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老爺心お節介情報/第25号(2021年6月3日)

「老爺心お節介情報」第25号

〇皆さんお変わりなくお過ごしでしょうか。
〇新型コロナウイルスの件で、私が関わっている財団、社団などの理事会は軒並み書面審査かリモートによる会議で、何か味気ない雰囲気の中で終了しています。今は、我慢の時です。ワクチン接種が進み、少し交流ができるようになることを願うばかりです。
〇この間、私が頂いた資料や本で、皆さんと情報の共有化したいものを挙げます。

Ⅰ 金澤周作著『チャリティの帝国』(岩波新書、2021年5月20日発行)

京都大学教授の金澤周作先生は、2008年に出版した『チャリティとイギリス近代』で、SOMPO福祉財団の文献賞を受賞された方であるが、この度『チャリティの帝国』(岩波新書、2021年5月20日発行)を上梓された。とてもコンパクトにイギリスのチャリティの歴史、概要についてまとめられているので必読文献の1つである。

私は、ご恵贈賜ったお礼の手紙に次のようなことを記した。
(金澤先生への礼状の一部)
私は、戦後日本の社会福祉研究は憲法第89条の規定に制約され、イギリスの行政と住民のボランティア活動との関係を巡る研究が不十分だったことを指摘してきました。また、そのイギリスのボランティア活動の一番大きなものはチャリティ、金銭のボランティア活動、それも遺贈だと言ってきました。
私は、1980年代から日本には「寄付の文化」がなく、あるのは互助組織における冠婚葬祭での金銭授受であり、かつ神社仏閣への寄進であり、社会に対する、見ず知らずの人への寄付文化は育っていないと指摘し、それを変えなければ、日本の社会福祉は発展しないと言い続けてきました。
更には、1992年にイギリスで1601年に制定された「Statute of Charitable Uses 」(チャリティ用益法、P66)の存在を知り、COの事務局でその原典に触れ、大変驚きました。また、その考え方が1960年の チャリティ法や、その1992年の大改正法にも引き継がれていることに驚き、イギリスの歴史の重みを感じました。その後、日英米3か国の共同募金や寄付の文化について調査研究し、日本の社会福祉はイギリスのCAFにもっと学ぶべきと言ってきましたが、相変わらず日本の社会福祉研究は行政依存型です。
そんな日本の社会福祉研究者に金澤先生のご労作である『チャリティとイギリス近代』を読むように言ってきましたが、その内容がこのようにコンパクトにまとめられたことは嬉しい限りです。多くの人に読んでもらい、イギリスの学び方を変えてもらえればと願うばかりです。

Ⅱ 自閉傾向の強い障害者のターミナルケア(『嬉泉の新聞』第83号より)

日本社会事業大学教授であった故石井哲夫先生が、故須藤理事長と力を合わせて設立した社会福祉法人嬉泉の機関紙『嬉泉の新聞』第83号に、我々が改めて考えなければならない記事が掲載されており、とても感動した。
故石井哲夫先生のご子息で、現在、社会福祉法人嬉泉の理事長をされている石井啓氏が「自閉傾向のある人のターミナルケアを考えるーーインフォームド・コンセントの大切さー」と題して、また袖ケ浦ひかりの学園園長の松田香さんが「利用者の終末期に寄り添うーー実践を通して、援助者として思ったこと、感じたこと」を、「自分らしく生きるために」と題して、袖ケ浦ひかりの学園の鈴木雅士さんが執筆している。
袖ケ浦ひかりの学園に入園していた52歳の女性で、“自閉症のある方で、非常に拘りが強く、知的な遅れもあり、コミュニケーションをとることの難しい、いわゆる重度の方”が、定期健診で末期がんが見つかり、看取るまでの過程が記述されている。
障害のある方でも、自分らしく生きることを理念として掲げている社会福祉法人嬉泉が、家族と協働して、“がん告知”をし、延命治療をせずに、死の直前まで自らの拘りの行動、表現をされていた方を看取った記述が綴られており、大変感動した。

Ⅲ 『ICFの視点に基づく自立生活支援の福祉用具』(伊藤勝規著、中央法規、3300円)

日本社会事業大学の学部卒業生である伊藤勝規さんが描いた本です。ICFの視点に基づくマネジメントの重要性と必要性を非常にわかりやすく書いています。この本は、日本社会事業大学社会福祉学会の木田賞に選ばれました。

