたちは、先人から受け継いだこのまちを次世代に引き継ぐとともに、安全・安心で、より豊かな地域生活を営むことができる持続可能な、しかも世界に開かれたまちを自らの手で創りあげます。
そのためには、年齢や性別、国籍などの違いを問わず、すべての市民一人ひとりの人権を尊 重し、人のつながりと地域の絆を大切にする必要があ ります。また、すべての市民一人ひとりが市政に関心を持ち、まちづくりについての理解を深め、関心を高めるとともに、その取り組みに主体的・積極的に参画することが求められます。それによってはじめて、市民が国際社会と直接向き合い、次世代につなげる「日本一しあわせなまちS市」づくりが可能となります。
わたしたちは、地方自治の本旨にのっとり、S市の自治の基本理念や原則、しくみなどを明らかにし、市民主権と市民自治の実現とその進展をめざすS市の最高規範として、この条例を定めます。
2 総則
(1)目的
この条例は、S市のまちづくりに関する基本的な理念並びに市民、議会及び行政の役割を明らかにすることにより、安全・安心で、豊かな地域生活を営むことができるまちを協働して創りあげ、市民主権の自治を実現することを目的とします。
(2)定義
④まちづくり 安全・安心で、豊かな地域生活を営むことができるように、市民、議会及び行政が取り組む一連の持続的な活動をいいます。
⑤協働 市民、議会及び行政が互いに尊重し、対等・平等な関係で協力及び連携することをいいます。
⑥自治 共生と協働の考え方のもとに市民自らが意思決定し、行動することをいいます。
(3)条例の位置付け
①市民、議会及び行政は、この条例は市の最高規範であることを認識し、この条例を誠実に遵守します。
②議会と行政は、他の条例、規則、計画等の制定及び改廃等にあたっては、この条例の趣旨を最大限に尊重するとともに、整合を図ります。
3 基本原則
市民、議会及び行政は、次の基本原則に従い、まちづくりを推進します。
①市民一人ひとりの基本的人権を最大限に尊重します。
②市民の価値観や生活観の違いを認め合い、対等な関係を築きます。
③相互に情報を積極的に提供し、十分な説明責任を果たし、共有します。
④主体的・自律的な意思と相互理解のもとに参画し、協働します。
⑤家庭・学校・地域の連携による教育力の向上を図ります。
⑥地域の豊かな自然や歴史、文化などの特性を活かします。
⑦平和と安全、そして福祉の新しい文化を創造します。
4 市民の権利と責務等
(1)市民の権利
①市民は、安全・安心で、豊かな地域生活を営む権利を有します。
②市民は、まちづくりに参画する権利を有します。
③市民は、議会及び行政が保有する情報を取得する権利を有します。
④市民は、生涯にわたり学習する権利を有します。
(2)市民の責務
市民は、まちづくりの担い手であることを自覚し、主体的・自律的な活動に取り組む責務を有します。ただし、市民は、活動に取り組まなかったことを理由として不利益を受けることはありません。
(3)事業者の役割
事業者は、社会的責任を自覚し、地域社会の発展に貢献します。
(4)子ども・青年の権利
①子ども・青年は、自分の意見を表明する権利を有します。
②子ども・青年は、まちづくりに参画する権利を有します。
③市民、議会及び行政は、子ども・青年を地域社会の一員として尊重し、その有する権利の実現と擁護を図ります。
○  市民活動センター
市は、市民が主体的・自律的に、協働して取り組むまちづくりを推進するために、市民活動センターの組織と機能及び活動内容等の整備充実を図ります。
市民活動センターでは、まちづくりに関係する市民や機関・組織・団体等との連携を図り、まちづくりのための、課題に応じたさまざまなプラットホームを形成します。
プラットホームでは、地域の課題についての相互学習や情報の共有、それに解決策・役割分担についての協議などを行い、課題解決を促します。

以上の私案で強調したい点のひとつは、住民(市民)の生涯にわたる学習権を主軸に据え、それを保障するための条件整備に関する内容をも含んだ条例にすべきである、ということである。それは、「まちづくりは人づくり、人づくりは教育づくり」という考えに基づいている。そして、まちづくりの主体形成とそれに基づく課題解決のための重要な拠点のひとつに、「市民活動センター」を位置づけるべきである、ということである。
ところで、これまでに制定された自治基本条例で、住民自治の理念を実質化するための「学習」(市民 (性) 教育、市民福祉教育)について明確に規定したものは、決して多くはない。そういうなかで、例えが次のような規定がある。

伊丹市まちづくり基本条例(2003年10月施行)
(情報の共有)
第6条 市は、市民の知る権利を尊重しなければならない。
(学習の機会の提供その他の支援)
第11条 市は、市民がまちづくりに関し理解を深めるために必要な学習の機会を設けるよう努めるものとする。
岐阜市住民自治基本条例(2007年4月施行)
(市民の権利及び役割)
第6条 市民は、市政に関して知る権利を有するとともに、広くまちづくりに参画する権利を有する。
2 市民は、自らまちづくりに関して学ぶ権利を有する。
新宿区自治基本条例(2011年4月施行)
(区民の権利)
第5条 区民は、区政に関する情報を知る権利を有する。
4 区民は、区の自治の担い手として、生涯にわたり学ぶ権利を有する。
丹波市自治基本条例(2012年4月施行)
(市民の権利)
第5条 市民は、年齢、性別、国籍、障がいのあるなし等にかかわらず一人ひとりが人間として尊重され、また、自治体における主権者として平等に市の施策や地域の自治活動、まちづくりに参加・参画する権利を持っています。
3 市民は、市政に関する情報を知り、これを得る権利を持っています。
4 市民は、自ら主体性を保ち豊かな生活と地域社会へ寄与するために、生涯にわたり学ぶ権利を持っています。

これらの規定からいえることは、学習権の保障には情報の提供と共有が必要である。市民主権・市民自治のまちづくりは、それに参加することのできる条件整備が図られ、参加の機会と手段が豊かであることによってのみ可能である、ということである。
自治基本条例の制定は、市民主権・市民自治を実現するための始めの一歩であり、条例の制定がその終わりではない。すべての住民(市民)が、条例により一層の理解と関心を深め、その必要に応じて改正し、より確かで豊かな条例にしていく。そのためには主体的・自律的な学習(市民 (性) 教育、市民福祉教育)が不可欠となる。いずれにしろ、自治基本条例を活かし、より内実の濃い住民自治の実現を図ることができるか否かは、一に住民(市民)のそれに対する理解と関心、そして参加にかかっているのである。ここで、この点を強調しておきたい。
最後に、「市民主権」について規定する、2、3の自治基本条例を紹介しておくことにする。「市政の主権者」「まちづくりの主体」など、その表現(用語)はまちまちである。

善通寺市自治基本条例(2005年10月施行)
前文
……地方分権時代を迎えた今こそ、市民主権という地方自治の原点に立ち返り、平等に情報を持ち合い、市政に参画することができる仕組みを設けることが必要です。市民、市、市議会はともに力を合わせて明日の善通寺を創造し、この仕組みを次世代に引き継いでいくこととします。……
平塚市自治基本条例(2006年10月施行)
(自治の基本理念)
第4条 市民は、まちづくりの主体です。
2 市政は、主権を有する市民の信託によるもので、議会及び市長はその信託にこたえます。
3 市は、国及び他の自治体と対等な立場で連携し、協力して共通する課題及び広域的な課題の解決を図ります。
多治見市市政基本条例(2007年2月施行)
(市民主権)
第2条 より良い地域社会の形成の主体は、市民です。
2 市民は、市政の主権者であり、より良い地域社会の形成の一部を市に信託します。
3 市民は、市政の主権者として、市の政策を定める権利があり、その利益は、市民が享受します。

