阪野 貢 のすべての投稿

マチの公務員の三原則

しない 
だって 適当にしたふりして
時間つぶせば 一日終わり
相談窓口は わたしの立ち入り禁止エリア
住民対応なんて 面倒くさくて したくない
休日も しっかり休めて 
誰にも 咎(とが)められない フリータイム
町内会の役員 無理無理 わたし辞退します

つくらない
仕事は 首長が変わったときだけ 忙しい
選挙で 余計な公約つくるから 
ああせいこうせいって 尻叩かれる
それもつかの間 時間がたてば 元にもどる
法や制度が変われば 対応するだけ
骨身を削って 住民のために 奉仕せよ 
そんなかったるいこと やってられない
新しい仕事 考えること わたし拒否します

ひきうけない
住民の要望 聞き流しておこう
だって 応えられないしょ
すぐに無理だって言えば 角が立つ 
時間を置いて 相手をクールダウンさせたところで
規則で出来ませんとか へ理屈並べて 断りゃいいのよ
仕事増やして どうするの
地域に出る 冗談じゃない
いいだけ いろんなこと言われてさ
しまいに 要望なんぞ出されたら 断り切れないしょ
行政説明会で お偉いさんが雁首(がんくび)並べて 形式的にやれば済む
集まる住民も 動員かけられ 員数あわせの 年中行事
出ていく幕はないから いつも わたし欠席です

公務員の仕事の 三つの原則
しない つくらない ふやさない
もう三つ 
見ない 聞かない 動かない
その結果 三つの安心
御身安泰 俸給安定 老後安楽

当てはまるマチ 
もう職員が 危険水域に達しましたよ~!
でも 解雇はできません
だから はびこって 頑張る人まで 危険に晒(さら)す

そんな公務員に 絶対なってほしくない!
職場の空気を読まず 心呼吸(しんこきゅう)してください!
子どもの未来を創るのは あなたたちの仕事です!
熱いおもいの枯れぬ 踏ん張る公務員 応援します!

〔2019年8月31日書き下し。春の地方統一選挙の首長の公約はどうなっているのか、この時期チェックしてみては。そして我がマチの公務員の働きぶりも。災害の時には頼りにします〕

夏の終わりに

はじめに 八月二十八日 北九州を襲った豪雨と人災によって 
被災された方々へ 心よりお見舞い申し上げます

お盆の頃に 突然発症した腰痛が 日常を狂わせた
やり残した 仕事の原稿書き
予定した期日まで 間に合わなかった
だから そっと思考停止しておこう
一昨日 古傷の椎間板ヘルニアだと 診断された 
快復までの闘いは これからも続く
避けられぬ 身体機能の疾患に 
備え耐えるための体験学習だと ふと気づいた

「鳥居一頼研究室」の 開設と投稿
七月から始まった 求められていない 一方的なメッセージ
阪野ファシリテーターの その気にさせる誘発力に脱帽 そして感謝 
眠っていたおもいが 刺激され 
思い浮かんだことばを ただただ書き続けた
文字が 愉快に踊り出し 毎日こころ遊ばせる
権力におもねる 無恥なる者たちへの 小さな憤怒(ふんど)
二学期の始まりに 心悩ます子らへの 親や教師への 心もとないお願い
それらが 腰痛に立ち向かう ペンの勢いだった
ただし 二人で交わすメールは シークレット

まだまだ 成長中のゴーヤー
今年も収穫は 十月か
トマトは 毎朝一個もいで 食べた
一坪農民の ささやかな歓びの ひととき

これくらいかな
誰にへつらうこともなく 
これくらいしか してこなかった 
非力だけど 欲をかかず 身の丈にあった
いまの暮らし方が ちょうどいい

〔2019年8月31日。夏の1ヶ月半をふりかえり、関わった方々への感謝を込めて〕

社会運動:「ふつう」を捨てて「わがまま」を言うこと―富永京子著『みんなの「わがまま」入門』読後メモ―

〇表1は、日本、韓国、ドイツの3か国における「社会運動」の各形態に対する許容度についてみたものである。「署名」や「請願・陳情」といった穏健で制度的な形態と、「デモ」や「座り込み」といった示威(じい。威力を示すこと)的なそれを取り上げている。日本では「署名」は83.8%、「請願・陳情」は65.6%、「デモ」は45.3%、「座り込み」は21.5%の人が肯定的に考えている。それに対して、ドイツでは、「デモ」(74.2%)、「請願・陳情」(77.9%)、「署名」(85.0%)ともに7~8割の人が支持している(山本英弘「社会運動を許容する政治文化の可能性―ブール代数分析を用いた国際比較による検討―」『山形大学紀要(社会科学)』第47巻第2号、山形大学、2017年2月、6ページ。山本の調査研究については、下記の[1]68~74ページに紹介されている)。