Ⅳ シルバー産業新聞の4月版、5月版に連載した原稿を添付しておきます。

(1)シルバー産業新聞の4月版
「求めと必要と合意に基づく支援」

(2)シルバー産業新聞の5月版
「家族・地域の介護力、養育力の脆弱化とソーシャルサポートネットワークの必要性」

添付資料(1)
シルバー産業新聞連載記事第4回

「求めと必要と合意に基づく支援」

福祉サービスを必要としている人々への支援において、よほど気を付けないと無意識のうちに“上から目線”の世話をしてあげるというパターナリズムになりがちになる。
福祉サービスを必要としている人はさまざまな心身機能の障害や生活上の機能障害において要介護、要支援の状態に陥っているので、ついつい福祉サービス従事者はその機能障害を改善、補完するために“いいことをしてあげる”という意識になりがちである。それは、一見“善意”に満ちた行為として考えられがちであるが、福祉サービスを必要としている人の意思や主体性を尊重しての“誠意”ある行為といえるのであろうか。
また、福祉サービスを必要としている人で、家族と同居している人の場合には、福祉サービスを必要としている人本人の意思よりも、同居している家族が自分の“思い”、“願い”を福祉サービス従事者に話され、その家族の希望が優先され、ややもすると本人の意向や意思は無視されがちになる。ましてや、福祉サービスを必要としている人は、日常的に同居している家族に普段から迷惑をかけているからという“負い目”もあり、家族に遠慮して、自分の意向、意思を表明しない場合が多々ある。
イギリスのブラッドショウは1970年代に、住民の抱える生活上のニーズを4つに類型化(①本人から表明されたニーズ、②住民は生活上の不安や不満、生活のしづらさを抱えているが表明されていないニーズ、③住民は気が付いていないか、表明もしていないが専門職が気づき、必要だと考えられるニーズ、④社会的にすでにニーズとして把握され、対応策が考えられているニーズ)した。この類型化されたニーズにおいて、日本の社会福祉分野において気を付けなければならないニーズ把握は、②の住民の生活上様々なニーズがあるにも関わらず気が付いていないか、自覚しておらず、表明されていないニーズである。
日本の“世間体の文化”、“忖度の文化”、”もの言わぬ文化”に馴染んで生活してきた国民は、自らの意思を表明することや自らの希望や願いを表明することに多くの人が躊躇してしまう。したがって、本人が自分の意見や気持ちを表明しないのだからニーズがないのだろうと解釈するととんでもない間違いを起こすことにもなりかねない。それらのニーズは潜在化しがちで、対応が遅れることになる。
一方、専門職が気づき、必要と判断するニーズにおいても、社会生活モデルに基づくアセスメントやナラティブに基づく支援方針の立案が的確に行われていればいいが、上記したようなパターナリズムでのアプローチをしている場合には専門職の判断が必ずしも妥当であると言えない場合が生じてくる。
イギリスでは、1990年の法律により、福祉サービスを提供する際には、その援助方針やケアプラン及び日常生活のスケジュール等を事前に本人に提示し、本人の理解を踏まえて提供することが求められるようになったが、2005年の「意思決定能力法」ではよりその考え方を重視するように法定化された。
日本の民法の成年後見制度や社会福祉法の日常生活自立支援事業は福祉サービスを必要としている人が自ら意思決定できないことを前提にして制度設計されているのと違い、イギリスの「意思決定能力法」は日本と逆の立場を取っている。
「意思決定能力法」は①知的障害者、精神障害者、認知症を有する高齢者、高次脳機能障害を負った人々を問わず、すべての人には判断能力があるとする「判断能力存在の推定」原則を出発としており、②この法律は他者の意思決定に関与する人々の権限について定める法律ではなく、意思決定に困難を有する人々の支援のされ方について定める法律であるとしている。その上で、➂「意思決定」とは、(イ)自分の置かれた状況を客観的に認識して意思決定を行う必要性を理解し、(ロ)そうした状況に関連する情報を理解、保持、比較、活用して (ハ)何をどうしたいか、どうすべきかについて、自分の意思を決めることを意味する。したがって、結果としての「決定」ではなく、「決定するという行為」そのものが着目される。意思決定を他者の支援を借りながら「支援された意思決定」の概念であるとしている。(註)
日本だと、“安易に”、あの人は判断能力がないから、脆弱だから“その意思を代行してあげる”ということになりかねない。言語表現能力や他の意思表明方法を十分に駆使できない障害児・者の方でも、自分の気持ちの良い状態には〟“快”の表情を示すし、気持ち悪ければ“不快”の表現ができる。福祉サービス従事者は安易に“意思決定の代行”をするのではなく、常に福祉サービスを必要としている人本人の意思、求めていることを把握することに努める必要がある。
その上で、本人が自覚できていない人、食わず嫌いでサービス利用の意向を持てていない人に対し、専門職としてはニーズを科学的に分析・診断・評価し、必要と判断したサービスを説明し、その上で、両者の考え方、プランのあり方を出し合って、両者の合意に基づいて援助方針、ケアプランを作成することが求められている。(2021年3月12日記)

(註)菅冨美枝「自己決定を支援する法制度・支援者を支援する法制度――イギリス2005年意思決定能力法からの示唆―」法政大学大原社会問題研究所雑誌No822、2010年8月所収。

添付資料(2)
シルバー産業新聞連載記事第5回

「家族・地域の介護力、養育力の脆弱化とソーシャルサポートネットワークの必要性」

戦後日本の社会福祉問題は、1970年頃を境に大きく変質する。1960年代末から1970年代にかけて、「新しい貧困」という考え方が登場する。
従来の貧困は、経済的貧困であり、労働経済学的視点に基づく対応策が考えられ、ほぼ金銭瀬的給付をすれば問題は解決できると考えられていた。そのような中で、江口英一は「不安定就業層」という新しい考え方を提示し、労働者世帯の生活の不安定さは労働経済的対応策だけでは不安定な生活の問題解決につながらず、地方自治体における様々な対人援助サービスの整備が必要であることを指摘した。1970年頃“ポストの数ほど保育所を”というスローガンの下に、保育所増設運動が全国各地で台頭したのはその一つの現れである。
また、金銭的給付では解決できない「新しい貧困」への対処も求められるようになってくる。農業中心の時代には、家族も多世代同居家族であり、地域においても農業を通じての地縁・血縁関係が豊かにあり、様々な生活問題があってもそれらへの対処は家族や近隣での助け合いの中で問題解決が行われ、行政による社会的対応策が求められなくても済んだ。
しかしながら、急激な工業化、都市化、核家族化の進展により、家族構成員の抱える生活問題への対処力が脆弱化していく。
第1には、家族の構成員が抱える様々なショックをやわらげ、慰め、励ます機能が家族形態の変容と核家族化することにより脆弱化していく。人間は弱い動物であり、日常的に受けるショックを和らげてくれる機能や慰め、励ましてくれる機能が身近になければ一人で対処することは大変なことである。筆者は、家族構成員が受けるショックを和らげ、慰め、励ましてくれる機能を自動車の乗り心地の良さを左右するショックアブソーバー(衝撃緩衝装置)にたとえ、家族が持っていたショックアブソーバー機能が脆弱化することにより、家族とその構成員の精神的不安定さと生活問題対処力の脆弱化が増大していることを指摘した。離婚が増え、一人親家庭が増大していくと、家族のショックアボソーバー機能は家族内にはほとんどなくなり、かつ社会的にも“支援”がなく、孤立していく。また、それとともに精神疾患の増大も深刻化していく。
第2には、急激に核家族化されたことにより、親の世代から引き継ぐべき生活文化、生活様式、生活習慣といったものの“世代間継承”ができず、生活力の弱い核家族が増えることになる。塩月弥栄子の『冠婚葬祭入門』が1971年に刊行され、ベストセラーになったのも、松田道雄等の『育児書』が刊行され、重宝されたのも、この生活文化、子育ての文化の“世代間継承”が断絶したことの一つの証左であろう。高度経済成長に必要な労働力として、“金の卵”として全国から集められた中卒集団就職者にとっては、自らの生活力を豊かに育む生活環境を持てず、厳しい生活にさらされる。
福祉事務所で生活保護業務を担当する現業員らによる調査で、生活保護世帯への救済策として金銭的給付では解決できない「新しい貧困」、“生活力“の脆弱さが指摘された。
第3には、急激な都市化、工業化の中で、住居の移動も激しく、近隣関係を構築できない、地域コミュニティを形成できない中で、多くの住民が日常的に触れ合える、支え合える近隣関係、人間関係を持てずに暮らすことになる。
2015年に施行された「生活困窮者自立支援法」は、まさにこれらの「新しい貧困」問題への対応策であり、かつ2016年から推進されている地域共生社会政策はよりその対応策を強化しようとするものである。
それは、福祉サービスを必要としている人が地域において、孤立することなく、排除されることなく“社会参加”できるようにしようとするもので、日本でもイギリスと同じように、“孤立・孤独問題担当大臣”を任命せざるを得ないほど地域においてソーシャルサポートネットワークを持てずに孤立・孤独に陥っている人々の問題は深刻化している。
地域生活している単身高齢者や単身障害者の数はますます増大しており、それらの人々への支援には、介護保険サービスや障害者サービスを“点と点を結ぶ”方式で提供しても解決できない問題が数多くあることが指摘されている。
民法の成年後見制度や社会福祉法に基づく日常生活自立支援事業もあるが、それだけでは解決できない様々な生活上の支援が必要とされている。入退院時の保証人制度や庭木の手入れ等の住宅管理保全、ゴミの分別と廃棄、看取り、死後対応事務(火葬許可書の名義、葬儀の扱い、遺骨の取り扱い)等、既存のサービスにない日常生活支援サービスが必要になっているが、それとともに重要なのが孤立・孤独問題である。
従来の家族、地域が有していた生活支援に“幻想を抱かず”、それとは別に、新たなソーシャルサポートネットワークを構築することが求められている。悲しい時に慰めてくれる人、嬉しい時に一緒に喜んでくれる人など情緒的にサポートしてくれる人の存在、生活上のちょっとした困りごとを手伝ってくれる人の存在、日々変わる日常生活上の制度などについて情報を教えてくれる人の存在、一人の人間としての尊厳を守り接してくれる人、人間として評価してくれる人の存在という4つのソーシャルサポートネットワークの機能が地域自立生活にはとても重要で、その機能の構築が地域共生社会政策として不可欠である。