参考文献
(1) 松下圭一『市民自治の憲法理論』(岩波新書)岩波書店、1975年。
(2) 松下圭一『日本の自治・分権』(岩波新書)岩波書店、1996年。
(3) 岡崎晴輝「市民自治と自己決定の理念」『政治研究』第52号、九州大学、2005年、1~23ページ。
(4) 中北浩爾「松下圭一と市民主義の成立」『立教法学』第86号、立教大学、2012年、94~108ページ。

付記
本拙稿は当初、「自治基本条例と市民福祉教育―駄々をこねる、やんちゃ坊主の2つの“フシン”―」というタイトルで「雑感」にアッフしようと書き始めましたが、引用の関係でやや長文になったことから、このカテゴリーにアップしました。

幼児福祉教育―狛江市社協のふくしえほん「あいとぴあ」20年のあゆみ―

東京の狛江市社会福祉協議会が編集した『就学前の子どもたちに贈る狛江の福祉教育―ふくしえほん「あいとぴあ」20年のあゆみ―』が、2013年3月に大学図書出版から刊行されました。その「はじめに」は、「市内の保育園、幼稚園に通う全5歳児に向けた『ふくしえほん“幼児のあいとぴあ”』の福祉教育実践が20年を迎えました。最初にこのえほんを手にした5歳児は、今年で25歳の成人です。……」と記されています。
『幼児のあいとぴあ』(福祉教育シート)の作成に当初かかわりをもたせていただいた筆者(阪野)にとっては、長きにわたるこの取り組みにはただただ頭が下がるのみです。以下に、『幼児のあいとぴあ』について筆者が最初に草した拙稿(「“福祉の心”育てたい―『幼児のあいとぴあ』(福祉教育シート)作成・配布の活動―」『現代保育』第41巻第10号、チャイルド本社、1993年、46~48ページ)を再掲し、作成の背景や経緯、当時の想いなどを紹介させていただきます。

幼児の福祉教育の必要性
幼児に対する福祉教育の必要性や重要性が指摘されて久しい。
例えば、長野県の社会福祉協議会(以下「社協」と略す)が昭和57年5月に発行した『ともに生きる―教師のための福祉教育手引書―』では、「“思いやり”というような精神性にかかわることの教育は、可塑性の大きい幼児期においてとくに重要である」という認識のもとに、「幼稚園・保育園における福祉教育」について触れている。また、神奈川県福祉部が昭和61年1月、主に保育所保母を対象に発行した『暖かい心ありがとう―幼児に福祉教育を―』では、「福祉の心」(「生命をいつくしむ心」と「思いやりの心」)は、人とのふれあいを通して幼児期に身につけさせるべきであり、「就学してからでは遅すぎる」として、「幼児福祉教育」の必要性を強調している。
しかし、幼児に対する福祉教育の取り組みは、これまで、盲・ろう・養護学校生徒と同様に、小学生や中・高校生に対するそれに比して、消極的なものにとどまっていたと言わざるをえない。
それが最近、幼児の福祉教育に関する具体的な取り組みやそのためのある種の条件整備が図られてきている。
例えば、厚生省は、平成元年度から、特別保育対策の一つである「保育所地域活動事業」、そのうちの「特別保育科目設定実施事業」の一つとして「老人福祉施設訪問等世代間交流事業」「地域における異年齢児交流事業」などの推進を図っている。
文部省は、平成元年3月『幼稚園教育要領』を改訂し、次いで厚生省が、平成2年3月『保育所保育指針』を改定・通達した。そのうち、『保育所保育指針』の「5歳児の保育の内容」においては、「人間関係」について、「(9)地域のお年寄りなど身近な人に感謝の気持ちを持つ。(10)外国の人など自分とは異なる文化を持った様々な人に関心を持つようになる」などと記されている。
また、富山県では、県と県社協が平成2年3月、幼児(5歳児)を対象に『みんな なかま』と題する福祉絵本を編集、発行している。
幼児の福祉教育は、今、緒についたばかりである。今後、人間性豊かな幼児の育成をめざして、全人格的教育としての福祉教育の積極的な展開が望まれる。
福祉のまちづくりの夢へ
東京都狛江市社協は、平成2年3月、地域福祉活動計画としての「あいとぴあ推進計画」を策定した。その計画は、ボランティア活動・福祉教育計画と在宅福祉計画の二つから内容構成されている。前者の計画では、重点事業の一つとして、市民・住民に対する福祉教育事業としての「“あいとぴあカレッジ”の開講」が構想されるとともに、児童に対して「市民参加による福祉絵本や福祉読本の作成・配布」が計画された。
なお、“あいとぴあ”とは、市民・住民の“であい”“ふれあい”“ささえあい”の三つの“あい”とユートピアを合成した言葉である。そこには、市民・住民の、福祉のまちづくりの「夢」が込められている。
平成2年8月、狛江市社協内に、ボランティア活動・福祉教育事業の企画・立案を任務とする「ボランティア活動推進委員会」(以下「推進委員会」と略す)が設置された。そして、まず、“あいとぴあカレッジ”開講のための準備が進められ、平成3年5月から8月にかけて、その基礎課程・第Ⅰ期が開講された。
次いで、平成4年7月、推進委員会のなかに「福祉えほん推進委員会」(以下「編集委員会」と略す)が設置された。編集委員会は、小学校教員1名、幼稚園長1名、保育所保母2名、それに推進委員会委員2名(福祉関係者、学識経験者)の計6名の委員によって構成されるものである。およそ月1回開催の編集会議では活発な議論が展開され、また編集会議へのイラストレーターの参加・協力、それに社協事務局スタッフの積極的・精力的な作業などを経て、平成5年3月、『幼児のあいとぴあ』(福祉教育シート、B5判、両面カラー印刷、12枚)が作成、発行された。
平成5年4月、狛江市内のすべての5歳児に対し、幼稚園や保育所などを通して『幼児のあいとぴあ』(4月号)の第1回配布が行われた。その際、資料1のような「ご家族の皆様へ」という趣意書が配布された。配布に先立ち、幼稚園・保育所関係者に対して、趣旨説明と配布の協力依頼も行われている。
以後、毎月1回、シートと、それに併せて資料2の「保護者のみなさまへ~『幼児のあいとぴあ』ご案内~」、それに50名を対象に「幼児のあいとぴあアンケート」(葉書)を計画的・継続的に配布している。
シートの編集は幼児の生活体験を通して
幼児に対する福祉教育は、様ざまな日常的な生活体験を通して、またその一環として展開されることが肝要である。しかも、その際、幼児の年齢や発達段階をはじめ、興味や関心の方向、生活の連続性や関連性、それに親・きょうだい・友達・保育者などとの人間関係などを考慮することが必要かつ重要となる。こういった考え方をベースにして、そして次のようなねらいと方針のもとに、シートの編集が行われた。
〈ねらい〉
人とのかかわりの基本となる自立と連帯の心や力の育成を図る。
〈方針〉
①子供が好奇心や興味・関心をもち、楽しく遊べるよう工夫する。
②子供の日常的な遊びや生活にかかわる身近な素材を取り上げる。
③子供の生活(家庭生活、園生活、地域生活)の連続性や相互補完性に留意する。
④子供個々人の特性や発達段階に応じた活用ができるよう配慮する。
⑤各シートからいろいろな話題を引き出し、豊かな発展的な活用が促されるよう工夫する。
⑥親、きょうだい、仲間・友達、それに保育者などとの活用が図られるよう配慮する。
⑦福祉的な心情のみならず、福祉的な判断力や実践意欲、態度などが育成されるよう工夫する。
なお、『幼児のあいとぴあ』(シート)の4月号から3月号の内容〈テーマ〉は次の通りである。4月・ともだちいっぱい、5月・たんけんごっこ、6月・いろんなことば、7月・わたしのかぞく、8月・いなかのおばあちゃん、9月・わたしもできるよ、10月・あかいはね なあに?、11月・こまえだいすき、12月・だいじなおもちゃ、1月・せかいのともだち、2月・きれいなまち、3月・もうすぐ いちねんせい。

