阪野 貢 のすべての投稿

阪野 貢/「まちづくりと市民福祉教育」はアートであり、デザインである―東京藝大で “福祉”を学び、東大で “デザイン” を学ぶ―

〇筆者(阪野)の手もとに、東京藝術大学や東京大学で中高生や社会人を対象に行なわれた体験型授業の様子をまとめた本がある。東京藝術大学 Diversity on the Arts プロジェクト編『ケアとアートの教室』(左右社、2022年1月。以下[1])と山中俊治著『だれでもデザイン―未来をつくる教室-』(朝日出版社、2021年11月。以下[2] )がそれである。
〇[1]は、2016年より開設された、約100人の社会人と約30人の藝大生が共に学ぶ履修証明プログラム(Diversity on the Arts Project、通称:DOOR)の講義と実践の様子(体験)を記録したものである。そこでは、「アート Χ 福祉」をテーマに、共生社会を支える人材の育成とコミュニティの醸成をめざす(2ページ)。講義で取り上げる具体的なテーマは、貧困、障害、性的マイノリティ、引きこもりなど多岐にわたる。講師もアーティストや障がい者、福祉の専門家、現代社会に生きづらさを感じている当事者など多様である。
〇DOORでの「学び」は、次のようなことを基本的な考え方(コンセプト)にする。共生社会の実現には、創造性(アート)とそれが活きる環境を耕す(cultivate)ことが重要である(4ページ)。何かを学ぶうえで、「誰と学ぶのか」、学びの対象と「どう出会うのか」が重要な要素となる(5ページ)。アート(=創造性)の領域では「個人の主観」が大切にされるが、自分の主観の深いところには他者との共通点がある。アートも福祉も、多くのひとたちとの「対話」(「創造のコミュニケーション」)や「協同」のなかで、異なった何かと自分とが融合し、変化し、豊かになっていく(7、8ページ)。すなわちこれである。
〇身近にある、状態としての多様性(diversity)に対して「想像」を巡らし、対話し、歩み寄り、見えないものを知覚することによって、共生社会の「創造」に向けて動き出す(236、238ページ)。多様性が創造性(creativity)を生み、育てるのである。
〇[1]から、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「気になる」あるいは「使える」論点や言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者。見出しの後の氏名は講義者)。

アートと福祉は多様性を特性とする/日比野克彦
アートと福祉は、アプローチこそ違え、視座が「多様性」を重視しているのは同じである。多様性のある社会を築いていくためには、違いを認め合う「アートの特性」を基盤にして、そのうえに福祉や経済などさまざまなものを組み立てていくことが肝要になる。(17ページ)

被支援者との共感不可能性を共感する/奥田知志
ホームレスなどの生活困窮者を支援する際、「大変でしたね」「わかります」というと、10人にふたりくらいは「野宿をしたこともないのに何がわかるんだ」と怒る。支援活動を行なううえでは、この「共感不可能性」を常に意識していなければならない。相手との対等性をいかに保ち、共感不可能性にどれほど共感できるかが重要となる。(40ページ)

アートは既成の価値観に異議を唱えること/久保田翠
知的障害があるひとの、「よくわからない」行為も、本人が生きるために不可欠なことであり、生きている証である。知的障害のあるひとたちの存在自体がアートであり、彼らの生き様そのものがひとつの表現である(「表現未満、」)。表現やアートはできあがった作品だけをさすのではない。知的障害のあるひとたちの存在をまるごと認め、彼らに対する見方を変えこと、すなわち既成の価値観に異議を唱えることがアートである。(59、61ページ)

ALLY(アライ)の存在は重要であるが‥‥‥/松岡宗嗣
性的マイノリティの存在は「いない」のではなく、「見えていない」のである。性的マイノリティのひとびとは、「ふつう」や「あたりまえ」とされる規範的な性のあり方の枠組みから排除されることで、さまざまなライフステージごとの困難に直面する。「ALLY(アライ)」は、「支援者」「同盟」「味方」を意味する。アライになるためには、「知る」こと、「変わる」こと、そして「行動する」ことといったステップが必要となるが、誰もが誰かのアライになれる。しかしその際の、「当事者ではないが味方」という考え方は、二項対立的な考えにつながる。「かわいそうなマイノリティを助ける」という考え方は、自分自身の差別意識を不可視化する。(85、91、98、99、100ページ)

対話がつながりの回復を図る/六車由実
介護現場では、利用者の人生や経験について話を聞くことで、彼らそのものを理解し、思い出を共有すること。それと共に、個人史からそのひとたちが生きてきた時代や地域の歴史、生活のあり方を知り、伝えていくこと、が大切となる(「介護民俗学」)。利用者同士や利用者とスタッフによる平等で開かれた「対話」によって、スタッフから利用者へという一方的な固定化された関係性が修復される。介護現場で一番大切なのは、要介護度が上がらないようにする支援(自立支援介護)ではなく、「つながりの回復」を図る支援である。つながりがあれば、老いや病、認知症で体が動かなくなったとしても、ひとは最後まで希望をもって生きていける。(123、129、131ページ)

〇[2]は、2017年に22名の中高生に対して、山中俊治(デザインエンジニア)の研究室(東京大学生産技術研究所)で行なわれた「デザイン」に関する4日間の特別授業を再現したものである。そこでは、身の回りのものをよく観察してアイデアを生み出し、「そこに新しい価値を見出し、形に落とし込み、人に伝え、一緒に完成させていくデザイナーの営み(デザインの方法)の根幹」(5ページ)が具体的に綴(つづ)られている。山中にあってはそれは、「人間がなにかを生み出す時の普遍的な方法」(6ページ)である。また、デザインは「人工物、あるいは人工環境と人の間で起こるほぼ全てのことを計画し、幸福な体験を実現すること」(43ページ)と定義づけられる。
〇デザインは、ひとびとが日常生活上のベネフィット(benefit:利益、恩恵、便益)を得て効率よく、豊かに暮らすために、安全性や操作性、格好よさや愛着、値段などをトータルにプランニングする営為である(44ページ)。それは、感覚的なものと科学的な知識を融合する営みである。その仕事を行なうデザイナーは、それが「総合的な営み」であるという点において、映画監督やオーケストラの指揮者に近いともいえる(51ページ)。
〇[2]から、「まちづくりと市民福祉教育」に関して、「気になる」あるいは「使える」論点や言説のいくつかをメモっておく(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

サイエンスとアートとデザイン/デザインする
サイエンスとアートの目的は真理の探求にある。デザインはいつも誰かをハッピーにすることをめざす。サイエンスは、客観性を追求して記述し、検証しあって知識を共有する。アートは、主観を追求して表現し、「共感」を共有する。その共感を確実なものにするために、評論が大切な役割を果たす。デザインは、サイエンスとアートの両方の知見から得たことを統合して、安全性や操作性、格好よさなどの高いモノをつくる。(47、49、51ページ)

デザインはアイデアが命である/アイデアを出す
デザインのコアになるのはアイデアである。アイデアの本質はそもそも偶然である。アイデアのヒントはいつも観察のなかに、他人の頭のなかにある。また、知識や経験、情報のなかにある。そしてアイデアは、それらを「つなぎ替える」「つなぎ直す」ことである。要するに、「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」(ジェームス・W・ヤング)。(174、186、188、190、344ページ)

スケッチを描くということ/スケッチする
スケッチを描くということは、自分が何を見て、何を見ていないかを意識することである。描くということは、そこを見ることと連動していて、見ていないところは描けないし、描く時には必ず見ようとする。私たちは注目しているところ以外を見ておらず、無意識に、全部は見ないようにしている。絵を描くことで意識的に見る範囲を限定したり、見る範囲を決めることができる。スケッチに全ては描かない。最も重要なエッセンスを抽出して(抽象化して)リアリティを与えるということが、スケッチの表現の根幹である。(70、71、110ページ)

デザインが社会変革を促す/未来を拓く
義足をデザインしているとき、失われた体の一部を補完するというより、新しい体を作っている感覚がある。義足は障がい者のために作ったものであるが、実は、障がい者を見る社会のほうが変わるきっかけになる。義足は大量生産ではなく、一人ひとりの切断者に合わせて、「かっこよく」「美しく」作る。一人ひとりのためのデザインが、そのものに目を向けさせ、社会の意識を変え、未来を拓く。いま、みんなのためのデザインから一人ひとりのためのデザインへと、時代は流れている。(318、320、323ページ)

〇以上を要するに(一面的であるが)、アートは、多様性にアプローチしてその異なる存在を認識し、より理解を深め、問いを投げかける(自己表現、問題提起の)営みである。デザインは、過去や「いまここ」から学び、一人ひとりに合わせたものの存在を生み出し、社会変革をもたらす(他者実現、問題解決の)営みである。その点においてアートとデザインは、「まちづくりと市民福祉教育」が内包する営みでもある。留意しておきたい。
〇前述のように、DOORでの「学び」のキーワードのひとつは、「創造性」と「多様性」である。その点に関して、重ねて次の一節を引いておく(抜き書き)。