〇表2は、日本、韓国、ドイツの3か国における「社会運動」に対する態度についてみたものである。「代表性」、「有効性」、「秩序不安」を取り上げている。運動の「代表性」についての肯定的な回答(「そう思う」「まあそう思う」)はドイツで83.1%、日本は36.4%、「有効性」はドイツで79.3%、日本は51.8%、「秩序不安」についての否定的な回答(「そう思わない」「あまりそう思わない」)はドイツで64.1%、日本は38.3%である(山本、同上、6~7ページ)。

〇要するに、「社会運動」についてドイツでは許容度も評価も高いが、日本はともに低い、と考えられる。
〇筆者(阪野)の手もとに、「社会運動」の入門書が3冊ある(しかない)。(1)富永京子著『みんなの「わがまま」入門』(左右社、2019年4月。以下[1])、(2)大畑裕嗣・成元哲・道場親信・樋口直人編『社会運動の社会学』(有斐閣、2004年4月。以下[2])、(3)小熊英二著『社会を変えるには』(講談社、2012年8月。以下[3])がそれである。
〇[1]は、中高生を対象にした社会運動のガイドブックである。そこでは、「わがまま」(社会運動)を、「自分あるいは他人がよりよく生きるために、その場の制度やそこにいる人の認識を変えていく行動」(13ページ)として定義する。「わがまま」は、「権利や不満を主張すること」(66~67ページ)である、と言う。
〇[2]は、大学生を対象にした「日本初。社会運動論の体系的テキスト」(「帯」)である。そこでは、社会運動を、「①複数の人びとが集合的に、②社会のある側面を変革するために、③組織的に取り組み、その結果④敵手・競合者と多様な社会的な相互作用を展開する非制度的な手段をも用いる行為である」(4ページ)と定義づける。社会運動は、「社会を映し出す鏡」であり、「社会をつくる原動力」(2ページ)でもある、と言う。
〇[3]は、「社会を変える」ための基礎的なテキストブックである。そこでは、「社会を変える」ということについて「歴史的、社会構造的、あるいは思想的」(5ページ)に考える。小熊は言う(以下、語尾変換)。「運動のおもしろさは、自分たちで『作っていく』ことにある。楽しいこと、盛りあがることも、けっこう重要である」(497ページ)。「盛りあがりがあれば、『自己』を超えた『われわれ』が作れる。それができあがってくる感覚は楽しいものである」。「そういう盛りあがりがあると、社会を代表する効果が生まれ、人数の多さとは違う次元の説得力が生まれる」。「参加者みんなが生き生きとしていて、思わず参加したくなる『まつりごと』が、民主主義の原点である」(498ページ)。「社会を変えるには、あなたが変わること。あなたが変わるには、あなたが動くこと(である)」(502ページ)。「(運動に)『参加して何が変わるのか』といえば、参加できる社会、参加できる自分が生まれる」(517ページ)。
〇筆者はかつて、本ブログで、「福祉のまちづくり運動と市民福祉教育」(<まちづくりと市民福祉教育>(3)/2012年7月4日投稿)について管見を述べた。以下はその要点の一節である。

市民運動は、人々に共通する焦眉の生活問題から生ずる。それは、建設的な批判と豊かな創造という視点・視座のもとに、具体的な運動(活動)展開を通して歴史的・社会的問題としての生活問題を解決することを第一義とする。そして、その問題解決の道筋を探り、問題解決をより確かなものにし、その成果(行動と結果)を実効あるものにするためには、市民運動は次のような属性をいかに保持するかが問われることになる。すなわち、運動そのものがもつミッション性や思想性、公共性や政治性、批判性や革新性をはじめ、運動を通して醸成される集合的アイデンティティ(われわれ意識)、その基で社会変革の実現をめざす取り組みの組織性、他の地域や運動との交流・連帯を視野に入れた開放性や普遍性、それに運動を展開するうえでの計画性や継続性、などがそれである。これらは、運動主体の育成を図る市民福祉教育の内容や方法などを規定することになる。

〇筆者は、福祉によるまちづくりのための「市民運動と市民福祉教育」について、その理解や思考を深めたいと願っている。本稿では、[1]において留意したい「社会運動」(「わがまま」)についての論点や言説のいくつかをメモっておくことにする(抜き書きと要約。語尾変換。見出しは筆者)。