(註)J・S・Houseの4つの機能、『支えあう人と人』浦光博著、サイエンス社、1992年参照。

(2021年6月3日記)

心の五味のひとあじ

怠惰な一日だった
朝から身体が重く 気だるさが心を占めた
気分転換に庭に出た
外気は25度の夏日 
陽ざしは強かったが 吹く風も強かった
長居も出来ず 冷えた部屋に戻った

リクライニングチェアを倒した
読みかけの本を 手にする
効果なく 眠気が走る
iPadを手に ニュースを指であさる
集中できず あきらめる

考えることを やめた
見ることも やめた
怠惰な状態を 受け止めた
モチベーションが落下する
心の欠落 

心の五味の批判感覚
酸(すっぱい)さが ここ数日キツかった
苦(にがい)おもいが 溜まっていった
甘(あまい)くはない事態に 憤っていた
辛(からい)論調が 己の弱さを吐露した
鹹 (かん)が身体に回り 毒気に冒された

心の五味の感覚停止
悲観感ゆえの 心の痛みからの回避
無力感ゆえの 心の衰弱からの回復
閉塞感ゆえの 心の崩壊からの回生

心の五味の喪失からの再生
焦燥感ゆえの 苛立つ心の制御
失望感ゆえの 逆らう心の抑制
危機感ゆえの いのちと心の防御

※五味(ごみ):古くから言われている、酸(すっぱい)・苦(にがい)・甘(あまい)・辛(からい)・鹹 (かん:塩からい)の五種の味。

〔2021年6月3日書き下ろし。虚しさと疲れが倦怠感となった。怠惰は時に自分を見つめる機会となる〕

たかります

たかりは 恐喝の類いです
チンピラが よくやる脅しです
やり方次第で 正当化できます 

たかりが おごりにかわります
五輪貴族の 処世術です
4年に一度の開催で 大枚の金が動きます

たかりが 仕事です
家族総出で 海外で出稼ぎします
たかりは 恐喝めいても罪には問われません

脅しても賺(すか)しても 開催させねばなりません
平和の祭典なんぞとほざくのは笑止千万 幻想です
たかりのローテーションを確保維持するだけです
関係者にはそこんところは 了承済みです

中止なんて 絶対許しません
4年間の稼ぎのプランが 崩壊します
多額の賠償金で埋め合わせを 裏で画策してます
怖じけづかせて すべての責任押しつけます
1億総玉砕しようとも IOCは関知しません
ボランティアは 逃がさぬよう厳重に管理しなさい

たかりとは心外です
合法な五輪商業ビジネス 興行師の正当な報酬です
いろいろ根回ししますから 裏の金も動きます
高額であろうが 市場原理が働いてるだけです

ワイフにたかられました
東京に行けない代わりに お土産よろしくって
何がいいですかね? 
さっそく東京にプレッシャーをかけておきました
おごってくれるにしても こちらの意向を尊重しなさい
それって「お・も・て・な・し」ですよね

〔2021年6月3日書き下ろし。IOCのこけおどしに怖じ気づく者たち。たかりをおごりと言い含められた者たち。尋常ではない事態は続く〕

付記
【東京五輪】フランスのニュース専門放送局が中止を要求「大失敗のリスクがある」
フランスのニュース専門放送局「LCI」が、新型コロナ禍での東京五輪について「大失敗のリスクがある」と強い警鐘を鳴らした。
同局は新型コロナ禍の深刻化により、開催中止を求める世論が日本で高まり続けている現状を指摘。「東京五輪についての激論がずっと繰り広げられている。最新の世論調査でも日本人の80%以上がこの夏のイベントに反対しており、国際オリンピック委員会(IOC)に反対している」と世論の反対が依然として高いと分析した。
東京五輪を巡っては世界各国から数万人規模の大会関係者が来日するため、感染爆発や未知の変異種の発生など多くの懸念が出ている。さらに3日には政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長が、東京五輪で感染が発生した場合に「医療制度や検査体制が非常に脆弱な発展途上国に(ウイルスが)わたる可能性がある」と言及。選手をはじめ大会関係者が日本で感染し、大会後に各国へ帰国した際に感染を広げる危険性を指摘した。こうした現状から同局は「東京五輪は大失敗のリスクがある。キャンセルした方が賢明だ」とそのリスクの大きさから中止を強く要請した。
IOCや大会組織委員会は開催強行へ〝1億総玉砕モード〟に突入しているが、相次ぐ中止への警告にもはや耳を傾けることはないのか…。(東スポWeb 2021年6月3日)

義を見てせざるは

台湾にワクチンを送ったニュースが 飛び込んだ
疲弊した心に 温情の深さを知らしめる
人の道に外れてはならない
人に義を正すことこそ勇なり

正義の反対は 悪ではないもう一つの正義
専制を押しつけてくる もう一つの正義
ワクチン供給の邪魔立てをする もう一つの正義
人道支援を選別する もう一つの正義
批判には厳しく制裁を下す もう一つの正義

もう一つの正義に
怯(ひる)むことなく 果敢に闘い続ける台湾
自由と自律を 死守し続ける台湾  
相容れない地平線に立ち 対峙し続ける台湾

困窮した国々への支援を 続けなければならない
ワクチン支援金を 差し出すだけでは意味はない
東京五輪を前にして 点数稼ぎになってはいけない
世界に人道を示してこそ 国民の品格が保たれる

外交とは 
人民交際と相互理解の場を 共有する
不変の信頼を獲得する場づくりを 協働する
永久不戦の政治を 鋭意創造する

外交力とは
友愛の連帯
勇気の発動
人道の実現
平和への希求と戦争絶対反対! 