アート=創造性は、誰のなかにでもある。ひとはどんな苦境においても、創造性を完全に忘れることはない。むしろ、そうした創造性に小さな喜びや希望を見出し、自己と向き合い、ときに他者とそれを共有することで、ひとはひとらしくあり続けることができ、「生きよう」とする思いをも強くできる。([1]3ページ)。

ダイバーシティ(多様性)をめざす、という言葉をよく聞く。しかし、多様性とは状態であり、すでに私たちの周りに存在しているものである。こうした多様性があるという状況を、どれだけセンシティブ(敏感)に感じとれるかということが重要になる。「さまざまなひとがこの世界で生きている」と言葉ではわかっていても、どれだけその状況を意識できるかどうかは、個々によって開きがある。多様なひとびとがいて、さまざまな世界の感じ方がある、ということをより意識できるようになってほしい。([1]232~233ページ)

〇創造性は時に、「ひらめき」すなわち偶然から生まれる。その「ひらめき」は、個々人の「記憶された知識や経験」に基づいてもいる。したがって、創造性は不確かであり、独創的である。しかしその本質は、新しい快適で豊かな未来社会を拓くところにある。多様性は一面では、マジョリティ(多数派)の文化や視点から唱えられる。一方からの多様性の強調は、“出る杭は打たれる”日本社会にあって、同調圧力を強めることにもなる。しかしその本質は、マイノリティ(少数派)の文化や視点を中心に据えた共生社会を形成するところにある。そこでまずは、創造性も多様性も、そのひとがそのひとらしく、共に生きられる地域・社会を共に創ることをめざして、さまざまなヒト・コト・モノをそれぞれに「気にする」ことから始まる。付記しておきたい。

寺谷篤志/拙著『ギブ&ギブ、おせっかいのすすめ』(今井出版、2022年6月)について

〇出版はこれで最後と覚悟して編集しました。京都に来て5冊目の発刊です。編集面と出版面の応援者があって実現しました。昨年3月、横浜市立大学の吉永崇史先生のゼミで智頭フィールド学習に取り組んでおられることを知りました。何か役立てばと関係書籍をお送りしたところ、吉永先生から昨年4月11日にメールとともに智頭町に関する論文が届きました。《直感的に、この“コミュニティ”に研究者としての魅力を感じたのだ。あえて言語化するならば、智頭町の人が、雰囲気が、洗練されている。その“洗練さ”は何によってもたらされているのであろうか》、との解析に感動しました。吉永ゼミの胸をお借りして、智頭の魅力と洗練さを探ってみようと思いました。
〇本書は一気に編集したものではありません。当初、吉永ゼミに第1章から第3章を提供(素案)しました。そして、第4章の感想文が届き、第5章の松尾氏のCCPT活動の転換点の視座をもらい、第1章8「エディターシップ」を編集しました。第6章吉永先生の考察と、第7章は2回目の感想文を受け、第2章6「ゼロイチ運動と地域計画」に計画策定をステップ(「四面会議システム」の実践例)を加筆しました。そして、「満点星チーム」と「Cheese」は、コロナ禍の中、智頭町を訪問して第8章のレポートが届きました。最後に、「はじめに」「おわりに」と、全体を精査して加除筆し、「ギブ&ギブ」のキャッチボールで編集しました。
〇振り返ってみますと、理性的・打算的に考えたら“何にもならんことをするな”です。長続きの秘訣は頑なに感性に拘ったことでした。お金や地位や名誉にならんことをしたから、満74歳まで休みなく地域づくりに取り組みました。そして、志のある人々が集まる場を、学ぶ場を、ポジションを、光の当たる場を作って、皆さんに提供しました、そこに贈与と略奪が起こりました。その軌跡を編集しています。
〇私は五段階活動と言っていますが、1.気づく、2.企画する、3.実行する、4.記録する、5.編集する、地域づくりのルーチンによって実現しました。本書は智頭町の地域づくりの通信簿となっています。

 

阪野 貢/「弱さ」と「多様性」―今中博之著『なぜ「弱い」チームがうまくいくのか』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)は今中博之(いまなか・ひろし)氏から、新著『なぜ「弱い」チームがうまくいくのか―守り・守られる働き方のすすめ―』(晶文社、2022年4月。以下[1])のご恵贈を賜った。[1]は対話形式の本ではないが、読み進めるとしばしば今中氏が眼前に立ち現れ、親しく対話していることに気づく。またそのなかで、ときに自分の姿を見る(内省する)ことになる。鋭い論考によって、針で刺されたような痛みを覚えるのである。
〇[1]の主要な議論はチーム論である。そこでは、「デザインと社会福祉と仏教を行ったり来たりしながら」(24ページ)、働き方・仕事論や組織マネジメント・リーダーシップ論、そして生き方・人生論などが広く深く説かれる。しかもそれらは、今中氏の「デザイナーと障がい者とリーダー」としての多様な社会生活経験と幅広い教養、そして哲学・思想や社会学などの知識と言葉に裏付けられており、「私」を圧倒する。
〇今中氏の主張はシンプルである。「弱い人はお互いを守り合いながら長く生存できる。強い人を守る人はいない、強い人は生き残れない」。極論すればこれだけである。その際のキーワードは、「弱さ」と「多様性」である。今中氏はいう。「チームに一番必要なのは弱さである」。すなわち、人間はそもそも、弱い存在であり、弱いからこそチームを組んで生き延びようとする。弱く矛盾した存在としての個人が有機的につながることによって、チームは機能する。チームは強い人だけでは構成できないのである(9、113ページ)。
〇そしていう。「多様性を失ったシステムは崩壊する」。すなわち、共生社会はバラツキを是とする社会(多様性のある社会)であり、その違いをひとまとめにせずお互いを認め合う。違いが交差すれば違和感も生まれるが、それ以上に異なる視点が有効に機能し、新たな希望が見つかる。弱い人も強い人も、異なるものが異なるものとして共存・協働することが肝要である(17、103ページ)。今中氏のこうしたシンプルな思考が、みごとにコトの核心をあぶりだす。そして、「私」が「使える」モノを見出し、知見を導出し、管見を再構成するのを促し助けてくれる。小さくもあり大きくもある「喫茶店」(64ページ)での、今中氏との対話の魅力である。
〇筆者が探究する「まちづくりと市民福祉教育」の主体形成に関して、今中氏の「ソーシャルデザイン」と「チーム」についての論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

原点と視点
●個人のミクロ(小領域)的視点から、チームのメゾ(中領域)的視点を経て、社会のマクロ(大領域)的視点まで、一気通貫の幸せが実現できなければ、人の幸せはない。(12ページ)
●障がい者が生み出す作品や商品は「現代アート」であり、「障がい者アート」などとカテゴライズすることは、彼ら彼女らとその作品・商品の尊厳を否認することである。それは障害のあるアーティストに強烈なスティグマを与える。(32~33、130~131ページ)
●集団に多様性があるように見せかけるために「お飾りのマイノリティ」が選別されることがある。その「トークン(token:象徴)な存在」は、弥縫であり欺瞞である。(55~57ページ)
●「自立とは依存先を増やすこと」「依存症とは身近な他者に依存できない病気」(熊谷晋一郎)である。人はひとりで自立できないし、ひとりで自立してはいけない。障害の有無に関係なく、他者に依存することが自立である。(100~101ページ)

ソーシャルデザインとシーシャルデザイナー
●ソーシャルデザインとは、「社会的課題を解決するための意図的な企て」「(弱い人を)非差別化するデザイン」をいう。それは、「公憤」(正義感から湧きあがる公共のための怒り)を前提とする。(14~15ページ)
●ソーシャルデザインはまた、共通の目的のために自発的に結びつき、協働しながらも、度が過ぎた干渉はしない「ギルド(guild)的チーム」(生活共同体)のうえに成立する。つながり過ぎると協働することはできない。(37~38、85ページ)
●他者の生活の困りごとを解決したいと願う人は誰もが、ソーシャルデザイナーである。ソーシャルデザイナーはミクロ領域を注視し、常に弱者に寄り添い、傍(かたわ)らに立ちその機会を増やしていく。そのソーシャルデザイナーが「正義のミカタ」であるかどうかを決めるのは、弱者である。(14、42ページ)

チームとリーダー
●多様性を抜きにしたチームづくりは不可能である。多様な社会的背景を持つ人たちが集まれば、その人の数だけ仕事のバリエーションは増える。バラツキをバラツキのままひとつのチームにまとめれば、より永く生き延びる。(12~13、102、106ページ)
●チームが深く協働するためには、メンバーが悲しい秘密を持ち寄り・共有し・守り合えること、しかもメンバーに強すぎる結びつきを要求しないことが肝要である。そこには、信頼と安心があり、過剰なコントロールがない。(94~97ページ)
●他者の意見やアイディアは自分のものである。これはリーダーの特権ではなく、チームのメンバー全員に与えられ戦術である。メンバーの意見・アイディアが「取り込み、取り込まれる」なかで、意見・アイディアもチームも成熟する。(162~165ページ)
●チームには、他者に自らの揺らぎを見せない・ブレない「強いリーダー」ではなく、他者に自らの揺らぎを見せつつ、協働で答えを探る「専門家としての弱いリーダー」が必要となる。(169ページ)
●行政と企業とNPOが協働して社会的課題を解決する、しかもその三角形の真ん中に市民がいる市民自立型社会の形成が求められる(村木厚子)。そのためには、3つのセクター(行政、企業、NPO)を架橋する・垣根を越えて活躍する「トライセクター・リーダー(Tri-Sector Leader)」が必要かつ重要となる。(198~199ページ)