「ふつう」幻想が「わがまま」をネガティブにする
1970年代、「一億総中流」の「意識」が形成された時代には、ある程度固定化・共有化された、一般的・中流的な「ふつう」の生き方が存在していた。(41ページ。図1)
社会のグローバル化が進み、多様化・個人化したいまの時代にあっては、たとえば「高齢者」「障がい者」「女性」あるいは「貧困」などといった「共通の要素(属性)でくくる(ひとくくりにする)」ことや、それらの要素に「共通する利害」を共有(想定)することが難しくなっている。そのような現代社会において、同じ属性を持つ人々のなかでもその生き方や価値観は個人的で多様である。それゆえに、高齢者・障がい者・女性イコール「かわいそう」、と言えなく(見えなく)なっている。(48、50ページ)
しかし、人々は「ふつう」の幻想をいまも持ち続けており、「みんなふつう」という同質性や均質性を認め合っている。そんななかで人々は、自分の意見を主張することを「自己中」「自己満」「自分勝手」あるいは「他害行為」と感じたり、「わがまま」を言えずに我満(沈黙)することを選んでいる。(52、53ページ。図2)

「社会運動」をガチガチにではなく柔軟に考える
「わがまま」は、恵まれない立場や弱い立場を是正したり、救ったりするだけではなく、社会運動をすることで、古い価値観をこわし、新しい価値観をつくることを目的としているが(87ページ)‥‥‥
● 公の場で「わがまま」を言うことは、対立を生んだり嫌悪感を覚える人もいるが、それは、「やらなきゃいけない」とは言わないまでも、「やっていい」ことである。(81ページ)
● 「わがまま」は「社会の変化」や「根本的な改善」を促すための社会運動のきっかけ(端緒)づくりである。(94ページ)
● 社会運動の仕事は、あくまで「わがまま」を公の場に出して、隠れた願望や要求を形にして多くの人に伝えることであり(95ページ)、新聞や雑誌の「投稿欄」を使ったり、ホームページをつくるのも立派な「わがまま」である。(196ページ)
● 長期的に見ると社会は変わっており、社会運動の効果や意味を長い目で見ることが有効(重要)である。(104ページ)
● 「わがまま」は何かが大きく変わらなくても、行動する人やその周りの人にとって何か変化があれば、それはその人にとって社会運動をする意味になる。(103ページ)
● 過激な主張や表現をする人のなかにいると、過激な言葉や振る舞いが当然視・常識化され、次第に主張や表現の幅が狭くなってしまう。(134ページ)
● ただひとりの「わがまま」、ただひとつの社会運動だけで、そんなにやすやすと社会は変わらない。(215ページ)
● 「わがまま」を言い続けることは大変なことであるが、うまくいくまでやる必要はないし、それを自分がやる必要もない。(215ページ)
● 基本的に、自分がやらなくても、社会にとって大事なことなのだから誰かがやってくれるという思いを持ち続けることは、自分の心を守るうえでも役に立つ。(217ページ)
● 自分のための「わがまま」を通じて当事者感覚を広げていくとともに、それを他人のため(「よその世界」)の「わがまま」すなわち「おせっかい」(支援、応援)へと変えていくことも大事である。(239ページ-)

〇筆者の机の上にはいま、新刊本か2冊ある。(4)中條共子著『生活支援の社会運動―「助け合い活動」と福祉政策―』(青弓社、2019年8月。以下[4])、(5)村木厚子・今中博之著『かっこいい福祉』(左右社、2019年8月。以下[5]。)がそれである。
〇[4]は、「地域住民で『たたかう』ために生まれた『助け合い活動』の1970年代から現在までを追い、地域のグルーブ、有償ボランティア,NPOと移り変わった担い手の変容、苦悩や課題を描き出す。(そして)自助(自己責任)の強化に抗(あらが)い、政策とは別の互助の可能性を展望する」(「カバー」)。その際、社会運動を、「社会的状況の変革を企図する集合的な取り組みであり、制度的な政治空間の内外で多様な手段によって展開される活動」(18ページ)として捉える。とともに、「助け合い活動の変革的性格に焦点を当てた『運動論』のアプローチを継承しながら、その限界を克服しうる方途として、社会学の研究領域である『社会運動研究』の蓄積」(18ページ)に学ぶ。
〇[5]は、村木と今中の対談本である。村木は言う。「かっこいい福祉」とは「制度にない」を「制度にする」ことをめざすして、新しいサービスを生み出し、多くの人や分野が相互につながることをつねに試行錯誤し続けることである。その人やその取り組みは、「みんな面白い」(189~193ページ)。今中は言う(※)。「アトリエ インカーブ」(アートスタジオ)では、知的に障がいのあるアーティストとデザイナーであるスタッフが、「福祉の文化化と文化の福祉化」(一番ヶ瀬康子)を実践している。加えて、「市場性を意識した福祉文化」をつくっていく必要がある(20ページ)。「かっこいい」とは、わかりあえないと認めること。認めるために、理解できるまで話す、聞く。そうして紡(つむ)がれた幸せが「かっこいい福祉」である(197~198ページ)。