〔2021年6月4日書き下ろし。東日本大震災から十年、台湾国民が迅速に見せた支援活動は、いまも心に刻まれている。過去の日本統治の時代を経ても、なお親愛の情を見せる方々に、このようなカタチで支援できることが、疲弊した心が温まる。管政権が打算的でないことを願う〕

付記
台湾に日本からのワクチン到着 市民から感謝の声が相次ぐ
日本が台湾に無償提供する新型コロナワクチン124万回分を載せた航空機が4日午後、台湾北部の空港に到着した。台湾メディアが一斉に報じた。台湾の市民から感謝の声が相次いでいる。茂木敏充外相は4日の閣議後会見で、2011年の東日本大震災の際に台湾から多額の義援金が送られたことに触れた上で「台湾との重要なパートナーシップや友情を踏まえた提供だ」と述べた。
台湾の蔡英文総統は、日本が台湾にワクチン提供を検討していると毎日新聞などが報じた5月28日、自身のツイッターに「深い友情に、心から感謝します」と、日本語で書き込んでいた。(毎日新聞2021年6月4日)

主権侵害にはあたりませ

東京五輪は 否が応でも開催します
選手団も 入国してきました
ボランティアが 一万人辞退しても
この流れは 誰にも止められません

ワクチン接種 ようやく一千万人超えました
これから ドシドシバンバン打ち続けます
開会式まで 自治体に厳命下して間に合わせます
市民の反対の声は そのうち萎(しぼ)みます
大衆操作には 子飼いのメディアが手練れています

All Japanの同調性を お見せしましょう
逆らう者には「非国民」の烙印(らくいん)を押すだけです
五輪が始まれば すぐに熱狂して屈辱は忘れます
感染が起こっても 自己責任だとしばきます
大丈夫  国民はチョロいもんです

主権侵害との批判は あたりません
安倍さんの強いご意向で 突っ走るしかありません
IOCとの信義の実現こそ 傀儡政権の最優先課題です

美しい国の幻想は消え 感染は必ずリバウンドします
五輪の最中に起こったら 即刻出国してください
安心安全の誓いにかけて IOCをお守りします

IOCに専制された国家元首の威信に賭けて
IOCの皆様に この一命を殉じます
小心翼々の者ですが おもてなしはお任せください

※美しい国(うつくしいくに、英訳:Beautiful Country ):「日本国の安倍内閣が国民と共に目ざす」と宣言した国家像である。 『活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、「美しい国、日本」 』と定義されている 。
※小心翼翼(しょうしんよくよく):臆病な性質で、いつも恐れて、おどおどしていること。びくびくしているさま。もとは、細かい気配りで、慎み深いことをいう。

〔2021年6月2日書き下ろし。法治国家の主権侵害も厭わず、IOCに乗っ取られた悲劇の幕がもうすぐ開く〕

付記
「命の方が大事…検疫甘い…」東京オリンピック・北海道開催“中止を”
東京オリンピックの北海道での開催を、病院の名誉院長らが中止するよう訴えています。
北海道がんセンター西尾正道名誉院長「国民の命の方がずっと大事。無理をしてやる必要はない。非常に甘い日本の検疫体制を考えたら(感染者が)確実に増える」
6月1日に会見を開いたのは、北海道がんセンター西尾正道・名誉院長の他、18の市民団体などです。会見で西尾名誉院長らは、北海道内の新型コロナウイルスの感染者が東京や大阪を超える日もあることを指摘。これ以上、感染を拡大させないためにも、東京オリンピックの北海道での開催を中止するべきと訴えています。西尾名誉院長らは近く、鈴木直道・北海道知事に、開催に抗議する文書を提出する予定です。(北海道新聞2021年6月1日)

怨嗟(えんさ)を生む

恨みの根は 深く心の奥底に広がった
不公平感が 沸々と湧き上がり抑えきれなかった
どれだけ我慢すれば この苦境を乗り越えられるだろうか
どれだけ規制を守れば 倒産を回避できるのだろうか

感染拡大は高止まり マスクと往来自粛の間の抜けたお願いをする
科学者すらも置き去りにして 科学的根拠もなく五輪開催に邁進する
宗教がかったIOC信奉者は ただただワクチン接種を神頼みする
言うことやること的外れで IOCも顰蹙(ひんしゅく)を買う

ワクチン接種は 予定は未定であり決定にあらず
願望だけを押しつけて 不公平感を増幅させる
不信の梅雨を晴らすことができぬ為政者たちは
怨嗟の声に耳を塞ぎ目を閉じて いまはただ五輪を拝む

怨嗟の声に 6月の心は陰りが覆う
怨嗟の声で 6月の空は濁りを増す
怨嗟の声は 6月の世を嘆きで満たす

※怨嗟(えんさ):ある人や物事に対して怒りや不満を持って、その思いを外に出すこと。

〔2021年6 月2日書き下ろし。6月ワクチン接種がどこまで広がるのか。当たり前のことを為しえなかった「つけ」を秋には払っていただきましょう〕

縁木求魚なことば

縁木求魚なこと
人の流れは 止められないこと
聞き分けがないのではなく 政治家を信じてはいないこと
だから死ぬを待つよりも 生きるために打って出ること

縁木求魚なこと
失敗を認めぬゆえに 次の一手に迷いが生まれること
目先小手先だけで いつも手詰まりすること
子ども騙しに 命を預けるわけにはいかないこと

縁木求魚なこと
科学的根拠もなしに 行動規制をかけること
ワクチン接種プランは 思惑通りには進まないこと
五輪を開催すれば 風向きが変わると思い込んでいること

縁木求魚なこと
怒りのもとは 過去に学んでいないということ
いまさらそうくるのか この稚拙さが我慢できないこと
さもさもデータをかざして 正論ぶる態度に嫌気がさしたこと

縁木求魚なこと
入国時の水際作戦は 完璧じゃないってこと
インドの変異株も 別ルートで簡単にスルーすること
入国後の2週間待機など 破ってもお咎めがないこと

縁木求魚なこと
そもそもの不公平を さも正義のように制裁を下すこと
のらりくらりの 言葉遊びに飽き飽きしたこと
虎視眈々(こしたんたん)と 政局を仕掛ける輩がいること