〇前述の「弱さ」と「多様性」に関するひとつの論点を再確認しておきたい。先ず「弱さ」については、高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)氏の「効率的な社会、均質な社会、『弱さ』を排除し、『強さ』と『競争』を至上原理とする社会は、本質的な脆(もろ)さを抱えている」(高橋源一郎・辻信一『弱さの思想―たそがれを抱きしめる―』(大月書店、2014年2月。12ページ)という指摘である。併せて、筆者の拙稿――本ブログの<雑感>(146)「弱さ」考―「弱さの強さ」と「強さの弱さ」―/2021年11月24日アップ、を思い起こしたい。そこで紹介している天畠大輔(てんばた・だいすけ)氏と澤田智洋(さわだ・ともひろ)氏の次の一節を引いておくことにする。「僕は介助なしでは何もできない。しかし、だから多くの人とかかわり、深く繋がり、ともに創りあげる関係性を築いていける。それが僕の<強み>になっている。能力がないことが<強み>なのである。自分だけで何もできないことは、無能力と同義ではない」(天畠大輔『<弱さ>を<強み>に―突然複数の障がいをもった僕ができること』(岩波新書、2021年10月、226ページ)。「『弱さ』の中にこそ多様性がある。だからこそ、強さだけではなく、その人らしい『弱さ』を交換し合ったり、磨き合ったり、補完し合ったりできたら、社会はより豊かになっていく」(澤田智洋『マイノリティデザイン―「弱さ」を生かせる社会をつくろう―』(ライツ社、2021年1月、51~52ページ)。ともに今中氏の言説に通底するところである。
〇「多様性」については、熊谷晋一郎(くまがや・しんいちろう)氏の「凡庸(ぼんよう)コンプレックス」、すなわち個性のない・どこにでもいる規格化・平準化された「ふつう」の人間が、「奇妙に多様性を奨励する社会の中で、相対的に可視化された(奇抜な)障害者への嫉妬が芽生えるという転倒した現象も起きている」(熊谷晋一郎「『用無し』の不安におびえる者たちよ」里見喜久夫『障害をしゃべろう! 上巻 ―『コトノネ』が考えた、障害と福祉のこと―』(青土社、2021年10月、185ページ))という指摘である。併せて、筆者の拙稿――本ブログの<雑感>(122)「ふつう」別考―深澤直人著『ふつう』と佐野洋子著『ふつうがえらい』等のワンポイントメモ―/2020年10月30日アップ、の一節を改めて引いておきたい(一部修正)。

「ふつう」は私とあなたの「あいだ」にある(私は、周りのあなたとの類似性を重視し、そこに安寧や安心を感じる。私は、周りのあなたとの相異性に緊張し、そこに不安や劣等感を感じる)。/「ふつう」は私とあなたの「ふだん」にある(私が「ふつう」を意識するのは、日常の生活場面においてである)。/「ふつう」の隣に「特別」がある(私には独自性欲求があり、それが自尊感情を高める一方で、孤独感や差別意識・偏見を生む)。/そして、私は「ふつう」を求め、あなたを「ふつう」にさせる(私は、人並みを求め、周りから目立つあなたを攻撃する)。

老爺心お節介情報/第35号(2022年5月5日)

「老爺心お節介情報」第35号

〇皆さんお変わりなくお過ごしでしょうか。時の移ろいは早いもので、もう5月になってしまいました。昨年の4月は第3回四国歩きお遍路巡礼の後半を歩き、4月末に帰宅し、今頃は紀行文を書いている時期でした。
〇新型コロナウイルス感染症に伴う“行動制限”もない3年振りのゴールデンウイークですが、皆さんは自然を満喫されたでしょうか。
〇この間、読んだ本や雑誌についての情報をお届けします。

Ⅰ 「ひきこもり」の人たちへの関わり方、支援のあり方を考える本です。是非読んで下さい。

『ひきこもりの真実』林恭子著、ちくま新書、840円
『ひきこもりから考える』石川良子著、ちくま新書、780円

〇林恭子さんは“ひきこもり当事者”の方で、ご自分の体験を基に、“ひきこもり”支援のあり方について述べられています。
〇“支援を受ける側”の立場から、“ひきこもり”支援は“就労がゴールではない、自己肯定感の回復が先であり、大切である”。
〇支援者に伝えたいことは、“向き合うのではなく、支援する側―支援される側という関係ではなく、横に並ぶ”こと、 “アウトリーチは当事者にとって恐怖以外のなにものでもない”。
〇“分かるということよりも分かろうとしている姿勢が当事者に伝わることが大切”、“当事者に見えている世界を知って欲しい”等など、とても考えさせられる内容が書かれています。是非読んで下さい。
〇石川良子さんの本は、ひきこもりの方々と20年間近く関わってこられた体験を基に社会学研究者として書かれたものです。
〇林恭子さんの本を読んで、私は、改めてソーシャルワーク支援を必要としている人の一般的属性概況を知識として知っている必要があるが、その属性概況に“レッテル”を貼って、その属性概況の一般的「枠組み」で支援を考える支援をしてはならないこと、一般的属性概況を踏まえた上で、なおかつその一人一人にきちんと向き合い、その人のナラティブに基づき支援をすることの重要性を再確認させられた。
〇皆さんにも支援者の姿勢として、是非考えて欲しい点である。

Ⅱ 「医療的ケア」を必要としている人へのソーシャルワークと生命倫理

〇私は、2000年前後に、日本社会事業大学大学院、同志社大学大学院、東北福祉大学大学院、淑徳大学大学院等での授業において、社会福祉学研究者の基礎的素養として、社会福祉学の基本になる哲学を学ぶ授業を行っていたことがある。その際のテキストとして、生命倫理やケアの考え方、公共福祉などに関わる文献を取り上げて行っていた。
〇今日のように、「医療的ケア児」への支援、終末期を迎えているがん患者、高齢者等への支援、難病の方への「社会生活モデル」に基づくソーシャルワーク支援を考える際に、あらためて支援に当たる立場としてソーシャルワークにおける生命倫理、ケア観を問い直しておく必要があるだろう。
〇私が学んでいた1960年代当時の日本社会事業大学の学生には、脳性まひの学生がおり、その学生の支援に仲村優一先生が多大の努力をされていた。その学生の一人は、「青い芝の会」のメンバーとしていろいろ活動していた。1975年に横塚晃一さんが『母よ殺すな』(すずさわ書店)を上梓した時代で、障害を有している子どもをもった親の苦労、苦悩と障害を有している子ども自身の生存権、幸福追求権との関りをいろいろ考えさせられた時代であった。

#前にも紹介したが、SOMPO福祉財団文献賞を受賞した高阪悌雄著『障害基礎年金と当事者運動』(明石書店、5400円)を是非読んで欲しい。

〇今日の「医療的ケア」を必要としている人へのソーシャルワークと生命倫理との関係も、内容的にとても重い問題であるが、地域福祉実践・研究を志すものとして避けて通れない課題である。
〇医療従事者における“呼吸すること”を保障する「医学モデル」に基づく実践としての生命倫理とは異なり、社会福祉従事者においては“生きること”を保障する「社会生活モデル」に基づく実践であり、医学分野の生命倫理を踏まえながらも、「社会生活モデル」に基づく実践における生命倫理、ソーシャルワークのあり方を論究する必要がある。
〇この間以下の本を読んで、「生きること」、生命倫理についていろいろ考えることがあった。
『助けてが言えない』、松本俊彦編著、日本評論社、1600円
『殺す親、殺させられる親』児玉真美著、生活書院、2300円

〇松本俊彦編著『助けてが言えない』の中で、精神障害者への支援において、“コンプライアンスから、アドヒアランスへと発展し、いまや患者と医療者のパートナーシップをより重視したコンコーダンス”の時代だという記述に大いに期待したいと思うものの、実情はそうなっているのだろうかと考えてしまった。精神障害者の地域自立生活支援における“コンコーダンス”の時代を我々は市町村で構築できるであろうか。
〇児玉真美著『殺す親、殺させられる親』は、第2部で『「死ぬ・死なせる」をめぐる意思決定』について書かれている。一人暮らし高齢者や一人暮らし障害者の終末期支援をしていく際に、我々が考えておかなければならない課題が提起されている。