〇富永京子によると「わがままが『違い』をつなぐ」([1]「帯」)。すなわち、「わがまま」を言うことによって、生き方や価値観の違う人々が一緒になってみんなで社会をつくる。樋口直人によると「社会運動は未来の予言者」([2]27~29ページ)である。すなわち、社会運動は到来する社会を啓示し、さまざまな「予言」をしてきた(「予言者」としての役割を果たす)。小熊英二によると「運動とは、広い意味での、人間の表現行為」([3]516ページ)である。すなわち、仕事も、政治も、言論も、芸術も、人間の表現行為であり、社会をつくる行為である。付記しておきたい。

冬春夏秋そして冬~少年の気づき

老夫婦が 雪の朝 玄関口に出てみると
雪が きれいに寄せられていた
寒さの中 こころが暖まった
数日後の夜 雪が降っていた
もしかしてと 朝早めに起きて 玄関をあけると
一人の少年が 黙々と雪寄せをしていた
おはようございますという 挨拶も心地よかった
ご苦労様と お礼をいうと 照れくさそうに笑った

小学校に 電話がかかってきた
子どもの担任が 代わった
「雪の積もった日は 毎朝雪寄せをしてもらったんです」
子どもへの感謝と
こんな子がいることを きっと先生は知らないだろうと 教えてくれた
校長に 話した
小さな善意を 続けることの大切さと
それを寒い朝 早起きして実行した子を
校長は 全校朝会で 嬉しそうにして 褒めた
級友たちから 拍手が起こった
また 照れくさそうに笑った

畑仕事が 好きだった老夫婦
今春は もう耕すことも億劫(おっくう)になっていた
少年は臆面(おくめん)もなく 小さな畑をスコップで耕した
いつも野菜を お裾分けしてもらった お礼だった
今年も 畑仕事できることを 素直に喜んだ

畑には いろいろな野菜や枝豆 芋が 次々と花を咲かせた
蜜を吸いに 蜂たちも 集まってくる
いつもの夏と 変わらない 農作業 
それが嬉しい
ニンニクは 春一番に芽を出し 長い葉を幾重(いくえ)にも広げた
その葉の間から芽が出て 長く茎が伸び巻き始る
それを切らねば 球根が育たない
ニンニクの茎は 年寄りには やさしい香りで 美味しくいただく
芋の茎が 枯れ出した
収穫の時を 告げる
最初のお裾分け 裏の少年の家に届けた

畑仕事も ひと段落を迎えた
少年は その畑の後始末に 半日かかった
さらに半日 畑をまたスコップで起こした
来春 夫婦で畑仕事する楽しみが 続く
ありがたいと 感謝した

雪が ちらついてきた
今冬 初めて積もりそうな 雪だった
翌朝少年は 朝起きをして きっとくるだろう
そんな期待を してしまうほど
少年の無垢な心と 無償の好意に 救われている
少年は 春がくると 小学校を卒業する
心をこめて 祝ってあげよう
喜んでもらえるには どうしよう
老夫婦の 嬉しくも楽しい悩みが ひと冬続く

〔2019年8月15日。少年は青少年赤十字(JRC)の一員だった。実話を元にアレンジした。その思いやりと行動は本物だった。ボランティア学習は、気づくことから始まることを心底教えられたエピソードである〕

秋冬春夏そして秋~店のない地区

食料品店が この地区から撤退して10年
8棟の市営団地も 今では老人団地
近くには 小さなコンビニ1店しかない
だから バスに乗って 買い物に出かける
車があればと ないものねだり
中秋 誕生日に 免許証は 返還した

厳冬 バスで町に出た
病院で診察と投薬 郵便局でお金を下ろして
ようやく 商業複合施設に行く
いろんな店が入っているから 買い物はここで済ます
帰りのバスは 2時間に1本しか走っていない
時間を持てあませば いつも飲食店で軽く食べる
あれこれ買って 重たくなった荷物
そうだ トイレットペーパー買い忘れ
急いで買い足し 滑る歩道を バス停へと向かう
ハアハアいいながら 家に辿り着く