※縁木求魚(えんぼくきゅうぎょ):木によじ登って魚をとろうとする意から、方法が間違っているために目的を達するのがむずかしいこと。また、やろうとしても絶対に不可能なこと。むりな望みのたとえ。

〔2021年6月1日書き下ろし。テニスの大坂なおみさんの「怒りは無理解から来る。変化することは人を不愉快にする」己を戒める深い言葉となった〕

阪野 貢/「市民社会論」再読メモ ―規範としての「市民」と実体としての「市民」―

〇筆者(阪野)の手もとにいま、「市民社会論」というタイトルの本が4冊ある(しかない)。(1)山口定(やまぐち・やすし)著『市民社会論―歴史的遺産と新展開―』(有斐閣、2004年3月。以下[1])、(2)吉田傑俊(よしだ・まさとし)著『市民社会論―その理論と歴史―』(大月書店、2005年7月。以下[2])、(3)今田忠(いまだ・まこと)著・岡本仁宏(おかもと・まさひろ)補訂『概説市民社会論』(関西学院大学出版会、2014年10月。以下[3])、(4)坂本治也(さかもと・はるや)編『市民社会論―理論と実証の最前線―』(法律文化社、2017年2月。以下[4])、がそれである
〇[1]において山口は、「市民社会」論をめぐる戦後の問題意識とその変遷、継承すべき戦後デモクラシーの遺産を明らかにし、1990年代に本格化しはじめた「新しい市民社会」論の特徴と内容、とりわけ「市民社会(論)の再構築」の動きを整理する(「帯」、320ページ)。終章の「むすび」で山口は、「市民社会」を「国家」「市場」とは区別される第3の領域として捉えるのではなく、「理念(とりわけ平等・公正)」・「場(共存・共生の場)」・「行為(自律的行為)」・「ルール(公共性のルール)」の4つの要件の総体として捉えるのが正しいのではないか、という。そして、「市民社会」とは、「さまざまの『公共空間』・『アソシエーション空間』が出会い、政治のあり方、経済のあり方、社会のあり方について、『共存・共生』の原理の上に立って協議する『場』を用意する諸条件の総体である」と再定義する(322ページ)

〇[2]で吉田は、「マルクスは階級社会または階級闘争論の理論家とみなされているが、そうであるだけではなく、彼は一貫した市民社会論の理論家でもある。彼の理論的出立点はヘーゲルの市民社会と国家の問題にあったが、その後も、市民社会概念と階級社会概念を中軸とした歴史観(「市民社会史観」と「階級社会史観」)を形成し、近代ブルジョア的社会、国家そして将来的協同社会についての総体的理論を樹立した」(53ページ)という。その視点・視座から、吉田は、マルクス市民社会論の再構成を軸に、現代的市民社会論の理論的問題と、西欧と戦後日本の市民社会論の歴史的展開について考察する。そこにおいて吉田は、国家や市場から独立した市民社会を構築する現代的市民社会論を批判する。とともに、「歴史貫通的な<土台>としての市民社会、ブルジョアジーとともに発展する近代ブルジョア的市民社会、そして将来社会における協同社会としての市民社会の重層的構成をもつ」(66~67、68ページ)マルクスの市民社会論(「重層的市民社会論」)について説く。
〇[3]の著者である今田は、日本の市民社会の構築に向けて、1980年代から30年以上にわたって実践・研究し問題を提起し続けてきた「歴戦の勇士」(岡本:ⅴページ)である。長年の経験と知見を基に、その集大成として、大学学部レベルの講義を取りまとめたものが[3]である。その内容は、日本の市民社会論の歴史的展開やデモクラシー思想の変遷をはじめ、フィランソロピーとボランティア、市民社会組織、社会的経済と社会的企業、パブリックとコモンズ、市民社会と政府・企業などと広範囲・多岐にわたる。1998年9月に設立された「市民社会ネットワーク」設立趣意書で今田はいう。「市民」は「政治的・社会的権利・義務を持ち、公共性を自覚した自立・自律した個人」である。「そのような市民がつくる社会が市民社会であり、市民社会の政治のルールが民主主義である」(16ページ)。
〇[4]は、今日的な市民社会の実態と機能を体系的に学ぶ概説入門書である。具体的には先ず、市民社会について考える際の5つの基礎理論(理論枠組)――①熟議民主主義論、②社会運動論、③非営利組織経営論、④利益団体論、⑤ソーシャル・キャピタル論を解説する。続いて、市民社会の盛衰を規定する諸要因のうちから特に重要と思われる6つの要因――①市民社会を支える資源としての「ボランティア・寄付」、②人々を市民社会へと誘う「価値観」、③市民社会の発展を促す政府と市民社会組織との「協働」、④新自由主義と市民社会の関係性(「政治変容」)、⑤市民社会を規定し構造化する「法制度」、⑥市民社会に決定的な位置を占める宗教や宗教団体(「宗教」)を解説する。そして最後に、市民社会がどのような帰結をもたらしているか(「市民社会の帰結」)の実態について、ローカルな視点やグローバルな視野から解説する。[4]は、それらを通して現代市民社会論の明日を問う著作でもある。
〇本稿では、「まちづくりと市民福祉教育」に関して論及するにあたって、山口定([1])と坂本治也([4])の所説から「市民社会」「市民」について個人的に留意したい議論や論点の一文をメモっておくことにする(抜き書きと要約。見出しは筆者)。

山口定の所説
目的概念としての「市民社会」の定義
われわれのいう意味での「目的概念としての市民社会」は、第1に、まず「国家」(あるいは官僚支配)から「社会」が自立するという意味での「社会の自立」を、第2に、「封建制」や前近代的な「共同体」との関係において個々人が自立するという意味での「個人の自立」を、そして第3に、「大衆社会」ならびに「管理社会」との関係において個々人が「自立」を回復し、公共社会を「下から」再構成するという意味での「個々人の自立と公共社会の回復」をその中心的内容とするものである。(12~13ページ)

「規範的人間型」としての「市民」の概念
「市民」とは「自立した人間同士がお互いに自由・平等な関係に立って公共社会を構成するという<共和感覚>に支えられ、そうした人々の自治を社会運営の基本とすることを目指して公共的決定に主体的に参加しようとする自発的人間型」をいう。(9ページ)