Ⅲ 「生きづらさを抱えた人」の支援と地域生活定着支援センター

〇地域共生社会政策の一環として,地域福祉計画、地域福祉支援計画を策定する際に、自殺予防、再犯防止、孤立・孤独対策等も包含して計画策定することが求められている。
〇『新ノーマライゼーション』2022年4月号(日本障害者リハビリテーション協会、500円)は、矯正施設出所者への支援のあり方について特集している。全国に48ある地域生活定着支援センターの取組や千葉県中核地域生活支援センター等の取組が紹介されている。「生きにくさを抱えた障害者等の支援者ネットワーク」の赤平守さんが「支援の本質を問い続けてー生きにくさネットの活動」を書いています。赤平さんは、“「生きにくさを抱えている人の心はいつも揺れ動いています。「地域で生きる人を、地域で支える」のであれば、その人を知る努力と確かな根拠を基にした想像力が必要となります”と述べていますが、ソーシャルワークにおける「2つのそうぞう性(想像力と創造力)」の重要性と、“レッテル”を貼って分かった気にならないで、福祉サービスを必要としているその一人一人のナラティブに基づく支援のあり方が問われています。
〇また、犯罪という事柄に我々は目が行きがちであるが、その背後には貧困、障害、いじめ、虐待などの問題があり、その人のソーシャルサポートネットワークが崩壊したときに“犯罪”がおきていることを考え、支えていく意味が問いかけられている。

Ⅳ 雑感「文化人類学とソーシャルワーク」

〇かつて、私は加地伸行著『儒教とは何か』(中公新書、720円)等の儒教関係の本を読んで、儒教とは何かを考えようとした。それは、自分を含めて、日本人のものの考え方、感じ方に色濃く儒教の“教え”が入り込んでおり、影響を受けている。地域福祉の主体形成を考えていくとき、これらの問題は看過できないと考え、チャレンジしたが事実上その作業はとん挫している。
〇以前紹介した山本七郎著『日本資本主義の精神~なぜ一生懸命働くのか~』も同じ文脈である。
〇それは、マックス・ヴェーバーが書いた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をひも解くとすれば、それと同じように日本人に影響与えた考え方、思想を探ろうという文化人類学的発想からでたものであった。
〇私は、1970年代に“日本の福祉文化の底流にあるものに興味、関心を寄せ”、文化とは何かを理解したいと思ったし、その日本人の文化と社会福祉との関りを考究したいと考えたが、“奥が深く、幅が広く、とても自分には手が負えない”と考えて、その研究アプローチも断念せざるを得なかった。
〇しかしながら、住民の生き方、地域のありよう等を考えないで地域福祉研究をしていていいのだろうかとういう“脅迫観念”ともいえる思いは今になっても消えないでいる。
〇かつて、中根千枝の「タテ社会の構造」理論を援用して、2005年に「わが国におけるソーシャルワークの理論化を求めて」(『ソーシャルワーク研究』第31巻第1号)を書いたのもその“流れ”から来ている。
〇この連休中に、宮城谷昌光著『孔丘』(文芸春秋、2000円)を読んだ。この本は、孔子の生涯と考え方を小説にしたものであるが、この本を読みながらを如何に自分の中に儒教の考え方が入り込んでいるか改めて再認識させられた。
〇「法」と「礼」、「徳」、「天」といった人間の行動を律する語句や考え方が如何に当たり前のように自分の中にあることに驚かされた。
〇文化人類学や社会思想史は、形になりづらいものであり、研究の難しさはあるが、社会福祉学が自立支援を目的に考えるとすれば避けて通れない課題ともいえる。日本の社会福祉学研究を文化人類学の視点を踏まえて行う人が出てこないであろうか。

(2022年5月5日記)

 

阪野 貢/「主権者教育」「シティズンシップ教育」の一環としての「市民福祉教育」を考えるために―新籐宗幸著『「主権者教育」を問う』再読メモ―

〇教育基本法(2006年12月22日公布・施行)の第14条(政治教育)は、「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」と謳(うた)っている。まず、この条文を押さえておきたい。
〇日本において「主権者教育」の必要性が声高に叫ばれるようになるのは、2000年代以降である。その政策化のひとつの重要な契機は、総務省が2011年4月に設置した「常時啓発事業のあり方等研究会」(座長:佐々木毅)の報告である。その「最終報告書」(2011年12月)では、子ども・若者に対する新たなステージとしての「主権者教育」の必要性と重要性を説き、現代に求められる新しい主権者像のキーワードは「社会参加」の促進と「政治的リテラシー(政治的判断力や批判力)」の向上である、とした。そして、「主権者教育」を次のように規定する。「欧米においては、コミュニティ機能の低下、政治的無関心の増加、投票率の低下、若者の問題行動の増加等、我が国と同様の問題を背景に1990年代から、シティズンシップ教育が注目されるようになった。それは、社会の構成員としての市民が備えるべき市民性を育成するために行われる教育であり、集団への所属意識、権利の享受や責任・義務の履行、公的な事柄への関心や関与などを開発し、社会参加に必要な知識、技能、価値観を習得させる教育である。その中心をなすのは、市民と政治との関わりであり、本研究会は、それを『主権者教育』と呼ぶことにする」(7ページ)。
〇いまひとつ注目すべきは、文部科学省が2015年10月、1969年10月の文部省初等中等教育局長通達「高等学校における政治的教養と政治的活動について」を廃止し、それに代わって同通知「高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について」を発出したことである。1969年通達では、「国家・社会としては未成年者が政治的活動を行なうことを期待していないし、むしろ行なわないよう要請している」。「生徒が政治的活動を行なうことは、学校が将来国家・社会の有為な形成者として必要な資質を養うために行なっている政治的教養の教育の目的の実現を阻害するおそれがあり、教育上望ましくない」などとして、学校内外における政治的活動を「禁止」した。そのねらいは、1960年代後半にベトナム反戦運動等を契機に多発・激化した学生運動(大学闘争)やその高校・高校生への波及(高校紛争)を阻止しようとするところにあった。
〇2015年通知では、「今後は、高等学校等の生徒が、国家・社会の形成に主体的に参画していくことがより一層期待される」。「現実の具体的な政治的事象も取り扱い、生徒が有権者として自らの判断で権利を行使することができるよう、より一層具体的かつ実践的な指導を行う」などとした。その背景には、「18歳が世界標準」というなかで、選挙権年齢が「満18歳以上」(2016年6月施行)、成年年齢が「18歳」(2022年4月施行)にそれぞれ引き下げられたことがある。それに伴って、「主権者教育」の重要性が強調されることになる。
〇しかし、2015年通知の内実は、「高等学校等の生徒による政治的活動等は、無制限に認められるものではなく、必要かつ合理的な範囲内で制約を受ける」などと、学校や教員の「指導」等による、学校内外における政治的活動の規制を求めるものとなっている。すなわちそれは、基本的には政治的活動の自由化を促したり、容認したりするものではない。
〇2015年9月、総務省と文部科学省は、高等学校等の生徒向け副教材として『私たちが拓く日本の未来―有権者として求められる力を身に付けるために―』の<解説編><実践編><参考篇>と教師用の<活用のための指導資料>を作成・公表した。それは、政府主導の「主権者教育」の展開をこと細かく指示するものとなっている。また、選挙権年齢の引き下げによる「主権者教育」の強調は、「有権者教育」に縮小・限定される恐れなしとしない。そこで、民主主義を成り立たせる前提である「人権」や「思想・良心(信条)の自由」などに基づく議論が必要かつ重要となる。
〇2017年3月に小・中学校、2018年3月に高等学校の「新学習指導要領」が告示された(小学校では2020年度、中学校では2021年度から全面実施、高等学校では2022年度から年次進行で実施)。それに基づいて、小・中学校と高等学校では、児童・生徒の発達段階に応じた「主権者教育」を実施し、主権者として必要な資質・能力を教科等横断的な視点で育成することとされている。高等学校では、従来の「現代社会」に代わって、「公民」科の新しい必修科目「公共」が設けられている。
〇また、文部科学省は2018年8月、新学習指導要領の下での学校・家庭・地域における「主権者教育」の推進方策について検討するために、「主権者教育推進会議」(座長:篠原文也)を設置した。そして、2021年3月に「今後の主権者教育の推進に向けて」最終報告を公表した。そこでは、主権者教育をめぐる課題と今後の推進方策に関し、(1)(小・中学校、高等学校、大学、教師養成・研修等)各学校段階等における取り組みの充実、(2)家庭、地域における取り組みの充実、(3)主権者教育の充実に向けたメディアリテラシー(メディアからの情報を批判的・創造的に読み解く能力)の育成、などについて提言する。そして、その提言を実現するために、(4)社会総がかりでの「国民運動」としての主権者教育推進の重要性を説く。こうした文部科学省の取り組みは、前述の2015年通知や『私たちが拓く日本の未来<活用のための指導資料>』に示された考え方の周知を図ろうとするものであり、内容的には新味に欠ける。
〇ところで、3月13日、新藤宗幸(しんどう・むねゆき。行政学・地方自治論専攻)が亡くなった(享年75)。4月1日、「18歳、きょうから成人」である。そんななかで、新藤の著作の一冊である『「主権者教育」を問う』(〈岩波ブックレット No.953〉岩波書店、2016年6月。以下[1])を再読することにした。
〇[1]における議論・言説の要点のひとつは、こうである(抜き書きと要約)。「主権者教育」は、現実の政治の実態を棚にあげ、単に新有権者に「政治的な教養を育む教育」を説くのではない(10ページ)。「主権者教育」は、まず現実の政治が生み出している社会的問題事象の中身を学習し、政治にどのような利害が反映されているのかを学ぶことから始めるべきである(15ページ)。「主権者教育」に求められているのは、日々生起する政治的事象の内実をみる眼を養うことであり、また政治権力の行動の意味を洞察する能力を高めることである(7ページ)。「主権者教育」は、政治権力に従順な人間を育てることではない(21ページ)。
〇「主権者教育」と表裏一体で強調されるものに、「教育における政治的中立性」がある。続けて新藤はいう。政権の言説やそれを忖度した同調の「政治性」は不問に付され、それらに対する批判的言説が「政治的中立性」に反するとされる傾向にある(23ページ)。「教育における政治的中立性」という場合の「政治」とは、「政治」一般をさしているのではなく、あくまで「政党政治」を意味する(30ページ)。「教育における政治的中立性」とは、政党政治の介入を排除する規範としての意味をもつものである(30ページ)。しかも、それだけではなく、教員にあっては自らの思想・信条や専門的知識にもとづいて、物事には社会的にも学問的にも多様な見解があることを示しつつ、自らの見解を説かねばならない(31ページ)。こうした能動的な教育と教員による「政治的中立性」を保障するためには、文部科学省から校長にいたる「タテの行政系列」を改革する必要がある。同時に、首長のもとの教育行政への市民参画を徹底するとともに、学校ごとに生徒・教員・市民が参画する運営組織をつくるなどして、「教育行政の政治的中立性」が実現されなければならない(43ページ)。
〇日本においては、国家による統一的・画一的な管理主義教育や教育行政が、学校現場や教育委員会を「思考停止」状態に追いやり、生徒の自主的・主体的な活動を制約あるいは否定してきた。そういうなかで、真の「主権者教育」の推進を図るためには、如何にして生徒の政治的関心を高め、政治的教養を豊かにするか。そして、学校内外における多様な政治的問題状況に異議申し立てをし、政治的活動への参加を促すか、が問われることになる。そのためには例えば次のようなことが求められる、と新藤はいう。政治的教養を培うにあたって、若者に限らず大人たちが生活の場に生じているさまざまな市民運動や社会運動との接点をもつ(61ページ)。学校は地域の多様な集団と生徒の交流の場を用意し、生徒たちが地域の課題を通じて政治のあり方を考える機会とする(63ページ)。地方自治体の首長や各行政セクションの職員、教育委員会や教育長・教育委員、自治体の議会や議員などと交流し、地域政治や地域行政の役割やあり方などについて議論する(64、65ページ)。学校を「地域に開かれた学校」「民主的な学校」にするために教員は、市民としての感性を磨きつつ、教育のプロフェッション(専門職)として、市民の支援を得ながら、学校改革や教育改革に立ち上がる(59、60ページ)、などがそれである。
〇日本における「主権者教育」のモデルのひとつは、イギリスの「シティズンシップ教育(Citizenship Education)」である。それを方向づけたのは、政治学者のバーナード・クリック(Bernard Crick)らが中心となってまとめた1998年9月の政府答申「シティズンシップのための教育と学校でのデモクラシーの指導(Education for citizenship and the teaching of democracy in schools)」(「クリック・レポート」)である。イギリスでは、この答申に基づいて2002年から、中等教育段階(第7学年~第11学年。日本の小学校1年~高校1年)でシティズンシップ教育が必修化された。
〇クリック・レポートでは、シティズンシップを構成する要素として、「社会的・道徳的責任(social and moral responsibility)」「コミュニティへの関与(community involvement)」「政治的リテラシー(political literacy)」の3つが挙げられている。この3つの事柄は、相互に関連性を有し、依存関係にある。クリックによればシティズンシップ教育は、ボランティア活動の促進に偏りがちであるが、「能動的な市民(active citizen)」の育成こそがその中心に位置づけられるべきである。そのためには、「政治的リテラシー」(政治的判断力や批判力)を中核的な内容とするシティズンシップ教育が肝要となる。なお、この「3つの柱」について、クリック・レポートは次のように述べている(下記「参考文献」(3)122、123、124ページ)。