早春 歩くのは健康にいいことばかりではない
重い荷物を持って運ぶという おまけ付き
気をつけていたにも関わらず 
家に戻ってきたところで 腰にきた
歩くことさえおぼつかない 這ってトイレに行く
買い出しに行ったおかげで 食べ物はなんとかなる
病院に行くことも出来ず
ひたすら 布団と仲良くしながら 快復を待つ
携帯電話が鳴った
離れている娘に 心配はかけられない
寝付いていることは告げずに 電話を切った
こんなこと 果たしていつまで続くやら
不安と腰の痛みを抱えながら テレビをつける  

初夏の浜風が ベランダに立つ頬にあたる
娘夫婦が 孫を連れてやってきた
婿と孫は 二人でどっかに遊びに行った
娘に 腰痛で寝込んだことがばれ 小言を聞かされる
娘は そろそろひとり暮らしをやめて
近くに 越してくるよう勧める
ここでの ひとり暮らしの限界を感じて
心配している娘のおもいが ひしひしと伝わる
この冬を越すには 体力に自信がなくなってきた
人生最後の 厳しい決断
この団地からの 我身の撤退
婿が戻ったら 三人で考えよう
まずは そう決めた 昼下がりだった

晩秋 我が家に 別れを告げた

〔2019年8月12日書き下ろし。父娘のいい関係が父の老後を担保する。婿もまた支援する。家族の根っこが腐らぬよう枯れぬよう、そう願わずにはいられない〕

夏秋冬春そして夏~農家編

親父が死んで この夏で早10年
嫁も なかなか縁がなく 娶(めと)らぬまま 歳を重ねた
今では 母と二人暮らしで なんの不自由もない
心残りは 子どもがいないこと
だから 二人とも 少しあせっている
でも 出会う機会が 全くない

母は庭先に 自分のハウスをこしらえて
いまは 秋の収穫に 忙しい
町場(まちば)の知人へ 車を走らせ せっせとおすそ分け
お嫁情報の収集活動
俺は 稲刈り 夜中までコンバインの運転
農地は 国の土地改良区の助成を受け 大型機械も導入した
作業は 効率的で はかがいく
刈り取った米の乾燥の管理も 半端じゃない
疲労困憊(ひろうこんぱい)は とうに超えている

ようやく田んぼの始末も終え 長い冬を迎えた
母を誘って 温泉に慰労の一泊旅行
見合い写真持参で 結婚作戦開始
勝負は 今冬 
見合いに こぎつけた
当たって砕けろでは いつまでも独り身のまま
砕けないよう アピールするしかない
厳しいけれど アタックした

例年よりも 雪解けが早かった
俺にもようやく 春が来た
萌黄色(もえぎいろ)に染まる 山の木々が 心を和ます
田植えも 無事終わった

そして 山も地も 万緑に変わるころ 
いい女(ひと)と 祝言を挙げた

〔2019年8月13日書き下ろし。農家の嫁問題は深刻である。機械化された大型農業経営が生き残りの経営戦略。伴侶は、共同経営者。ただの嫁ではない〕

春夏秋冬そして春~ラジオ体操

朝6時過ぎ 吐く息がまだ白い
駅前広場に ぼつりぼつりと 人が集まってきた
まだ歩道脇には 雪が残る 春4月
ラジオ体操の 始まりの日(あさ)だった

夏休みになると
年寄りたちは 張り切った
孫たちに 不細工(ぶさいく)な格好は 見せられない
化粧も おしゃれも少しして 集まってくる老女たち
子どもたちが 元気を与えてくれた
この体操が 朝の日課になって もう5年目の夏だった

鎮守(ちんじゅ)さんのお祭りは
ラジオ体操で集まった 男衆(おとこしゅう)から
子ども神輿(みこし)を復活しよう と声が上がった
若い母さんや父さんも
昔を思い出したのか 楽しそうに手伝った
ばさまと母さん 子どもらの衣裳(いしょう)と化粧の担当
じさまと父さん 古い神輿のリニュアール
当日 十数年ぶりに 祭りの楽しさを 子どもらに 引き渡した
振る舞い酒は 大人のこころに しみわたった

雪が降るまで続けようと みんな頑張った
今年も 終わりの時が 来たようだ
ラジオ体操は 健康のバロメーター
みんなが集まる機会は 春までクローズ
長い冬が 心も体も 閉ざさぬように
隣近所で 見守り声かけ 冬場が本番
さあみんな 冬こそ 町内の団結力を見せようぞ!
一人ひとりの 目配りが 
いのちを護る マチの防人(さきもり)となる