「ブルジョア社会」「資本主義社会」「市場社会」と「市民社会」
90年代初頭以降、本格的に登場しはじめた「新しい市民社会」論(=現代的市民社会論)には、旧来の、そしてとりわけ戦後日本の人文・社会科学において論じられた「市民社会」論(=近代的市民社会論)とは異なるさまざまの特徴がある。(149ページ)
「新しい市民社会」論においては、中心的なキーワードである「市民社会」の概念そのものにまつわる重大な意味転換が見受けられる。すなわち「市民社会」は、これまでの「ヘーゲル=マルクス主義的系譜」の中では事実上「ブルジョア社会」と等値されてきたのだが、それに対して、90年代初頭以来、「ブルジョア社会」とは明確に区別されるばかりか、場合によっては、「ブルジョア社会」もしくは「資本主義社会」「市場社会」と正面から対立し、必要ならこれをコントロールするという方向性をもったものという位置づけが与えられている。(149~150ページ)
「新しい市民社会」論の特徴をとらえるのに重要なのは、「国家」と並んで「経済」もしくは「市場」という領域を別個に設定して、その両者に対置される独自の領域としての「市民社会」をクローズアップさせ、その意義を強調することである。(154ページ)

「市民社会組織」の4つの要件
「新しい市民社会」論においてそもそも、「団体」(あるいはアソシエーション)一般と「市民社会」団体すなわち「市民社会組織」(辻中豊)との定義上の区別は何か、つまり、どのような団体が「市民社会組織」なのか。(183ページ)
「市民社会組織」さらには「市民(運動)団体」たることを自称する場合には、①その構成員同士の自由・平等な諸権利の相互承認、②人々の自発的・自律的な合意に基づく組織運営、③情報公開が保障された上で行われる理性的討議による「公共性」の推進、④異質者間の共存・共生を可能にする多様性の相互承認の4つを、その内部組織のあり方に関する基本的なスタンスとすべきである。この要件のどれをはずしても、歴史的に形成され、維持され、かつあらためて蘇(よみがえ)ってきた「市民社会」の理念そのものの中核が失われることになるからである。(189~190ページ)

坂本治也の所説
「市民社会」の定義
今日的な文脈における市民社会は、政府、市場、親密圏(家族、恋人、親友関係)との対比において定義される。すなわち、①中央・地方の統治機構による公権力の行使ないし政党による政府内権力の追求が行われる領域としての政府セクター、②営利企業によって利潤追求活動が行われる領域としての市場セクター、③家族や親密な関係にある者同士によってプライベートかつインフォーマルな人間関係が構築される領域としての親密圏セクター、という3つのセクター以外の残余の社会活動領域が市民社会である。
換言すれば、公権力ではないという非政府性(non-governmental)、利潤(金銭)追求を主目的にしないという非営利性(non-for-profit)、人間関係としての公式性(formal)という3つの基準を同時に満たす社会活動が行われる領域が市民社会である(図1-1)。そして、市民社会にはさまざまな団体、結社、組織が存在しており、それらは「市民社会組織(civil society organization、CSOと略記されることもある)」と呼ばれる。(2ページ)

「市民社会組織」の具体例
市民社会組織には、個々の市民によって自発的に活動が始められた福祉団体、環境保護団体、人権擁護団体、スポーツ・文化団体、宗教団体、ボランティア団体などはもちろん、政府セクター寄りとみなされる政治団体、行政の外郭団体、社会福祉法人、学校法人、市場セクター寄りとみなされる業界団体、労働組合、農協、医療法人、親密圏セクター寄りとみなされる自治会・町内会、地縁団体など、多様性に満ちた雑多な団体・組織が含まれる。
また、一般社団法人、一般財団法人、特定非営利活動法人、宗教法人、消費生活協同組合などの特定の法律にもとづいた法人格をもつ団体はもちろん、法人格を有さない任意団体であっても、通常は市民社会組織としてみなされる。さらに、さまざまな社会運動・市民運動においてみられる、恒常的な組織としての実体をもたない運動体も、市民社会内部の存在として位置づけられる。(2~3ページ)

規範としての「市民」「市民社会」の概念
「市民」や「市民社会」という概念は、しばしば特定の規範的立場にとっての理想的な状態や到達すべき目標を表すために用いられる。たとえば、「市民」を「自主独立の気概をもち、理性的な判断や議論ができ、能動的に政治参加や社会参加する人々」と限定的に定義するような場合である。あるいは、「市民社会」を「人々が相互に尊重し合い、理性にもとづいて対等に対話を行うことを通じて、公共問題を自主的に解決していこうとする社会」と定義するような場合である。
これらの場合、「市民」や「市民社会」は「民主主義にとって理想的な人々」「めざすべき善き社会」といった規範的ニュアンスを含むことになる。また、そのような条件を満たさない人々や社会は「市民」や「市民社会」ではない、ということになる。(6ページ)

「市民社会」の3つの機能
市民社会はアドボカシー機能、サービス供給機能、市民育成機能という3つの重要な機能を有している。(12ページ)
(1)アドボカシー機能/アドボカシー(advocacy)とは、「公共政策や世論、人々の意識や行動などに一定の影響を与えるために、政府や社会に対して行われる主体的な働きかけ」の総称である。具体的には、①直接的ロビイング(direct lobbying)=議員・議会や行政機関に対する直接的な陳情・要請、②草の根ロビング(grassroots lobbying)=デモ、署名活動、議員への手紙送付など、団体の会員や一般市民を動員するかたちでの政府への間接的働きかけ、③マスメディアでのアピール=マスメディアへの情報提供、記者会見、意見広告の掲載など、④一般向けの啓発活動=シンポジュウムやセミナーの開催、統計データ公表、書籍出版など、⑤他団体との連合形成、⑥裁判闘争、といった多様な活動形態が含まれる。(12ページ)
(2)サービス供給機能/市民社会は、政府、企業、家族と同様に、さまざまな有償・無償の財やサービスを供給する。特に、市民社会の役割が大きいのは、福祉、介護、医療、環境、教育、文化芸術、スポーツなどの領域における対人サービス供給である。これらの領域では、政府、企業、家族では十分満たされなくなったニーズを、市民社会のサービス供給によって満たす動きが昨今強くみられるようになっている。(13ページ)
(3)市民育成機能/市民社会は人々が出会い、集い、語らい、取引や交渉を行う社交の場である。家庭や職場に比べると、市民社会における人間関係は、より多様な年齢、職業、階層の人々と交わる可能性が高いものとなる。また、そこでの関係性は、基本的に公権力や貨幣価値の力によって義務的ないし強制的に発生するものではなくて、個人の自由意思にもとづいて、自発的に形成され、不要になったら解消されるものである場合が多い。
このような多様かつ自発的な人間関係が育まれる市民社会組織への参加は、人々を民主主義に適合的な「善き市民」へと育成する機能があるとされる。(14ページ)