社会的・道徳的責任
子どもたちが、権威のある者ならびにお互いに対して、幼少からの自信や社会的・道徳的な責任ある態度を教室の内外で見につけることです。このような学習は学校の内外を問わず、子どもたちが集団で行動したり遊んだりするときあるいは自分たちの地域における活動に参加するときに、時と場所を選ばずに展開されるべきです。
コミュニティーへの関与
自分たちの社会における生活や課題について学び、それらに有意義な形で関われるようになることです。社会参加・社会奉仕活動を通じた学習もここに含まれます。
政治的リテラシー
児童・生徒が知識・技能・価値観といったものを通じて、市民生活(public life)について、更には自身が市民生活において有用な存在となるための手段について学ぶことです。

〇シティズンシップ教育の一環として考える「まちづくりと市民福祉教育」についても、同じことが言える。すなわち、「市民福祉教育」が「まちづくり」のための地域貢献活動やボランティア活動、あるいはサービスラーニングなどとの関連性を問うとき、主権者・政治主体としての子ども・青年から大人までの「市民」に求められる政治的リテラシーの育成にとりわけ留意する必要がある。別の著作で述べているクリックの次の一節を引いておく(下記「参考文献」(2)199~200ページ)。留意したい。

イギリスでも合衆国でも、多くの指導的政治家たちはシティズンシップを、イギリスでは「ボランティア活動」に、合衆国では「公共奉仕学習」(サービス・ラーニング)に切り詰めようとしている。しかし、ここには難しさがある。ボランティア活動一辺倒になってしまうと、善意あふれる年寄りたちが若者に何をすべきかを言って聞かせるだけに終わってしまいかねないのだ。ボランティアに与えられた任務の目的や方法を誤っていると思ったり、つまらないことのよう思ったりしたときに、その改善策を提案してゆく責任を与えないでおいて、それを全うする責任だけを引き受けさせるということになれば、ボランティアたちは市民として扱われていないことになる。こうなれば、ボランティアは単なる使い捨ての要員にされかねないし、また彼らを幻滅させることになるだろう。

補遺
〇日本における「シティズンシップ教育」の政策化に関しては、経済産業省(委託先:三菱総合研究所)が「シティズンシップ教育と経済社会での人々の活躍についての研究会」(委員長:宮本みち子)を設置し、2006年3月に「報告書」、同年5月に「シティズンシップ教育宣言」(パンフレット)をそれぞれ発表している。「報告書」では、「シティズンシップ」について、「多様な価値観や文化で構成される社会において、個人が自己を守り、自己実現を図るとともに、よりよい社会の実現に寄与するという目的のために、社会の意思決定や運営の過程において、個人としての権利と義務を行使し、多様な関係者と積極的に(アクティブに)関わろうとする資質」(20ページ)と定義している。
〇また、「シティズンシップ教育宣言」では、「シティズンシップ教育の必要性」について、「報告書」中の説述(9ページ)を次のようにまとめている(3ページ)。

私たち研究会では、成熟した市民社会が形成されていくためには、市民一人ひとりが、社会の一員として、地域や社会での課題を見つけ、その解決やサービス提供に関する企画・検討、決定、実施、評価の過程に関わることによって、急速に変革する社会の中でも、自分を守ると同時に他者との適切な関係を築き、職に就いて豊かな生活を送り、個性を発揮し、自己実現を行い、さらによりよい社会づくりに関わるために必要な能力を身につけることが大切だと考えます。
一方で、こうした能力を身につけることは、いかなる人々にとっても、個々人の力では達成できないものであり、家庭、地域、学校、企業、団体など、様々な場での学びや参画を通じてはじめて体得されうるものであると考えます。
上記のような能力を身につけるための教育、すなわちシティズンシップ教育を普及して、市民一人ひとりの権利や個性が尊重され、自立・自律した個人が自分の意思に基づいて多様な能力を発揮し、成熟した市民社会が形成されることを期待しています。
なお、私たち研究会の提言は、市民に奉仕活動などを義務付けたり、国家や社会にとって都合のよい市民を育成しようという目的のものではありません。

参考文献
(1)新藤宗幸『「主権者教育」を問う』(岩波ブックレット No.953)岩波書店、2016年6月。
(2)バーナード・クリック、添谷育志・金田耕一訳『デモクラシー』(<一冊でわかる>シリーズ)岩波書店、2004年9月。
(3)長沼豊・大久保正弘編、バーナード・クリックほか著、鈴木崇弘・由井一成訳『社会を変える教育 Citizenship Education ~英国のシティズンシップ教育とクリック・レポートから~』キーステージ21、2012年10月。
(4)蒔田純『政治をいかに教えるか―知識と行動をつなぐ主権者教育―』弘前大学出版会、2019年6月。
(5)日本学術会議政治学委員会政治過程分科会『報告 主権者教育の理論と実践』日本学術会議、2020年8月。
(6)全国民主主義教育研究会編『「公共」で主権者を育てる教育を』(民主主義教育21 Vol.15)同時代社、2021年7月。

老爺心お節介情報/第34号(2022年3月24日)