狛江市社協の『幼児のあいとぴあ』に関する論稿には次のようなものがあります。参考にしていただければ幸いです。本文中から、「当面(今後)の課題」についての叙述部分の一部を付記しておきます。
(1) 阪野貢「幼児の福祉教育に関する研究」『日本保育学会第46回大会研究論文集』福岡教育大学、1993年、594~595ページ。
(2) 阪野貢・小楠寿和「福祉絵本づくりの活動―幼児に対する福祉教育―」『福祉文化研究』第3号、福祉文化学会、1994年、80~87ページ。
「編集委員会では、『幼児のあいとぴあ』の内容の充実と有効活用のあり方などをめぐる当面 の課題として、およそ次のような点が挙げられている。
①シートの内容の充実を図るために、子どもの反応や保護者の評価に関するアンケート(「幼児  のあいとぴあアンケート」)の内容や実施時期・回数などについて再検討する必要がある。
②子どもの反応や保護者の評価に加えて、シートに関する幼稚園教員・保育所保母自身の理解や認識、参加や協力などについて意識・実態調査を実施する必要がある。
③シートの配布がひとつのきっかけとなってもつようになった、子どもや保護者、教員や保母などの福祉問題への興味や関心をさらに深化・拡大させるためには、福祉的な実体験活動を展開する必要がある。
④狛江市や関係機関・団体などの協力を得て、シート発行の趣旨の理解の徹底を図るとともに、幼稚園や小学校の教員、保育所保母などに対する福祉教育研修や保護者への福祉教育・啓発活動を実施する必要がある。
⑤子どもや保護者、教員や保母などに対する福祉教育・啓発活動を推進するためには、家庭や学校、地域の関係諸機関・施設・団体などの横断的・有機的な連携・協働を図る必要がある。」(87ページ)
(3) 小楠寿和「福祉えほん“幼児のあいとぴあ”の発行と配布」大橋謙策編著『地域福祉計画策定の視点と実践~狛江市・あいとぴあへの挑戦~』第一法規出版、1996年、222~231ページ。
「幼児に対しての福祉教育事業の展開も、単に福祉えほんの活用を中心に考えるのではなく、幼児の日常生活の中での体験をより重視するとともに、生活環境自体を整備していく方向での展開が考えられる。(中略)
いずれにせよ、福祉えほん“幼児のあいとぴあ”の作成は、親子の会話を通して家庭における福祉教育の展開を目的に始まった取り組みであったが、現在、幼児に福祉媒体を提供する段階から、子供の生活全般へと視点を広げ事業を展開する必要が生まれてきている。」〈231ページ〉
(4) 中島修「就学前の子どもと地域における福祉教育」村上尚三郎・阪野貢・原田正樹編著『福祉教育論』北大路書房、1998年、74~81ページ。
「狛江市社協の取り組みの今後への課題としては、
①福祉えほんの活用を幼稚園・保育園から小学校につなげ、幼児から高齢者までの体系的な福祉教育展開のなかに福祉えほんを位置づける。
②福祉えほん活用マニュアルを作成し、そのマニュアルに基づきつつ各園での日常保育と結びついた柔軟な活用ができるような研修会の充実。
③福祉えほんの活用をさらに進めるために、子ども自身の反応(学習成果)を客観的に判断できる評価方法の検討。
④保護者にも社会福祉問題に関心と理解をもってもらえるように、福祉えほん活用についての研修・講演会の企画。
⑤福祉えほんの活用によって園外保育などが促進され、園と地域住民が連携できるようなしくみを検討し、園と家庭だけではない子どもと地域住民との接点を模索し、体験プログラムの充実を図る。」(80ページ)