〇以上のメモから、「市民社会」論にいう「市民」には、「自立的」をはじめ「自律的」「理性的」「能動的」などの規範的価値や態度・行動が求められる。「自立的な市民」とは自助的自立や依存的自立をしている市民(「できる市民」)、「自律的な市民」とは自分で考え・行動し・責任を負う市民(「ブレない市民」)、「理性的な市民」とは知性や教養に基づいて合理的に判断する市民(「賢い市民」)、「能動的な市民」とは社会への参加や働きかけを行う市民(「行動する市民」)である。それらは、実体として存在する「市民」ではなく、理念的・規範的な「市民」像である。
〇また、「市民活動」と「市民運動」に関して、管見を交えて、とりあえず次のように整理できよう。すなわち、「市民活動」とは、特定の組織や団体に属さないいわゆる一般「市民」を中心に、環境・平和・人権・福祉・教育・文化・地域・まちづくりなど公共領域における広範な問題の発見と解決をめざして、協働的かつ継続的に取り組む集合行為である。そして、「市民運動」はひとつは、「市民自治」、ひいては「市民社会」の実現をめざす。
〇「市民」の要件と「市民活動」「市民運動」の成立条件でとりわけ重要なものは、「自律性」である。「自律」(autonomy)とは、権力に伏さず・権威に同調せず、自らの判断によって自らの行為を決定あるいはコントールすることである。その判断や行為決定を可能にするためには、自分が持つ知性や教養に基づいて、自分を取り巻く環境や直面している出来事・問題などについて認識・理解し、思考することが必要となる。また、自律は、自己判断に基づいて自分の行為を自分で規制・統制することから、他からの強制や拘束、妨害などを受けない、個人の自由意志を前提とすることはいうまでもない。その自由意志は、他人の言動に影響されないだけでなく、自分の欲求にも影響されずに自分をコントロールする意志を含意する。こうした自律にこそ「人間の尊厳」を見いだすことができる。
〇要するに、真に「市民社会」に求められる「市民」像は、「自律的で理性的」な市民である。一面では、それを前提に、「自立的な市民」や「能動的な市民」が存在することになる。
〇人が自ら思考・判断し、自律的に行動するためには、個々人の自由意志と社会的責任に立脚した権利意識や自治意識をもって自覚的・能動的に学び続けることが肝要となる。こうした人間(「自律的で理性的な市民」)の育成・確保は、教育が取り組むべき根本的かつ現代的課題である。そしてまた、「まちづくり」に必要不可欠な営為である。それはまさに、「市民福祉教育」の課題でもある。
〇上述のメモからいまひとつ、「市民」の要件を満たさない人々は「市民」ではない、という議論について一言したい。すなわち、日本社会はいま、分断や格差、貧困、偏見や差別が拡大し、自立が強制され、自己決定(自己責任)が追及されている。加えてコロナ禍にある。そんな社会にあって、「市民」の要件(自覚・意欲・能力など)を欠く、あるいはそれが不十分であるとみなされる高齢者や障がい者、子ども、生活困窮者、外国籍住民などがいる。形式的・外見的には市民であっても、実質的・本質的には市民ではない状況に追い込まれ、社会的に排除されている人々である。市民になろうとしても、あるいは市民になることが期待されても、市民になりえない人々である。
〇現代市民社会には、抑圧され排除される人々(「市民」)が存在し、それを生み出す歴史的社会構造がある。ここに、現代「市民社会論」が取り組むべき本質的な課題が存在する。「社会変革論としての市民社会論の現代的意義」([2]34ページ)が問われるところである。そして、現代市民社会が抱える歴史的社会問題を抉(えぐ)り出し、その根本的・本質的な解決を志向する「まちづくりと市民福祉教育」の内容や方法が問われることにもなる。目に見えない新型コロナウイルスによって、「存在」する意味を問う時間と空間の余裕もなく、(自分も含めて)ただ必死に生きているヒト(「市民」)がいるなかで、改めて強く認識したい。

補遺(1) 
「市民社会」を構想する前提として、「大衆社会」からの“個人の自立”が問われることになる。「市民」と「大衆」の特性と関係性をひとつの座標図で表すと図1のようになろうか。
「市民社会」について論じるにあたって、「市民活動」と「住民活動」を区別し、その特性と関係性をひとつの座標図で表すと図2のようになろうか。⇒

補遺(2)
「市民運動」に関して、次の一文を再掲しておきたい(本ブログ<まちづくりと市民福祉教育>(3)福祉のまちづくり運動と市民福祉教育/2012年7月4日投稿/⇒本文)。

市民運動は、人々に共通する焦眉の生活問題から生ずる。それは、建設的な批判と豊かな創造という視点・視座のもとに、具体的な運動(活動)展開を通して歴史的・社会的問題としての生活問題を解決することを第一義とする。そして、その問題解決の道筋を探り、問題解決をより確かなものにし、その成果(行動と結果)を実効あるものにするためには、市民運動は次のような属性をいかに保持するかが問われることになる。すなわち、運動そのものがもつミッション性や思想性、公共性や政治性、批判性や革新性をはじめ、運動を通して醸成される集合的アイデンティティ(われわれ意識)、その基で社会変革の実現をめざす取り組みの組織性、他の地域や運動との交流・連帯を視野に入れた開放性や普遍性、それに運動を展開するうえでの計画性や継続性、などがそれである。これらは、運動主体の育成を図る市民福祉教育の内容や方法などを規定することになる。(中略)
市民運動は、その運動を生起させる社会構造や社会変動の矛盾や非合理の反映であり、「時代と社会を映し出す鏡」である。市民運動は、単なる異議申し立てや抵抗ではなく、また行政の補完化を促すものでもない。それは、市民が新たな秩序やそれを支える新たなパラダイムを提示あるいは構築するためのものであり、「豊かな社会を創り出す原動力」である。そして、市民運動の展開は、民主主義の定着・発展の過程や方法、度合いなどを問い直すことになり、「民主主義の成熟度を示すバロメーター」である。これらは、集団的・組織的活動としての市民運動の主体形成にかかわる市民福祉教育のあり方が厳しく問われるところでもある。

小林亮平/誰もが等しく将来が望める世界を創りたい ―丸山正樹著『ワンダフル・ライフ』を読んで―

この本――丸山正樹著『ワンダフル・ライフ』(光文社、2021年)を読むことになったきっかけは、ある人に勧められたからです。読んでまず思ったことは、この本の存在を知って、読むことができて良かったということです。