「老爺心お節介情報」第34号

〇皆さんお変わりなくお過ごしでしょうか。我が家の小坪には、ミツバツツジやシデコブシの花が咲き、春到来を告げています。
〇新型コロナウイルス感染症の「第6波」も減少傾向を見せ始め、少し気分的にも楽になってきました。私自身は2月4日に第3回目のワクチン接種を行いました。それでも地方への出張では気を使い、3月13日にPCR検査を受けましたが陰性でした。これからも体調管理に気を付けて、新型コロナウイルス感染に罹らないように留意していきたいと思います。 〇「老爺心お節介情報」第34号は、以下の通りです。

Ⅰ 『地域福祉とは何かーー哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』

〇拙著『地域福祉とは何かーー哲学・理念・システムとコミュニティソーシャルワーク』
(中央法規出版、2022年4月10日発行、3000円)を上梓しました。
〇本書の「まえがき」を添付しましたので参考にして頂ければと思いますが、地域福祉実践・研究の理論的課題を私の50年間の「バッテリー型研究」の自伝史に引き付けて書いてみました。本書は、私の50年間の地域福祉実践・研究の「集大成」です。
〇全国各地で、これからもコミュニティソーシャルワーク研修が進むものと考えられますが、その際に本書を使って頂ければ全てわかるように、“地域福祉の考え方”、“地域自立生活支援の考え方”、“住民の社会福祉を高めることの必要性と気を付けなければならない視点”、“地域福祉を推進する組織である地域を基盤とする社会福祉法人としての社協の性格、歴史的変遷”、“地域福祉を推進する方法論としてのコミュニティソーシャルワーク機能”についてまとめてあります。
〇とりわけ、現時点で考えられるコミュニティソーシャルワーク研修の考え方、それに必要な研修用のシートも収録してあります。大いにご活用頂き、コミュニティソーシャルワークの推進の役立てて頂ければと思います。

Ⅱ ICFの視点に基づくケアマネジメント方法を活用したソーシャルケア

〇私は、2001年のWHOのICF(国際生活機能分類)の日本語版翻訳に際し、その「社会活動」領域の作業班長を仰せつかりました。私自身、1960年代から障害者の学習・文化・スポーツ・レクリエーションの振興に取り組んでいましたし、社会福祉は憲法第25条の規定による社会権的生存権の保障のみならず、憲法第13条に基づく幸福追求権、自己実現を図ることも社会福祉推進の法源、根拠とすべきと考え、実践も研究もしてきましたので、2001年のWHOのICFの考え方である生活環境を改善することの重要性についてはさほど驚きませんでしたし、“今更”という感慨を持ったことは事実です。
〇しかしながら、厚生労働省がWHOのICFを翻訳し、その考え方を普及させるとなると話はかわってきます。私は、当時、厚生労働省の担当者に、“このICFの考え方を取り入れると障害者分野の施策の大幅な見直しが必要ですよ。状況によっては、障害基礎年金や障害者手帳のもつ意味が変わってきますし、障害認定に伴う制度自体の改編が必要になると思いますが、それでも行いますか”と質問したことを覚えている。
〇その当時は、生活環境の変化がサービスを必要としている人の生活意欲、生活方法、行動様式、生活圏域の拡大を劇的に変えるというイメージはさほどなかったことは事実です。
〇しかし、その後の介護ロボットの開発・普及、ICTを活用しての福祉機器の開発・普及の進展は目を見張るものがあり、これからのケアワーク、ソーシャルワークというソーシャルケアはICFの視点に基づく福祉機器の利活用を前提としたものでなければ“使い物”にならなくなってきています。
〇しかしながら、社会福祉士、介護福祉士、介護支援専門員、障害者相談支援専門員などの養成・研修において、福祉機器に関する領域は殆ど“皆無”といっても過言ではありません。福祉機器を利活用しての生活環境を改善させることは、これからのソーシャルケアの実践においては不可欠となっています。
〇先日読んだ『奇跡の介護リフトー介護業界に風穴を開けた小さなメーカーの苦闘の記録』(森島勝美著、幻冬舎、1500円、2022年2月発行)は、是非多くの社会福祉関係者に読んで欲しい文献です。
〇本書には、自宅において介護リフトを利活用することによって、“寝たきりの高齢者”の生活変容、生活意欲などが紹介されています。
〇社会福祉(社会事業)は、戦前から福祉サービスを必要としている人の生きる意欲、生きる希望、生きる見通しを引き出し、支えることが重要であり、それが“積極的社会事業”であると言われてきましたが、まさに福祉機器はそのような機能を有しています。
〇その際に重要なことは、福祉機器には補聴器もその範疇に入っているということを忘れてはいけません。2021年3月に出されたWHOの「聞こえ」の保障にかかわる報告書で、“難聴がうつ病を誘発し、それが認知症へとつながっている”ことを指摘しています。
〇社会福祉関係者は補聴器も含めた福祉機器の利活用に関心を寄せることが肝要です。このことは、拙著『地域福祉とは何か』の中で、地域自立生活支援における福祉機器の利活用の重要性についても述べています。

(2022年3月24日)

大橋 著作 その2

阪野 貢/「地域力」「住民力」再考のために―宮城孝著『住民力』のワンポイントメモ―

〇筆者(阪野)が気になる言葉・概念に「地域力」がある。それは、「まちづくりと市民福祉教育」において諸刃(もろは)の剣(つるぎ)になるからでもある。
〇「地域力」は、1995年1月に発生した阪神・淡路大震災を契機に、宮西悠司(みやにし・ゆうじ。まちづくりプランナー)によって提唱されたものである。具体的には、論稿「地域力を高めることがまちづくり―住民の力と市街地整備―」(『都市計画』第143号、日本都市計画学会、1986年12月、25~33ページ。以下[1])においてである。[1]で宮西は、まちづくりは「地域力を高める運動」として包括的に捉えるべきである。「まちづくりは、地域を基盤にし、地域住民が自主的、集団的活動を通じて、住民相互が助け合う心を養い、良好な住環境を形成するところにある。見方を変えれば、住民自身が地域への関心をいかに高めるか、地域の持つ資源をいかに充実させるか、加えて地域の自治能力の強化といったことがまちづくりという言葉で実践されている」(31ページ)、という。すなわち、宮西にあっては、「地域力」は、(1)「地域への関心力」―①地域・近隣社会とのかかわり、②地域環境への関心度合。(2)「地域資源の貯蓄力」―①地域居住環境状況(ハード)、②地域組織結成状況(ソフト)。(3)「地域の自治能力」―①住民組織の活動状況、②地域イベントへの参加状況、の3つの構成要素からなる(31~32ページ。図1参照)。そして、まちづくりは住民主体と行政参加によって進められ、行政は「地域力」の向上に取り組み、それを通じて行政改革を図ることが求められるのである。

〇「地域力」の概念について、その基本的な整理を行ったものに日本都市計画学会の学会誌に収録されている河上牧子(かわかみ・まきこ。都市計画専攻)の論稿「『地域力』と『ソーシャル・キャピタル』の概念に関する計画論的一考察」(『都市計画論文集』第40-3巻、日本都市計画学会、2005年10月、205~210ページ。以下[2])がある。[2]で河上は、上記の宮西や、地域力は「地域の問題解決力、コミュニティガバナンス、ソーシャルキャピタルの3要素から構成される」という山内直人(やまうち・なおと。公共経済学専攻)などの言説をめぐって、「地域力」と「ソーシャル・キャピタル」の概念整理を行う。そのまとめとして、河上はいう。「地域力」は、「ソーシャル・キャピタル」を包含する概念である。「地域力」は、「ソーシャル・キャピタル」によって支えられた「地域の問題解決能力」「地域の公共(財)とその計画・管理・運営能力」「地域自治の推進力」によって構成される。すなわち、「地域力」は、地域社会における住民の意識や行動、活動(ソフト面)のみならず、地域資源としての、地域の環境を構成する公共施設、公益施設、住居施設などのハードの状況も包含する地域の総合力的な概念という点が特徴的である(210ページ)。