春の陽ざしが まばゆい朝
駅前広場は おはようの挨拶が あちこちで交わされていた

〔2019年8月12日書き下ろし。子どもが少ないと嘆くよりも、今いる子に引き継げるのは何かを考えたみたい。そして、人の命と暮らしを護る防人たちの姿も〕

お互い様の関係づくり

特定の人に偏(かたよ)る依存は、長続きしない。相手も疲弊(ひへい)し、共倒れの危険性が高い。老老介護はその典型で、介護している人が先に倒れる場合も起こりうる。
だから、助けてもらうときには、いろいろな人とのつながりを持っていると、お互いに気疲れなく、いい関係のまま続けていける。災害の時にも強い、そんな暮らす力をつけてみたい。

※ あきは居間でくつろいでいる。
はる 「あきさん、いたか」
あき 「はるさんかい、あがっておいで」
はる 「遠慮なくあがってきた。変わったことなかったかい」
あき 「なんもさ。あんたがお茶こ飲みに来るかと待ってたとこさ」

※ はるにお茶を入れ茶菓子をすすめるあき、そこに社協の神代(かみしろ)さん登場する。
神代 「あきさん、いたかい」
はる 「あの声は社協の神代さんじゃないの。いたよ。あがって来て」
神代 「あら、誰かと思ったらはるさんの声だった。あきさんずいぶん若返ったと思った。あきさんお邪魔(じゃま)します」
あき 「はいはい、わたしゃなんも変わらず、相変わらず年寄りしてるよ」(笑い)
はる 「きょうはどうしたの?」
神代 「近所まで仕事で来ていて、どうしてるかなって、様子を見に寄ってみたの」
あき 「どうせ、ついでに寄って見たんだよね。ご苦労様です」
神代 「ずいぶんなお言葉で。そんなら顔も見たし嫌味(いたみ)も聞いたから失礼します」
はる 「冗談、冗談。まあお茶の一杯でも飲んでいって」
神代 「それじゃ遠慮なく、いただきます」
なつ 「あきさん、ただいま。あがるよ」
あき 「あらあら、なつさん、おかえり。ずいぶん早かったね」
はる 「どうしたの?」
なつ 「あら、はるさんも、おや神代さんも来てたんだ。ちょうどいい。はいおみやげ」

※ なつ、菓子折(かいおり)をあきに手渡す。
あき 「どうもごちそうさま。ところで、どうしたの?」
なつ 「どうもこうも、行った先から台風21号、そのあとすぐに大きな地震で怖かったよ。北海道の全部が停電になってしまって、息子のところのマンションも水は出ないし、エレベーターも動かず、外は真っ暗闇でさ。階段を上り下りするだけの体力はないから、じっとしているしかなかったよ。息子夫婦は、地下鉄も動かず会社も停電で仕事にならないというんで、買い出しに出かけたけれど、3時間も4時間も並んでもお目当てのものは買えなくて、疲れ果てて帰ってきてたわ」(2018年9月6日北海道胆振東部地震)
神代 「それはそれは、大変だったね」
なつ 「停電も断水も2日ほどですぐに回復したからよかったものの、孫の学校も始まり、共稼ぎの夫婦が朝出ていくと、昼間はひとりぼっち。余震もしばらくあって、8階の部屋は結構揺れて心細かったよ。そんなこんなで、孫のことも心配だからしばらくいたんだけど、なにせおしゃべりする相手もなく、夜は夜で共稼ぎの夫婦はいろいろ忙しくて、話す時間もろくになくてさ、部屋にこもって寝てしまうという毎日。何だか、気疲れしてきて、だんだん一緒にいることがしんどくなってきてね」
あき 「それで、おしゃべりしたくてしたくて、戻ってきたというわけだ」
はる 「おしゃべりななつさんが、よくも我慢(がまん)していたもんだね」
神代 「一人暮らしをしている人が、子どものところでお互い気を遣って暮らすのって大変だって、よく聞かされるけど。お互い生活のリズムが違うから、悪気はなくても、ついついしんどくなってくるんだって。特に日中ひとりの状態になる“日中独居”って、ほんとに辛くて、なんだか身体の調子も悪くなってくるっていう話よ」
あき 「なつさんが札幌さ行ってしまって、はるさんと二人でどうしてるんだかと、いつも話していたけど、話し好きのあんたにはしんどかったんだね。また三婆(さんばばあ)の復活だわ」
神代 「これでまたにぎやかになって、3人の心配はいらないね」
あき 「神代さん、私らの心配をして顔出してくれたの。忙しいのにすまんかったね」
はる 「包括センターの佐藤さんも、顔を出していたのは、そんなこと」
神代 「気になる人がいたら、なにか変わったことがないか様子をみるのも仕事なんです」
なつ 「札幌じゃこんなあったかい人情なんて感じなかった。やっぱり自分とこはいいね」
はる 「それじゃ、みなさんに厄介(やっかい)かけながら、3人仲良く暮らしましょう」
あき 「ありがたいね。神代さんやら佐藤さんやらにはご足労(そくろう)をかけるけど、これからもかわいい三婆、よろしく頼むね」(笑い)