市民主権・市民自治と市民福祉教育

1995〈平成7〉年7月施行の地方分権推進法や2000〈平成12〉年4月施行の地方分権一括法などによって、地方分権改革が推進されている。それは、明治維新、戦後改革に次ぐ「第3の改革」ともいわれる。2011〈平成23〉年5月と8月、2013〈平成25〉年6月には、「地域の自主性及び自立性を高めるための改革の推進を図るための関係法律の整備に関する法律」(第1次一括法、第2次一括法、第3次一括法)が公布・施行された。こうした地方分権改革は、国から独立した地方公共団体が自らの権限と責任において、自主的・自発的な地方行政を行う「団体自治」の強化を求める。とともに、地域主権や住民(市民)主権の確立のもとで、住民(市民)主導・優位のまちづくりをめざす「住民自治」(「市民自治」)の推進を必要不可欠とする。
本論に先立ちここで、上述のうちから、ひとまず次の文言をめぐって若干のコメントを付しておきたい。「主権」とは、他に譲ることのできない、また他から侵されることのない最高の自己決定権。「住民」(residents)とは、県民や市・町・村民など、一定の行政区域に住んでいる人。「市民」(citizen)とは、市民社会や公共性などについての理解と関心のもとに、まちづくりへの主体的参加と協働を進めることができる人。「住民」は、生涯にわたる教育・学習によって、また相互交流や実践活動などを通して「市民」へと自己変革、自己変容する。「市民主権」「市民自治」は、単なる理想概念ではなく、未だ不完全であるが、未来に向かって実現せんとする規範概念。すなわちこれである。
さて、こんにち、国家統治から住民自治へ、ローカル・ガバメント(local government)からコミュニティ・ガバナンス(community governance)、ネイバーフッド・ガバナンス(neighborhood governance)への転換の必要性が指摘され、そのあり方が問われている。国家と国民、自治体(地方政府)と住民の関係は、これまでもっぱら、「支配者」対「被支配者」、「統治者」対「被統治者」という支配的・権力的関係、すなわち「上下の関係」にあった。1990年代以降、地方分権や地域主権が叫ばれ、その改革が推進されるなかで、時代状況は支配からの解放、権力かの自由、すなわち「対等・協力の関係」を求めている。まちづくりの主役である住民が地方政府や行政の運営に参加(参集、参与、参画)する、住民主導・住民優位の自治関係を形成する必要がある。自治体のあり方を決めるのは主権者としての住民一人ひとりであるという住民主権に基づいて、住民自治を充実、発展させていかなければならない。そして、地域社会の持続可能性を確保し、すべての住民にとって安全・安心で、豊かな地域社会の維持・再生を図らなければならない。いま、そうした状況と時期にある。
主権者としての「住民」を名実ともに住民自治の主体として位置づけ、「市民」へと形成、変容させるためには、自治体と住民との支配的・権力的関係を解放する。とともに、住民自らが、単なる行政サービスの顧客や、政治や行政の観客(「観客民主主義」)としてしか関与してこなかったという、これまでの意識の変革や状況からの脱却を図る必要がある。換言すれば、主権者としての住民が、その権利を能動的・積極的に行使することができる仕掛けと仕組みを創造、構築するとともに、一人ひとりの住民が、まちづくりへの参加について自発的・内発的に、主体的・能動的・自律的に意思決定し、行動することが肝要となる。
住民自治とは、平易にいいかえれば、「住民自らが考え、意思決定し、行動すること」である。その際、ある一定の地域を自分(自分たち)の「こと」や「もの」としてのみ考えることは、異質者や外部者を排除する排他主義を生み出す。共生や協働のない自治は、個人主義や利己主義を加速させ、社会的孤立を生む。留意すべき点である。
自治体(地方政府)の意思決定の主体は住民である。住民は、地域のありようを決定する主権者であり、主役である。また、自治体の政策立案・決定・実施は、自治体の首長や議員、行政職員などにその全てが委ねられがちであるが、それらには信託されている限りにおいてその役割や機能を果たすことが求められる。とりわけ、その地域なかでも近隣地域における個別具体的な諸問題や矛盾については、その解決や克服に向けて住民自らが主体的・積極的に、単独であるいは協働して政策を立案・決定し、実施することが必要かつ重要となる。そして、住民には、その自らの決定や行動を自由に実行することができるとともに、その結果については自己責任を負うことが求められる。自己責任の伴わない自治は、身勝手な利己主義や自己中心主義に陥る。これが「住民主権」や「住民自治」(「近隣自治」)の本義である。
ところで、地域の諸問題や矛盾について主体的・能動的・自律的に議論し、決定することができる住民(「市民」)は、果たしてどれほどいるのか。いわれるように、政治や行政、地域が抱える諸問題や矛盾、まちづくりなどに無知、無関心の住民は決して少なくない。その無知、無関心が、権利意識や役割(責務)意識の自覚を妨げている。とはいえ、そうした無知、無関心は必ずしも固定的・不変的なものではない。一人ひとりの住民は、生涯にわたる教育・学習によって意識変革や態度・行動の変容、自治意識や公共心の覚醒や醸成を期待することができる存在である。それも地域(近隣地域)における集団的実践としての参加と討議を通じて可能となる。参加デモクラシーと討議デモクラシーが要請され、その実質化が求められるところである。具体的には、民主的な参加と討議の“場づくり”からはじまり、住民自治のための住民の“意識づくり”、住民自治の推進に取り組むリーダー等の育成に向けた“人づくり”、そしてそれらを実現するための “仕掛けづくり”と“仕組みづくり”などが必要となる。
いうまでもなく、住民自治や近隣自治は、それ自体が目的ではない。それは、すべての住民にとって安全・安心で、豊かな地域社会の維持・再生を図るための手段である。住民自治や近隣自治の推進を図るに際して、手段の自己目的化に陥ることのないよう留意する必要がある。また、住民自治や近隣自治を実現するためには、希薄化した住民間の関係性を再生し、低下した住民間の連帯感や協働意識の醸成・向上を図る。とともに、近隣住民が抱える日常的な地域生活上の諸問題や矛盾に対する理解と関心、それらを解決するための具体的な実践活動や社会運動(市民運動)への主体的・能動的・自律的な参加を通して、地域社会の一員としての当事者(場合によっては、私事として受けとめる当事者性)意識や自治意識の醸成・向上を促す。これらが必要かつ重要となる。
なお、自治意識とは、地方自治や住民自治・近隣自治に関する知識や、自治運営についての関心や意見などをいう。それは、住民の地域・近隣に対する自覚と意識、日常的な地域生活上の必要と要求に支えられるものである。したがって、単なる知的理解だけでなく、具体的な実践や運動(「体験学習」)によって、その醸成・向上が図られることになる。その際、行政の透明性の確保と説明責任の遂行、行政からの住民に対する積極的な情報提供と住民との共有などが必要不可欠となる。
以上の諸点を福祉教育に関していうとすれば、「市民福祉教育」のあり方が問われるとともに、市民福祉教育を具体的に実践・展開する「場」や「機関」「組織」が求められることになる。そのひとつは、従来からの学校や社協、福祉施設、それに公民館などであるが、ここでは「市民活動センター」に注目しておきたい。その際の市民活動センターは、行政主導の市民活動「支援」センターではなく、行政や社協、NPO等の民間組織・団体などによって共同設置され、行政、社協、NPО、住民(市民)などによって共同運営されることが望ましい。そして、そこに、ひとつのプラットホームとして、「市民自治」「まちづくり」「福祉教育」などをキーワードにした「市民福祉教育推進プラットホーム」を形成し、福祉の(による)まちづくりのための市民活動・運動や協働活動の推進を図ることが期待される。そのプラットホーム(「横割りのゆるやかなネットワーク」)を開設・管理・運営するのは、行政、社協、学校、PTA、福祉施設、公民館、自治会・町内会、民生委員・児童委員、NPО・ボランティア団体、保健所、医師会、商工会議所・商工会などになろう。
最後に、イギリスの政治学者であるジェームズ・ブライス(James Bryce)が、その著『近代民主政治』(Modern Democracies,1921年)のなかでいった「地方自治は民主主義の学校である」ということばを思い起こしておきたい。地域の諸問題や矛盾に向き合い、地方自治の実践を展開するなかで民主主義を学ぶことができ、民主主義が育まれる、といった意味である。同様に、「福祉の(による)まちづくりは民主主義の学校である」ともいえようか。その点において、市民福祉教育は、真の自治と民主主義を確立するための教育活動である。
(小滝敏之『住民自治の視点と道程』公人社、2006年。小滝敏之『市民社会と近隣自治』公人社、2007年、等参照)

「くえびこ」に想う

「障害者ら団結 缶バッジ販売」という二段抜き主見出しと、「介護者不足、事業所閉鎖に立ち向かう」「福島21団体が事業化」という2本の袖見出しの、地元新聞の記事(3月6日)に目が留まった。そこには白石清春氏の写真が大きく掲載されていた。彼はいま、福島県郡山市で「被災地障がい者支援センターふくしま」の代表として、障がい者の支援活動や運動を展開しているという。
彼は脳性まひのために車椅子生活をするが、その強く、激しく、そして誇りある生きざまから多くを学んだのは、筆者(阪野)だけではあるまい。青い芝の会の運動、とりわけ川崎駅前でのバスジャック闘争(1977年)や養護学校義務化阻止の運動(1979年)の顛末については、地域作業所やときには居酒屋などで彼から聞いている。
筆者が彼のことを知るのは、彼が1980年6月に相模原市で「脳性マヒ者が地域で生きる会」を結成した頃である。その後、彼は、地域作業所「くえびこ」(1982年4月)やケア付き住宅「シャローム」(1986年6月)の開設などを通して、障がい者の自立生活運動に取り組む。そして、1989年に郡山市に戻る。彼との直接的なかかわりは、5、6年のわずかな期間に過ぎない。
「脳性マヒ者が地域で生きる会」は、脳性マヒ者など障がい者の基本的人権の確立をめざし、具体的には、障がい者の自立と社会参加を促す「制度改革」と、障がい者や地域住民が「地域」で「生きる」ことの理解と認識を深める「意識改革」に取り組むための組織であった。「くえびこ」は、企業などの下請け作業は行わず、脳性マヒ者などが地域で生きるための運動の拠点、また個々の障がい者が自立生活能力を身につけていくための地域・生活学習の場として位置づけられていた。ちなみに、「くえびこ」(久延毘古)とは、日本神話に登場する神(「崩え彦」)で、田畑に立って農作物を鳥獣から守る案山子(かかし)を意味する。
かつて筆者は、彼とのかかわりを通して、「障害者の自立と福祉教育」と題する拙稿を草したことがある。以下に、そのうちから、彼の取り組みに関するコメントと管見の一部を掲載する。