〇1990年代以降の経済のグローバル化のなかで、経済成長の停滞と国・地方を通じた財政赤字問題が深刻化した。2000年4月の地方分権一括法の施行や2004年から2006年にかけての「三位一体改革」(国庫補助負担金の廃止・縮減、国から地方への税源移譲、地方交付税の見直し)などによって、地方分権改革の進展が図られた。しかも、国による三位一体改革は、地方財源を大幅に削減し、地方財政の逼迫化をもたらした。それらを背景に、実質的な住民参加が疑問視されるなかで、地域・住民を主役に祭りあげた地域・社会の活性化や再生が志向される。そのひとつとして、地域における住民参加や人材育成の促進が図られ、政府や地方自治体の行政機関・団体などによって「地域力」についての調査・研究がなされる。例えば、東京都市長会の提言「地域力の向上に向けて」(2008年11月。以下[3])や、総務省に設置された「地域力創造に関する有識者会議」(座長:月尾嘉男。2008年11月~2010年6月)の「地域力創造に関する有識者会議 最終取りまとめ 人材と資源で地域力創造を~まだまだできる人材力活性化」(2010年8月。以下[4])がそれである。
〇[3]では、「地域力」は「自治会・町会等の地縁組織、NPO等の市民団体や企業、これらの核となる市民及び行政が相互に連携し、総合力をもって主体的に地域の課題を発見し解決する力」(1ページ)と定義される。そして、その「地域力」の向上を図るためには、行政には(1)気軽に語り合い、活動できる場の提供(地域住民が互いを認識・理解し地域生活課題を共有化するために、気軽に人々が集える場を整備・提供する)。(2)地域力の向上の担い手の確保(地域が地域力の向上の担い手を確保し活用していくことに対して、十分な下支えをする)。(3)人材の発掘・育成(地域力の向上に必要なマンパワーとして、地域力の担い手に係る人材を発掘・育成する)。(4)地域力の向上のための財政支援(地域力の担い手がさまざまな活動を行う際の経費について、財政的に支援する)、などが求められることになる(19~25ページ)。
〇[4]では、今後の「地域力」創造の基本は、「地域資源の有効活用」と「人材力の強化」である(2ページ)、とする。そしていう。● 「地域力」には地域資源や人的要素、社会的要素、経済的要素、自然的要素など多様な要素・内容が含まれている。経済的条件、自然的条件は地域においてさまざまであるが、同じような条件下にあっても活性化している地域とそうでない地域がある。地域を活性化させる要因としては、究極的には「人材力」の要素が大きい。● 「人材力」は、さまざまな得意分野を持った多様な人々を発掘し、まわりの人々が支え、誰かに強制されるのではなく、緩やかにつながり、協力し合うことによって向上する。● 「人材力」が向かう対象として地域資源がある。地域に愛着を持ち自らの地域の魅力、資源に気づき、それらを磨いていけるよう、地域資源の発掘、再生、創造に向けた取り組みに「人材力」をつなげ、それを結集していくことが重要となる(3~4ページ、「最終取りまとめ概要」)。そのうえで、[4]は、表1のように「地域力」の構成要素を分解する。そして、「地域力」全般の評価や地域づくり事例のデータベースの構築について検討する必要があるとする。

〇総務省はその後、「地域力」の基本的・中核的な要素である「人材力」の強化を図るために2010年6月、「人材力活性化研究会」(座長:飯盛義徳)を設置する。そして、研究会は、2011年3月に『人材力活性化プログラム』と『地域づくり活動のリーダー育成のためのカリキュラム』を作成する。加えて、「プログラム」と「カリキュラム」の有効活用の促進とその普及を図るために、2012年3月に『地域づくり人の育成に関する手引き』、2013年3月に『地域づくり人育成ハンドブック』を作成・編集する。こうして、国主導の・上からの「地方分権」と同様に、国主導の・国好みの「地域づくり人」の育成・確保が、「地域おこし協力隊」や「地域力創造アドバイザー」「全国地域づくり人財塾」などを通じて図られる。
〇ここで、厚生労働省等が推進する「我が事・丸ごと」の地域共生社会の実現に向けた検討会について思い起こしておきたい。厚生労働省に設置された「地域における住民主体の課題解決力強化・相談支援体制の在り方に関する検討会」(座長:原田正樹、2016年10月~2017年9月)、略称「地域力強化検討会」がそれである。そこでは、(1)住民主体による地域課題の解決力(すなわち「地域力」)の強化・体制づくりのあり方、(2)市町村による包括的な相談支援体制の整備のあり方、(3)寄附文化の醸成に向けた取り組み、について検討された。そして、2017年9月、「地域力強化検討会 最終とりまとめ~地域共生社会の実現に向けた新しいステージへ~」が報告されている。その内容は総じていえば、耳ざわりのよい言葉と裏腹に、地域・住民の「自立(自活)と連帯(絆)」「自助(個人)と互助(近隣)」の強制と財政の抑制(「我が事」)、社会福祉の市場化・商品化と社会保障・社会福祉の公的責任(行政責任)の地域への丸投げ(「丸ごと」)、などの理念が通底している。そしてそれは、少子高齢・人口減少社会が進展し地域社会(コミュニティ)の衰退や崩壊が進むなかで、分断と孤立、格差と不平等、そして差別と排除などの助長・再生産を促すものである。ここで、1979年8月の「新経済社会7カ年計画」(閣議決定)で打ち出された、「個人の自助努力と家庭や近隣・地域社会等の連帯」を基礎とする「日本型福祉社会」論が思い出される。
〇ところで、筆者(阪野)の手もとにいま、宮城孝(みやしろ・たかし。地域福祉専攻)の最新の著作『住民力―超高齢社会を生き抜く地域のチカラ―』(明石書店、2022年1月。以下[5])がある。[5]で宮城は、各地の住民福祉活動に共通しているのは、「住民リーダーたちの地域に対する強い愛着と将来への危機感」であり、「住民相互の協力関係の強さ」である(3ページ)。日本が直面している超高齢化や頻発する自然災害などの危機に立ち向かうためには、「住民力」が必要不可欠となる、という。その際の「住民力」とは、「地域の暮らしを守るためのチカラ」である(4ページ)。そこで、宮城は、地域づくりにおける住民参加や「住民力」のあり方について、自らが地域福祉実践・研究のフィールドとして関わってきた島根県松江市淞北台地区をはじめ、東京都中野区や立川市、神奈川県横須賀市における地域・住民の取り組み、さらには東日本大震災で被害を受けた陸前高田市での支援活動などを紹介しながら論述する。
〇そのうえで宮城は、[5]のまとめとして、「住民力」を高めるための「7つのポイント」を提示する(141~161ページ)。その要点をメモっておくことにする(抜き書きと要約)。

「住民力」を高めるための7つのポイント
(1)地域の現状を知り、未来を予測する
地域住民、特に地域のリーダー層が、自分たちの地域の現状と今後の課題、将来の予測について、基本的・客観的なデータなどから知り、考えることが重要である。そのためにも、行政は、地域のデータを積極的に地域に示すべきである。住民が不安に思うのではないかのような点について余計な配慮は必要ない。住民自身が、地域のことを正確に知ることから、地域の課題を考えることが始まる。
(2)課題を共有化し、住民にできることを探る
行政は、前例の踏襲や公平性といったことから、新しい事業や施策が実現するには、手続きや時間がかかるなど壁が厚い。そこで、最初から行政にすべてを期待するのではなく、住民が自分たちでできることを追求する。そして、実績を示して行政や専門機関を最大限に活用すべきである。すなわち、住民ができることを探り、住民がいろいろな意味で力をつけて、行政が取り組まざるを得ないようにすることが大事なのである。
(3)住民力を高めるリーダーシップ
リーダーのあり様は、住民による福祉活動が地域に広がり発展していく決定的に重要なポイントとなる。リーダーには、地域への愛情(愛着)と熱意、地域課題に対する客観的理解(受容力)と危機感やチャレンジ精神、課題解決のための責任感と仲間との信頼関係の構築、などが求められる。住民主体による福祉活動が活発に展開されるためには、住民リーダーの的確なリーダーシップとともに、地域を支援する関係者には、そのリーダーの信頼を得る関係づくりと適切な刺激や情報を提供する力が求められる。
(4)チームの結束力とお互いの協力関係をつくる
住民による福祉活動を継続的に推進していくためには、リーダーとリーダーをサポートする周辺のスタッフによる「コア・チーム」の結束と協力関係を構築することが鍵となる。このコア・チームが、それぞれの地域の情報を持ち寄って情報交換し、課題に対応るアイデアを出し合い、協議していく必要がある。地域の課題に取り組むには、中・長期的な取り組みが必要となる。そのためにも、強力なリーダー一人に依存するのではなく、コア・チームづくりが非常に重要となる。
(5)行政や関係機関・団体を最大限に活用する
これからの時代は、行政や専門機関が地域に出向き、地域の課題をしっかりと理解し、その課題に対応していくことがますます求められる。その際、行政と地域住民との橋渡しをするのが、社会福祉協議会や地域包括支援センターである。人口減少・超高齢社会において、地域の課題がさまざまに顕在化する時代では、住民組織が自らその役割を果たしつつ、住民のみでは対応できない課題に対して、行政や関係機関・団体の力を最大限に活用する力を持つことが重要となる。
(6)理解者・協力者の参加を広げるしかけ
これからの住民福祉活動の大きな課題は、いかに一般住民を巻き込むかという点にある。福祉活動に参加する住民や団体が持続性を高め活性化していくためには、新たな人材の参加が不可欠となる。その際に重要なのは、活動に「楽しさ」(友達や仲間をつくる、知識や情報、技術を身につけるなど)の要素を取り入れるとともに、「その人を活かす」(趣味や特技などを活かす)ことである。
(7)新たな課題に粘り強く挑戦し続けるチカラ
住民によるこれまでの取り組みでは地域の課題に十分対応できなかったり、取り組みが中断してしまうことも生じる。地域は簡単に変わらないが、5年、10年で地域は大きく変わる。地域がそれなりの成果を出すまでには、必ずそこに至るまでのプロセスと多くの努力の積み重ねがある。超高齢社会にあって、地域では今後さまざまなことが起こり得るが、それらの変化を見つめつつ、新たな課題に果敢に、また粘り強く挑戦し続けることが必要かつ重要となる。