役所の地域包括支援センターや保健センター、社会福祉協議会の職員、民生委員・児童委員や自治会の人たちが、地域で暮らす高齢者や障がい者の安否を確かめることは、これからも大事な活動になります。近隣の方とのつながりをもって元気に過ごされるよう、心配りや気配りする「お互い様の関係づくり」が、地域の支え合いや助け合いの力を強めていくことでしょう。
そして、一人でやせ我慢することなく、「助けて」と伝えることのできる地域づくりが、いま求められているのです。それを担うのは、「他人事にしない」というおもいを持って地域で暮らす一人ひとりに他なりません。
人が寄り添いあい、ぬくもりあるマチになっていくには、一人ひとりがどのように考え動いていくのか、確かめあってみませんか。

〔2018年10月1日。秋田県小坂町・鹿角市「地域づくり研修会」での問題提起の寸劇。地元の言葉遣いに直して上演した〕

いい子ぶる

「ごめん」って ちゃんとあやまろう
わるいことしたんでしょう
「ごめん」って そんなあやまりかたなら
この子は 許してくれないよ
「ごめん」って そんなあやまりかたってあるの
ちゃんと頭さげて 
「ごめん」って そんななげやりな言い方あるの
ちっとも悪かったっていう気持ち伝わってこないよ
ねえ 「ごめん」って ちゃんとあやまっているから
許してあげてね
この子に もうしないって「やくそく」させるから
いつも“この子 助けてあげて”と 先生は目で訴える

おれさ 本当ははずかしいんだ
いつもさ わるさして あやまってばっかり
いいかげん じぶんでも はらが立つけど
それでも 「やっちゃった!」って
でもさ、いつもこんなふうにあやまって
許してもらうと かんたんに悪いことが 帳消しになってしまう
たまには 自分からあやまりを入れて
先生の点数稼ぎもしておかなくちゃいけないんだ
あやまるって たいしたことないんだよ
そのときだけ すこしだけがまんする
なにをって はずかしいって気持ちをさ がまんする
おれだって 笑われたらはずかしいし 
こんちくしょうって ときどき切れる

あやまって ゆるしてもらえば こっちのもんだ
またやっちゃうね
これぐらいじゃ ちっともこりないよ
おちょくるって けっこうおもしろい
あいつをおこらせて 
顔を真っ赤にしたり 泣いたり わめいたりさせるのって
ゆかいだね
だから なんどでも やってしまう
おれの楽しみのひとつを なくするわけにはいかない

おれ こんどのことだって 悪いことしたなんて これぽっちも感じていない
だから しぶしぶ あやまる 「ごめん」
それでも いままでみんな許してくれた
だから こんども大丈夫!
このくらいなら 親には告げ口されない
しんどいのは 親が知ってしまう前に
“いいわけ”を考えなきゃいけないこと
なんぼおれだって 親には“いい顔”していたいから

あんたのうそっぱっちの「ごめん」なんて もういらない
「またやる」って顔に書いてある
その目を見るのも もういや
先生も あやまればおしまいって顔しているから たよりにならない
だから さっさと済ませてしまいたい
ただそれだけ
「同じクラスの 友だちでしょう」っていわれても
ちっとも ピンとこない
きらいな人と 友だちになんかなれない
いじわるな人が 友だちっておかしいよね
大人は そんな人とは つきあわないでしょう
どうして 無理して“友だちごっこ”しなきゃいけないの

好きで同じ学年やクラスになったわけじゃない
わたしがあいつに 悪さをしたわけでもない
でも どうしてあいつの勝手気ままなわがままを がまんしなきゃいけないの
痛い目にあっても 「ごめん」の一言で どうして許さなければならないの
いつも「芝居」をさせられている気分
そこでは ものわかりのいい“いい子”になっているだけ
“いい子”にならないと わたしが“いけずな子”って思われる
おとなは 子どもの気持ちが知りたいっていうけど「無理!」
きょうもまたいやな思いをさせられても “いい子”ぶらなきゃいけない
だって そうしないと あいつと同じに見られてしまう

あいつはへらへら笑いながら こりずに同じことをしてくる
そんなの わかっていながら このくりかえし
やられたあとに あやまったって なにが変わるっていうの
いやな気持ちが その一言でふっきれて なくなってしまうとでもいうの
魔法の呪文(じゅもん)「ごめん」
もうなんの効力もない まっぴらごめん
自分の気持ちに うそつけない
もうあいつの「ごめん」なんか
こっちから「ごめん」だ