彼らの取り組みは、時には力強く、時にはしなやかに、そしてなによりもしたたかである。彼らは、主体的な自己学習・相互学習をとおして、障害者がおかれている歴史的・社会的状況を科学的・客観的に認識する。そして、さまざまな危険(リスク)に挑み、多くの失敗を経験しながら、自立生活を求めて、自己実現をめざして主体的に行動するのである。その際、地域住民との社会的連帯を形成し、社会的諸施策の決定過程に参加することを自立の要件の一つとしてとらえていることが注目される。(中略)
自立とは、日常生活における自己選択、自己決定、自己管理、そして自己実現の行為とその過程をいう。換言すれば、自立とは、日常生活のなかで、生きがいをもってその人らしく自主的・主体的に生きぬくこと、そのための努力をすることを意味する。したがって、それが必要な時には、積極的に他者に依存し、他者から援助や協力を受けることも自立といえるのである。
こういった障害者の自立は、人格の完成と自己創造、自己実現をめざす障害者自身の自己教育活動によって初めて可能となる。また、それは、地域住民の障害者に対する偏見や差別が解消され、地域生活主体としての障害者と一般住民の間に相互支援的な関係――社会的「連帯」が構築されることによって成り立つ。
自立なくして連帯はなく、連帯なくして自立はない。ここに、福祉教育の本質的で実践的な課題がある(『福祉教育の創造』相川書房、1989年、144~146ページ)。

筆者は、市民福祉教育について言及する際に、福祉サービスの「利用主体」に対する福祉教育や、福祉の(による)まちづくりの「運動主体」形成を図るための福祉教育にこだわってきた。そのこだわりは、このコメントからも読み取れるように、彼の、障がい者自身による自立生活運動に対する思いや取り組みからの“学び”にあるのは確かである。

付記
およそ25年ぶりに彼と電話で話すことができました。お互いに、相模原市でのことを思い出すのに時間を要することはありませんでした。
白石清春氏のますますのご健勝とご活躍をお祈り申し上げます。