〇「〇〇力」という言葉・概念は多様である。例えば、「生きる力「社会力」「人間力」「福祉力」などがそれである。
〇「生きる力」は、(1)確かな学力:知識・技能に加え、自分で課題を見つけ、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力、(2)豊かな人間性:自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、(3)健康・体力:たくましく生きるための健康や体力、などからなる(第15期中央教育審議会第1次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について―子供に[生きる力]と[ゆとり]を―」1996年7月)。その答申を受けて、小・中・高等学校に「総合的な学習の時間」が新設された(小・中学校は2002年度、高等学校は2003年度から実施)。
〇「社会力」とは、「社会を作り、作った社会を運営しつつ、その社会を絶えず作り変えていくために必要な資質や能力」のことをいう。その基盤になる能力は、①「他者を認識する能力」と②「他者への共感能力ないし感情移入能力」の2つである(門脇厚司『子どもの社会力』〈岩波新書〉岩波書店、1999年12月、61、65ページ)。
〇「人間力」とは、「社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力」をいう。それは、①基礎学力、専門的な知識・ノウハウ、論理的思考力、創造力などの「知的能力的要素」、②コミュニケーションスキル、リーダーシップ、公共心、規範意識などの「社会・対人関係的要素」、③意欲、忍耐力、自分らしい生き方や成功を追求する力などの「自己制御的要素」からなる(内閣府・人間力戦略研究会「人間力戦略研究会報告書 若者に夢と目標を抱かせ、意欲を高める~信頼と連帯の社会システム~」2003年4月)。
〇「福祉力」は、地域福祉の推進を図るための地域の自発的な支援活動を総称する。地域福祉の推進(力)は、「地域の福祉力」と「福祉の地域力」との合力(ごうりょく)によって形成される。「地域の福祉力」は、「地域社会のなかに存在する、地域住民による自発的で開拓的な福祉活動や支援のエネルギー」(10ページ)をいう。それは、地域福祉の主体・当事者としての住民が「異質な他者との出会い、コミュニケーション、体験、学び、理解といった一連の過程を通じ、地域の多様性や異質性を受け入れ、活動を作り山し、地域のありようを構想していく力」(14ページ)をいう。ここでは、「出会いの場」(共有する力)、「協働の場」(作り出す力)、「協議の場」(構想する力)が重視される。「福祉の地域力」は、「『地域に潜在する福祉力』を奪わず活かすために、専門職・行政職がその福祉力を評価する意識や価値をもち、より積極的に『地域の福祉力』を形成さらには発展させるために用いる支援の方法」(21ページ)を意味する(全国社会福祉協議会・地域の福祉力の向上に関する調査委員会『地域福祉をすすめる力~育てよう、活かそう「地域の福祉力」~』2007年2月)。
〇「〇〇力」の「力」は「資質・能力」を意味する。地域・住民の「資質・能力」は本質的に、その有無や程度(高低、上下)は異なり、その特性も多様・異質であることを前提にする。その多様性や異質性は、そのものには問題はない。地域・住民が多様で異質なものであるという点においては対等である。問題は、多様・異質なものと関わることができる「資質・能力」があるかどうか、多様性や異質性を知り、理解し、受け入れ、共有することができるかどうかにある(岩佐礼子『地域力の再発見―内発的発展論からの教育再考―』藤原書店、2015年3月、350ページ)。
〇こうした「資質・能力」に対する国や行政による「上から」「外から」の、しかも手あかのついたステレオタイプな働きかけは、画一化・没個性化とそのもとでの選別化・序列化を促し、息苦しい地域・住民を生むことになる。それは、管理・統制とその強化を意味する。超高齢化や頻発する自然災害に立ち向かうためにいま求められるのは、国主導の「地域再生」「地域の活性化」や「地方創生」ではない。住民主体・住民主導の、自律的で内発的な、地域に根ざしたその地域ならではの豊かさの実現と価値の共創である。そこには、緩(ゆる)やかな「コミュニズム(共同体主義)」が見出される。この言説は必ずしも目新しいものではないが改めて、本稿で紹介した宮城孝による「まちづくり」「住民力」に “温もり” と “確かさ” を感じるのは、筆者だけではあるまい。国や行政による無味乾燥な言葉(「地域力」「人間力」等)や羊頭狗肉(ようとうくにく)の政策・制度だけはご免(めん)こうむりたい。

備考
表1 (「地域力」要素分解図 )の拡大版を表示しておくことにする。

謝辞
宮西悠司の論稿「地域力を高めることがまちづくり―住民のチカラと市街地整備―」を拝受するにあたっては、日本都市計画学会事務局から格別のご高配を賜った。記して感謝申し上げます。

始動

新しきことが始まる
新しきことを始める
新しきことは始まった

用意はいいか
合図を出せ
始動の響きが心に伝わる

動いてこそ見えることがある
動かねば分からぬことがある
動かしてこそ試されることもある

己の古き道標を外さねばならない
己の道ゆえに始めねばならない
己の描く新しき道に踏み出そう

夢への始動は喜びである
夢への始動は己を悟り知る
夢への始動は世界の鼓動に共鳴する

新しきことは小さきことから始まる
新しきことに心躍らせるのがいい
新しきことが新たな世界を開いていくだろう

始動せよ
既成概念からの離脱
始動せよ
固定観念からの解放
始動せよ
新たな価値の創造

〔2022年3月15日書き下ろし。孫の二十歳の誕生日の祝詩。そして「世語り」の〆の詩編を贈ります。長い間ご愛読頂きありがとうございました〕

皆殺し宣言

人道回廊の為の停戦中に産科・小児科病院を爆撃した
女児ら3人が死亡し医師や出産中の女性を含め17人が負傷した

なぜ攻撃したのか
「ウクライナ軍が病院内で戦闘配置に就いていたせいだった」と強弁
「爆撃直後の動画では、明らかに患者とスタッフしかおらず、妊娠した女性たちが担架で運ばれていた」と非難

無差別攻撃の魔の手は誰でもどこでも勝手放題
爆弾持ったきちがいたちはゲーム感覚でぶち込み遊ぶ
被害が甚大になろうが殺人鬼にはお咎めなし
国家がすべて抗弁する

無差別攻撃は高揚し化学兵器を使用可か
ガスマスクを装備した途端に効率よく排除するだけ
避難しない市民は皆殺しと宣言済みだ
国家の命令にニヤニヤしながら従うだけの兵士たち

軍隊は善悪を判断する集団ではない
上部の命令に自ら従うことだけ
上部の狂気を自らの狂気にして戦うだけ
上部の野望を自らに課して命をかけるだけ
上部の判断を自ら最善と思い込まされるだけ

軍隊は命令一下戦う集団でしかない
戦線離脱は許されない
命令拒否は軍法会議で厳罰が待つ
悪魔の手先に豹変し生き血を求める
疑心は封印して人殺しに加担する

皆殺し宣言下戦果を求める集団でしかない
戦線は非人間的な輩が命を奪い合う場と化す
戦場は非人間的な輩の縦横無尽な人殺しの場と化す
戦果は非人間的な輩の胸を飾る勲章の評価の場と化す

〔2022年3月10日書き下ろし。書いても書いても書いても…書いても、この怒りは言葉を綴り続けるしかないのか〕

付記
ロシア軍が停戦の時間中に病院を爆撃 気温は氷点下4度
…負傷した赤ちゃんは凍死の恐れも、ロシア側は認めるも”強弁”
ロシアによるウクライナ侵略開始からちょうど2週間が経過した9日、ウクライナ政府は南東部マリウポリにある産科・小児科病院がロシア軍に爆撃されたと発表した。「市民を退避させる人道回廊を開くため合意した停戦のはずの時間中だった」と非難しており、同市当局が公表したところによると、出産中だった女性を含めて少なくとも17人が負傷した。
英紙デーリーメール(電子版)は「爆撃による“ジェノサイド(民族大量虐殺)”で、生存者を捜す絶望的な闘い。気温は氷点下4度まで落ち込む中、レスキュー部隊はがれきをかき分けている。負傷した赤ん坊たちは、凍死の恐れがある」と伝えた。
マリウポリ市が公表した動画では、3階建ての複数の病棟は窓ガラスが全て割れ、中庭の地面は爆撃でえぐられた深さ8メートルの大穴が口をのぞかせている。赤子を抱いた女性が泣き叫び、放心状態の少女は顔面が血だらけだ。
ロシア外務省の報道官は病院の爆撃を認めた上で「ウクライナ軍が病院内で戦闘配置に就いていたせいだった」と強弁したが、英BBC放送は「爆撃直後の動画では、明らかに患者とスタッフしかおらず、妊娠した女性たちが担架で運ばれていた」と非難した。
首都キエフの西にあるジトーミルでも2カ所の病院が爆撃を受け、ウクライナでは、侵略開始から既に18の保健医療施設などが爆撃を受けたことが世界保健機関(WHO)で確認されている。(中日スポーツ2022年3月10日)