こんどやったら もう許さない
私だけじゃない あいつにやられて泣いてる子
たくさんいるんだから
ただ心配かけたくないって 
やられてもみんな口をつぐんでいるだけ
「そのくらいのこと なんでもない」
「あなたが がまんしなさい」
「いつか あの子もよくなるから」
おとなは 子どもに言い聞かせる
だけど いつになったら 正直に自分の気持ちをぶつけられるの
一度なら 「なんともない」ってふっきれるけど
何度もされたら がまんなんかできやしない
それでも おとなは さも私の痛みをわかったようなふりをしながら
「許してあげて」と やさしい声でせまってくる
その声に さからえない
でも わたしは こんなになやんで苦しんでいるんだよ
いい子だって 思われたいから
「いいよ」って 自分にうそをつく
こんなの もういやだ うんざりだ
これって わたしの悪いこころなの 
そうやって自分を責めて またいい子ぶる 
それをぬけぬけと
「あやまったから許される」なんて 単純に思い込んでいる
あいつもおとなも 許せない
そんな言葉や態度で すますことなんてできない
「いいよ」っていったけど
そうしないと なかなか帰してくれないから しかたなかった
こころの中は 怒りでいっぱい

こんどやったら もう許さない 許せない
わたしを 甘くみないで
平気な顔をしていたけれど 
おこれば あいつと同じになるからがまんした
いつまで このがまんが続くのだろう 
いやだ いやだ もういやだ
あいつの顔なんか 二度ともう見たくもない
わたしは悪くはないのに なんで“なみだ”が出てくるの
くやしい!
“なみだ”なんか見せたくない
わたし 弱虫じゃないもん

でも みんなにそう思われているあいつって 
たいへんだな
いっつも だれかに刃向かっていくエネルギー 
疲れることを知らない とほうもない反抗のエネルギー
わたしにはない 
そこはすごいと へんに感心する

でも なんであんなに こころがねじきれてしまっているのかな
ひとりぼっちに またなっちゃった
だあれも あいつのこころは わからない
だあれも あいつの苦しさは わからない
あいつが 一番自分のことが わからない 
だから よけいに苦しいのかも しれない
あいつは ああやって悪さを続けることしか
みんなの注目を集めることが できなくなった
こころもあたまも 悪さにしかまわらなくなった 

あいつを こころのかよった子にしたいという
みんなの思いは いつか むなしくしぼんでいく
いつも うらぎられるから
だから だあれも もう信じない
そして ひとりぼっちで 悲しい子になった
叫んでも だあれも こたえてくれない
だあれも もうあいつのそばにはいないから ひとりぼっち
暗闇に ぽつんと ただいるだけ
いつか みんなの記憶からも うすれていく
「あんな子 いたっけな」

そうならぬよう
あんた
すなおに 
こころから「ごめん」って
いってみて
そしたら すこしだけ 信じてあげてもいい

〔2019年8月20日改訂版。心がすさんでいく子への反発と一抹の良心への期待がにじむ〕

粗末にしない

君は 何を粗末にしてはいけないと 思うかな? 
いのち こころ 時間 お金
親 友だち 食べ物 勉強  
陽ざし 空気 水 自然
まだまだありそうだね
どれひとつとっても 君が生きていくうえで 
決して粗末にしては ならないものばかり

いのちは 時間
君が 今生きている その瞬間瞬間の 途絶えることのない連続の中にある
こころは 君が周りの人たちと 仲良く幸せに生きるための 根っこ
もちろん お金も必要だ
生きるためには 他の生き物たちのいのちを いただかなくてはならない

その中でも 一番粗末にしてはならないのが
君を 大事に育てている人 
その人のあったかいやさしさを 
どれだけしっかりと受け止めて 生きていくかで
人としての “ねうち”が 決まるんだ。

その人を 心配させ困らせては 時に厳しく叱られることもあるだろう
なぜ叱られたのかが よく分かっていない子は
友だちと トラブルを起こしても 自分に非があるとは 思いもしない
すると 身勝手で自分のことにしか関心の持てない 大人になるんだ
そんな大人であふれたら どんな世の中になるのだろうか? 

えっ もうそうなってるって!

〔2019年8月18日改訂。2011年11月10日道新コラム「朝の食卓」掲載文を加除訂正。過激な人間が人類が築いてきた叡智を粗末に扱い無残に破壊する。批判する者たちを罵倒する、憎悪に満ちた加担者たちの残された良心へのささやかな訴え〕