自己教育力と市民福祉教育

市民福祉教育は、福祉文化の創造や福祉の(による)まちづくりをめざして日常的な実践や運動に取り組む主体的・自律的な住民(市民)の育成を図るための教育活動である。市民福祉教育のこのような規定は、内実的には、子どもから大人まで、教育の全領域において、また生涯学習とのかかわりで「自己教育力」(self-directed learning、self-educational ability)の育成を必要とする。
自己教育力という言葉(概念)は、社会教育における基本的な概念のひとつである「自己教育」と同様に、多義的で、その解釈は多様であ。たとえば、稲川三郎は、その著『自己教育力を育てる指導の実際』(黎明書房、1985年)で、自己教育力とは、「字義的に解釈すれば、『自分が』『自分を』『教育する』『力』ということになる。あるいは、『自分で』『自分を』『教育することのできる』『力』ということになる。と言うと、『自分が自分を』『自分で自分を』というのであるから、同じひとりの自分の中に、『教育する自分』と、『教育される自分』とが、なければならないということになる」(70ページ)と述べている。稲川によるこの部分の説述については、平易で分かりやすいとはいえ、その本質すなわちその性格や内容などについて理解するには不十分であるといわざるを得ない。
ところで、学校教育の改善策のひとつとして自己教育力の育成を最初に提唱(政策提言)したのは、1980年代の中央教育審議会である。具体的には、第13期中央教育審議会に設置された「教育内容等小委員会」が、1983年11月にそれまでの審議結果を取りまとめた「審議経過報告」においてである。そこでは、「自己教育力とは、主体的に学ぶ意志、態度、能力などをいう」として、次の3点について説いている。(1)「自己教育力とは、まずもって、学習への意欲である。児童生徒に学習への動機を与え、学ぶことの楽しさや達成の喜びを体得させることが大切である」。(2)「自己教育力は、さらに学習の仕方の習得である。今後の社会の変化を考えると、将来の日常生活や職業生活において、何をどのように学ぶかという学習の仕方についての能力を身に付けることが大切である」。(3)「自己教育力は、これからの変化の激しい社会における生き方の問題にかかわるものである。特に中等教育の段階では、自己を生涯にわたって教育し続ける意志を形成することが求められている」(『文部時報』第1279号、ぎょうせい、1983年、32~33ページ)。すなわち、自己教育力は、(1)学習への意欲、(2)学習の仕方の習得、(3)生き方の探求(生涯にわたる自己教育の意志の形成)、の3つの構成要素からなる、というのである。
なお、この「『自己教育力』の育成」等の「報告」は、「答申」でないがゆえに、学習指導要領の改訂にはつながらなかった。また、自己教育力という言葉に関しては、教育内容等小委員会の報告が出される10年以上も前、1971年4月の社会教育審議会答申(「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」)のなかで、社会教育の基礎は「自発的な学習意欲」にあることが力説されている。中央教育審議会は、1981年6月に「生涯教育について」の答申を出すが、そこでは、「今日、変化の激しい社会にあって、人々は、自己の充実・啓発や生活の向上のため、適切かつ豊かな学習の機会を求めている。これらの学習は、各人が自発的意思に基づいて行うことを基本とするものであり、必要に応じ、自己に適した手段・方法は、これを自ら選んで、生涯を通じて行うものである。その意味では、これを生涯学習と呼ぶのがふさわしい」とされた。この点を付記しておく。
第13期の中央教育審議会教育内容等小委員会報告以降、自己教育力について述べているものに、1984年9月に内閣総理大臣(中曽根康弘)の諮問機関として設置された臨時教育審議会の答申がある。たとえば、1986年4月の第2次答申では、「初等中等教育の改革」に関する「教育内容の改善の基本方向」について、「初等中等教育においては、生涯にわたる人間形成の基礎を培うために必要な基礎的・基本的な内容の修得の徹底を図るとともに、社会の変化や発展のなかで自らが主体的に学ぶ意志、態度、能力等の自己教育力の育成を図る」と述べ、具体的には「創造力・思考力・判断力・表現力の育成」(『教育改革に関する答申(第一次~第四次)』大蔵省印刷局、1988年、87ページ)を重視している。また、同答申では、「これからの学習は、学校教育の自己完結的な考え方を脱却するとともに、学校教育においては自己教育力の育成を図り、その基盤の上に各人の自発的意思に基づき、必要に応じて、自己に適した手段・方法を自らの責任において自由に選択し、生涯を通じて行われるべきものである」(67ページ)。そのためには、「生涯学習を可能にし、促進し得るような社会の制度と慣行を生み出す学習社会の建設」(65ページ)をめざした、「生涯学習体系への移行」による「21世紀のための教育体系の再編成」が必要である、としている。
その後、第15期中央教育審議会が、1996年7月、「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の第1次答申において、「ゆとり」のなかで「生きる力」を育むことを重視する、と提言した。その点に関して次のように述べている。「これからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を『生きる力』と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた」。
次いで、2003年10月には、第2期中央教育審議会によって、「初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・改善方策について」答申がなされた。そこでは、「生きる力」を知の側面から捉えた「確かな学力」の育成を進めるべきであることの考え方が示された。そして、「子どもたちに求められる学力としての『確かな学力』とは,知識や技能はもちろんのこと,これに加えて,学ぶ意欲や,自分で課題を見付け,自ら学び,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を解決する資質や能力等までを含めたものであり,これを個性を生かす教育の中ではぐくむことが肝要である」と述べている。
「自己教育力」は、およそ以上のような答申や報告に基づく教育施策の歴史的変遷のなかで、今日の学校教育におけるひとつの鍵概念である「生きる力」や「確かな学力」などに包含される重要な能力として位置づけられている、といえよう。なお、発表(発行)の時期は前後するが、ここで、当時日本教育新聞編集局長であった有園格の次の論説に留意しておきたい。「自己教育力のとらえ方、考え方にはさまざまな解釈、論理の展開がみられる。しかしこれは自己教育力を人間の基本的な諸能力、価値志向、生き方の探究などを包括した統合概念として位置づけてきたからである。だからといって統合概念としての自己教育力の位置づけが間違っているとはいえないし、むしろ人間の問題を統合的にとらえる教育観および教育実践の目を育てることに役立つものと考える」(「教育改革論議と自己教育力」北尾倫彦編集『自己教育力を考える』(別冊指導と評価2)日本図書文化協会/図書文化社、1987年、18ページ)。
ここで、自己教育(力)に関するひとつの言説を紹介しておくことにする。今日おいてもしばしば引用あるいは援用される、梶田叡一のそれである。
梶田は、その著『自己教育への教育』(明治図書、1985年)で、「教師によって、またその学校での教育によって、教えられ育まれてきたものを土台として、自分自身でさらに学び、成長し続けることができるかどうかということ」、すなわち「自己教育の力を育てるということは、学校教育の持つ本質的な使命である。いや、教育という営みの全てが持つ本質的な使命と言ってもよい」(11ページ)。「自己教育とは、結局のところ、その人の生き方の問題にほかならない。(中略)自らの接するところ体験するところのすべてを、自己の認識の拡大深化のための糧とし、自己成長のためのきっかけとする、というのが自己教育である」(49、52ページ)と説いている。そして、自己教育への構えや意欲、そのための技能(「自己教育の構えと力」)を意味する「自己教育性」は、次の4つの側面が特に重要な意義をもつと考える。(1)成長・発達への志向、(2)自己の対象化と統制(コントロール)、(3)学習の技能と基盤、(4)自信・プライド・安定性、がそれである。それぞれについて、梶田は、(1)は、自分なりの「ねがい」(長期的な目標)と「ねらい」(当面の目標や課題)、そして「やる気」(達成と向上の意欲)をもって、自己の成長・発達をめざす力、(2)は、自分自身の現状や課題、可能性などについて認識、評価し、自分自身をコントロールして一定の方向へ向けていく力、(3)は、基礎的・基本的な学力(知識、理解、技能)と、それに基づく学び方の能力(知識、技能)、(4)は、以上の3つの側面を支える、自分なりの自信とプライド、そしてそれに支えられた心理的な安定性、であると述べ、自己教育力はこうした4つの側面から構成されるとしている(36~53ページ)。
以上から、ここで、論拠が不十分であることは承知のうえで、市民福祉教育のひとつの鍵概念となる自己教育力についての管見を述べておくことにする。
その要点は、自己教育力は学習への意欲の形成や学習の仕方の習得などとして狭く捉えるべきではない。自己教育力は、学校教育においてのみ育成されるものではない。それは、稲川がいう「自分が自分を」「自分で自分を」教育する力だけではなく、他者や、自分を取り巻く社会的状況や文化的環境、自分のライフステージやライフスタイルなどによって影響される。すなわち、自己教育力は、生涯にわたって自発的に学ぶ意欲(欲求と意志)や姿勢をもって、地域・社会の新たな変化や問題状況に主体的かつ積極的に対応し、自分ひとりであるいは他者と協働しながら、課題解決を自律的・能動的に図るために必要な能力である。それは、自らの生き方について、自省しながら是正・改善し、よりよい生き方を創造していく能力でもある。そういう点において、自己教育力は、「自己学習」「自己形成」「自己啓発」「自己統制」「自己陶冶」「自己実現」等々の概念を統合したものである。そしてそれは、福祉の(による)まちづくりにつながり、またつなげなければならない重要な概念である、といえよう。市民福祉教育は、こうした自己教育力をいかに育成し、その伸長を図るかが問われるのである。
なお、自己教育力に似た言葉に「自己学習力」がある。それは、知識や情報などを対象に、単に自分でそれらを学び、身につれる力を意味する。自己学習力は、自己教育力とは異なり、自らの「生き方」の問題やよりよい価値の創造を含まない言葉(概念)である。付記しておく。

車椅子は乗るものであり、押すものではない

筆者(阪野)が学外ではじめて愚考を開陳したのは、1982年12月、島根県社協主催の「島根県社会福祉研究指定校連絡会議」であり、その時のテーマは「福祉の心と福祉教育」であった。2013年3月、福井県社協主催の「市町社協ボランティアセンター実践研究会」が開催され、そこで「学校と地域と社協がつながる福祉教育とは」というテーマで管見を述べる機会を得た。これが大学教員としては最後の講演となる。
会議の名称やテーマを一瞥しただけでも、「学校福祉教育」から「地域福祉教育」への転換を読み取ることができる。ちなみに、福井県社協では、1978年度からおよそ30年間にわたって取り組んできた「福祉協力校指定校事業」を、2009年度から「地域ぐるみ福祉教育推進事業」に移行させた。その目的は、「市町社協において、学校を含めたさまざまな社会資源との協働により、地域を基盤として福祉教育の実践を行い、地域福祉の推進を図る」ことにある。また、福井県社協では、2012年度から、「地域見守りフレンズ育み講座」と「地域コミュニティパートナー養成研修」により構成される「地域支え合い体制づくり人材育成事業」を推進している(『月刊福祉』2013年3月号参照)。これも「地域ぐるみ福祉教育推進事業」(地域福祉教育)の一環と考えられる。
福井県社協主催の今回の実践研究会では、いつものことではあるが、筆者にとっても多くの気づきや学びがあった。そのひとつは、「車椅子は乗るものであり、押すものではない」という一言である。
福祉教育実践では、障害や高齢の擬似体験として、車椅子を活用したそれが実施されてきた。そこには最初から、障がい者や高齢者は一方向的な「思いやりの心」をもって対応すべき「弱者」(客体)である、ということが想定されているといってよい。したがってそこでは、障害のない者や若者の優位性が強調され、それを発揮することが期待される。とともに、福祉教育実践に求められるICFの視点が欠落しがちである、ことを意味する。これまでの福祉教育実践では、「思いやりの心」を表すものとして「車椅子を押す」ための知識や方法・技術を学ぶことに偏りがちであった。それはときとして、「思い上がりの心」を抱かせることに繋がった、などというのは言い過ぎであろうか。
車椅子に乗るのは、生活機能の向上を図り、豊かな生活や人生を送ろうとする障がい者や高齢者、そのひと本人(主体)である。それはまた明日の自分でもある。福祉教育実践の展開過程では、障害理解や障がい者理解、障がい者の暮らし理解などを踏まえて、「車椅子は乗るものであり」、そして「車椅子は押すものでもある」という理解と認識を螺旋階段を登るように促し、深めていくことが肝要となる。
なお、場違いな蛇足ではあるが、主体と客体の関係をめぐってボランティアの世界で多用される、動詞に近い文章に、May I help you ? というのがある。「何か手伝いましょうか?」といった意味であろう。その際の主語はあくまでも「I=私」である。したがってそれは、「I=手伝う者」と「you=手伝ってもらう者」という、立場を異にした者の間に上下関係を生ぜしめることにもなる。その関係を乗り越えるためには、お互いのあり様を認知し、共感、理解、受容するための感性(心に感じ取る受動的または能動的・創造的な能力)や思考(頭すなわち理性を働かせて考えること)、そして実践行動(ある考えや価値観に基づいた行為や生き方)、言い換えれば感性的認識、理性的認識、そして実践的認識が求められる。福祉教育が存立し、その内容や方法が問われるところである。