内容は、四本の話が同時進行していって、最後にそれぞれの話のつながりがわかるという構成です。そして、それぞれの話は、脳性麻痺の重度障害者と女子大学生との恋愛の話や、事故で頸椎損傷となった妻を介護する夫の話、妊活が実らず養子をもらおうとする夫婦の話、上司と不倫するOLの話などです。その話のなかに、それぞれのテーマとして、障害者差別の問題、障害者の自立生活の問題、障害児の親無き後問題、介護の人手不足問題などが語られています。それらは僕も時たま考えていることなのですが、再考する良いきっかけになりました。
「排除アート」についても語られていますが、その言葉は初めて知りました。そういう手段もあるのだなあと思ったと同時に、本音と建前を使い分ける日本人らしい発想だとも思いました。
ですが、それらの話がおおよそハッピーエンドとは言えない結末であると思えるのです。ハッピーエンドの未来も語られていますが、あくまでもそれは可能性のひとつであると提示されているだけで、現実はそうはならないと思えてくるような結末でした。そして、僕の過去の体験に似た話もあったにもかかわらず、それがハッピーエンドになるとは僕には考えられなかったため、「自分もどうせ……」と考えて結構落ち込みました。読み終わった後、もう少し前向きになれるような話があれば良かったと思いました。
でもそれは間違った考え方でした。大人になり世の中の大変さを知ると、多くの人は情熱を失い現実に冷めてしまいます。僕もその例に漏れず、危うく冷めた人間になるところでした。

「私たちにその夢を追う勇気があれば、すべての夢は実現する。」(ウォルト・ディズニー)

そう思って一度冷静になり、俯瞰して考えてみると、いくつか気になるところがあります。まずは、脳性麻痺の重度障害者の自立生活と恋愛についてです。彼は脳性麻痺で重度障害者であるが故に、日常生活で多くのヘルパーやボランティアの力を借りて、24時間の介護を受けながら生活しています。そんななかで、一人の男性ヘルパーと名前を交換し、自分が障害者であるということを隠して女子大学生と会うことにします。名前を交換して自分を偽ってくれることを了承したはずの男性ヘルパーも、次第にその女子大学生に近づきたいという欲に駆られて行動するようになります。
最初はこの男性ヘルパーに怒りを感じていました。しかし、よく考えてみると、脳性麻痺の重度障害者も甘いと思います。身分を偽ったこともそうですが、ヘルパーに対する認識が甘いです。欲に駆られた男性ヘルパーは、無資格で個人的に雇っている有償ヘルパーだということですが、自分が雇用主となりヘルパーを働かせる場合は、どういう能力を有していて、どういう性格なのかをじっくり勘案してさせる仕事を選ぶべきです。ですから僕は、自分のもとでヘルパーを働かせる場合は、信頼できる人、あるいはある程度信頼関係ができた人でないと大事な仕事は任せないことにしています。そして、次の言葉を時々思い出すようにしています。

「無能な部下など存在しない。上司が無能にしているだけだ。」( 吉田松陰)

この脳性麻痺で重度障害者の男性は、先天性の障害でしかも頭の良い人となっているので、ヘルパー制度を利用することに長けているはずなのに、どうしてこんなミスをしてしまうのか。こういうことが言えるのも人的資源に困っていなくて、ヘルパーを選ぶことができるという状況があってこそだと思います。

「溺れる者は藁をもつかむ」

そういう現実が、悲しい結末を生むのではないでしょうか。そしてその現実は、次に語る、事故で障害を負ってしまった妻の介護をする夫の話にも言えます。
結末から言うと、この妻は最終的に自分の意思で施設に入ることを選びます。「夫の負担になりたくない」「夫に迷惑はかけたくはない」という考えがあったのかもしれません。プライドの高い妻という設定ですが、若い頃から、障害児と介護をする母親との無理心中の記事を集めていたことで、障害を負ってしまった自分の将来を悲観したが故の行動なのかもしれません。でも、自分の将来を悲観するに至った情報というのは、古くて時代遅れだと思うのです。できることなら、最後まで自分の好きなように生きる方が、誰だって望ましいのではないでしょうか。
でも残念ながら、日本では障害者は社会から排除されるか隔離されるかという悪しき習慣がありました。それはいまも、基本的にはかわっていません。その最たるものが障害児と介護をする母親との無理心中で、事故で頸椎損傷(ケイソン)となった妻も、暗い将来しか想像できなかったのでしょう。
ですが、自然な流れで 「障害者 → 将来が暗い」 となるのはおかしくないでしょうか。障害者であれ健常者であれ、等しく将来が望める世界になって欲しいものです。また、そんな世界を創りたいものです。
それにはまず前例を作ることです。今までにも、障害者(特に先天的など若い頃からの障害者)が生涯、自分を貫いて好きに生きるという前例はあったでしょうが、それらは小数で特例扱いでした。そうではなく、もっと多くの実例があれば、そしてその先駆者が専門家となって、エキスパートレビュー(熟練した専門家が機器やシステムをレビューすること)できる環境が必要でしょう。

「ユーザビリティの専門家は、想定されているユーザーがどのような行動をとる傾向があるかを、過去の経験から蓄積しているため、ユーザーがいなくてもおおよそどのような操作を行うかを想像することができる。最初は個別に問題点を見つけ、後半では参加者全員で問題点の整理や分析、改善案の創出を行う。」(国際ユニヴァーサルデザイン協議会)

2001年に世界保健機関(WHO)が採択した国際生活機能分類(ICF)では、「障害とは本人の持つ要因(個人因子)と環境の持つ要因(環境因子)が相互に影響して生まれるものであるという相互作用モデルの考え方」が採用されています。つまり、個人の努力ではどうにもならないレベルでも、環境によっては改善の余地はあるということです。そもそも、環境によっては助かる命、助からない命というのもあります。また、支援技術(アシスティブ・テクノロジー)というのも日々進歩しています。
そういう情報があれば、本のなかに登場する障害を負ってしまった奥さんも、古くて時代遅れの情報に踊らされて自分の未来を悲観する前に、別の選択肢を考えることができたかもしれません。また文中に、障害児が施設ではなく、地域で暮らせるようになるための準備をするための施設を作りたいという人も登場します。そういった施設も、これからは必要になってくるでしょう。小規模なものは、既にチラホラと目につきます。

最初に述べた脳性麻痺の重度障害者の話にしても、事故でケイソンとなった妻の話にしても、こういった話はこれから先、共生社会を推し進めていくに当たってどんどん増加していくと思われます。私たちはそれに備えなければなりません。この本は、ただ読んだだけで終わらせてはいけない。そういう本だと思います。健常者も障害者も、誰もが共生社会の実現に向けて、それぞれの人生と将来を切り拓くことにつながる、つなげなければならないことを改めて思い起こさせてくれる本です。そういう意味で、「読むことができて良かったということです」。

参考文献
(1)遠越段『世界の名言100』総合法令出版 2014年
(2)池田貴将『覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰』サンクチュアリ出版 2013年
(3)国際ユニヴァーサルデザイン協議会『知る、わかる、ユニヴァーサルデザイン』一般財団法人国際ユニヴァーサルデザイン協議会 2014年