「ヨコの広がり」と「タテの深まり」

昨日、『月刊福祉』4月号が届いた。そこでは、「福祉教育の今とこれから」と題する特集が組まれている。その巻頭を飾っているのは、原田正樹先生(日本福祉大学)の論文「福祉教育実践の新潮流―共生文化の創造をめざして」である。
そこで先生は、「福祉教育の新潮流の全体像をスケッチしてみる」として、「ICFの視点を取り入れたプログラム」「リフレクションを意識したプログラム」「まちづくりに広がるプログラム」「身近な地域での計画策定によるプログラム」「社会的包摂を意図したプログラム」をめぐって説述する。この5項目は、福祉教育の当面の実践課題であり、実践理論を構築するためのひとつの枠組みや方向性を示すものでもある。そして先生は、「福祉教育実践は、ネクストステージ(次の段階)を迎えようとしている。福祉教育の魅力のひとつは、制度に頼らない草の根の実践であるところにある」。福祉教育実践の広がりを期待するためには、システムやネットワークだけでなく、「実践を後押しする理論を構築していくこと」こそが必要である、と力説する。
原田先生はかつて、大橋謙策先生の福祉教育論について、「教育原理を踏まえた構造的な福祉教育理論体系」であり、ひとつの「原理論」としての枠組みが提示されている、と評した(『年報』創刊号、日本福祉教育・ボランティア学習学会、1996年)。「憲法13条、25条等に規定された人権を前提にして成り立つ平和と民主主義社会を作りあげるために…」からはじまる大橋先生の福祉教育の概念規定は、今日においても多用、援用され、それに依拠した立論がなされている。
そういうなかで、松岡広路先生(神戸大学)がかつて、一番ヶ康子先生の福祉教育の概念規定とともに、大橋先生のそれは「包含的・総合的」であり、「汎用的」である。「汎用的であるがゆえに、同時に、脆弱性を併せもっている」。「脆弱性を項目化すると、〈未分化な学習者像〉、〈社会福祉活動の内実の曖昧さ〉、〈楽観的な社会形成ビジョン〉、〈教育概念の曖昧さ〉と約言できる」、と批判した(『研究紀要』第14号、日本福祉教育・ボランティア学習学会、2009年)。
松岡先生が指摘する「総合的」の対義語は「分析的」である。「汎用的」の対義語は「専門的」である。福祉教育が対象(学習素材)とする地域の社会福祉問題については、それが個別具体的で多様性に富む存在であり、歴史的・社会的なものであるがゆえに、分析的な理解と総合的な判断を必要とする。福祉教育は福祉の(による)まちづくりに取り組む住民主体形成を図るための教育活動であるが、まちづくりや福祉教育の実践には「ヨコの広がり」(汎用性)と「タテの深まり」(専門性)が重要となる。
大橋先生の概念規定が提示されたのは30年前である。そしていま、経済・社会の激動に対応して福祉や教育が変動するなかで、「学校福祉教育」から「地域福祉教育」へ、そして両者を融合した「市民福祉教育」の推進が求められている。それは、福祉教育やその実践の総合性と分析性、汎用性と専門性をバランスよく組み合わせたシステムやネットワーク、それに新たな福祉教育理論の構築が急がれることを含意する。その構築をより豊かで、確かなものにするのは、草の根の福祉教育実践であることはいうまでもない。

社会的不条理が跋扈

福祉教育と教育福祉の研究者のひとりに村上尚三郎先生がいる。先生は、筆者(阪野)にとっては、長きにわたってご懇篤なるご指導と格別のご高配を賜っている恩師のひとりである。
村上先生は現在、大阪の某短期大学の学長を務められているが、その大学のホームページにアップされている「学長メッセージ」は実にシンプルである。それゆえにアピール性が強い。「現在、社会的不条理が跋扈。人間関係における不調和がもたらすいじめ問題が、その最たるものである。」というのがそれである。「真実」はいつもシンプルであり、人によって作られるのであろうか。
「跋扈」(ばっこ)とは、強くわがままに振る舞うことを意味する。また、「いじめ」は、なにも子どもの世界だけの問題ではない。大人の世界におけるそれは、時と場合によっては組織的であり、卑劣極まりないものがある。
市民福祉教育は、社会福祉問題を解決するための実践や運動に主体的・能動的・自律的に取り組む住民主体形成を図るための教育活動である。市民福祉教育の実践や研究にかかわる者にまず求められるのは、一人ひとりの住民の、日々の暮らしにおける“悩み”や“苦しみ”、“怒り”や“悲しみ”、ときには“憎しみ”などの想いを、「社会福祉問題」のなかに広く、深く読み解くことである。また、福祉や教育に携わる者として忘れてはならないものに、「正義」と「倫理」がある。ある意味では、正義とは他者に対して公正で道徳的であることをいう。倫理とは他者に対して真摯で裏切らないことをいう。強く、深く留意したい。

教育における権力と権威―いじめの次は体罰か―

学校教育現場で、“いじめの次は体罰か!”という問題が生じています。福祉の世界でも同じようなことがあり、福祉施設では、利用者が職員から身体的虐待を受けたというマスコミ報道がなされますが、実は職員が経営者から心理的虐待を受けている場合もあります。私は、主に知的障がい者を対象にしている障害福祉サービス事業所に勤めていましたが、昨年の12月末、経営者の「総合的な判断」「分かるでしょ」とやらで、一方的に退職を強いられました。客観的・合理的な理由のない不当解雇であり、解雇権の濫用による不法行為であると思っています。福祉や教育について発言されている先生の考えを聞かせて下さい。

このようなコメントをブログ読者からいただきました。まず、前段の教育現場での体罰の問題については、次のように考えます。
学校現場ではこれまで、1970年代から「校内暴力」、1980年代後半から「いじめ」、1990年代から「不登校」、1990年代後半から「学級崩壊」、等々の問題を抱えてきました。そして、今回、潜在化、常態化していた「体罰」の問題が明るみになりました。
周知のように、学校における体罰は学校教育法(第11条)で禁止されています。「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」というのがそれです。しかし、それ以前に、体罰は人権侵害の行為のなにものでもなく、人間としての尊厳や自尊心を傷つけることは必定です。体罰をめぐって「愛のムチ」という言葉が使われることもありますが、それは空虚で、欺瞞に満ちた単なる“美辞”に過ぎません。そもそも暴力(身体的暴力、精神的暴力)を伴う体罰に訴えなければ教育・指導ができないということは、教師の資質と能力が厳しく問われるとともに、教師自らが教育とその責任を放棄するものであると断ぜざるをえません。
ところで、教育や教師の世界においてはこれまで、「権力」と「権威」をめぐる問題が教育哲学などの分野・領域で議論されてきました。学校における教育や教師に、(教育的)権威が不必要であると考えることはできません。しかし、その権威は、選択権のない被支配や服従、排除などを強要・強制するだけの、狭く偏った権力の行使に堕落してしまう危険性があります。体罰は不当な、悪しき権力の行使である、ということについては多言を要しません。
「権力」と「権威」について、『広辞苑』(第6版、岩波書店、2008年)は次のように説明しています。「権力:他人をおさえつけ支配する力。支配者が被支配者に加える強制力。」。「権威(authority):①他人を強制し服従させる威力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力。②その道で第一人者と認められていること。また、そのような人。大家。」。ここではとりあえず、権力は人を強制する力(power)であり、権威はそれに服する人の承認に基づくものである。権力を正当化するのは権威である、ということを確認しておきます。
ところで、教育的人間関係(かかわり)について多面的に研究する教育学者に岡田敬司(京都大学)がいます。イギリスにおける教育哲学・道徳教育研究の第一人者にピーターズ(Peters, R.S.)がいます。ここで、「教育」「権力」「権威」をめぐって、二人の言説のごく一部を紹介しておきます。
まず、岡田は、教育の基本的目標は自律的人間の育成にある。人は、一般的には他律的存在から自律的存在へと成長・発達するが、そのためには時期や状況に応じて他者によって権力的あるいは権威的に主導される教育としての他律教育が必要かつ重要となる。ここでいう権力は「非自発的な服従を引き出す力」、権威は「自発的な服従を引き出す力」を意味する、と説いています(岡田敬司『かかわりの教育学―教育役割くずし試論―』(増補版)ミネルヴァ書房、2006年、246ページ)。
次に、ピーターズによると、教育とは、「本質的にみて、社会の構成員を価値あると考えられる生活形態の中に手ほどきすることである」(338ページ)。学校の存在根拠(レーゾン・デートル)は、「共同社会が価値あると認めるものを伝達することにある」(339ページ)。教師は、「権威をもった人物である。教師は、共同社会のためにある仕事をなし、その間、学校の中で社会的統制を維持するために、権威の座(in authority)におかれている。それと同時に、共同社会の文化の伝達者として雇用されているため、その文化のある側面について権威者(an authority)でなければならない。さらにまた、教師は、彼が権威を及ぼしている子どもたちの行動と発達について、また、子どもたちを教える方法について、ある程度まで、専門家であることが期待されている」(343~344ページ)。ここでいう「権威の座にあること」(being in authority)は、身体的・心理的強制や制裁、報償などによって「ある個人が他者を自己の意志に従わせるやり方」をいう「権力」を行使することとは異なる。「権威者であること」(being an authority)は、一般的には、信頼することのできる専門的な知識や能力をもっていることである。そして、その際の「権威」は、「基本的には、それに従う人たちの側でそれを承認しているがゆえにその行為を規制することになる、非個人的な規範的秩序または価値体系に訴えることを意味している」(341~342ページ)、などと述べています。そして、ピーターズは、「子どもたちに対して権威の座にある人々は、結局において子ども自身に自己規制のスタイルを発達させることになるような一つの原型を提供しなければならない。教師の権威は、他の世代に対して権威なくして生きることを学ばせるために必要である」(378ページ)。それゆえにこそ、教師には権威の行使が公的に正当化(合理化)されるのである、としています。(Peters, R.S.(1966)“Ethics and Education” 三好信浩・塚崎智訳『現代教育の倫理―その基礎的分析―』黎明書房、1971年)。
なお、唐突感が拭いきれませんが、ここで、国内における最高で独立した権力(強制力)である「国家権力」(「統治権」「主権」)と教育との関わりについて一言述べておきます。上記の岡田がいうように、教育の基本的目標は自律的人間の育成にあります。それは、教育基本法(第1条)にいう「教育の目的」としての「人格の完成」を意味します。すなわち、「人間の自律」イコール「人格の完成」ということです。また、西原博史(早稲田大学)は、「民主的に決定された国家意思であっても踏み込めない個人の領域」(29ページ)があり、それが「自分らしく生きていく権利」を意味する「基本的人権」(43ページ)である。「戦前の例を挙げるまでもなく、教育行政が組織的に国民に対するイデオロギー的教化に乗り出した時、子どもの思想・良心の自由はもろくも滅び去っていく。それを防ぐためにこそ、教育基本法があり、思想・良心の自由などの憲法で保障された基本的人権がある」(195ページ)、と述べています(西原博史『良心の自由と子どもたち』岩波書店、2006年)。西原の言説を通して、要するに筆者(阪野)がいいたいのは、たとえ民意を反映した政権や選挙で選ばれた地方自治体の首長であっても、教育に対する政治介入は許されない、ということです。

次に、ブログ読者がいう「退職の強要」に関しては、次のように考えます。
組織は、ある意思決定を行い、その決定にしたがって事業・活動の推進を図ります。その際には権力が必要となります。組織がその目標の達成をめざして機能するためには、意思決定や事業・活動の推進に際して、権力の存在は不可欠です。またその際、権力が拡大・強化することは否定できませんが、だからこそ組織における権力とリーダーシップ、それにメンバーシップのあり方が厳しく問われることになります。
経営者は、個々の職員が「ソーシャルワークの知識、技術の専門性と倫理性の維持、向上が専門職の責務である」(日本社会福祉士会「社会福祉士の倫理綱領」2005年6月採択)ことを認識し、福祉専門職としての良心と良識に従う自律的な実践活動を展開する限り、その権力を実践活動にまで及ぼしてはなりません。権力的地位にある経営者の個人的独断や偏見によって何かが強要・強制されることは、厳しく排除されるべきです。権力の魅力にとりつかれた経営者は、さらなる権力を求める腐敗傾向をもつといわれます。そのような経営者のいる組織、言い換えれば権力をめぐって職員間の真の合意形成やチェック・アンド・バランスの実質化が図られない組織、そうした組織の改善・改革・革新を図るための正義と勇気、知識と能力などをもちあわせた職員がいない組織は早晩、モラルハザード(倫理の欠如)を招き、内部崩壊することになるでしょう。
最後に一言。福祉教育とりわけ学校福祉教育は、これまで、地域の「社会福祉問題」、それも高齢者や障がい者などの、しかもある意味では限定的な「福祉」問題を学習素材化する傾向があったがゆえに、学校内のいじめや不登校、そして今回のような体罰などの問題(教育福祉問題)については、十分に教材化、対象化してきたとはいえません。また、ホームレスや外国籍住民、精神障がい者、貧困・低所得者、一人暮らし高齢者などの「社会的排除や摩擦」「社会的孤立や孤独」をめぐる生活問題や福祉課題の実態をしっかりと見据えてきたかというと、これもまた消極的評価を下さざるを得ません。今後、学校福祉教育の推進を図るに際しては、地域に軸足を置くとともに、学校や教室にもしっかりと軸足を置くことが求められます。
いまひとつ。「退職の強要」に関しては、福祉サービスの利用者のみならず、福祉事業者(経営者)や職員に対する「福祉教育」が必要かつ重要であり、その教育の内容や方法についての検討がいま強く求められていることを指摘しておきます。